マリアへの御使いガブリエルの「受胎告知」はとても有名であり、宗教画がたくさんあります。ほとんどが中世の建物が背景になっています。マリアはとても立派な衣装をまとい、頭の上には金の光る輪があります。おそらくは、もっと平凡なたたずまいの家屋だったのではないかと思います。きょうは、御使いガブリエルがマリアに伝えた冒頭のことばに注目したいと思います。
1.好意の意味
ルカ1章28節に「おめでとう恵まれた方」とあります。欽定訳聖書は“Rejoice, highly favored one“となっています。直訳すると「喜べ、大いに好意を受けた方」となります。favoredというのは、「好意を持たれている、恵まれている」という意味です。30節に「マリア。あなたは神から恵みを受けたのです」とあります。欽定訳聖書は”Mary, for you have found favor with God.“直訳すると「マリア、神の好意を得ています」ということです。28節も30節も「恵み」ではなく「好意」と訳した方が妥当だと思います。日本語の旧約聖書も新約聖書も、本当は「好意」と訳すべきところを「恵み」と訳しているのは非常に残念です。なぜでしょう?なぜ、そのように訳したのでしょうか?favorは好意の他に、愛顧、恩恵と訳すことができます。ところが、favorには否定的な意味もあります。「偏愛、えこひいき」などです。たぶん、聖書を訳す人が、「神様はえこひいきなどしないお方だ。みんなを平等に愛している」という考えがあるからではないでしょうか?しかし、私はそうは思いません。神様の愛は平等ですが、好意あるいは愛顧は平等ではありません。
きわめつけの聖書箇所がローマ9章にあります。ローマ9:13-15「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」私たちは旧約聖書の二人の兄弟、ヤコブとエサウのことを知っています。ヤコブは弟でしたが、兄エサウと父イサクをだまして長子の権利を奪い取りました。性格的には兄のエサウはそんなに悪くはありません。ところが、神さまは「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」のです。これは明らかに、偏愛であり、えこひいきです。でも、神さまは「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。…何か文句はあるか?」と言っているのです。「…何か文句はあるか?」は私が付け加えたことばですが、そんな感じがします。このような構図は、他にもたくさんあります。イスラエルの最初の王はサウルです。サウルは王位から退けられますが、私たちから考えたらそんな大きな罪ではありません。祭司の代わりに戦争開始のいけにえをささげたことです。もう一つは、全部滅ぼし尽くせと命じられていたのに、肥えた羊や牛をとっておいたことです。二代目の王はダビデです。ダビデは主からとても愛されました。ところが、彼は部下の妻ウリヤを寝取りました。その後、罪がバレないようにウリヤを戦地で死なせました。彼は姦淫と殺人という大罪を犯しました。しかし、「ダビデほど良い王様はいなかった」とほめられています。これも、偏愛でありえこひいきではないでしょうか?
新約聖書ではペテロとユダという二人の弟子がいますが、両方とも嘘つきです。ユダは祭司長たちに「私が口付けをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」(マタイ26:48)と、イエス様を売り飛ばしました。なんと、最愛のしるしによって裏切ったのです。ペテロはイエス様が裁判にかけられているとき、三度も知らないと言いました。ユダは「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」(マタイ27:4)と後悔して自殺しました。一方、ペテロは鶏が鳴いたあと、我に返り、激しく泣きました。しかし、イエス様は復活後ペテロに現れ、「私を愛するか」と三度も問われました。ペテロは「私があなたを愛していることはあなたがご存じです」とか言って、再び、弟子としての召命が与えられました。ユダに対しては「彼は生まれてこない方が良かった」と言いました。どちらも、イエス様を裏切ったのですが、ペテロは赦されました。これも明らかに偏愛であり、えこひいきです。このように、聖書にはたくさんの、favor「好意」があります。日本語の聖書は「恵み」というふうに一般化していますが、そうではないようです。神様はすべての人を愛していますが、好意においては一人ひとり違い、平等ではないということです。私たちはそれに対して、「神様はひどい」と、不満を持つかもしれません。でも、「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」とおっしゃっているのです。このことは、「神の主権」ということと関係があります。ジョン・カルヴァンは「神の選び」ということを強調した宗教改革者です。
