2022.12.25「新しい王の誕生 マタイ2:1-8」

クリスマスおめでとうございます。今年は、昨日24日がイブ礼拝であり、きょう25日がクリスマス礼拝になりました。クリスマスの連荘(レンチャン)であります。新型コロナウィルス以前はパーティ形式で賑やかに行っていましたが、今現在も距離を置きながらお祝いしている状況です。とりあえず、ビンゴゲームだけは再開できたことを感謝します。第二礼拝直後、この場所において粛々と開催する所存でありますので、心から参加下さいますようお願い申し上げます。

1.新しい王の誕生

 東から来た博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と宮殿に尋ねてきました。この知らせを聞いた人たちは動揺しました。本当は喜び、祝うべきなのですがそうではありませんでした。ヨハネ1:11「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」と書いてありますが、まさしくそのとおりであります。マタイ福音書から、大きく分けて三種類の人たちがいることが分かります。

 第一はヘロデ大王です。彼はイドマヤ人であり、エサウの子孫でした。王様とありますが、ローマからユダヤを治めるように任された、いわば領主であります。しかし、このヘロデ大王はとても残忍なことで知られていました。彼はとても猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害しました。そのため、人々は「ヘロデの息子によるよりは、豚になったほうが良い」と言ったそうです。「新しい王が誕生した」というのですから、ヘロデにとっては寝耳に水です。猜疑心がふつふつと沸き上がりました。「見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言いましたが、真っ赤なウソであり、殺害しに行こうと思っていたのです。案の定、後から、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させました。なんという残忍な王でありましょう。

 第二は祭司長たちと律法学者たちです。彼らは「キリストがどこで生まれるか」と問われ調べました。するとミカ書から「ユダの地、ベツレヘムで生まれる」という預言を発見しました。では、その人たちが東の博士たちと一緒に、ベツレヘムに行ったかというと行きませんでした。なぜでしょう?このところでまだはっきりしませんが、30数年後、イエス様がエルサレムに入城したとき、明らかになりました。マタイ21:15「ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立てた」とあります。彼らはメシアを全く歓迎していません。それどころか、怒りと嫉妬心を燃やし、彼を殺そうとしたのです。実際、ユダの手引きもあり、ゲツセマネの園でイエス様を捕えたのち、裁判にかけて死刑を宣告しました。その当時は、ローマに支配されていたので、罪状を「反逆罪」にすり替えてピラトに裁判をさせました。彼らは自分たちのメシアを十字架に渡して殺させたのです。その点では、ヘロデ大王と全く同じです。

 第三はエルサレム中の人々です。彼らもヘロデ王と同じように動揺したと書かれています。何故、動揺したのでしょうか?2つ考えられます。1つは、ヘロデが怒って何か、やらかすのではないだろうか?そして、自分たちもそのとばっちりを受けるのではないかと恐れたのです。もう1つは、生活の変化です。ユダヤは200年間、ギリシャの支配下にありました。戦争を起こして独立したときもありましたが、最終的にはローマに支配されました。国が荒れ果ててしまい、「地の民」と言われました。新しい王が、たとえメシアであっても、また戦争が起こってしまうのではないかと恐れていたのです。彼らはいわゆる「生き延びるための」生活をしていたのです。何も問題なく、平穏に過ごすことが、当時の人たちの願いでした。

 ヘロデ王、祭司長や律法学者たち、そしてエルサレムの人々を考えてみて、どうでしょうか?どこか私たちと似てはいないでしょうか?つまり、イエス・キリストを新しい王として迎えて良いかどうかという問題です。ここにいらっしゃる皆さんはそうでないかもしれませんが、イエス様を王として心にお迎えするのはやっぱり大変だと思います。多くの場合、イエス様を信じるときはこんな感じでしょうか。「イエス様が私の罪を贖ってくださった。この方を信じれば、罪赦され、永遠の命が与えられる。イエス様を私の救い主として信じます。アーメン」これで、人は救われて、洗礼を受けて、一人前のクリスチャンになることができます。しかし、信じた後、自分の中に新らたな問題が起こることも確かです。イエス様を心に受け入れたものの、自分が王座に座っているのです。イエス様はどこにいるかというと、私のひざ元に座っています。困ったときは、「どうか私を助けてください」と王座を明け渡します。しかし、何も問題がないときは、「私の人生だから私の好きなようにやらせてくれ」と自分が王座に座ります。しかし、これだと信仰生活が安定しません。ヤコブは「そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです」(ヤコブ1:8)と言いました。また、イエス様は「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります」(マタイ6:24)と言われました。つまり、私たちは「イエス様を、本当に王様として自分の中にお迎えしているかどうか」ということです。

