ヨハネによる福音書の鍵のことばはヨハネ20章30,31節と言われています。「だれが決めたのか?」と言われても分かりません。とにかくこのみことばは、イエス様がこの世に来られた目的をヨハネなりに言い当てているとしか思えません。ヨハネ20:30,31「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」この短い文章の中で、「しるし」「信じる」「命」という三つのことばが際立っています。他の3つの福音書と違って、ヨハネは奇跡ではなく、「しるし」と言っています。その目的は何でしょう?しるしを信じて命を得るためです。今日は、イエス様がなされた2つのしるしを取り上げて、イエス様がどんなお方かを学びたいと思います。
1.私は世の光です
ヨハネ8:12イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」英語の聖書はI am the light of the world.です。ヨハネによる福音書には「私は〇〇です」という表現が、7回出てきます。この表現が最初に出て来るのが、出エジプト記3章です。主はモーセに「わたしは、『私はある』」という者であると仰せられました(出エジ3:14)。「私はある」とは“I AM“です。つまり、イエス様が「私は〇〇です」とおっしゃるとき、それはご自分が主であり、神さまであるということを示唆しておられるということです。ヨハネ8章で、イエス様は「わたしは世の光です」とご自分のことをおっしゃいましたが、その証拠たるものがあるのでしょうか?あります。それは、ヨハネ9章で生まれつきの盲人を癒されたことと関係があります。実際、聖書は何章ごとに分けられていません。連続したかたちになっています。ヨハネ9章は生まれつきの盲人の目を開けるというしるしが書かれています。つまり、それはイエス様が世の光であることのしるしであり、証拠だということです。全部が全部ではありませんが、このように「私は〇〇です」という表現と、「しるし」が対になっています。ヨハネが奇跡と呼ばないで、あえて「しるし」と言っているのは、そのためではないかと思います。イエス様が神の子キリストであることを信じて、命を得るためです。
それでは、ヨハネ9章からお話ししたいと思います。生まれつきの盲人は、光がありません。なぜなら目が見えないからです。イエス様は弟子たちに「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」(ヨハネ9:3)とおっしゃいました。ある人たちは、「この盲人の目がたとえ癒されなくても、神のわざが現れたのだ」と変なことを言います。彼らは「病気も神さまからのプレゼントだ」と言います。そうではありません。この盲人の目が開けられるという神のわざがあって、はじめてイエス様が世の光であることが証明されたのです。その証拠に、ヨハネ9,4.5「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」とおっしゃいました。そうです。イエス様はこの地上におられた時、神のわざ、つまり「わたしが世の光です」ということをなされたのです。この奇跡は、しるしであり、イエス様が世の光であることの証明だったのです。
しかし、この物語を読むと結構めんどうくさいことが書かれています。ユダヤ人たちが、その奇跡を認めなかったことです。いくら、癒された若者が主張しても、頑として受け入れず、とうとう彼は会堂から追い出されてしまいました。会堂から追い出されるということは、破門であり、救いをなくすという意味です。しかし、物語を読んでいくうちに、この若者が霊的にも目が開かれていくのがわかります。彼は最初「私は知りません」(ヨハネ9:12)と言いました。その次に「あの方は預言者です」(ヨハネ9:17)と言いました。ユダヤ人はかんかんに怒り、「あの人は罪人であることを知っているのだ」(ヨハネ9:24)と言いました。目を癒された若者の前に、イエス様が立たれました。彼は「主よ。私は信じます」と言って、イエス様を礼拝しました(ヨハネ9:38)。パリサイ人たちは肉体的な目は見えていましたが、霊的に盲目であり、イエス様がだれかを知ることができませんでした。つまり、この若者は2重の奇跡を体験したのです。1つは肉体的な目が開かれたことです。これは、イエス様がなされたわざです。もう1つは霊的な目が開かれ、「主よ。私は信じます」と告白したことです。パウロは「聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主です』ということはできません」(Ⅰコリント12:3)と言いました。この若者がイエス様を信じることができたのは聖霊のわざでした。霊的な目が開かれてイエス様がだれか分かったのです。これを神学的には、啓示、revelationといいます。啓示というのは、覆いが取り除かれるという意味です。私たちの知識や理性ではそのことが分かりません。あなたも、私も「イエスは主です。信じます」と言えるのは、聖霊による啓示なのです。アーメン。
