きょうはヨハネによる福音書14章を中心にしながら、「助け主、聖霊」というテーマで学びたいと思います。少し前に「聖霊のバプテスマ」と題して、ルカと使徒の働きから学びました。しかし、ヨハネの場合は少し趣がちがいます。力としての聖霊というよりも、「私たちの内に住む、神ご自身」というイメージがあります。私たちは聖霊をパースン、ご人格のあるお方として認識する必要があります。きょうは三位一体の神を意識しながら、3つのポイント(父なる神、イエス・キリスト・聖霊という順番)でお話しさせていただきます。
1.父の家(父なる神の家)
ヨハネ14:1-3「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」この箇所は葬儀のときによく引用されるみことばです。「父の家には住む所がたくさんある」とは、天国に行ったら豪邸が備えられているということです。また、「場所を用意したら、また来て、あなたがたを私のもとに迎えます」というのは、キリストの再臨のことであるということです。私は信仰を持って40年間ずっとそのように理解していました。『いのちのことば社の新聖書注解』にも、同じような解釈が載せられています。もう一度、その注解書を調べてみたら、最後の部分に意外なことが書かれていました。「しかし、この約束が、続く説話の中で述べられる、終わりの日の前に起る『助け主』の来臨の約束やイエスと信者たちとの生きた交わりを排除すると考える必要はない」とありました。つまり、世の終わりの出来事だけではなく、助け主、聖霊の来臨ということでもあると示唆されていたのです。もっと驚いたのが、ウィットネス・リーが唱える説です。彼はこう述べています。「ヨハネ14章2節の『父の家』とは天国のことではない。「父の家」の正しい意味は、この地上で神の民の間にある神の住まいである。」私は、最初その本を読んだ時、「そんなことはないだろう」と反発しました。しかし、ヨハネ14章、15章、16章は「助け主、聖霊」のことを述べています。この箇所は再臨のことではなく、イエス様が十字架で死んだ後、弟子たちのもとへ再び帰ってくることを述べている箇所だからです。
まず、「父の家」と書かれている聖書箇所を取り上げて、その意味を調べてみたいと思います。ルカ2章には少年イエスが両親と一緒にエルサレムに上ったことが記されています。イエス様が両親にこのように言っています。ルカ2:49「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」少年イエスが「父の家」と言っているのは、エルサレム神殿のことです。イエス様は神殿を「父の家」と呼んでいます。またヨハネ2章には、イエス様がエルサレムに上ったときのことが記されています。イエス様は神殿の境内で人々が商売をしているのをご欄になってとても憤慨されました。ヨハネ2:16-17「鳩を売っている者たちに言われた。『それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。』弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。」イエス様が「私の父の家」とおっしゃっているのは、エルサレムの神殿です。その後で、敵対するユダヤ人にこの述べておられます。ヨハネ2:19「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」少し後に、この意味も書かれています。「しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。」これまでの箇所から総合的に考えますと、「父の家」というのは「神殿」であるということが分かります。でも、その神殿が壊れても、三日後にイエス様は復活して再生されました。しかし、それだけではありません。すべてのクリスチャンがキリストとともに死んで、ともに復活させられ、神の宮となります。Ⅰコリント3:16「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」パウロははっきり「私たちクリスチャンは神の神殿である」と言っています。私たちが神の住まいであり、父の家であります。それはつまり、教会のことを指しています。
父なる神の永遠の計画とは何でしょう?それは私たちの内側に永遠に住むということです。私たちのからだをご自分の住まいとするということです。でも、それはどうやって可能なのでしょうか?神の霊である聖霊を分け与えることによって可能になります。聖霊によって、私たちが神の住まいになるのです。そうすると、ヨハネ14:1「父の家には住むところがたくさんあります」というみことばにつながります。「父の家」、つまり神の神殿には、住むところがたくさんあります。なぜなら、私たちの体が神が住まうところとなるからです。ヨハネ14章、15章、16章は、イエス様がご自身が死んで復活することを述べています。私たちは以前は、神の神殿と何の関係もありませんでした。しかし、イエス様の死と復活を通して、私たちは神殿の一部、神殿の材料になったということです。エペソ2:21-22「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」アーメン。私たちが組み合わされて、神の御住まいになるのです。もう一度言います。父なる神さまはどこを、神の家、神殿として住みたいのでしょうか?私たち自身であります。それなのに、私たちは死んだ後、天国に行って、神さまの家に住みたいと願っています。本当は逆だったのです。父なる神さまの方が、今、生きている私たちの中に住みたいと願っておられるのです。
決定的なみことばがここにあります。ヨハネ14:23「イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』」ギリシャ語と英語の正しい訳は「御父と御子は彼の所に来て、彼と共に住まいを造る」です。それは天国の豪邸のことではなく、私たち自身が神さまの住まいになるのです。イエス・キリストの死と復活によって、主は私たちを神殿の一部にしたのです。それが父の家です。私たちが父の家です。