 私たちは子ども時代を過ごした後は、人に頼らないで自分の力で生きるように指導されてきました。中学校のスローガンに「自主独立」ということばを見たことがありますが、複雑な気持ちになりました。福沢諭吉は「天は自ら助する者を助く」という「自助論」を唱えました。これは人間的には間違っていないでしょう。でも、キリスト教が言う「救い」とは相反している言葉です。もし、自分で自分を救うことができるなら神様を信じる必要はありません。自分で自分を救える時も確かにありますが、そうでない時もあります。「救い」というのは、自分自身ではダメなので、第三者から救い出してもらうという概念があります。もし、自分が底なし沼に落ちてしまったならどうでしょう?自分の髪の毛をひっぱっても無理です。こんな話があります。ある人が深い井戸の底に落ちてしまいました。自分で這い上がることができません。その時、孔子がやって来て、言いました。「ああ、私の教えを守っていたなら、こういうことにはならかなったのに。残念です」と去って行きました。次に、お釈迦様がやって来て言いました。「何のか因縁がそうさせたのでしょう。本当にお気の毒です」と去って行きました。最後にイエス様がやって来ました。何も言わず、ロープをつたいながら降りてきてくださいました。その人をロープで結わえた後、一緒に登ってくれました。これが救いの概念です。でも、それだけではありません。人生のかじ取りを、イエス様にお願いするということです。なぜなら、これから先も、井戸にはまるようなことが起こるからです。イエス様は傍若無人で、独裁的な王様ではありません。私たちのしもべとして仕えて下さるけれど、同時に私たちの王なのです。私たちの罪汚れを取り除き、傷を癒し、慰め、励まし、再生してくださるお方が私たちの王なのです。

 イエス様は御国を携えてこの地に降りてきてくださいました。イエス様によって贖われた人たちは、奴隷ではありません。御国の市民なのです。イエス様は私たちに御国を与え、一緒に治めようと勧めておられるのです。私たちは神様と神の国に対するイメージを変える必要があります。聖書の神様は世界を創造し、所有しておられます。このお方がキリストによって私たちの父となりました。私たちは王なる神の息子であり、娘なのです。身分は奴隷でも平民でもありません。王家の子どもたちなのです。息子、娘という立場で、王なる神さまに従うのです。すばらしいことに、父なる神さまと私たちの間には、イエス・キリストがおられます。このお方が、救い主であり、助け主であり、私たちの主人なのです。主人を聖書では、Lord「主」と呼びます。中世のころは、王様とその地方を治めているlordがいました。日本語では彼らを領主と呼びました。しかし、聖書は大文字なので、主とか、神さまという意味になります。イエス様は主です。言い換えると、すべての主権はイエス・キリストと父なる神さまにあるということです。もし、私たちが神様の主権を認めたならどうなるでしょう?神様が私たちを守ってくださり、生活の保障をしてくださるということです。なぜなら、私たちは神の国の市民なので、神さまが私たちの生活を面倒みてくださるのは当たり前です。そうなると私たちはこの世において生き延びるために生きている存在でないことが分かります。私たちはこの世での労働はもちろんありますが、神の国の市民として、この世を治める責任と使命が与えられています。この世はやがて過ぎ去ります。私たちの地上の人生も限りがあります。でも、神さまは小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実であるとみなしてくださいます。つまり、この地上の生活は、永遠の御国の準備段階だということです。私たちが持っているすべてのものは借り物であり、一時的なものです。しかし、やがて行くであろう御国では私たちの物があり、私たちが治める土地もあるということです。つまり、今の時代(この世)と、来るべき時代(御国)とはつながっているということです。

 私たちがこのような世界観を持つと、ずいぶんと生き方が変わってくるのではないでしょうか?この世の人たちは、自分を王様にして、自分を頼って生きています。人間的には悪いことではなく、むしろ良いことだと思われるでしょう。しかし、それはこの世限りの真理です。私たちは永遠の命をいただき、やがては永遠の御国に移り住む者たちです。そこでは、イエス・キリストが王であり、私たちは御国の臣民、国民なのです。王なるイエスがいるから安心なのです。

