2023.1.1「聖霊のバプテスマ ルカ24:45-51」

「聖霊のバプテスマ」あるいは「聖霊に満たされる」という表現を度々聞きますが、教団教派によってその解釈がまちまちです。ペンテコステ派の人たちは「あなたは聖霊を受けていますか?」と聞きます。福音派の人たちは「受けていますよ」と答えます。ペンテコステ派の人たちが「いつでしたか?」と聞きます。福音派の人たちは「キリストを信じた時です」と答えます。ペンテコステ派の人たちは「そんなことはないでしょう?それだったら異言を話せますか?」と聞きます。福音派の人たちは「いいえ」と答えます。ペンテコステ派の人たちは「それだったら嘘です」と答えます。きょうはそのような行き違いを一掃するためのメッセージです。

1.力を着せられる

 「ルカによる福音書」と「使徒の働き」は連続ものとしてルカ自身が書きました。ですから、きょうは「使徒の働き」におけるいくつかの実例をあげながらメッセージをしたいと思います。ルカ24:49「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」イエス様は弟子たちに「これらのことの証人になるのだ」と言いつつ、「都にとどまっていなさい」とお命じになられました。なぜでしょう?同じようなみことばが、使徒1章にも記されています。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」ただ今、引用したルカによる福音書24章と使徒1章は同じことを言っています。「いと高き所から力を着せられる」「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受ける」は同じ意味です。いと高き所から、あるいは上から力を受けないとキリストを証することができないということです。興味深いのはルカ24章の方は、まるで衣服を着るように、力を着るようにと言われています。ウィットネス・リーは『聖霊の働き』という本でこう述べています。「旧約聖書で、エリヤが天に上げられた時、彼はエリシャに上着、外套を残しました(Ⅱ列王記2:9-15)。その直後、エリシャはエリヤが持っていた力を得ました。外套は一種の衣服です。そして、それはエリシャが高い所から力を着せられたことを表徴します。エリヤが天に上げられたように、主は昇天されました。そして主は、天から衣服としての彼の霊を遣わされました。今、私たちはこの力を着せられています。」

 では、そのことはいつ、どこで実現したのでしょうか?ご存じのように、使徒の働き2章「五旬節の日、ペンテコステの日」に実現しました。使徒2:1-4「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」二階座敷で祈っていた120人の弟子たちの上に、聖霊が下り、彼らは聖霊に満たされました。他国の言葉あるいは異言が口から出ていたようです。そして、ペテロは大胆に聖書からキリストの受難と復活を宣べ伝えました。それを聞いていたユダヤ人は心を刺され、悔い改めて、イエス・キリストを信じました。その日、3,000人ほどが仲間に加えられました。ペンテコステの聖霊降臨は、イエス様が「力を着せられる」あるいは「力を受ける」ことの約束されたことの成就でした。しかし、イエス様はそのことを「聖霊のバプテスマ」と呼んでおられます。使徒1:4-5使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」第二のポイントで、聖霊によるバプテスマのことを詳しく申し上げますが、第一のポイントではこの現象が繰り返されていることを申し上げたいと思います。確かに聖霊が下ったというペンテコステの出来事は一回的であります。しかし、この先、何度も人々の上に聖霊が下ったということが起きています。何を言いたいかと申しますと、聖霊が2つの働きをしているということです。第一はイエス様を信じるなら霊的に生まれ変わり、聖霊がその人の内に住むということです。第二はルカ24章と使徒1章で言われているような、「力を着せられる」あるいは「力を受ける」という出来事が続いて起ります。私は後者を「聖霊のバプテスマ」と呼んでいますが、異論があるかもしれないので、その事実だけを使徒の働きから取り上げたいと思います。

 使徒8章にはピリポがサマリヤに下って福音を宣べ伝えたことが記されています。人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えたことを信じて、男も女もバプテスマを受けました(使徒8:12)。私はそのとき、彼らが新生し、聖霊が彼らの中にお住みになられたと理解します。その後、エルサレムからペテロとヨハネがやってきました。使徒8:15-17「二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」これは明らかに、「力を着せられる」あるいは「力を受ける」という出来事です。このところでは「聖霊を受ける」と、「聖霊のパプテスマ」と同義語になっています。使徒10章にはコルネリオの家のことが書かれています。ペテロが話し終えていないのに、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下りました。ペテロは彼らが異言を語り、神を賛美しているのを聞いて驚きました。コルネリオの一家は、新生と聖霊のバプテスマを同時に受けたすばらしい例です。もう一箇所は使徒19章です。おそらくヨハネのバプテスマでは救われていなかったと思われます。パウロが来た後、「主イエスの名によってバステスマを受けました」。その時、彼らは新生し、御霊を内側に受けました。その後、パウロが彼らの上に手を置くと、霊霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりしました(使徒10:6)。つまり、そのとき「力を着せられる」あるいは「力を受ける」という出来事が起きたのです。聖霊は、信じる人を新生させ、その人の内にお住みになられるだけではありません。もう1つはその人が証人となり神さまの働きができるように、聖霊が上から臨むことにより力を与えてくださるのです。私たちはキリストの証人になるために、上から力を着せられる必要があります。