2.キリストのわざ
ヨハネ14:10-12「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」この箇所で、イエス様は2つの聖霊の働きを述べておられます。第一は父なる神が聖霊によって、イエス様の中におられたということです。イエス様があのような奇跡を行うことができたのは何故でしょう?イエス様ご自身も神ですから、ご自分の力でできたはずです。でも、そうではありませんでした。イエス様は「私の内におられる父が、ご自分のわざを行なっておられるのです」と言われました。でも、実際はイエス様は地上におられ、父なる神は天の御座におられます。ですから、三次元の世界に住む私たちにとってはそれは不可能であるとしか言えません。でも、神の霊である聖霊が、イエス様の内におられたならどんなことも可能です。イエス様は生まれた時から聖霊に満たされていました。しかし、30歳になられてメシヤとしての働きをするために、上から聖霊を受けました。それは前にも学びましたが、力としての聖霊をいただいて、ミニストリーをなされたということです。イザヤ書61:1「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ…」とあります。つまり、イエス様の働きの原動力は、神の霊である聖霊であったのです。イエス様はそのことを「内におられる父が、ご自分のわざを行なっておられる」とおっしゃったのです。
第二はイエス様はその聖霊が私たちに与えられるとき、イエス様と同じ、いやそれ以上のわざを行なうことができると約束しておられます。つまり、イエス様が父なる神の力でさまざまな奇跡を行なったのは、私たちのためであったということです。もし、イエス様ご自身の力で奇跡を行なったなら、私たちは「ああ、神の子であるイエス様だからできたんだ」と言うでしょう。ところが、イエス様は「私ではなく、私の中におられた神の霊がそれをしたのだ」とおっしゃればどうでしょう?私たちはイエス様がおっしゃることを額面通り受け止めることができるでしょうか?ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」聖書学者たちは、大きなわざとは奇跡のことではなく、私たちが伝道した人がキリストを信じて新生することであると解釈します。しかし、それは間違っています。なぜなら、これから先、ペテロたちは、病人を癒し、足なえを歩かせ、死人さえよみがえらせているからです。教会の歴史において、質においても、量においてもイエス様と同じ、あるいはイエス様以上のことをしています。でも、私たちは、その力の源を知るべきであります。イエスさまが「わたしが父のもとに行くからです」とその理由を述べておられます。その後で、こうも述べておられます。ヨハネ16:7「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」助け主のことはあとから申し上げますが、聖霊のことです。つまり、イエス様が父のもとに行くことによって、助け主、聖霊を遣わすということです。言い換えると、一度、イエス様が去っていかなければ、聖霊は来ないということです。でも、ここで言う「去って行く」というのは、十字架で死んで、復活してから、父のみもとに行くという一連の出来事です。言葉では表されていませんが十字架による罪の贖いがあります。でも、それだけではありません。私たちがキリストと共に死んで、キリストと共によみがえることによって、聖霊が内に住まわれるという意味にもとれます。
このようにイエス様の内におられ、イエス様の力の源となった聖霊が私たちにも与えられると約束されています。しかし、そのことと同時に言われていることばがこれです。ヨハネ14:13,14「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」このところで、はっきりとイエスの名によって求めなさい。そうすれば、イエス様がそれをしてあげますと、約束されています。ということは、私たちに力の源である聖霊が与えられると同時に、私たちがイエスの名前によってみわざがなされるように求める必要があるということです。このところに「してあげる」という言葉が2度書かれています。「してあげる」のギリシャ語はポイエオウであり、「造る、製造する、創造する」というのが第一の意味です。第二の意味は「…を生ずる、来たらせる、ひき起こす」という意味です。かなり前に、メル・ボンド師が当教会に来られ、ミニストリーをしてくださいました。そのとき、ヨハネ14:13,14節を引用し、「もし、なかったなら造って、あなたに差し上げる」とおっしゃっていました。私たちの神さまは無から有を生じさせる神さまです。「光あれ」と言ったら光が現れるのです。まさしく、これはイエス様が私たちのために、奇跡をも起して下さるという根拠のみことばです。ですから、私たちは力の源である聖霊をいただくと同時に、イエスの名前によってはっきりと求める必要があります。私たちはお祈りの中で、どうしても複雑なお祈りをしてしまいます。「求めることができるように」「赦すことができるように」「ゆだねることができるようにして下さい」と祈ります。しかし、それは求めているのではなく、ただ希望しているだけです。そうではなく、単純に「求めます」「赦します」「ゆだねます」「癒しを受け取ります」で良いのです。聖霊はかつてイエス様の内に住まわれ、イエス様の力となりました。同じ、聖霊が今度は私たちに与えられているのです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います」を額面通り信じましょう。
3.助け主、聖霊
