2022.9.25「福音宣教と病の癒し マタイ9:35-38」

教会で病気の癒しのために祈ると、「なんかうさんくさい」と思われるかもしれません。そして、「新興宗教と同じレベルなんだ。ご利益信仰なんだ」と言うかもしれません。しかし、こちらの方が先で、あちらの方が後から真似たのです。なぜかと言うと、福音書にはイエス・キリストの癒しの記事が溢れているからです。すると教会のある人たちは、「新約聖書でその働きは終わったのだ」と否定します。でも、聖書をよく見ると、イエス様はご自分と同じことをするように弟子たちに命じておられます。きょうは、病の癒しがなぜ聖書的なのか、共に学びたいと思います。

1.病の癒しと福音宣教

 マタイによる福音書8章と9章を読みますと、病の癒しや奇跡に満ちています。おそらくマタイは山上の説教が終わった後、時間の経過を無視して、病の癒しや奇跡を集めたのだと思います。では、どんなことが記されているのか、ざっと見て行きたいと思います。マタイ8章冒頭には、昔はらい病と言いましたが、ツァラトに冒された人のきよめが記されています。その次は、百人隊長のしもべの中風の癒しの記事があります。その後には、大勢の人たちを癒されたと書かれています。後半には悪霊に支配されていたガダラ人の解放のことが記されています。マタイ9章冒頭には、4人の友人が運んできた中風の人の癒しが記されています。後半には12年長血を患った女性の癒しと会堂司のひとり娘のよみがえりが記されています。さらに、二人の盲人が目が開かれたという奇跡が記されています。最後は、悪霊につかれて口のきけない人の癒しが記されています。マルコによる福音書にも同じことが書かれていますが、マタイによる福音書のように集中していません。マタイは故意に病の癒しや奇跡をこのところに集めたという感じがします。だれが付けたか分かりませんが、マタイの章の区切りはテーマ別に分かれていて、聖書を読む人にとってはとても便利です。そして、マタイ8章と9章とまとめのようなことが9章の最後に記されています。マタイ9:35-38「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」このところには、大きく分けて3つのことが記されています、第一は病の癒しが福音宣教と同じレベルで行われていること、第二はイエス様の病の癒しに対する動機、第三は弟子たちにも福音宣教を含め病の癒しも委ねていると言うことです。そして、そのことがマタイ10章の12弟子の召命につながっています。本来ならここまでのことは、メッセージの著論にすべきでしたが、第一のポイントの中に入れてしまいました。

 イエス様はこの地上で3つの働き、3つのミニストリーをなされました。3つとは、教え、福音宣教、病の癒しです。現代の教会は教えと福音宣教は行っていますが、病の癒しを行っていないところがたくさんあります。彼らは「医学が発達したので、もう不要なのだ」と言うでしょう。しかし、どうでしょう。病院に行くと病人であふれています。医者でも治せない指定難病と言われるものが333もあるようです。なぜ、人は病気になるのでしょう?それはアダムが罪を犯したため、死が人類に入ったためです。病気は死を弱くしたものと考えることができます。創世記3:18「大地が呪われ、茨とあざみを生えさせ」とありますが、人間にとってやっかいな病原菌やウィルスの発生を暗示しています。しかし、イエス・キリストが公生涯において病の癒しや障害を持っている人たちを癒したということはどのような意味があるのでしょうか?35節に、「御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた」と書かれています。これが重要なのです。イエス様は単なる「福音」を宣べ伝えたのではありません。「御国の福音」です。御国とは、ギリシャ語でバシレィアーであり、「王位、支配、王国」という意味です。エホバの証人が「王国会館」と呼んでいますが、「教会」よりも、あちらの方が聖書的かもしれません(少々、腹が立ちますが)。つまり、「王である神さまのご支配がやって来た」と言う喜びの訪れです。神さまのご支配がやってくるとどうなるのでしょうか?病が癒され、死人さえよみがえるのは当たり前でしょう。イエス・キリストは本来なら御国が完成したときに起る出来事を、福音宣教をする時、人々に御国の前味を体験させたのです。スーパーなどに行くと試食コーナーがあります。おばさんが、新商品のウィンナーを楊枝に差して渡してくれます。私は「うまい!」と言いながら、その場を立ち去ります。勧められると弱いからです。人々はイエス様による病の癒しと障害の回復を体験して、「ああ、御国とはこういうものなんだ。私も、ぜひ、そこに入りたい」と願うようになります。つまり、肉体における癒しが、御国に入るための入口になるということです。

