もしも、医者からあなたの命はあと3か月と言われたら、どのように過ごすでしょうか?イエス様はいつものように、いつもの場所で祈られました。イエス様は十字架に捕えられる直前まで、規則正しい生活をしておられました。私たちもそのような生き方をしたいものです。きょうは、イエス様のライフスタイルから3つの事を学びたいと思います。
1.習慣
ルカ22:39「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」英語の聖書には、「いつものように」は、as He was accustomed 「…に慣れた、慣例の」という意味のことばが用いられています。ギリシャ語はエソスであり、「しきたり、習慣」という意味です。つまり、イエス様はエルサレムに来られたときは、オリーブ山で祈るという習慣を持っておられたということです。だから、ユダは「あそこに行けば、イエスを捕えることができる」と、大祭司のしもべたちを案内することができたのです。他にも「いつものように」というフレーズが出てきます。ルカ4:16「それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。」英語の聖書は、as His customであり、「習慣、習わし、繰り返し」という意味です。イエス様は安息日ごとに、ユダヤ人の会堂で、ラビのひとりのように聖書から教えておられたということです。イエス様は、祈ることにおいて、また安息日を守るということについて、良い習慣を持っておられたということです。もし、私たちに悪い習慣があるならば、正しい良い習慣に直すべきであろうと思います。
スティーブン・コヴィという人が『七つの習慣』という本を書きました。分厚い彼の本を買いましたが数ページで読むのを諦めました。「まんがと図解で分かる」という別冊から2つのことを引用させていただきます。第一は、樹木のたとえです。樹木の枝葉を整えるということは、知識やテクニックで得た成功である。表面的な立派さは出せるかもしれないが、それを支える根や幹が弱かったら成長できない。樹木を根から育てるような発想で自分の考え方が必要だ。誠意、謙虚、勇気、正義、勤勉、節制など、人間として真に価値ある人格を手に入れることだ。第二は、目的を持って始める。すべてのものは二度つくられる。物は、まず頭の中でイメージがつくられ(知的創造)、その後、実際に形がつくられる(物的創造)。人生にもこの原則は当てはまる。まず、人生の目的を持ち、どんな人生を送るか、方向性をイメージする。それから、実際に毎日を生きて行く。コヴィはモルモン教徒ですが、おそらく聖書の価値観に基づいて、述べているのだと思います。本質的なものに目をとめ、信仰を抱いて、そこへ達するように日々、務めるということだろうと思います。
間違った習慣を一度、身に着けてしまうと、それを変えるのはとても困難です。私たちは行動を変える前に、私たちの考えを変えるべきであります。考えというのは、心であり、マインドです。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」私たちのマインドは真理に対して忠実ではありません。どうしても、自分の好きなもの、喜びを感じるものに惹かれてしまいます。キャンディス・パート博士の本に書いてありました。私たちの前頭葉は全身の司令官にあたります。ところが、そこにオピエィト受容体も密集しています。オピエィトというのは、アヘンとか麻薬という意味です。そこにbliss幸福をもたらす、オピエィト神経ペプチドがはまりやすいのです。頭だけではなく、体の全細胞がbliss幸福を記憶しています。この世には様々な中毒があります。お酒やたばこ、ゲームやパチンコ、ショッピング、ポルノ…一度、その喜びを体験すると、体が覚えているので、悪いと分かっていても、またやってしまうのです。私たちは生活習慣を変えるためには、私たちのマインドを変えなければなりません。キャロライン・リーフ博士は、「21日間の脳のデトックスプラン」ということを教えています。つまり、マインドが完全に変わるまで21日間かかるということです。もちろん、その後に、それにしたがって、行動や生活を変えて行くということです。