2.博士たちの礼拝

 新しい王の誕生をお祝いするため、遠路はるばるやって来た人たちとはだれでしょう?博士たちです。日本語では「博士たち」ドクターみたいな感じがします。しかし、原語は「マギ」であり、占星術者です。彼らは完全に異邦人であり、異教徒たちです。ユダヤの人たちは新しい王を拒絶したのに、異邦人の占星術者たちが新しい王の誕生を喜んだのです。何という皮肉でしょう。実はマタイによる福音書はユダヤ人のために書かれています。その証拠に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。…」ではじまります。この系図が聖書のはじめにくるのは、私たちにとっては躓きです。延々と続くカタカナ名の羅列には耐えられません。ところが、ユダヤ人にとっては素晴らしい福音でした。なぜなら、新しい王であるメシアは、アブラハムの子孫、ダビデの子孫だからです。しかし、新約聖書を読むと分かりますが、ユダヤ人はイエス様に躓き、イエス様を十字架にかけました。では、マタイによる福音書の終わりはどうなっているのでしょうか?マタイ28:19「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け…」となっています。あらゆる国の人々のところへ行けとなっています。つまり、新しい王は、ユダヤだけではなく、世界的な王なのだということです。そういう意味で、東方の博士たちがやってくるというのは預言的であります。

ところで、どうして彼らは危険を冒して、遠路はるばるいつ、どこで生まれるかもわからない新しい王を礼拝するためにやって来たのでしょうか?東方というのはおそらく、バビロンかペルシャであろうと思います。実は、南ユダの人たちは、紀元前5世紀に70年間捕囚としてバビロンに住んでいました。最初に捕らえ移された人たちの中に、ダニエルと三人の若者がいます。彼らは迫害を乗り越え、バビロンの指導者になりました。特にダニエルはペルシャまで、4代の王に仕えていました。ネブカドネツァル王が不思議な夢を見ました。そのとき、呼ばれたのが、呪法師、呪文師、呪術者、カルデア人です。王様は、自分が見た夢とその夢を解き明かせと不可能なことを要求しました。その時、ダニエルが呼ばれ、その夢を解き明かしてあげたのです。その結果、ダニエルはバビロン全州を治める長官になりました。その先も、いろんなことがありダニエルは最も信頼される指導者になったのです。しかし、ダニエルは預言者であり、自分が見た幻をダニエル8章以降に記しています。そこにエルサレムとか、人の子、世の終わりの出来事が預言されています。おそらくは、バビロンかペルシャの高官たちもそのことを知っていたのではないかと思います。呪法師、呪文師、呪術者、カルデア人とありますが、その中に東方の博士の先祖、占星術者もいたのではないかと思います。400年余りの後、時間と場所をさぐりあててユダヤに向かいました。やって来たのは、3人の博士だけではありません。キャラバン隊のように、多くの従者たちを従えて、危険な砂漠を乗り越えてやってきたのです。ちょうど、そのころ、大きな星が見えて、彼らをユダヤの地まで案内しました。天文学者によると、紀元前7年頃、惑星が重なる現象が起きたようです。

 第二のポイントで言いたいのが、博士たちの礼拝の根拠です。マタイ2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」彼らはただ礼拝するためだけに、東方から危険を冒してやってきたのです。マタイ2:11「それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とあります。このところに「家」と書いてありますので、イエス様が生まれてから何日か経った後です。イエス様は洞窟か家畜小屋で生まれましたが、その後は、家にいたのですから、羊飼いたちの数日、後であると言うことです。それはともかく、博士たちはその当時の宝物をイエス様に献げ、ひれ伏して礼拝しました。考えみると「幼子」ですから、博士たちは何ももらっていません。博士たちは、幼子が神であるので、そのことだけで礼拝をしたのです。ここにこそ、礼拝の意義、礼拝の根拠があります。私たちは何か世話になっていないとその神様を礼拝しません。ご利益とか、自分の願いを聞いてくれるからこそ、礼拝するのです。しかし、何をしてくれなくても、そのお方が神であるからこそ、博士たちのように私たちは礼拝を捧げるべきなのです。