 多くの人たちは、聖書の教えだけではわかりません。福音と言っても、何を信じたら良いのでしょう?イエス様がおられた頃は、十字架も復活もありませんでした。いわば、未完成の福音です。でも、イエス様がなされたみわざによって、人々は「御国とはこのようなものなんだ」と体験をもって知ることができたのです。私たちの時代は福音が完成していますので、病の癒し抜きでも、人々は救われます。霊的なことだけを話している牧師や伝道者もたくさんいます。でも、多くの人たちは、「御国がどういうものなのか」ということを体験的に知っているでしょうか?「いやいや、体験よりも信仰が重要なのですよ」と反論するかもしれません。しかし、私たちは霊と魂と肉体の3つでできていることを忘れてはいけません。テレビのCMを見ると、健康食品やサプリメントにあふれています。なぜでしょう?人々が魂よりも、肉体的な健康を求めているからです。「いやいや、肉体はこの世限りのもので、魂と霊の方が重要なのですよ」と果たして言えるでしょうか?病の癒しと健康はイエス様がおられた時代のニーズだけではありません。現代の人たちも同じようなニーズを抱えて苦しんでいるのです。

 私は救われてまもなく、ある神学校の基礎科に入学しました。私は病の癒しや悪霊追い出しのことは聖書に書いてあるので当たり前のことだと思っていました。ところが、その神学校の母体である教団は、そうではありませんでした。病の癒しのためのとりなしの祈りはします。でも、だれかが、その人の患部に手を当てて祈るということはしませんでした。「それはカリスマ教会のやることだ」と批判されました。しかし、「その教団は『新生、聖化、神癒、再臨』をうたっているのに変だなー」と思いました。昭和初期にその教団にリバイバルが起りました。その時は、癒しや奇跡がたくさん起こりました。でも、再臨のことで分裂が起りました。その結果、神癒と再臨はあまり言わなくなり、その分、アカデミック(学問的)になりました。「羹に懲りてなますを吹く」ということわざのとおりです。でも、聖書を字義通り信じているのに、そこだけ省くというのは矛盾しているとしか思えません。聖書に戻りますが、イエス様の癒しはワンパーンではありませんでした。癒しのセミナーなどに参加すると「第一にこれ、第二にこれ、第三にこれ」と定式化しますが、イエス様はそうではなかったのです。イエス様は手でさわって癒されたこともあります。百人隊長のしもべのときは、おことばを与えただけです。その人は遠くにいたのに癒されました。悪霊に対しては「行け」と命令されました。12年間長血を患っている女性に、イエス様は何もしていません。彼女がイエス様の衣のふさに勝手に触れただけです。死んだ少女に対しては、「起きよ」と言って、手を取りました。目の見えない人には「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われました。マタイにはありませんが、ヨハネ福音書には、つばきをこねた泥を目に塗ったりしています。ただし、やっていないことがあります。イエス様は病の癒しのとき、父なる神さまに祈っていません。多くの場合、病に対して癒されるように命じておられます。私たちもこのことを適用すべきです。私たちは病の癒しのためとりなすだけではなく、直接、手を置いて「主イエスの御名によって癒されよ」と、命じる祈りが本当ではないかと思います。

 

2.病の癒しの動機

 牧師は「病の癒しや奇跡が起こったなら伝道が進むだろうなー」と考えてしまいます。そのために癒しの賜物のある講師を集会に呼んだり、自ら癒しの賜物を受けるためにセミナーに通ったりします。かつて、アメリカのテレビ伝道者たちは、さかんに病の癒しをしました。それで、多くの献金を募ったりしました。「病の癒しは聖書的ですが、それを伝道のために利用するのはどうだろうか?」という疑問も出てきました。なぜでしょう?なんとなくご利益的で、病の癒しを餌にしているような気がするからです。「伝道が進めば良い」。果たしてそれで良いのでしょうか?イエス様はどうだったのでしょう?マタイ9:36「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」「深くあわれまれた」は、「生贄の内臓を食べる」というギリシャ語から来ています。それがやがて「可哀そうに思う、同情する、憐れむ」という意味になりました。ユダヤ人は肝臓や心臓がそのような感情の座だと考えていたからです。イエス様は病気やわずらいを持っている人たちを、深くあわれまれました。また、悪霊に縛られている人たちには、権威をもって彼らから悪霊を追い出しました。それはメシヤ預言をしているイザヤ61章から察することができます。イザヤ61:1「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ…」とあるからです。メシヤとして、人々に癒しや解放を与えることは当然のことだったのです。