私たちは目が見えない人たちを見て、「ああ、気の毒だなー」と思います。目が見えないということは、生活に多大に支障をきたしてしまうからです。しかし、どうでしょう?聖書は私たちは生まれつき、霊的に盲目であると言っています。ヨハネ9章で、パリサイ人たちは「私たちも盲目なのですか?」と聞いています。その証拠に、目の前に主なる神さまがおられるのに、だれか分かりませんでした。生まれつきの盲人がイエス様によって癒されたことを目撃しても、認めようとしませんでした。やはり、霊的な盲人と言えるでしょう。私たちは霊的に目が見えないのに、ほとんど不自由だとは思いません。なぜなら、神さまなしでも生きて行けると思っているからです。さらには、聖書のみことばを読んでも分からないし、神さまがすぐそばにおられるのも分かりません。全く、無視して、毎日、平然として暮らしています。ヨハネ1章にこう書かれています。ヨハネ1:9-11「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」このところに、イエス様が光であることが記されています。しかし、どうでしょう?「世はこの方を知らなかった」と書かれています。さらには、「ご自分の民はこの方を受け入れなかった」とあります。つまりここには、知らない人と、たとい知っても受け入れない人たちがいるということです。
私はかつて「宗教とは弱い人たちが勝手に作ったものだ」と思っていました。日本では、「困った時の神頼み」ということばがあります。普段、何の問題もないときには、神さまはいりません。どうしても困ったとき、人間の能力を超えるような出来事が起ったとき、はじめて神さまに頼ろうとします。もう、どうすることもできないとき、「もう祈ることしかできない」と言います。でも、どうして最初から祈らなかったのでしょう?「祈って、行なえば」ずっと良いはずです。でも、そうしないのです。それは人知を超えるまことの神さまを信じていないからです。ヨハネ1章には不思議なことばが書かれています。「すべての人を照らすそのまことの光」です。さきほども言いましたが、人は霊的に目が開かれないとまことの神さまを知ることができません。また、神さまが分かっていても心が頑なで、あえて神さまを信じようとしない人もいます。その人たちは神さまの存在は認めているのですが、信じたら従わなければいけないので、拒絶しているわけです。でも、まことの光であられるイエス様は、知らない人にも、知ってても受け入れない人に対しても、すべての人を照らして下さるお方だということです。
ファニー・クロスビーは、医者の治療ミスで生後6週間で、永遠に視力を失いました。その年、父親が寒さで倒れ、数日後、妻と娘ファニーを残して、この世を去りました。ファニーの母親は仕事のために、娘を祖母のユニケに預けました。祖母は読書を教え、神が創造された万物の景色、動植物、聖書を教え、祈りを導き、毎日曜日は必ず集会に連れていきました。ファニーは14歳手前、ニューヨークの盲学校の学生になりました。文法、科学、音楽、歴史、哲学、あらゆる学科に興味を持ちました。校長はファニーが詩を書くことに才能があることに気づき、専門の講師を雇い、ファニーに作詞の韻律とリズムを教えました。ファニーは学業において飛躍的に成長し、20歳未満の彼女は校内で最も優秀な生徒になりました。彼女はピアノ、アコーディオンを演奏することができ、全米でもっとも有名なハーブ奏者にもなりました。彼女の才能はだんだんと評価されるようになり、彼女の詩が新聞にも取り上げられました。彼女は自分が霊的に前進しなかったのは、主とこの世を両方つかもうとしたからだと言うことを気づかされました。「主よ、私は自分をあなたに捧げます」と献身し、31歳で洗礼を受けました。それ以降、彼女の生活に著しい変化があり、生涯、9,000以上の詩と3,000の賛美歌を残しました。ある時、有名な宣教師が同情に満ちた口調でこう言いました。「私は実にあなたのことを気の毒に思っています。主はあなたにこれほど多くの賜物を与えたのに、あなたに視力を与えませんでした」。ファニーはすぐに答えました。「もし私が生まれた時に主に求めることができれば、目の見えない状態で生まれてくることを願ったことでしょう」。宣教師はとても驚いて「どうしてですか?」と聞きました。ファニーは言いました。「私が死んで、私が初めて目にするお顔は、きっと私を喜ばせてくれる救い主の顔だからです」。ファニーは肉体的には盲目でしたが、霊的には見え、イエス様を慕って生きていたのです。
2.私はよみがえり、また命です
