これまで、200回くらい主題説教を語ってきましたが、「祈り」に関するテーマがとても少ないことに気付きました。何を隠そう、私が祈っていないからだと思いました。昔は、早天祈祷会、水曜祈祷会、半徹夜祈祷会、断食祈祷、連鎖祈祷…いろいろやってきましたが、そのような祈りがほとんどないということです。「いわゆる祈り会」です。もちろん、小グループの集まりの前後では祈ります。でも、それが本当の祈りなのか、ある時から疑問に思うようになりました。きょうは、「絶えず祈れ」と題して、祈りついて学び、そして実践したいと思います。
1.絶えず祈れ
パウロは第一テサロニケ5章17節で「絶えず祈りなさい」と述べています。これは奨励であり、命令でもあります。まず、「絶えず祈れ」とはどういう意味なのか考えてみたいと思います。原文のギリシャ語は、アディアレイプトース、「絶えず、いつも」という意味の副詞です。キングジェームス訳はpray without ceasing,「やむことなく、絶えることなく祈れ」です。他にはpray at all times,「常に祈れ」となっています。しかし、そんなことが可能なのでしょうか?これは、早天祈祷会、水曜祈祷会、半徹夜祈祷会…を持ちなさいということなのでしょうか?私は祈り会をしなさいという意味ではと思います。もし、そうだとしたら、他のことが全くできなくなってしまうからです。私たちは仕事、通勤、食事、買い物、勉強、趣味、運動、だれかとの会話、そして夜は眠らなければなりません。もし、パウロが言う「絶えず祈りなさい」を本当に守るならばどうなるでしょう?仕事しているときも祈る、通勤中にも祈る、食事するときも祈る、買い物しているときも祈る、勉強しているときも祈る、趣味のときも祈る、運動するときも祈る、だれかと会話しているときも祈る、そして寝ているときも祈るということになります。でも、こちらの方が、パウロが言っていることに近いのではないか、いや、これこそが「絶えず祈りなさい」ということではないかと思います。キリスト教会はいつの間にか、祈りを「祈り会」にしてしまいました。もちろん、祈り会も重要です。使徒の働きでは「集まって祈っていた」ということが何か所か書かれているからです。でも、祈りを「祈り会」にしたなら、「よし、祈り会に行って祈るぞ!」と何か気を張らなければならなくなります。また、そういう祈り会に出席できない人は「私は祈っていないなー」と負い目を感じてしまうでしょう。
私はセルチャーチを始めたとき、祈りを「祈り会」にしてはいけないと考えました。こういうことを言うと、伝統的な教会から「なまぬるい」「教会に祈祷会がないなんて」とお叱りを受けるでしょう。でも、私はその代り、パウロが言う「絶えず祈りなさい」を日常生活において実行する方がはるかに重要ではないかと思います。あまり、「祈り」の敷居を上げず、どんな些細なことでも形式ばらずに祈るなら、「絶えず祈りなさい」ということが実行できると信じます。私がこのような説教題にしたのは、ある本を読んで、アーメンと気づかされたからです。その本とは、Norman Vincent Peale 著“The Power of Positive Thinking“『積極的な考えの力』という本を読んだからです。この本は今から30,40年前に読んだことがあります。ある人が「ニューエイジっぽい」と批判していますが、そんなことはありません。彼は立派な伝統的な教会の牧師であり、多くの人たち、特にビジネスマンに影響を与えました。私は英語で改めて読み始めました。なんと、「500万冊以上刷られた」と表紙に書かれていました。そういう本は他にあまりないと思います。彼の本は私が勉強している、脳のリハビリーをしておられるキャロライン・リーフ博士も勧めています。この本のどこを読んだかというと、P.79 Try prayer power「祈りの力を試せ」という項目です。これまでの日本語訳だと、「さーと読んで、おしまい」になります。しかし、原書はとても新鮮で、心にぐさっときました。でも、みなさんには訳したものをご紹介したいと思います。「祈りから効果的な結果を得るための10のルールを紹介します。」
①毎日、数分の時間を確保してください。何も言わないでください。ただ、神様のことを考える練習をしましょう。そうすることで、あなたの心が霊的に受容できるようになります。
②次に、シンプルで自然な言葉を使って口頭で祈ります。自分の心の中にあることを何でも神様に伝えましょう。型にはまった敬虔な言葉を使わなければならないと思わないでください。自分の言葉で神様に話しかけましょう。神様はそれを理解してくれます。
③地下鉄やバスの中、デスクの上など、日常生活の中で祈りましょう。目を閉じて世界を遮断し、神の臨在にしばし集中することで、1分間の祈りを活用します。これを毎日続けることで、神様の臨在を身近に感じることができます。
