マルコによる福音書は、神のしもべとして行動するイエスをテーマとしています。ですから、病の癒しや奇跡をどの福音書よりも詳しく記されています。また、マルコによる福音書は他のどの福音書よりも「信仰」ということを強調しています。つまり、「病の癒しや奇跡は、信仰によって受け取ることができる」というのがマルコの言いたいことではないかと思います。どのような信仰を持ったら、神さまからの病の癒しや奇跡をいただくことができるのでしょうか?
1.弟子たちの信仰
マルコ9章のはじめには、イエス様が山の上で栄光の姿に変わられた、いわゆる「変貌山」のことが書かれています。その山には、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちがイエス様に同行し、イエス様の栄光の姿を目撃しました。さらには「これは私の愛する子。彼の言うことを聞け」という御声まで聞きました。ペテロはずっとそこに居たいと願いましたが、そういう訳にもいきませんでした。ルカ福音書には、「イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」(ルカ9:51)と書かれています。天にあげられる日が近づいていたので、イエス様はとても緊張した面持ちだったことでしょう。きょうの物語は、イエス様と3人の弟子たちが山を下りてきてからのことです。3人の弟子たちは天にも昇るような経験をしていたのに、山の下ではやっかいな問題が待っていました。マルコ9:14-19さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
山の下にいたのは9人の弟子たちです。彼らは何をしていたのでしょうか?「大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた」と書いてあります。一体何を議論していたのでしょうか?イエス様がそのことを尋ねると、父親が自分の息子の病状を告げましたが、とても複雑です。まず、「口をきけなくする霊につかれた息子」と言っています。昔は「唖」と言いましたが、耳が聞こえないために口がきけないのです。しかし、それだけではありません。その息子は、泡を吹き、歯切りして、からだをこわばらせるようです。マタイ福音書では「てんかんで、大変苦しんでいます」(マタイ17:15)と父親が告げています。まさしく、その息子の症状はてんかんと同じかもしれません。しかし、その根本的な原因は、ルカ福音書は「悪霊は彼を倒して引きつけを起こさせた」(ルカ9:42)と書いてあります。マルコ9章に記されている「霊」とは、悪霊のしわざです。イエス様は「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」(マルコ9:25)と悪霊の名を呼んで、その子から追い出しています。昔は、「おしとつんぼの霊」と言っていましたが、差別用語なので、そのように直しています。今、いっただけでも、たくさんの症状があり、現代の医学だったら、どのような病名をつけるのか迷うでしょう。弟子たちが、律法学者たちと論じ合っていたと書かれています。おそらく、その子どもの病名とか、原因とか、そういうことを議論していたのかもしれません。症状がとても複雑なので、無理もありません。でも、イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?マルコ9:19「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」と言われました。少し、イエス様がいらだっているように思えますが、エルサレムに向かっているので、緊張なさっておられるのでしょう。
このところで問題になっていることは何でしょう?弟子たちは律法学者たちと何が原因なのか議論をしていました。しかし、肝心なことができなかったのです。息子の父親がイエス様にこう言っています。「それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした」。弟子たちは、問題の究明のため議論に明け暮れていました。しかし、その子から、悪霊を追い出す力がなかったのです。これは昔の事だけではなく、現代の教会にも言えることではないでしょうか?もし、一人の父親が、そのような子どもを教会に連れて来たら、どう対処するでしょうか?「うちは病院じゃないので、お医者さんのところへ行ってください」と言うでしょう。その父親が「ええ、あちこちの病院に行きましたが、原因が分からないのです。だから、教会に来たのです。もしかしたら悪霊かと思って…」。「え?悪霊の仕業?困ったなー。それでは、新松戸教会の津村牧師のところへ行ってください」と言うでしょうか?津村先生からお聞きしましたが、そういうことが何件もあるそうです。千葉の牧師たちが、自分ところの教会で解決できない霊的な問題を新松戸教会の津村牧師のところに行くように勧めているからです。
イエス様と山の上に上った弟子たちはともかく、地上に残っていた弟子たちは信仰的に低迷していました。イエス様が「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか」と嘆いたのも無理はありません。実は悪霊を追い出す権威は、与えられていたのです。マルコ3章に12弟子を任命したとき、「彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるため」(マルコ3:15)と書かれています。しかし、律法学者たちと子どもの病気の原因は何なのか、議論ばかりしていました。問題ばかりに目をとめ、肝心の信仰がどこかに行ってしまったのです。これは今日の教会にも言えることです。キリスト教は西欧周りで日本にやってきました。彼らは霊的存在を信じていません。天国におられるであろう神さまは信じています。しかし、地上のことには神さまは関与しておらず、私たち人間がやるしかないと科学や医学に頼っています。天国と地上があっても、中間の世界が欠如しています。中間の世界とは、天使や悪霊が活動する霊的な世界のことです。