マリアの話にもどりますが、その当時、ユダヤのナザレにどれくらいの結婚前の女性がいたのでしょうか?100人くらいいたのでしょうか?1000人はいなかったと思います。しかし、「ナザレの町の一人の処女のところに来た」と書かれているので、一方的な神の選びです。しかし、やっかいなことに彼女は婚約中でした。一緒には住んでいませんでしたが、ユダヤでは結婚と同等の意味がありました。それでも、神さまはマリアを選んだのです。天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方」と言っています。まるで、宝くじでもあたったような感じがします。もう一度言いますが、欽定訳聖書は”Rejoice, highly favored one“となっています。「大いに、好意を受けた方」という意味です。当人のマリアはそれがどういう意味なのか分からず、このあといくつかの質問をなげかけています。「マリアはこのことばにひどく戸惑って、これは一体何のあいさつかと考え込んだ」とあります。マリアは神の全能の力を信じ、メシアを生む母として自分をささげました。神の好意favorは一方的に神から与えられるものです。しかし、人間の方に「私は結構です。いりません」という人も、もしかしたらいるかもしれません。それは、神の好意の真価を知らない人です。考えてみたら、私たちがキリストを信じて救われたのも、神の好意です。その人たちは、「信じない人たちが回りにたくさんいるのに、どうしてこの私が信じられたのでしょう」と驚くことでしょう。そうです。あなたもマリアのように、大いに、好意を受けた方なのです。
2.好意と妬み
神からの好意は、「偏愛、えこひいき」の意味もあると申し上げました。「私は神からの好意をうけて感謝します」という人はすばらしいです。ところが、そうでない人もいます。おそらく、好意を受けている人に嫉妬して、その人を憎むことがあるかもしれません。最も古い出来事は、カインとアベルでしょう。創世記4:3-5「しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。」いろんな、神学的な解釈がありますが、ここには神の好意があります。なぜなら、主はアベルのささげものに目を留められ、カインのささげものには目を留められなかったからです。それで、兄のカインは妬みのゆえに、激しく怒りました。その後、アベルを野に呼び出して殺してしまいました。カインは「ああ、神様は、あわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむんだな」と引き下がれば良かったのです。でも、兄にはプライドがあるので、「弟だけ何故だ」と怒るのは自然かもしれません。でも、なぜ、主はそのようにあからさまな「偏愛、えこひいき」を示されたのでしょうか?いや、主はそういうつもりはなかったのかもしれませんが、カインはそのように受け取りました。あなたは、この記事から不公平だと思わないでしょうか?
創世記にもう1つ似たような記事があります。それはヨセフと他の兄弟との関係です。ヤコブにとって、ヨセフは最愛の妻ラケルの子どもでした。彼はヤコブから特別に愛されていたようです。創世記37:3-4「イスラエル(ヤコブ)は、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。」長服というのは、欽定訳聖書にはa tunic of many colors.「多彩なオーバースカート」となっています。他には「飾りのついた服」と言う解釈もあります。もし、ヨセフがそういう服を着ていたなら、他の兄弟たちと違い、労働することができなかったでしょう。とにかく、ヤコブから偏愛を受けていたので、他の兄弟たちは彼に嫉妬を燃やしたのです。しかも、ヨセフは「自分が王様になり、兄弟たちが自分を拝む」という夢まで自慢しました。そのため、ヨセフは殺されかかりましたが、長男のはからいで、命だけは助かり、エジプトに奴隷として売られることになりました。しかし、その後、大逆転があり、ヨセフは奴隷からエジプトの宰相になりました。そして、ききんのため逃れてきた、兄弟とその家族をエジプトのゴシェンに住まわせてあげました。また、サウル王は、戦いで勝利したダビデに嫉妬しました。Ⅰサムエル18:7-8「女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」嫉妬に燃えた、サウルはダビデを殺そうとしました。