④祈るときにいつもお願いするのではなく、神様の祝福が与えられていることを肯定し、祈りのほとんどを感謝に費やします。
⑤心からの祈りが大切な人に届き、神の愛と守りに包まれることを信じて祈りましょう。
⑥祈りの中で否定的な考えを使ってはいけません。肯定的な考えだけが結果をもたらすからです。
⑦神様のみこころを受け入れる意思を常に表明します。自分が欲するものを求めつつ、神が与えてくれるものを喜んで受け取りましょう。それは、あなたが求めているものよりも良いものかもしれません。
⑧すべてを神様の御手に委ねるという姿勢を実践しましょう。自分のベストを尽くし、その結果を確信して神様に委ねることができるようにお願いします。
⑨あなたが嫌いな人や、あなたを不当に扱った人のために祈りましょう。恨みは、霊的力を塞いでしまう第一のものです。
⑩祈るべき人のリストを作りましょう。他の人、特に自分とは関係のない人のために祈れば祈るほど、祈りの結果が自分に返ってきます。
いかがだったでしょうか?他の人のために祈るという「とりなしの祈り」も含まれていました。また、Ⅰテサロニケ5章16節の「いつも喜んでいなさい」や18節の「すべてのことにおいて感謝しなさい」も入っていたように思えます。肯定的とは、そういう意味であると解釈できます。
祈りは神さまのとの交わりです。口で言い表すこともあれば、心の中で会話することもできます。詩篇139:4「ことばが私の舌にのぼる前になんと主よ、あなたはそのすべてを知っておられます。」とあります。人々は、偶像の神に向かって同じことばを繰り返して述べています。もし、私がその神さまだったらどう思うでしょうか?「何べんも同じことをくどくど言うなよ」と嫌になるでしょう。イエス様は山上の説教でこのように述べています。マタイ6:7,8「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」このみことばは、詩篇139篇と似ています。父なる神は、全知なので、私たちが求める前から必要なものを知っておられます。イエス様は「同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです」と言われました。神さまはご人格をもっておられるので、同じことばをただ繰り返されると嫌になると思います。家内は、私が2回同じことを言うと、「さっきも聞いた」と注意してくれます。年を取ると、何遍か言わないと、「私は言った」と自分の脳が満足をしないからだと思います。言いかえると、同じことばを繰り返すというのは、「神さまは耳が遠いか、あるいは鈍いから」という見下げた気持ちの現れかもしれません。という訳で、「向こうは、人格がある神さまだ」ということをわきまえ知る必要があります。
また、ある人たちは、神さまにいろんなことを説明する祈りをしています。職場で起ったこと、人がこう私を思っているとか、いろんな状況を説明します。1つ1つ説明しなくても、神さまは全知です。また私たちと共におられるので、私たちが見たこと経験したことをつぶさにご存じであるはずです。ですから、説明をはぶいて、本題に移れば良いのです。「このようにしてください」「こうなることを望みます」とストレートにお話しして良いのです。詩篇にはダビデの祈りがたくさん記されていますが、自分の感情を主の前にぶちまけています。それだけ、親しい関係であるということです。当教会の兄弟姉妹が、献金の感謝の祈りをしますが、ありのままというか、ストレートな祈りをしており、いつも感動します。祈りに上手、下手はありません。心のうちを打ち明ければ良いからです。ですから、「普段からそのような神さまとの交わりをしておられるのだろうな」とほろっときます。他の教会の礼拝の中で司会者が祈る祈りを聞くときがあります。立て板に水と言いましょうか、格調の高い祈りです。あの祈りが普段の祈りであれば良いのですが、心がこもっていないならば福音書のパリサイ人の祈りと同じです。彼らは、人に聞かせるような祈りをしていたからです。牧師もそのような誘惑を受けるときがありますが、頭だけではなく心から溢れる祈りをしたいと思います。祈りは特別なものではなく、どんな時でもできるということです。「絶えず祈りなさい」とは、仕事しているときも祈る、通勤中にも祈る、食事するときも祈る、買い物しているときも祈る、勉強しているときも祈る、趣味のときも祈る、運動するときも祈る、だれかと会話しているときも祈る、そして寝ているときも祈るということです。
2.御霊による祈り