ヨハネ14:16-17「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」「もう一人の助け主」は、ギリシャ語でアロス・パラクレートスです。アロスは「同質で、別のもの」という意味です。イエス様と聖霊は「ご性質が同じなのですが、人格が別のお方」ということになります。パラクレートスは「援助者として呼ばれたる者」という意味ですが、他には弁護者とか調停人、助け手という意味があります。簡単に言いますと、弟子たちにとっての「助け手」は最初はイエス様でした。ところが、イエス様が父のもとにお帰りになって、今度は「別の助け手」を送るということです。違うのは、今度は目に見えず、手でもさわれない霊的なお方として来られるということです。ですから、イエス様は「世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです」と言われました。そうです。世の人たちは、目に見えるものしか信じません。また、霊的に盲目なので、聖霊を受け入れることもできないのです。しかし、イエス様は変なことをおっしゃっています。「あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」この時点では、助け主、聖霊を知らないはずです。なのに、「あなた方は、この方を知っています」とおっしゃっています。
その答えはこうだと思います。弟子たちはイエス様と3年半過ごしました。イエス様の中には父の霊である聖霊が上からも、内側からもあふれていました。イエス様が神の霊によって奇跡を行い、神の霊によって知恵を語っている様を間近で見ることができました。ですから、イエス様が「あなたがたは、この方を知っています」とおっしゃったとき、イエス様から発せられる、神の霊のことが体験的に理解できていたのだと思います。私たちもクリスチャンになると、その人の内側の霊と聖霊の存在を知ることができます。なんとなく、すっきりとした感じがするのはそのためです。それはフィーリングではなく、なんともいえない霊的な感覚であります。つまり、イエス様の弟子たちは「もう一人の助け主をお与えになる」と聞いたとき、そんなに違和感はなかったのではないかと思います。「助け主、聖霊」ということで、もっとも重要なことは、私たちの内側にお住みになるということです。これは旧約時代にはありえなかったことだからです。創世記6章で主は「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない」と言っておられます。それでも、聖霊はバラム、サウル、サムソン、ダニエルの上にしばらく留まりました。ダビデはこのように願っています。詩篇51:11「私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。」ですから、イエス様が「その方はあなたと共に住み、あなたがたの内におられる」ということは、贖われた者たちの最大の特権と言うことができます。なぜなら、私たちは神さまご自身を私たちの内に宿しているからです。イエス様はペンテコステが来る前に、弟子たちの内に聖霊を与えました。それはイエス様が復活した夜、弟子たち間に現れてこう言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。聖霊を受けなさい」。(ヨハネ20:21,22)。これは約束ではありません。確かに11人の弟子たちは内側に聖霊を受けたのです。彼らは聖霊を内に宿したので、迫害の中でも、120人と共に祈りながらペンテコステを待つことができたのです。
でも、ヨハネ14章にはもう1つのことが記されています。ヨハネ14:18-20「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」注意しないで読むと、イエス様は十字架の死後、復活してから、弟子たちのところに戻ってくるのだろうと思ってしまいます。でも、そうではありません。もう一度、20節を見るとこう書かれています。「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」第一に、イエス様は父なる神の内にいます。第二に、弟子たちがイエス様の内にいます。第三は、イエス様が弟子たちの中にいます。第四は、弟子たちが父なる神の中にいます。ウィットネス・リーはご自分の本の中でこう述べています。「ヨハネによる福音書は、キリストが死んで復活した後、弟子たちのもとを去ったとは言いません。その代りに、ヨハネによる福音書は、主は死んで復活された後、弟子たちの所に来て、彼らの中に入られたと言います。主はどこにおられるでしょうか?彼は父の中におられます。したがって、その日、彼らも父の中にいます。主が父の中におり、弟子たちが主の中にいたので、当然、彼らは父の中にもいました。このようにして、主は彼らを父の中にもたらされました。今、主がおられる所にも私たちもいます。」引用は以上です。
イエス・キリストは「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」(ヨハネ14:11)と言われました。今度、キリストが聖霊によって私たちの内に住むとどうなるでしょう?それは同時に、私たちが父なる神の内にいることにもなるのです。言い換えたいと思います。私たちは父なる神がおられる天の御座にいます。しかし、同時に父なる神は私たちを住まいとしておられます。私たちは神の中にいます。そして、神は人の中におられます。この聖霊はイエス様の霊であり、また神さまの霊でもあります。この聖霊によって私たちは神の中におり、神も私たちの中におられるのです。これまでは私たちの内にキリストの御霊、神の霊が住んでいることを強調してきました。しかし、それだけではありません。私たちはキリストの御霊を受け入れたことにより、私たちは神さまの中にいるということも可能になったのです。ハレルヤ!アーメン。