2.聖霊の二つの面

福音派とペンテコステ派は聖霊のバプテスマの解釈が全く違います。福音派の大御所、ビリー・グラハム師が『聖霊』という本の中でこのように述べています。リバイバル集会の説教者から「お若いの、あなたは聖霊によるバプテスマを受けましたかな?」と聞かれた。私は「はい」と答えた。「いつ聖霊のバプテスマを受けたのですか」と続いて尋ねられたので、「キリストを救い主として受け入れた時です」と私は答えた。説教者は当惑したような表情で私を見ながら「そんなことはあるはずがない」と言った。しかし、ずっと聖書を学んで来て、すべての信者の生涯には一回しか聖霊によるバプテスマはないこと、それは回心した瞬間に起ることを確信するようになった。この聖霊によるバプテスマは、ペンテコステの日に初めて起こり、イエス・キリストを救い主として知るようになった人はみなその体験にあずかって、新生の瞬間に御霊によるバプテスマを受ける。それに加えて、彼らは聖霊に満たされることができる。満たされていないなら、満たされるべきである。…私は福音派の代表的存在であるビリー・グラハム師の考えをずっと支持してきました。ほとんどの福音派の牧師たちもそのように考えているでしょう。しかし、カルバリー・チャペルのチャック・スミス師が全く違う考えを持っているので、とてもショックでした。彼は『聖霊について教えてください』と『カルバリーチャペルの特徴』という本の中でこう述べています。「聖霊のバプテスマは、新生とは別個の体験であると聖書は教えている。御霊によって生まれるここと、聖霊のバプテスマを受けることは全く別のことだ(引用は以上)」。

第二のポイントは、聖霊のバプテスマを理解するために「聖霊の二つの面」について考えたいと思います。イエス様は私たちの「中に」与えられる御霊について何度か預言しておられます。ヨハネ7:37-39「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。ここでは、聖霊は飲む水にたとえられています。だれでも渇く者は、主のもとに来て、この生ける水である聖霊を飲むことができます。弟子たちが受けようとしていたその霊は、彼らの中にあり、また彼らの中から流れ出るということです。ヨハネ14:17「この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」このみことばから、聖霊が私たちの中におられることを明示しています。使徒パウロも「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら」とローマ8章で言っています。私たちはこのことを「御霊の内住」と呼んでいます。

 イエス様は聖霊の別の面、「上に」を示しておられます。ルカ24:49「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」父なる神が約束されたのは聖霊ですが、「中に」とは異なります。この聖霊は私たちの「上に」臨みます。「力を着せられる」とありますが、私たちが衣服を着る時、それは私たちの上にあります。第一のポイントでも引用しましたが、エリヤが天に上げられた時、彼はエリシャに上着、外套を残しました。それでエリシャはエリヤが持っていた力を得ました。外套は一種の衣服です。それはエリシャが高い所から力を着せられたことを象徴します。たとえるなら衣服は制服のことです。制服には権威があります。警察官が制服を着ないで通りに立っていたら、だれが彼の権威を認めるでしょうか?彼の権威は制服にあります。だれかが警察官の制服を着て通りに立っていたなら、彼は同じように尊重されます。だれもが彼の命令に従うでしょう。医者や看護師が自らの責任を果たすためには、彼らもその制服を着なければなりません。制服は、力と地位と権威を伴います。その聖霊は制服ですから、私たちは聖霊のバプテスマを必要とします。ルカが書いた使徒の働きにはこのようなことが書かれています。使徒1:5「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」さらに使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」これは弟子たちが単に内側に聖霊を持っていただけではありません。「聖霊によるバプテスマを授ける」の正しい意味は「聖霊の中にバプテスマされる」です。当教会は滴礼ですが、浸礼の場合は水の中にバプテスマされます。どっぷり浸かる訳ですから、その人は水の中に入れられ、水はその人の上にあります。同様に、私たちは聖霊の中にバプテスマされ、聖霊は私たちの上にあります。これが、使徒1章8節の「力」です。このバプテスマは、ペンテコステの日に達成されました。ペンテコステの日に、聖霊は天から弟子たちに下り、彼らは聖霊の中にバプテスマされたのです。