「絶えず祈りなさい」をどのように実行できるのでしょうか?私たちは祈りの源、祈らせてくださるお方を知らなければなりません。自分の意思や決断だけで祈ると苦痛になり、ちっとも楽しくありません。「え?祈りって楽しいものなの?」と質問が出るでしょうか?聖歌に「楽しき祈りよ」という賛美がありますが、「本当なのかな?」と思ったことがあります。最近の車は、ハイブリッド車がとても増えました。ご存じのように、ハイブリッドとは、ガソリンと電気の両方で走る車です。田舎はそうではありませんが、都市を走ると信号機が多いので、ブレーキを踏む回数がどうしても多くなります。そのブレーキの力で充電器を動かし、蓄電するのです。すごいなーと思います。私は乗ったことがありませんが、突然、ガソリンのエンジンから電気のモーターにスイッチします。急に静かになるので分かります。電気が貯まると、自動的にそうなるのだと思います。これを祈りに応用できないかと思います。私たちが祈るときもあれば、御霊が代わりに祈ってくれるときもある。そうすれば、24時間、絶えず祈ることが可能になります。話が少しオーバになりましたが、祈りは御霊によって祈るべきだと思います。そうすれば、祈りがそんなに大変ではなく、むしろ楽しくなるからです。聖書に、そのような根拠が記されているのでしょうか?少し調べてみたいと思います。
ローマ8:26,27「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。」このところにはっきりと、御霊が何をどう祈ったら良いか分からない私たちのために、とりなしてくださると書かれています。つまり、私たちのことば数が足りなくても、少々、的がずれていても、御霊が神さまの前に、「この人はこう祈りたいのです」と代弁してくださるということです。ある人は「足りない祈りですが」とか「前後ふつつかな祈りですが」と言い訳的なことばを付け足します。そのように言わなくても、初めから、私たちの祈りは足りなくて、不十分なのではないでしょうか?無理して、美しい祈りや、まとまった祈りはしなくて良いのです。私たちの内におられる聖霊が神さまの御前に補ってくださるからです。まさしく、このことはハイブリッド車と同じのことです。私たちが祈ると御霊が「はい、どうぞ」とおっしゃってくださいます。私たちが祈れないと御霊が「はい、私が祈ります」とおっしゃってくださいます。でも、祈りの主導権はあくまでも私たちの側にあります。パウロは「絶えず祈りなさい」と私たちに命じているからです。私たちが全く、祈りたいと思わなければ、御霊も私たちを助けてくださらないでしょう。私たちが祈りたくても祈れないときに、御霊が助けて代わりに祈ってくださるのです。でも、通常の場合は、私たちが願いと意思をもって、父なる神さまにイエスの御名によって祈るべきなのです。そうすると内におられる御霊がその祈りに拍車をかけるように助けてくださるのです。一旦、御霊のスイッチが入ると、どんどん祈りが出て来て、止まらなくなることがあります。そこまで行ったら、すばらしいですね。
パウロはエペソ6章において、「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい」と命じています。この箇所は悪しき霊との戦いのことが記されています。そのため、パウロは「御霊によって祈りなさい」と命じているのです。なぜでしょう?悪魔と悪霊が、私たちの信仰生活を妨げているからです。彼らはたえず疑いの火矢を放って来ます。キリストを信じていない人たちは、すでに悪魔のものなのですから、彼らは適当にあしらっています。しかし、キリストを信じている人たちが彼らの標的になるのです。なぜなら、悪魔の国を脅かし、神の国を広げるために働いているからです。私たちは敵の存在を知らなければなりません。敵は私たちの思いの中に、失望落胆、疑い、恐れをぶちまけようとします。そうすると、私たちの意志と信仰が弱くなります。だから、私たちは御霊による祈りでなければ祈ることができないのです。では、御霊によって祈るとはどういう意味でしょうか?私たちが霊によって、神さまと交わろうとするとき、私たちの霊と神さまの間に御霊がいてくださいます。私たちは御霊に思いを合わせると、御霊が私たちに「このように祈りなさい。このことを祈りなさい」と祈ることばを与えてくださるのです。自分の頭の中で考える祈りではありません。魂の奥底から湧き上がってくる祈りです。その時、私たちは完全に、御霊に明け渡さなければなりません。御霊と直結するのです。御霊は神さまのみこころをご存じなので、あなたは「こう祈りなさい」と教えて下さるのです。