この世では、生まれつき恵まれている人たちがいます。裕福な家庭で生まれた人、容姿端麗な人、頭の良い人、高学歴の人、運動神経ばつぐんの人、歌が上手な人…どうでしょう?そうでもない人は、彼らを妬んだりすることはないでしょうか?あるいは同僚の間で、とびぬけて出世する人にはどうでしょうか?サッカーや野球でレギュラーと補欠ではどうでしょう?美人と結婚して、豪邸に住んでいる人はどうでしょう?一流会社の社長と結婚して、セレブを決めている人はどうでしょう?この世の中では、自分よりも恵まれた人たちというのは必ずいるものです。時々、そういう人たちを羨んでしまい、彼らが何か不幸なことに出会うと喜ぶことはないでしょうか?テレビでもニュースになるのは、この世で羨まれている人が、失墜するときではないでしょうか?「ざま見ろ」と、心で思っているかもしれません。私は8人兄弟の7番目だったので、一人分の存在がとても薄かったです。とても、ぞんざいに扱われ、うとんじられたという心の傷があります。一方、隣の時雄君は長男でした。勉強机があり、何でも新しいものを身に着けていました。高校のときは、彼はバイクを買ってもらい、その後は、ロータリー・クーペを買ってもらいました。私はあれ買って、これ買ってと母を困らせました。高校三年生のとき、「他の兄弟はみんな我慢したのに、どうしてお前は我慢できないのか?お前が一番親不孝者だ、ああ、情けない」と階段の下から叫ばれました。今思えば、隣の時雄君と比べて生きていたからだと思います。風のうわさによると、時雄君は田んぼを売って、パチンコに明け暮れているそうです。
イエス様はユダヤ人の指導者たちから妬まれて、十字架につけられました。マタイ27:18「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである」と書かれています。当時の宗教家たちは、どうしてイエス様をメシアと信じることができなかったのでしょうか?たくさんの教えを聞き、メシアの証拠である奇跡も見ました。しかし、ますます心が頑なになり、イエス様よりも囚人のバラバを釈放するように願ったのです。ヨハネ19:15「彼らは叫んだ。『除け、除け、十字架につけろ。』ピラトは言った。『おまえたちの王を私が十字架につけるのか。』祭司長たちは答えた。『カエサルのほかには、私たちに王はありません。』」妬みはとても恐ろしい罪です。私たちは人をうらやんではいけないのです。なぜなら、神さまは「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」とおっしゃっているからです。でも、イエス様を信じて救われると、嫉妬からも解放されていきます。なぜなら、他のだれにでもない、私の罪のためにイエス様が十字架にかかってくださったことを知るからです。また、イザヤ書41章にように「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と一人ひとりを特別に愛しておられるからです。ヨハネはイエス様から特別に愛されていました。ペテロは「あの人はどうなのですか」と聞きました。イエス様はペテロに「あなたに何の関りがありますか」と言われました。そうです。私たちは他の人と比べないで、神さまから与えられた自分のレースを最後まで走ればよいのです。イエス様は「私の恵みはあなたに十分である」(Ⅱコリント12:9)と言われます。
3.好意の責任
私たちはマリアのように「大いに好意を受けた人」を妬んだり、うらやんだりするかもしれません。でも、神さまからたくさんの好意を受けた人は、それだけ責任があると言うことも忘れてはいけません。マタイ25章にはタラントのたとえが記されています。主人は「それぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた」(マタイ25:15)とあります。タラントの違いは、好意の違いと言っても過言ではありません。五タラント預かった者は、五タラントもうけました。二タラント預かった者は、二タラントもうけました。両者に対する主人の言葉は同じです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だった」と評価しています。ところが、一タラントを預かった者は、地面に穴を掘って隠しておき、そのまま主人に渡しました。主人は彼に「悪い怠け者のしもべだ」と叱りました。ここには具体的に記されていませんが、一タラントを預かった者は、五タラントと二タラント預かった者たちを妬んだかもしれません。「主人は自分を正しく評価してくれないから、私もそのようにふるまうのだ」と思ったかもしれません。彼は「蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていた」と、主人にぬけぬけと言っています。自分に対する自己評価self-esteemも、主人に対する評価も低くて歪んでいたのでしょう。五タラントと二タラントのしもべたちは、「これだけ預けてもらったのだから、その分、儲けよう」と主人の好意に答えたのだと思います。ですから、たくさんの好意をいただいた人は、それと比例した責任があるということです。