でも、イエス様はこれ見よがしに、病の癒しや障害の癒しをしたわけではありません。また、「自分はメシヤなんだぞ」と誇示したのでもありません。イエス様の動機は、あわれみであり、愛であったということです。ですから、教会、私たちクリスチャンが癒しや悪霊追い出しをするときに、「これで人々が集まり、伝道できる」と考えてはいけません。救いを求めず、病の癒しだけいただく人がいても、がっかりしてはいけません。イエス様が10人のツァラト(らい病人)を癒されたことがあります。しかし、「ありがとうございます。癒されました」と戻って来た人は、たった一人でした。しかも、ユダヤ人が嫌っていたサマリヤ人だったと言う記事があります。9人はただで、癒しをもらってどこかに行き、感謝もしなかったということです。ですから、教会も何か紐付きで、癒しをしてはいけません。イエス様は弟子たちに「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)と言われました。かつて、癒しがどんどん起こっているときがありました。そのとき、気功とか指圧のように、施術料としていただいて良いのではないかと思ったことがあります。その方が、受ける方も負い目を感じなくても良いと思ったからです。でも、そうしませんでした。今は、それで良かったのでないかと思っています。

 1980年代、私が座間キリスト教会で奉仕をしていた頃です。高円寺の馬橋キリスト教会の新井宏治牧師が、月一回、肉体の癒しとインナーヒーリングのため来られていました。目の前で、癒しのわざを見ることができました。その時、新井宏治先生がご自分の証をされました。1975年ELIという英語伝道の団体から招かれて、アメリカに行くことになりました。飛行機会社のストライキで、スケジュールが狂い、会えない人に会うことができ、行けるはずのないキャサリン・クールマンの癒しの集会に出ることができました。7,000人もの人がいる中で、キャサリン・クールマンが「ここに日本から一人の牧師が来ています。どこにいらっしゃるか分かりませんが、あなたがしていることを100%支持します」と言ったそうです。新井宏治先生は2か月前から、『奇跡を信じる』という彼女の本を読んでいました。キャサリン・クールマン師のものは「知識のことば」だったのです。新井宏治先生は時間をかけて癒しの祈りをなさいます。また、遠くから突然、癒しを求めて教会を訪ねて来たり、電話も度々かかってくるそうです。その時、私は「癒しの賜物も良いけれど、自分の時間がなくなると嫌だなー」と思いました。当教会に2005年頃から数年間、中嶋長弘牧師が来られ、癒しのセミナーをしていただきました。その時に、私にも癒しの賜物が現われました。どんどん人々を癒したくなりました。めんどうだと思ったでしょうか?思いません。そのとき、賜物と一緒にあわれみの心も与えられたのではないかと思います。人が癒されるのが楽しくて、「結構です」と言われても、押し売り的に病の癒しをしていました。神さまが癒しの賜物を与えるときは、同時に、神さまのあわれみの心も与えてくださるのだと思います。

 ある人たちは、「病気は神さまからの試練であり、そのことによってきよめられ、信仰が成長するのだ」と病の癒しに対しては消極的です。イエス様はヨハネ14章で「私を見た人は、父を見たのです。…私のうちにおられる父が、ご自分のわざを行なっておられるのです」と言われました。しかし、イエス様はこのところでたくさんの癒しを行なっています。もし、その人たちの考えで行くと、イエス様は父なる神さまに逆らっていることになります。そうではありません。イエス様がなさっていることは、父なる神さまがなさられているのです。イエス様は「群衆を見て深くあわれまれました」が、同じように父なる神さまも群衆を見て深くあわれまれたのです。つまり、病の癒しは父なる神さまのみこころであったのです。イエス様はその父なる神さまのみこころを地上で行ったのです。ヨハネもこのように述べています。Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」