冒頭でも申し上げましたが、ヨハネによる福音書の鍵のことばはヨハネ20章30,31節と言われています。ヨハネ20:30,31「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」この短い文章の中で、「しるし」「信じる」「命」という三つのことばが際立っています。ヨハネの救いに関する定義は、信じることによって命を得るということです。そのことは、ヨハネ3:16「…それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と言われています。パウロは救いを語るとき、義と認められるという法的な見方で述べています。一方、ヨハネは救いを語るとき、永遠の命が与えられると生命的な見方で述べています。しかも、この命は単なる命ではなく、ゾーエーというギリシャ語が使われています。ところで、第二番目の「私は〇〇である」は、ヨハネ11章で語られたものです。ヨハネ11章は、死んだラザロが生き返るという「しるし」が書かれています。その中で、イエス様は何と言われたでしょう?ヨハネ11:25「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」とおしゃいました。このところで言われている「いのち」もゾーエーというギリシャ語が使われています。ヨハネの場合は、このことばを使って、救いとはどういうものなのかを定義しているのです。
ところで命を表わすギリシャ語には3つあります。第一はビオスです。Biology生物学とか、biography伝記、biocehmical生化学のもとになったことばです。聖書では「生活」「人生」(ルカ8:14)として出てきます。英語ではlifeであり、生命とも訳すことができます。強いて言うならば、ビオスは肉体のいのちということが出来ます。第二はプシケーです。psychology心理学のもとになったことばです。聖書では「魂」「命」として出てきます。イエス様は「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです」(マタイ10:39)と言われました。強いて言うなら、この「いのち」は、魂のいのちと訳すことができます。生まれつきの人間は、肉体的な命ビオスと、魂の命プシケーを持って生きています。多くの人たちは、これで何の問題もないと生きているわけです。第三はゾーエーです。イエスさまが与えるとおっしゃっているのは、このゾーエーであります。ゾーエーは神の命であり、永遠の命です。ヨハネ3章で「イエス様は新しく生まれなければ神の国に入ることはできません」と言われました。新しく生まれるとは、「霊的に生まれる」という意味です。人がイエス様を信じると、聖霊がその人の霊を復活させ、神の命をそこに与えるのです。クリスチャンはもれなく、神の命を所有しています。この命は、肉体の命が尽きても、何の問題がありません。永遠の命ですから、一瞬も途絶えることなく生きておられるのです。残念ながら、キリストを信じていない人は、ビオスという肉体的な命と、プシケーという魂の命しか持っていないのです。
話を飛ばして、ヨハネ11章の物語に入りたいと思います。「あなたが愛しておられるラザロが病気です」という知らせがイエス様のもとに届きました。普通だったらすぐ行くはずであり、そうすればマルタが言うように癒されて生きていたかもしれません。しかし、イエス様はなおもユダヤに留まって、ベタニヤに着いたのが、ラザロが死んで4日もたっていました。なんと、ラザロは墓の中に入れられていたのです。このことに対して、マルタとマリヤは「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」と言いました。死に対する嘆きであり、イエス様に対する文句も入っているかもしれません。イエス様が墓の前で涙を流しました(ヨハネ11:35)。これは同情の涙というよりも、死が人類を支配していることの嘆きであり、憤りであります。イエス様はマルタに「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25,26)と言われました。マルタはペテロのように、「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と告白しました。しかし、マルタは世の終わりのよみがえりは信じていましたが、現在、死んだ人がよみがえるということは信じていなかったのです。イエス様はご自分を信じる者は、死んでも生きるということをそこで見せたかったのです。つまり、彼らが信じるための「しるし」を与えたかったのです。もしかしたら、マルタはこのしるしがなくても、信じていたかもしれません。でも、「今、現在、イエス様にその力があり、信じたものは死なないで生きる」ということは理解できていなかったでしょう。