 聖霊の2つの面の適用を考えてみたいと思います。最初に、私たちは主イエス関する聖霊の働きを見ることができます。マタイによる福音書とルカによる福音書は、主イエスが聖霊から生まれたと私たちに言います(マタイ1:28,20。ルカ1:35)。30歳の時、主イエスが神のために働き出て来られる前、彼はすでに聖霊に満たされていました。しかし、天が開かれて、聖霊がはとのように主イエスに下ったのは、彼が水の中にバプテスマされた時でした(マタイ3:16)。これは、聖霊が彼に下る前に、彼が聖霊を持っていなかったことを意味しません。彼が聖霊から生まれたので、聖霊は彼の中にあって、30年間、彼を満たしていました。しかし、30歳で、彼が神のために働きをするために出て来て、福音を宣べ伝えた時、彼は一方で水の中でバプテスマされ、他方では聖霊の中にバプテスマされる必要がありました。彼が福音を宣べ伝えることができるために、聖霊は力として彼の上に下る必要がありました。これら二つの面は非常にはっきりしています。次に弟子たちの場合はどうでしょう?私たちは、またこれらの二つの面をペテロやヨハネを含む最初の群れの弟子たちに適用することができます。それらの弟子たちは、いつ聖霊を受けたのでしょうか?私(ウィットネス・リー)は、若い時、それらの弟子たちは、ペンテコステの日に聖霊を受けたと本や教師たちによって教えられました。しかし、実は、弟子たちは主の復活の日に聖霊を受けました。主が復活された日の晩、彼は弟子たちに来られました。ヨハネ20章22節は言います。「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。ヨハネ14章から16章において、主が死なれる少し前に、彼は弟子たちに対して、彼の死を復活の後、彼らに実際の霊を遣わすと約束されました。ヨハネ14章と16章において聖霊が来ることに関するこの約束が成就したのは、ペンテコステの日ではなく、ヨハネ20章の復活の晩でした。その時、主はその霊をもって彼らのもとに来て、「聖霊を受けよ」と言われたのです。彼らは内側に命の霊を持っていましたが、彼らは外側に力の聖霊を受けていませんでした。力の聖霊が天から彼らの上に臨み、バプテスマしたのは、彼らが上の部屋で共に祈っていたペンテコステの日でした。その日、主はバプテスマする方であり、120人はキリストのからだの代表でした。かしらは、聖霊の中でからだをバプテスマしました

 つまりこういうことだと思います。11人を除く120人の弟子たちは命としての霊を内側に、力としての霊を上から受けた、つまり同時に受けたのだと思います。だからややこしいのですね。ペンテコステ以来、私たちは、イエス様を信じるときに命としての聖霊を内にいただきます。そのことは、ヨハネ7章では生ける水にたとえられていました。クリスチャンであるならもれなく、助け主、聖霊を内側にいただいています。内なる御霊はクリスチャンの歩みと生活のために必要です。もう1つは衣服としての聖霊を着せていただく必要があるということです。私たちの上に臨む聖霊は、力のためであり、力としてです。力はクリスチャンの働きと奉仕のためです。

 

3.聖霊の内側と外側の満たし

 聖霊の満たしには、内側の満たしと外側の満たしの二種類がありますが、いずれも水で例証されています。私たちの飲み水としての水で満たされることは、内側の満たしです。水に浸されるバプテスマによって水の中に入れられることは、外側の満たしです。水の中に沈められることは、外側で水に満たされることです。その聖霊の働きの2つの面を見分けるために、私たちは訳文の問題を指摘しなければなりません。新約には、聖霊の満たしのために用いられている2つの異なるギリシャ語があります。しかし、それらは英語では同じ言葉に翻訳されています。これは人々をこの問題についてあいまいにします。新約では、これら二つの満たしの間に常に区別があります。それらは決して混同されません。使徒の働き2章2節は言います。これはギリシャ語と欽定訳の直訳です。「すると突然、激しい風がふいてきたように、天から音が聞こえ、彼らが座っていた家中を満たした」(新改訳には「満たし」はない)。ここの「満たした」は、内側の満たしです。この言葉は、ギリシャ語の「プレロー」で、「内側で満たす」という意味です。「プレロー」で最も有名なのはエペソ5:8「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」です。これは内側の満たしです。使徒の働き6章には「そして彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ…を選び」とあります。この「満ちた」も内側が聖霊で満たされているということです。内側が聖霊に満たされることにより、神の命にあふれ、愛、喜び、平安が増し加わります。この事はクリスチャンの信仰の歩みに絶対必要です。