私は子どものときから落ち着きがなく、今なら立派な「多動性発達障害」として認定されていたでしょう。だから、母親からは「やす、落ち着け」、学校の先生から「静かにしろ」と数えきれないほど注意されました。今思うと、私の頭の中はいつも混乱していました。人格的に私とは別なサブパーソナリティが何人かいました。だから、テストのときも集中できなくて、時間内になかなか終わりません。100の力があっても、ブレーキを踏んでいる状態なので、60くらいしか出せないような状態でした。クリスチャンになって霊的に生まれ変わりました。信仰生活を送るにつれて、自分のいくつかの人格が融合して1つになりました。これまでは、叱咤激励する自分や足を引っ張る軽蔑する自分がいましたが、みんな私を応援してくれるようになりました。それから、がぜん集中力がついて、何かを考え、何かを行なうときも、とても効率が良くなりました。ですから、私と同じように混乱している人に出会うと、深い同情心が湧きます。また、クリスチャンになって、毎週の聖日礼拝を守り、聖書を読んで祈るという習慣ができました。夜は11時前には寝て、6時前後には起きるようになりました。多くの牧師は土曜日メッセージ作りのため、苦労しています。私はあせらないように、前もってメッセージを作るので土曜日は平安です。気が付いてみると、とても安定した生活を送っていることに気が付きました。
イエス様は神の御子ですが、私たちの模範でもあります。神の律法を重んじ、安息日を守りました。また、朝早く起きて御父と交わり、夜も一人になって御父と交わりました。明日は十字架にとらえられると分かっていても、いつものようにオリーブ山にでかけられ、ゲツセマネの園で祈られました。私たちは、神さまから与えられた人生を正しく管理し、価値あるものとしたいです。そのためには、一度ついてしまった悪い習慣を排除し、良い習慣をそこにオーバーラップしていく必要があります。パソコンのように、常にヴァージョンアップしていたいと思います。
2.場所
ルカ22:40「いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、『誘惑に陥らないように祈っていなさい』と言われた。」イエス様はオリーブ山の一角、ゲツセマネというところで度々祈っておられたようです。ヨハネ福音書には「園」と書かれています。新聖書辞典にはこのように書かれています。「エルサレムの神殿の東にあるケデロンの谷を渡り、オリーブ山のふもとにある園。ゲツセマネは「油しぼり」という意味である。イエスは十字架にかかる前夜、この園で祈っており、その後、捕えられた。オリーブの木があり、その果実からしぼる圧搾所があったことから、そう呼ばれたのであろう。「いつもの場所で」と言っているので、イエスはこの園を好んで祈っていたと思われる。」引用は以上です。ルカ福音書には、「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と書かれています。まさしく、ゲツセマネ「油しぼり」であります。第二のポイントは、イエス様はこの地上で好まれた特定の場所があったということを学びたいと思います。
イエス様はナザレでお育ちになり、30才からは宣教のため公生涯を歩まれました。活躍した主な場所は、北のガリラヤから南のエルサレムです。ちょっとだけ、ツロとシドンに行かれましたけど、パレスチナの小さな場所に留まっておられました。御父と全宇宙を創られた神さまが、小さなパレスチナにご自分を留めておられたというのは不思議なことです。でも、福音書で活躍している場所は、北のガリラヤ湖周辺と南のエルサレム周辺であります。あるとき、何人かのギリシャ人がやって来て、ピリポを通して「イエスにお目にかかりたいのです」と頼みました。イエス様は彼らに会うこともせず、「人の子が栄光を受ける時が来ました。…一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:23,24)と言われました。つまり、イエス様が栄光を現す場所は、文明の中心地ギリシャではなく、エルサレムでした。イエス様は弟子たちに全世界に出てい行くようにお命じになられましたが、ご自分は神殿のあるエルサレムで贖いを成し遂げる必要があったのです。
私たちにも神さまから与えられた場所というのがあるのではないでしょうか?渡辺和子さんが、36歳のとき思わぬかたちでノ-トルダム女子大学学長に任命されました。当時、悩んでいたその時、一人の宣教師が短い英詩を手渡してくれたそうです。Bloom where God has planted you.(神が植えたところで咲きなさい)と書いてありました。その詩は、未知の土地で見知らぬ人たちに 囲まれた慣れない生活に四苦八苦していた渡辺さんを大いに励ましました。後に、彼女はご自分の本で、「置かれた場に不平不満を持ち、 他人の出方で幸せになったり不幸せになったりしては、環境の奴隷でしかない。人間として生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人公となり自分の花を咲かせようと、決心することができた」と述べています。私はその詩を読んだとき、「植物はあまりにも受動的で、動物の方が良い。動物よりも高尚な人間は全世界に羽ばたけるはずだ」と思いました。理想は確かにそうですが、私たちが住める場所というのは、確かに限られています。プロ野球でたとえるなら活動場所が全日本であったとしても、自分のホームグラウンドというのがあるはずです。私も秋田から関東に出て来て、神奈川県の座間市で洗礼を受けました。いずれは相模原で教会を開拓しようと思っていました。ところが、葛飾区の亀有からお招きが来るとは思ってもみませんでした。大川牧師から「日本基督教団から招聘が来るなんて、めったにないことだから、3年でもいいから行ってみなさい」と言われました。その時は、「私が必要じゃないのか」と悲しく思いましたが、気付いたら35年もたっていました。やっぱり、この亀有の地が、神さまが植えて下さった場所なんだなーと思います。