つまり、西欧周りのキリスト教は、悪霊の存在を信じていないのです。一般の教会では、「私は専門ではないので」と病院を紹介するでしょう。しかし、病院でも治せない霊的なものがあるのです。確かに牧師は医者じゃないので、診断はできません。でも、「専門家じゃないのに」と言われてもひるむことはありません。私たちは聖書を持っています。神さまが私たち人間を造られたのであり、聖書はその「取扱い説明書」です。聖書によれば、人間は霊と魂と肉体でできていると書いてあります。さらには、悪霊の存在とそれに勝る、キリストの権威についても記されています。今日はまさしく、不信仰な時代です。医者も心理学者も霊的なこと、そして奇跡を行なう神さまを信じていないからです。私たちは確かに医療従事者ではありません。でも、私たちがキリストの御名によって祈るとき、聖霊が癒しを行なわせてくださるのです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることはありません」(ヘブル13:8)。
2.父親の信仰
この息子の父親の信仰はどのようなものでしょうか?マルコ9:21-24父親は答えた。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」私は聖書を読んでいて、この父親は本当に信仰があるのか疑ってしまいます。彼はイエス様に「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」とお願いしました。英語の聖書では“But if You can do anything, have compassion on us and help us.” if You can、「もしできるなら?」と言っています。それに対してイエス様は、「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と言われました。イエス様がおっしゃる「信じる者」とはだれのことでしょうか?癒しをする人でしょうか?それともこの父親のように癒しを受け取る方でしょうか?福音書を見ると、癒しを受け取る人の信仰が問われている箇所がたくさんあります。4人の友人が一人の中風の人を連れてきたとき、イエス様は「彼らの信仰を見て」(マルコ2:5)と言われ、その人を癒してあげました。12年間長血を患っていた女性に対して、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」(マルコ5:34)と言われました。盲人のバルテマイに対しては「あなたの信仰があなたを救いました」(マルコ10:52)と言われました。今あげた人たちはすべて信仰をもってイエス様に近づきました。しかし、この息子の父親には信仰があるのでしょうか?
この父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫んでお願いしました。彼の答えは全く解せません。「信じます」は良いです。でも、その後の「不信仰な私をお助けください」というのはどういう意味でしょう?彼は自分のことを「不信仰な私」とはっきり認めています。イエス様は不信仰な者を助けることができるのでしょうか?「信仰の薄い私」とか「信仰の弱い私」と言えば、数パーセントでも信仰があります。しかし、「不信仰な私」というのは信仰がゼロパーセントだということです。ギリシャ語も「不信仰」という意味です。同じことばがローマ3:3「不真実」と訳されています。クリスチャンでも謙遜して、「不信仰な者です」と言ったりしますが、私はそれは良くないと思います。不信仰というのは、「信仰が全くない」という意味だからです。私はこの箇所を読むと、憤慨します。イエス様を目の前にして、よく「信じます。不信仰な私をお助けください」と言えたものだなと思います。逆に「私の不信仰を悔い改めます。信じます」と言えなかったのかなーと思います。ここは、説教者泣かせの箇所です。一体、父親の信仰とはどのようなものなのでしょうか?いくつかの注解書を見ましたが、私の考え方が間違っているかもしれません。泉田昭師はこう述べていました。「信じます」と「不信仰な私をお助け下さい」。この一見矛盾している父親のことばの中に信仰の神髄がある。信仰は、彼のような自らの不信仰を率直に認め、神に絶対の信頼を置くことである。この父親は息子に対する愛のゆえに、イエスへの絶対の信仰を体得したのであった。常識と現実の間で揺れ動いている現代人にとって最も大切なのがこの真摯な信仰ではないだろうか。…泉田昭師は私の神学校時代の説教学の先生でしたので、「はい、わかりました。彼に信仰があったのですね」と申しあげるしかありません。
総合的に考えて私はこのような結論を下しました。癒しや奇跡を受ける側に信仰があれば、理想的です。福音書にはそのような信仰をもってイエス様に近づいた人たちがたくさん記されています。イエス様からも「あなたの信仰がそうしたのだ」と賞賛されました。しかし、中には、この父親のような信仰のない人物もいます。ヨハネ5章の人物は、イエス様から「良くなりたいか」と言われても、「もにゃもにゃ」とはっきり答えられませんでした。38年も病気にかかっていたので、「治りたい」と言えなかったのです。でも、イエス様はそのような人物を癒してあげました。このマルコ9章の父親も、正直に自分の中には信仰がないということを認めていました。それでも、「不信仰な私を助けてください」とイエス様に懇願しました。私はこの二人の人物ははっきり言って信仰がなかったと思います。でも、二人が癒しを受けたのはどうしてでしょうか?それは、イエス様に信仰があったからです。癒しを受け取る側に、最低限必要なのは、「癒しをいただきます」という願いです。「いりません」と断る人は無理でしょうが、「だったらいただきます」くらいの信仰でも良いのです。昔、メルボンドという預言者がアメリカから来られました。とのとき、癒しを受ける側に3つのことが要求されました。第一はrelax、第二はreceive、第三はactionです。リラックスして受け取ることが大事だということです。その後、「信仰をもって今までできなかったことをやってみる」と言うことでした。中嶋長弘先生は「あなたに信仰がなくても大丈夫です。私の信仰でやります」とおっしゃったことがあります。その人が断らない限りは、信仰がほとんどなくても大丈夫だということです。
