2022.7.10「拒絶の克服 イザヤ53:1-5」

内面の傷の癒しは身体の傷を癒すのと同じくらい重要です。もし、人が自分の手を切ったなら、急いで洗浄し、手当をしなければなりません。なぜでしょう?その傷が化膿する可能性があることを知っているからです。人が拒絶によって傷を受けたなら、不快感を与えた相手を赦さなければなりません。さもなければ、時間の経過とともに、汚れた霊が傷口から入り、「汚れ」と呼ばれる霊的な感染の原因となります。きょうは、フランク・ハーモンド著“overcoming rejection”『拒絶の克服を参考にしながら、メッセージをさせていただきます。

1.拒絶の傷をもたらすもの

フランク・ハーモンド師はさきほどの著書で、拒絶についてこのように述べています。「拒絶は根本的な問題です。拒絶は最も無視されており、最も一般的な傷です。拒絶とそれに結びついているトラウマや傷を直ちに確認できないので、僅かな人しかカウンセリを受けません。拒絶は愛の否定からくるものです。私たちは愛が必要であり、是認され、受け入られることが必要です。私たちが拒絶されたときは、愛されていない、否定された、除外されたと感じるのです。私たちが持っている愛と尊敬を否定されたり、他の場所へ追放されるとき、拒絶の傷が起ります。その傷は壊れやすい感覚、避けたい感覚、足蹴にされる感覚を創ります。また、拒絶の傷は他の人の意見や行動によって虐待されるときにも創られます。そこには、私たちの存在の無視、否定、見捨てられ、独りにさせられるという良くない感覚が含まれます。拒絶は心に対する刃物のようなものです。安寧の(満足のいく)感覚に、傷をもたらします。言い換えると、「自身」を切り刻むのです。「自身」が傷つけられると、異状さが生じてしまいます。例えば、傷ついた心は防衛的になり、警戒態勢を敷きます。これは支えられていない状態であり、私たちの態度や感情に様々な不安定さをもたらします。拒絶のストレスから来た感情が肉体の病気(虚弱)に現れたりもします。拒絶が私たちの心に食い込むと、悪霊たちが忍び込み、拒絶の傷によってできたトラウマにさらに苦しみを加えます。」フランク・ハーモンド師は、成育史における拒絶についてこのように述べています。

第一は、胎児のときからすでに拒絶を受けています。人がまだ母親の胎内にいたときに悪霊が入ったことを発見することは珍しいことではありません。両親が子供の妊娠を非常に拒否するとき、拒絶の悪霊は入る理由を見つけるかもしれません。なぜ赤ちゃんは胎児の時から拒絶されるのでしょうか?一つには、子供は、愛ではなく欲望で妊娠するかもしれません。淫行や姦淫で子供を妊娠する男女は、子供を妊娠するためではなく、性的欲求を満たそうとしています。望まない妊娠は、彼らの抑制されていない欲望の結果です。非嫡出(ひちゃくしゅつ)に妊娠した赤ちゃんが求められ、愛されることはほとんどありません。子供は人生の初めにしばしば拒絶されます。一部の胎児は、次のような理由で拒絶されます。①結婚後まもなく妊娠した、②前の子供の誕生の直後に妊娠した、③経済的な負担がかかる状況で妊娠した、④親たちの軋轢、離婚の危機に瀕している状況で妊娠した。⑤中絶の企てまたは試み。

第二は、出産後に拒絶を受けることがあります。①間違った性別の先入観。子供は生まれるまではとても欲しくてたまらないかもしれません。起こりうることですが、両親は男の子を望んで女の子を産むこともあれば、女の子を望んで男の子を産むこともあります。子供の性別の好みは、親によっては深刻な問題です。しかし、いくら個人的な好みが強かったとしても、神があらかじめ決めたことであり、子供には変える力がなかったことを理由に子供を拒絶するのは愚かなことです。②体に問題を抱えて生まれてきた子供への拒絶。③養子縁組された子どもたち。本来の産みの親に捨てられたことで、本人が知っているかどうかに関わらず、多感な性格に深刻な影響を与えることになります。④孤児たち。両親のどちらか、または両方が亡くなると、子どもの幼い人格に傷がつくことがあります。⑤離婚もまた、子どもの人生を破壊する要因のひとつです。⑥兄弟間のライバル関係。家族が増えてくると、上の兄弟は親の注意を引くために年下の弟や妹と競争しなければならないことがよくあります。

第三は、虐待の被害者としての子供がいます。アメリカの刑務所では、受刑者の多くが子供の頃に虐待を受けていたという事実がよく知られています。ある連邦刑務所で行われた調査では、男性の100%が子供の頃に虐待を受けていたという結果が出ています。この統計は、人生の形成期における虐待がもたらす恐ろしい結果を反映しています。①言葉の暴力。優しい言葉や励ましの言葉を聞くことが少ない子どもたちがいます。叱られたり、馬鹿にされたり、罵られたり、からかわれたりします。親が言ったことを覚えているのは、「お前なんか生まれてこなければよかった。お前は何も正しいことができない。お前は何の役にも立たない。お前はバカだ。お前なんか死んでしまえばいいのに」。②身体的虐待。児童虐待というものがあり、いかなる理由であれ、児童への虐待を容認したり、擁護したりしてはなりません。③性的虐待。アメリカでは、女性の4人に1人、男性の8人に1人が性的虐待の被害者です。小児愛、ソドミー、近親相姦、レイプのことです。性的虐待は、被害者の人格を極度に不安定にします。これらの傷は通常、抑圧され、心の奥底に埋もれてしまいます。これは、敵が事件に関する恥を被害者に負わせようとするからです。さらに、性的虐待の多くのケースは、近親者や家族の友人によって行われます。家族に恥をかかせることを隠すために、この問題はもみ消されたり、虐待を受けた子供が犯人を暴露したら報復されると脅されて口止めされたりします。それでも、何らかの形でその影響は表面化します。悪魔は、子供たちにますます多くの害をもたらすために、日夜働いています。