イエス様には「いつもの場所」がありました。ガリラヤ湖周辺、ペテロの家、ベタニヤのマルタとマリヤの家、そしてマルコ家の二階座敷があったと思われます。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(マタイ8:20)と言われましたが、ご自分の身を横にするための場所はあったと思われます。私たちもこの地上にどんな豪邸があったとしても、それは仮の住まいです。永遠と比べたなら瞬きの一瞬です。それでも、私たちはこの肉体を置く「いつもの場所」が必要なのではないでしょうか?この世の人たちにとって、いつもの場所とは、美人ママのいる飲み屋でしょうか?競輪場や競馬場の人もいるかもしれません。私たちの場合は、教会でしょうか?多くの人たちは、礼拝に来るといつもの場所に座ります。毎週、座る場所を変えるという人はまずいません。その場所が安心するからでしょう。お家でも、食事をするいつもの座席があるでしょう。男性にとっては、書斎があったら申し分ないと思います。女性にとっては台所、お化粧台でしょうか?この会堂が建つ前、赤羽教会の深谷牧師のところの半徹夜祈祷会に参加したことがあります。二年間、通いました。午前1時過ぎに、荒川の土手で賛美したのち、各人ちりぢりになって祈ります。私は水門の近くで毎週、祈りましたが、その場所がなじみの場所になりました。不思議に主の臨在を感じました。「ここが、私の祈り場所だ」という、何か親しみがありました。
自分の活動範囲を表わすことばに、sphereがあります。これは、「丸い球形」ですが、「範囲や領域」という意味もあります。Ⅱコリント10:13「私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行ったことについて、私たちは誇るのです。」英語の聖書では、sphereが2度使われています。使徒パウロはコリントの教会から「限度を超えて誇っている」と言われました。しかし、パウロは「神が割り当ててくれた範囲いっぱいまで働くのだ」と言っています。つまり、コリント教会も神が自分に与えたsphereの中にあるということです。あなたの神さまが与えたsphere活動範囲はどのようなものでしょう?イエス様は「全世界へ出て行って」(マルコ16:15)と言われましたが、それは神があなたに割り当ててくださったところです。イエス様がパレスチナの地で忠実であったように、私たちも割り当てられた場所で一所懸命(一生懸命)に働きたいと思います。
3.人々
マタイ26:36「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに『わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。」ゼベダイの子二人とはヨハネとヤコブのことです。ルカ福音書には書かれていませんが、イエス様はペテロとヨハネとヤコブの3人を連れて、ゲツセマネの奥まったところに行かれて祈られました。変貌山の姿変わりのとき、ヤイロの娘の生き返りのときも、この3人を連れていました。彼らは特別に選ばれた弟子たちです。なぜなら、「二人または、三人の証言よって、すべてのことが立証される」(申命記17:6、マタイ18:16)と書かれているからです。3人の弟子たちはイエス様が祈っている間、眠っていましたが、イエス様のゲツセマネの祈りの内容が記されています。ということは、熟睡していたのではなく、3人のうちのだれかがチラチラと目を覚ましながら、目撃していたということです。だから、イエス様が「この杯を私から過ぎ去らせてください」と祈られたことが聖書に書き記されているのです。イエス様は大勢の人たちに教え、ミニストリーをなさいましたが、12人を弟子として選びました。その目的がここに記されています。マルコ3:14,15「イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」イエス様は限られた公生涯の人生、3年半を12人の弟子たちと一緒に過ごされました。また、その中の3人は証人となるために、もっと近くにおらせました。最も近い存在は、ヨハネだと言われています。ヨハネは自分のことを「イエスが愛しておられた弟子」(ヨハネ13:23)と言っています。ヨハネだけが殉教しなかったと言われていますが、それは「ヨハネの黙示録」を書くためでした。