イエス様は弟子たちが「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか」と聞いたとき、このように答えました。マタイ17:20イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」からし種は、もっとも小さいものを表わすたとえとして用いられました。このことから考えると、信仰は大きさではないということです。たといからし種ほどの大きさであっても、生きていれば良いのです。神さまはその信仰を管として用いるからです。私たちは謙遜して自分を「不信仰な者」と言ってはいけません。「からし種ほどの信仰ならあります」と言えば良いのです。
3.祈りと断食によって
マルコ9:25-29イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」このところに、悪霊追い出しのミニストリーが記されています。きょうは、そのことを詳しく学ぶ時間がありませんので、他の機会でお話ししたいと思います。中心的なテーマは、「弟子たちがなぜ、悪霊を追い出せなかったのか」ということです。弟子たちは、その場ではなく、どこかの家に入ったのち、恥ずかしそうにイエス様に尋ねています。すると、イエス様は「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません」と答えられました。「この種のものは」というのは、この子のように悪霊が絡んでいる複雑な病気ということではないかと思います。医学的には「てんかん」と診断されるかもしれません。しかし、口をきけないので、何らかの障害を持っていると言われるかもしれません。脳なのか、神経なのか、機能的な障害なのか判断しかねるでしょう。しかし、聖書は悪霊であるとはっきり言っています。悪霊が原因しているのであれば、この世の医学では治すことはできません。彼らは悪霊の存在を認めないからです。彼らは私たちのことを馬鹿にするかもしれません。でも、聖書ははっきりと霊的な存在がおり、人間に病気や障害をもたらしていることを告げています。だったら、そのことを知っている私たちがしなければなりません。
イエス様の弟子たちは聖書の世界観を持っていたので、その子の病気は悪霊が原因していることが分かっていました。でも、その子から悪霊を追い出すことができなかったのです。イエス様は「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません」とおっしゃいました。しかし、別の写本には「この種のものは、祈りと断食によらなければ」と書かれています。私はこの2つを並べて考えるのが妥当だと思います。ただ「祈りによらなければ」だと、どういう祈りなのか見当が付きません。しかし、「祈りと断食によらなければ、何によっても追い出すことができません」となると、その祈りがどんな祈りなのか分かってきます。断食というのは、神さまとかけひきするためにするのではありません。こちらが犠牲を払えば、祈りが聞かれるだろうというのは異教的な考えです。昔はお百度参りとか、好きなものを断つ、みたいなものがありましたがそれは聖書的ではありません。断食というのは、食を断って、神さまと交わるということです。食欲は私たちの最も大きな欲望であり、1日、2日食べないと大変なことになります。でも、断食するとどうでしょう?1日、2日は大変辛いですが、5日目くらいになると仙人になったような気がします。体力はありませんが、霊的にすっきりします。普段、肉がいかに邪魔をしているか、わかります。断食しているので、肉が弱くなり、霊が強くなるのです。すると、神さまのみこころが良く分かります。イエス様は「祈りによられなければ追い出せないと」言われましたが、断食のように神さまと深く交わり、神さまのみこころを求めるのです。すると、神さまからの権威と信仰が与えられます。つまり、悪霊を追い出す前に祈って備えるということです。そうすれば、神さまの権威を帯びているので、主の御名によって悪霊を追い出すことができるのです。
この世の人たちは「あとは祈るしかない」と言います。彼らは「祈り」は何もできないときの最後の手段であり、あまりあてにならないと考えています。なぜでしょう?彼らの世界観は、中間である霊の世界が欠落しています。遠くにおられる神さまは信じているかもしれません。しかし、この地上の出来事には関与していないと思っているのです。まさしく、不信仰な時代なのです。私たちクリスチャンは天の神さまと、空中の霊的な存在、そして地上の物質の世界の3つを信じています。さらに、私たちは天の神さまと交流があり、聖霊の働きをいつでも期待することができます。私たちの肉体はこの地上にありますが、私たちは霊的にどこにいるのかも知る必要があります。このことが分からないと霊的な戦いをすることができません。エペソ2:6「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」と書いてあります。私たちは天の御座、イエス様と隣にいるのです。悪魔や悪霊たちよりも上にいるのですから、彼らを踏みつけることができるのです。クリスチャンであるなら、もれなく、イエスの御名の権威を持っています。問題は、私たちが聖霊に満たされて、その権威を用いる必要があります。くれぐれも、この世の人たちと議論して、エネルギーを浪費しないようにしましょう。彼らは霊的な世界のことが分からないのです。私たちは不信仰な時代の中で生きているのです。でも、私たちは聖書を読んで、父なる神さまと親しく交わっているので真理の内にあります。神さまが私たちの味方であるなら、どんな被造物も恐れることはありません。もし、困ったなら、祈りと断食によって、深く神さまと交わり、聖霊と信仰に満たされたら良いのです。大丈夫です。私たちの力ではなく、私たちと共におられるイエス様がやってくださるからです。