ヨハネ11:39-40イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」人々が石を取りのけた後、イエス様は感謝の祈りをささげました。その時、「あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために」と言ってから、「ラザロよ、出て来なさい。」と大声で叫ばれました。すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来きました。あきらかに、ラザロのよみがえりは、彼らが信じるための「いるし」であります。どんな「しるし」かというと、イエス様がよみがえりであり命であること、そして生きていてイエス様を信じる者は、永遠に決して死ぬことがないということです。ここでイエス様は2つのことを言っています。イエス様を信じる者は、ゾーエーという永遠のいのちが与えられること、もう1つはこのゾーエーの命は肉体が死んでも、死ぬことがないということです。ある人たちは誤解しています。永遠の命は死んでから天国で与えるものであると。そうではありません。永遠の命は、信じた瞬間からスタートするのです。つまり、この地上でイエス様を信じている人は、永遠の命をもって生きているということです。ハレルヤ!しかも、この命は肉体が死んでも、一瞬たりとも途絶えることのない神の命です。クリスチャンはだれでにでもやってくる死の問題が解決されている存在です。おめでとうございます。
最後にどうしても嫌なことを申し上げなければなりません。イエス様は、ヨハネ12章でこのように言われました。ヨハネ12:24、25「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」このところには、さきほど申し上げた3つのいのちが書かれています。一粒の麦が地に落ちて死ぬとありますが、それは生物的な命「ビオス」のことです。これは人間が一度死んで土に帰るという肉体的な死とも言えます。しかし、世の終わりによみがえり、栄光の体が与えられます。次に「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者」とありますが、この命はプシケーという魂の命です。イエス様はマタイ10章でも「自分のいのちを得る者はそれを失う」とおっしゃいました。つまり、イエス様は「自分のいのちを憎み、イエス様のためにその命を捨てなさい」とおっしゃいました。私たちはこのところで驚き、躓いてしまうでしょう。「自分に死ね」ということですから、ヒューマニズム的な考えでは全くありえないことです。実はプシケーの命は、アダムが堕落してから、その罪の影響を受けています。アダム以来の人間は、霊の命がなくて、プシケーの命によって生きています。プシケーの命は神に頼らず、自分の知恵と力で生きて行くという独立的で反抗的な命です。この世では、それが美徳とされていますが、キリストを一旦信じた者は、魂の命を否定し、霊の命に生きることを求める必要があります。イエス様は「この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」とおっしゃいました。永遠の命とは、永遠のゾーエーとなっています。ゾーエーの命は永遠なのですが、ヨハネはあえて「永遠のいのち」と言っています。このところに、クリスチャンが豊かな人生を永遠に向かって生きる秘訣が記されています。
キリストを一旦信じたらだれでも、神の命、永遠の命が与えられています。しかし、その命を阻む命があります。それが、魂の命、プシケーなのです。この命が神に逆らって、せっかくの神の命、ゾーエの命を妨害しているのです。聖書は山伏のような難行苦行を勧めていません。すべての欲を断って、聖くなりなさいとも言っていません。パウロは「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」(ガラテヤ5:16)と言いました。どういうことかと言うとキリストを信じると霊が生まれ変わります。この霊が神のいのち、ゾーエー持っているのです。そして、私たちの霊の部分に聖霊が宿っています。聖霊を歓迎し、聖霊を認め、聖霊に従うなら、私たちの霊が元気になり、そこから神のいのち、ゾーエーが豊かに流れ出すのです。どこにでしょう?魂に、そして肉体にです。神さまは、ご自分の命が、聖霊によって魂にあふれ出て、肉体にあふれ出すことを願っておられます。そうすれば、神さまが願っておられる豊かな人生を永遠に向かって生きることができるのです。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのち(ゾーエー)を得るため、それも豊かに得るためです。」アーメン。