 次に「外側の満たし」とはどういう意味でしょう?使徒2:4「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」とあります。この「満たされ」はギリシャ語の「プレソー」という言葉で「外側で満たす」という意味です。ルカ福音書1章にそのことが度々記されています。ルカ1:15「その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ」とバプテスマのヨハネのことが言われています。この「聖霊に満たされ」は外側の満たしです。ルカ1:41「エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。」とあります。エリザベツは外側で聖霊に満たされたので、彼女は預言しました。ルカ1:67「さて、父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した。」聖霊はバプテスマのヨハネの父の上にも臨んだので彼も預言しました。ルカ1章にこれだけ聖霊による外側の満たしがあるとは感動します。使徒の働き2章ではペンテコステの日、120人が聖霊の中にバプテスマされましたが、「外側の満たし」は繰り返し続きます。使徒4:8「そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。」ペテロは外側で聖霊に満たされ、議会で堂々と証しました。使徒4:31「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」彼らは外側で聖霊に満たされたのは、命のためではなく力のためです。ペテロはペンテコステの日を含めて、聖霊に満たされたのが3度目でした。

 私たちは二種類の聖霊の満たしについてはっきりさせられました。つまり、内側の満たしと外側の満たしです。内側の満たしは命のためであり、外側の満たしは務めにおける力のためです。イエス様は30歳になるまで内側が聖霊で満たされていました。しかし、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊がはとのように彼の上に下りました。イエス様の公生涯における力の源は外側から聖霊で満たされることでした。ルカ4:1「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ」とあります。この「聖霊に満ちて」は「プレソー」であり、外側から聖霊に満たされていたということです。福音派の教会はエペソ5章の「内側から聖霊に満たされる」ことを強調してきました。もちろん、そのことは恵まれた信仰生活のために重要です。しかし、神さまの働きを担うためには、外側から聖霊に満たされることも必要です。なぜなら、イエス様ご自身も弟子たちも、上から聖霊を受けて、力強い働きができたからです。内側から聖霊に満たされるのも、外側から聖霊に満たされるのも、信仰です。ルカ11:13「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

「元旦礼拝のメッセージに「聖霊の話は、どうなんだろう?」と思われた方もおられるでしょう。実は聖霊に内側から満たされることは、人格的な面に現れます。この世では「メンタルが弱い」とか言います。これは意思や忍耐が弱いということでしょう。また「感情的になって自分を見失っている」と言ったりします。これは、寛容さとか自制心がないということでしょう。また、「人の気持ちが分からない、薄情だ」と言ったりします。これは、愛、親切、慈愛の問題です。実はこれらすべては聖霊によって内側が満たされるとき解決します。内におられるキリストの御霊が、キリストに似た品性を与えてくださるのです。

もう一つは上から聖霊に満たされる、力を着るという意味でした。、この世ではよく「神っている」という表現を用います。「村神さま」と呼ばれたバッターもいました。サムソンのように上から力を着せられるなら、すばらしいアスリートになることができます。芸術面では、ベザレルという人がいました。彼は天幕の内側の刺繍、金や象牙の彫刻を任されました。これは、聖霊のわざであります。聖霊の賜物は知恵、力あるわざ、癒し、預言のことば…神と人に奉仕するとき、大いなる働きをなすことができます。あなたの生まれつきの能力だけでは、無理なことがたくさんあるでしょう。でも、上から力が臨むと、自分でも信じられないことを行うことができるのです。

つまりは、内からも外からも霊に満たされることは、何においても重要だということです。ですから、一年のはじめ、元旦礼拝においてふさわしいメッセージであるということです。ルカ11章には、「求めなさい、そうしたら与えられる」と書かれています。ルカだけが「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と言っています。口語訳は「聖霊をくださらないことがあろうか」となっています。つまり、神さまは私たちが聖霊に満たされることが最も重要であることを知り、そのようにさせたいのです。これだけはっきりとした神のみこころも他にありません。聖霊を求めたら、必ず、与えられるのです。聖霊を求めましょう。