 ここで特記すべきなのは彼らが献げた宝物であります。長旅なので、持ちやすいコンパクトな宝物にしたのですから、1つ1つに意味はありません。しかし、これを深く解釈するなら、イエス様がどういうメシアなのか推測することができます。黄金とは何でしょう?黄金は王様にふさわしい贈り物であります。シバの女王も、ソロモンに黄金をささげました。その次の乳香はどうでしょう?これも当時の高価な宝物です。しかし、乳香は大祭司が礼拝するときに用いたものです。つまり、イエス様は大祭司であるということです。ヘブル書にはそのことがはっきり書かれています。三つ目の没薬はどうでしょう?これも当時の高価な宝物です。ところが、没薬は死体の防腐処置としても用いられます。イエス様が亡くなられた後、アリマタヤのヨセフとニコデモは、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを持ってやってきました(ヨハネ19:39)。つまり、没薬は死と関係があります。つまり、メシアは死ぬということです。そのことを象徴的に現しています。イザヤ書53章には罪のため身代わりに死ぬ、苦難のメシアが預言されています。彼らがその意味を知らなかったかもしれませんが、その贈り物に何か預言的な意味があったことは否定することができません。かなり前ですが、博士たちの来訪を描いた聖画を見たことがあります。彼ら三人は王であり、その中の一人は黒人でした。三人がマリアにいだかれた幼子を深々と礼拝しています。なんと、幼子イエス様が手を伸ばして、三人の王たちに祝福の祈りをしているではありませんか。それを見て思いましたが、私たちが礼拝をするとき、神さまは手ぶらで私たちを帰さないと言うことが分かりました。目には見えませんが、何等かの祝福を神様からいただくということです。ハレルヤ!この毎週の礼拝も同じでことであろうと思います。

 最後に注目したいのが、博士たちが別の道を通って自分たちの国に帰ったということです。マタイ2:12「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。」私が教会に来てまもない頃、大川牧師からクリスマス・メッセージを聞いたことがあります。その時、「別の道というのは、キリストを信じた後の新しい道のことである」とおっしゃっていました。私たちもイエス様を信じるとき、「悔い改める」と言います。「悔い改める」のギリシャ語は、メタノエオであり、「思いを変える」という意味です。つまり、私たちがキリストを信じたら、これまでの古い道ではなく、新しい道を行くということです。向きを変えると、右のものが左に見え、左のものが右に見えます。つまり、これまで価値のないものが価値あるものに見えてきます。これまではこの地上における損得勘定で生きてきたかもしれません。ところが、永遠のいのちをいただき、永遠の御国をめざすようになるとどうなるでしょう?「たとえ、この地上で報われなくても、神さまのところで報われるからいいや」となります。イエス様がペテロに「今は分からないが、後で分かる」と言われたことがあります。この地上では、「神さまを信じているのに、どうしてそんなことが起こるだろう」と疑うことがあります。しかし、「御国に行ったらきっとわかる。最善をなしてくださる神様におゆだねしよう」という気持ちになります。このような生き方が、方向転換した新しい道であります。

 ユダヤに新しい王がお生まれになりましたが、幼子イエスを取り囲む四種類の人たちが出てきました。イエスを殺そうとするヘロデ大王です。なぜなら、自分以外に王はいない、あってはならないと考えているからです。そして、幼子イエスを抹殺しようとしました。いわゆるターミネーターです。これは自我をキリストに絶対譲らない人を象徴しています。第二は祭司長や律法学者たちです。聖書の知識はあり、宗教的な生活をしています。でも、イエス様に会いに行こうとしませんでした。なぜでしょう?彼らはキリスト抜きの宗教に甘んじていたからです。キリストを神としてあがめると自分の宗教が危うくなるからです。第三は群衆です。彼らは変化を嫌いました。新しい王も良いけれど、毎日の生活の方が大切だと、生き延びる生活をしている人たちです。つまり、この世のことしか考えていない人たちです。目の前に、永遠の命、永遠の御国が待っているのに、心を閉ざしている人たちです。第四は危険を省みず、遠路はるばるやってきた博士たちです。彼らはダニエルの預言を信じていました。彼らは星の観察を通して、神の運命を見出した人たちです。異教的かもしれませんが、まことの神を求める求道心がありました。そして、ついに新しい王、世界的な王に出会うことができたのです。その後、新しい人生を歩んだ人たちです。この世ではキリスト抜きのクリスマスが祝われています。たくさんのイルミネーション、プレゼントの山、豪華なパーティ、ロマンチックを味わう恋人たち…でも、主人公のいない誕生祝いです。私たちは遠いユダヤから最も離れた極東の日本で生きています。しかも、キリスト誕生から2000年以上も経っています。でも、世界大の神様は私たちの求道心に答えてくださいました。今このように、キリストの救いを受けて、礼拝をささげられるのは神さまの特権です。