 

3.病の癒しの継続拡大

マタイ9:37-38「そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」イエス様がおっしゃったことは、一体、どの箇所に当たるのでしょうか?また、イエス様は何のために、「働き手が与えられるように祈れ」と弟子たちに言われたのでしょうか?それは3つの働きを弟子たちが行い、また他の人たちも継続してそのことに当たるようにということです。そのこととは、マタイ9:35「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」です。つまり、教えと福音宣教と病の癒しです。でも、最も直前に言われていることは、マタイ9:36「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである」というみことばです。マタイ8章、9章ではほとんどのことをイエス様お一人がなさっておられます。人々の病を癒し、人々に教え、人々に福音を語っておられます。イエス様は数年後、十字架の贖いを終え、天にお帰りになる予定でした。ずっと何百年も一緒におられません。ですから、弟子たちに、またその後の弟子たちに3つの働きを委ねる必要があります。イエス様の心の中には、「彼らがご自分の働きを継続し、拡大するように」という強い願いがありました。この直後、12弟子を任命し、短期宣教に彼らを遣わしました。

マタイ10:1「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」このところには、12弟子を使徒として召した目的と理由が記されています。まず、イエス様は12弟子に汚れた霊どもを制する権威をお授けになりました。その権威の目的とは「霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすため」です。つまり、イエス様は神からの権威で、人々の病を癒し、悪霊を追い出しておられたということです。イエス様が持っておられた権威を、弟子たちにも与えたということです。このところには、「教えの権威」とか「福音宣教の権威」とは言っていません。ただ、悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒すための権威です。面白いことに、マタイ28章にも同じことばが書かれています。マタイ28:18「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って…』」。イエス様が最終的に権威を与えたのは、ペンテコステの日です。でも、福音書においては、ある程度の権威が与えられています。時々、「そんなこともできないのか?」とお叱りを受けている記事もあります。イエス様は彼らを短期宣教に遣わされました。彼らに何をしろとおっしゃったのでしょうか?マタイ10:7,8「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」このところで、3つのことが命じられています。第一は御国の福音を宣べ伝えること、第二は病人を癒し、悪霊を追い出すこと。第三の教えはあるのでしょうか?あえて言うなら、マタイ10:27「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。」イエス様が教えたことを言えというニュアンスがあります。

はっきり言えることは、弟子たちがイエス様の命令を受けて、人々病を癒し、そして悪霊を追い出すために出かけたということです。福音を宣べ伝えただけではありません、それらのことも同時に行ったということです。これは現代の私たちに対するチャレンジでもあります。多くの場合、教会は「病の癒しや悪霊追い出し」なしの、福音宣教しかしません。それだと、イエス様の命令を半分しか守っていない事になります。新井宏治先生はキャサリン・クールマンの集会で、300人くらいの人たちが癒しを体験するのを目撃しました。車いすが3つ空いていました。新井宏治先生が「主よ、なぜ、このような素晴らしいことをアメリカでしかなさらないのですか?日本では、ほんのわずかなクリスチャンが一生懸命努力しているのに、わずかな実しか見ていません。主の現実が見えていません。教えが多くて力がないのです。なぜ、日本でこのようなことをなさらないのですか…?」この叫びと問いかけに主が答えてくださいました。先生のご本から引用して終えます。「なぜ?」に対する主の応答は、「器がない」ということでした。つまり、「お用い下さっても結構です」と言って、自分を主に提供する器さえありさえすれば、主はご自分の働きをすることがお出来になるのです。でもその器が少ないので、主の働きがはばまれているのだということでした。それが主による癒しがなされないままになっている理由と原因だったのです。そして、「どうぞ、ご自由にお用い下さい」と申し上げてから、主はそのみわざを、私のような器さえ用い始められたのです。それ以来、「お邪魔しません。どうぞご自由にみわざをお進め下さい」と祈り続けてきたのです。器が少ないということは、何も癒しの奉仕に限られたことではありません。伝道のために、また別の分野での奉仕のために、生涯を捧げる人々がもっともっとあって良いのではありませんか。あなたは、主に、ご自分の全てを捧げていらっしゃるでしょうか?