第三のポイントで言いたいのは「人々」です。イエス様は大勢の人たちに教え、ミニストリーを施しました。福音書には弟子たちの他に個人名が出ている人たちが何名かおられます。マグダラのマリヤ、バルテマイ、ザアカイ、ヤイロ、マルタ、マリヤ、ラザロ…彼らの中には特別に親しかった人たちもいます。残念ながら、パリサイ人や律法学者の名前はニコデモを除いて出て来ません。イエス様はすべての人たちと平等に交わったわけではありません。イエス様の側で仕えていた女性たちを除き、70人の弟子たちを選び、12人を選び、そして3人を選びました。このことは私たちに何を教えているのでしょう?何度か境界線、バウンダリーということを申し上げました。私たちはこの人には全部打ち明けて良いというコアの部分の人たちがいます。その次は、自分を支持してくれる人、あるいは親しい人たちです。その次は知人でありたまに会う人たちです。最も外側には、自分を訴えるパリサイ人や律法学者たちのような人たちがいます。
ヨハネ2章の後半にこのようなことばがあります。ヨハネ2:23-25「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。」多くの人たちがイエス様のことを信じました。とろが、イエス様ご自身は、彼らに自分をお任せになりませんでした。イエス様は超自然的に、人々の心の内を知ることができたからです。「任せる」はギリシャ語でピィスチュオーであり、「信じる」という意味です。他に「任せる、委託する」という意味もあります。英語の聖書はcommitです。コミットは日本語にもなっていますが、非常に訳しづらいことばです。「人の世話などに任せる」「のっぴきならぬ立場に置く」という意味です。つまり、全面的にその人を信頼して任せる、身を委ねるということです。私たちがキリストを信じるというとき、そういうことも含まれるのだと思うと感動します。でも、イエス様ご自身も、私たちに対して「この人に自分を任せて良いのだろうか?」ということもお考えになっているということです。私たちはだれにでも、自分のことを任せてはいけません。この人が本当に信頼のおける人かどうか知る必要があります。でも、12弟子の中に、やがては自分を裏切ることを知っていたユダをも置いていたということは、理解に苦しみます。
私たちは血の繋がりがあるかどうかで、親しさの優先順位を決めるところがあります。それは日本人だけではなく、ユダヤ人も同じでした。でも、イエス様はそうではありません。マルコ3:33-35「すると、イエスは彼らに答えて『わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか』と言われた。そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。』」イエス様は血のつながりという人間的なものを親しさの基準にしていませんでした。「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです」と言われました。つまり、イエス様が、ご自身を任せる人というのは、真に神さまを愛し、神さまのみこころを行なう人だということです。この世では、自分の考えに同意し、自分を好きな人をそばに置きたいと願うかもしれません。しかし、それもあてにしてはいけません。箴言27:5,6「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するより良い。愛する者が傷つけるのは誠実による。憎む者は多くの口づけでもてなす。」イエスマンだけを起きたいという誘惑がありますが、真実を語ってくれる人を自分のそばに置く必要があるということです。私の家内は、はっきり言うので、とても嫌ですが、当っているのかもしれません。現代はインターネットやスマートフォンが人との繋がりを広げています。ある人が「私には1000人も友達がいる」と言っていました。でも、自分の本心を打ち明けられる親しい友が何人いるのでしょうか?イエス様ですら3人でした。私たちもそれくらいなのではないでしょうか?2つのみことばを引用して終えたいと思います。ヨハネ15:13「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」Ⅰヨハネ3:16「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」イエス様のように良い習慣を身につけて、天に召されるその日まで、平安の内を歩んで行きたいと思います。