ところで、ソロモン王は世界で最も神からの好意を受けた人物でした。イスラエルを栄えさせ、主の名と神の栄光を他の国々に知らしめました。イエス様も「ソロモンの栄華」と評価しています。ところが、ソロモンの後半の人生は、どうだったでしょう。彼は他の人や他の国々からも好意を受けようとしました。そのため政略結婚し、彼らの偶像を拝みました。もう、十分に神様から好意をいただいているので、他の人たちから受けなくても良かったのです。私たちには人から認められたいという欲求があります。悪魔はアダムとエバに「あなたは神のようになります」と言いました。しかし、彼らは神のかたちに造られていたので、神のようだったのです。すでにあるので、それ以上のものは不要でした。イエス様も悪魔から「もし、あなたが神の子なら…」と三度も誘惑を受けました。しかし、イエス様はすでに神の子であったので、そのような誘惑を退けることができたのです。私たちは十分、神様から好意を受けています。すべての罪が赦され、永遠の命が与えられ、御国の相続者です。しかし、それを当たり前だとか、私の行いで得たんだと誇ってはいけません。ソロモンはダビデが苦労して得たものを当たり前のように受けました。もっと悪いのは、ソロモンの子、レハブアムです。彼は長老たちの助言を無視して、民たちにソロモンよりも重いくびきを負わせました。そのため、イスラエルの国は北と南に分裂してしまいました。「三代で財産がなくなる」とは相続税だけの問題ではないようです。
マリアは主の申し出を受け入れました。そして、このように喜び、主をたたえています。ルカ1:47-48「私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。」しかし、マリアは大きな好意に対する責任、そのことによって負うべき犠牲を覚悟していたのです。まず、彼女はすでにヨセフと婚約していました。ユダヤでは一緒に生活していないだけで、法的には結婚と同レベルでした。ところが、聖霊によって子どもが与えられると一体だれが信じるでしょうか?ヨセフですら「マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思っいました。」(マタイ1:19)。幸い、主の使いがヨセフにも現れてくださり、「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と言われました。しかし、マリアは結婚前にだれかの子どもを宿したという噂がナザレ中に広まったことは間違いありません。その証拠に、二人が住民登録をするためにベツへレムに行ったとき、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」(ルカ2:7)のです。当時は、親戚中で旅をして、一緒に宿泊したようですが、ヨセフとマリアはつまはじきになっていたのかもしれません。イエス様が大きくなってから、ナザレの人たちはヨセフではなく、「マリアの息子」(マルコ6:3)と呼んでいました。このように考えますと、マリアが負った犠牲というのがある程度わかるような気がします。
でも、マリアはそれを乗り越え、十字架を離れず、イエス様の死を見届けました。「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります」(ルカ2:35)というシメオンの預言の成就でした。やがて復活のイエス様を仰ぎ見、ペンテコステの日は聖霊を受けた120人の中に一緒にいました。このように考えますと、マリアは神様から与えられた大いなる好意の責任を果たしたと言えるでしょう。ローマ・カトリックでは、マリアを神格化していますが、それは高めすぎであります。それでも、マリアはメシアを生んだ、第一級の信仰者であることは間違いありません。マリアも父なる神様から「よくやった。良い忠実なしもべだ(はしため)だ」と褒められたことでしょう。そういう意味で、マリアは私たちの良い模範です。私たちはそれぞれ、大きさの違う好意を神様からいただいています。2タラントの人は5タラントの人をうらやんではいけません。自分のレースを全うすればよいのです。1タラントでも6000日分の給与でありますから、現代の6000万円くらいの価値があるでしょう。主人は彼に「おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに」(マタイ25:27)と言いました。利息が付くくらいですから、やはり結構な額です。このことを適用するのは、難しいですが、地面に隠さないでいくらかでも用いたらOKだということでしょう。タラントを用いて商売することも確かにリスクが伴います。元金割れするかもしれません。それでも、一生懸命商売したなら、同じように「忠実なしもべよ」と慰めて下さるに違いありません。重要なのは、大いなる好意を自分に与えてくれた神様の真実と気前の良さです。主のご好意を無駄に受けないようにしたいです。主は真実な方であり、豊かに報いてくださいます。ハレルヤ!アーメン。