かつて、イギリス国教会においては『祈祷書』なるものを作りました。聖職者たちが作ったとても美しい祈りになっています。ところがバプテスト教会の信徒伝道者ジョン・バニアンはそれに反対しました。彼は「祈りは御霊によって祈らなければならない。これこそが自由な祈りである」と主張したのです。確かに『祈祷書』は美しい祈りです。でも、それが私の思いから出ている内容でしょうか?ましてや、それが現在の私に必要な祈りなのでしょうか?そうではないでしょう。それはだれかがだれかのために作った祈りだからです。そうではなく、神の御霊が私たちの霊と共に、神さまのみこころにかなった祈りを導いてくださるのです。その方が生きた祈りであり、神さまとの生きた交わりの中で、祈りが叶えられるのです。ですから、私たちの祈りがたとえ美しくなくても、とぎれとぎれであっても、前後ふつつかであったとしても、全く問題ではありません。私たちの心の内側から出てくる祈りであることが重要なのです。私も説教後に祈ります。またある時は小集会やだれかのために祈ります。そのときは、理性ではなく、御霊に合わせて祈ります。私の意識は、御霊とくっついており、御霊が祈りを与えてくださると期待して祈るのです。そうすれば、まとまりがなさそうな祈りであっても、不思議に的確な祈りであったりします。自分の耳がその祈りを聞いているのですが、「ああ、そういうことなのですか?」と驚くことが多々あります。おそらく、その祈りの中に、御霊による知識のことば、知恵のことば、預言のことばが含まれているのかもしれません。
現代は情報が洪水のように流れています。私は朝夕、散歩しますが、携帯でだれかと話しながら歩いている人がいます。今は手で持たなくても、ワイヤレス・イヤホーンで話せるようです。ツイッター、フェイスブック、インスタグラム、ライン…いわゆるSNSでしょうか?投稿したものに、「いいね!」を期待しています。パソコンや携帯で絶えずだれかと連絡をとっています。テレビではクイズ番組、ドラマ、たくさんのニュース番組があります。外国の出来事、日本のどこかのだれかが犯した犯罪、だれかのコメント…私と全く関係のないことまでもニュースとして飛び込んできます。多くの人たちは神さまではなく、人々とこの世の出来事に直結しています。私たちを創り、私たちを愛しておられる神さまと会話する人が、日本には、果たしてどれくらいいるのでしょうか?クリスチャンであっても、神さまよりも、人々とこの世の出来事に時間を費やしているかもしれません。私たちはそういう情報を遮断して、あるいは選別して、聖書を読み、神さまと交わるための時間を取るべきです。たまに、ビル・ジョンソンが秘書に「今から祈るので、5分間、電話を取り次がないでくれ」とお願いするそうです。秘書は電話がかかってきたら、「牧師は、ただ今、面談中です」と応えるかもしれません。私たちは、祈りはいつでもできるので、目の前のことを優先する傾向があります。私たちのお相手は、very important person VIPであることをお忘れなく。現代は知らない情報をインターネットですぐ検索できます。また、クラウドというサービスで情報をそこに預けておき、複数の人たちがアクセスできるようになっています。もちろん、そういう重宝なものは用いるべきです。でも、cloudより上にあるのは、heavenです。神さまのところには、この世で隠されているものがたくさんあります。私たちはイエスの御名によって、繋がり、知恵や啓示を受け取ることができます。
アメリカでは優秀な弁護士と医師と牧師、あるいはカウンセラーにコンタクトを取って、助言を求めるようです。日本ではそのような専門家にアドバイスを求めることは滅多にありません。それよりも友人や親に相談するでしょう。相談できる人がいたら、相談したら良いと思います。でも、多くの人たち、自分の意見に賛成してくれる人を求めています。しかし、それでは高い次元の世界に行くことはできません。私たちは自分を無にして、全知全能なる神さまに意見を求めることが必要です。イザヤ書9章に「主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる」と書かれています。欽定訳はWonderful, Counselor, Mighty Godとなっています。私たちワンダフルなカウンセラーを持っています。もちろん、祈りの目的は神さまとの交わりであって、常に何かを求めるということではありません。でも、私たちのことをとても愛しておられ、必要なものを与えたいと願っておられるお方のところに駆けこんでも良いのではないでしょうか?ホットラインと言うのは、電話番号を入力しなくてもつながる電話で、大統領同士が使ったりします。私たちは父なる神さまといつでも繋がるホットラインを持っています。私たちの内におられる御霊が父なる神さまと直結しています。空中から悪霊たちによる妨害があったとしても、神さまとのラインがいつも開かれていることを感謝します。