第四、大人になってからの拒絶反応。①同僚からの拒絶反応、②結婚の拒絶、別居や離婚をすると、必ずと言っていいほど拒絶反応が起こります。神が結びつけた者は、何らかの引き裂きがなければ引き離すことはできません。人生における最悪のトラウマのいくつかは、離婚に伴う傷によってもたらされます。結婚相手が不貞を働いたということは、相手を捨てて別の相手を選んだということです。不貞行為によって結婚の契約が破られたとき、その傷は実際には愛の裏切りとなります。それは深遠な拒絶の形です。結婚生活の中で一方の配偶者が他方の配偶者を見捨てた場合、それは放棄となります。③教会関連の拒絶反応、互いに愛し合うべき二人の人間がいるとすれば、それは同胞であるべきです。それにもかかわらず、多くのクリスチャンが牧師によって傷つき、牧師が群れによって傷ついています。教会のメンバーは、しばしばお互いに「噛みつき、食い尽くす」(ガラテヤ5:15)ことがあります。

このように考えると私たちはこの世に生を受けたときから、「拒絶」にさらされています。でも、重要なことはそれに対する反応です。私たちはアダム以来の罪が宿っているので、どうしても罪深い反応をしてしまうのです。さらには、悪魔がその傷に入り込んで悪さをします。

 

2.拒絶されたときの反応

 神さまが拒絶に対して提供する唯一の解決策は「赦し」です。神さまは人が私たちに対して罪を犯したときには、「その人を赦すように」と言われています。マルコ11:25「また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」しかし、赤ちゃんや小さな子供は、自分を拒絶する人に対して赦しを行使することができません。幼児や小さな子供は、悪魔の攻撃から自分を守ることができないので、神さまは両親を保護者として任命しました。狡猾な悪魔は、子供たちが無防備になるような親の怠慢や失敗をすぐに利用します。悪魔は拒絶の傷や痛みを利用して、悪霊を送り込み、被害者をさらに悩ませようとします。フランク・ハーモンド師は、拒絶されたときの不健全な反応を「悪魔の木」にたとえています。悪魔の木は、自然の木と同じように、根、幹、枝からなっています。今から代表的なものを4つあげたいと思います。

反応の第一番目、悪魔の木の根の部分として代表的なものは反抗心です。1960年代後半から1970年代前半にかけて、ヒッピー運動が盛り上がっていました。ヒッピーの特徴は、反抗的であることでした。彼らはあらゆる有効な権威に反対しました。問題を抱えた若者たちの硬直した外見を剥がしていくと、権威への憎しみの下には、常に拒絶の傷があることが分かりました。拒絶感は、現実のものであれ、認識されたものであれ、反抗の根源であることが多いのです。反抗心は、敵が私たちの中に育てようとしている木の根っこです。ハーモンド師ご夫妻は、「ヒッピー」と呼ばれる若者たちは、愛されていないことがわかりました。彼らのほとんどは、親から深刻な拒絶を受けていました。ヒッピーたちは「親が自分たちを愛していない。生活の指導やしつけをする気もない」と訴える者もいました。そのため、ヒッピーの権威に対する態度は、「大人が私たちを愛していなのに、なぜ私たちは彼らを尊敬しなければならないのか」というものになりました。家庭内での規律や監督の欠如は、彼らの心の中では、尊敬や愛情の欠如につながっていたのです。反抗心は様々な形で外に表れます。ヒッピーたちは、髪の毛を伸ばしたり、体を洗わなかったりすることで、反抗心を表現していました。彼らは社会的な規範に抵抗したのです。彼らの反抗心は、ドラッグ(特にマリファナ)やアルコールの使用、そして恥ずかしげもなく姦淫することでも表現されました。結婚の神聖さは否定され、ヒッピーの少年少女たちは「同棲」していました。それは「自由恋愛」と呼ばれていましたが、実際には無法状態であり、彼らを悪魔の束縛へと深く導いてしまいました。反抗心は決してヒッピーに限ったものではありません。最高位の人から最低位の人まで、あらゆる人の心の中に反抗心があるのです。私たちは、反抗が神の目には罪であることを理解しなければなりません。ルシファーが神の座を奪おうとしたとき、反抗が始まったと言われています。

反応の第二番目、悪魔の木の幹の部分で代表的なものは苦々しさです。苦々しさとは、言い換えると、恨みや憎しみのことです。ヘブル12:15「だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。」「苦い根」は、英語の詳訳聖書には、「憤り、深い恨み、憎しみ」と訳されています。自分を拒絶した者に対して、恨みや憎しみを持つのは罪ある人間が持つ当然の反応と言えるでしょう。イエス様はマタイ18章で「七回を七十倍するまで赦しなさい」とお命じになられました。もし、人を赦さないなら、獄吏たちに引き渡すとも言われました。獄吏とは「拷問に掛ける者」であり、それは悪霊の力に支配されるということです。赦さないことは、悪魔が私たちの魂の敷居をまたぐための法的根拠を与えることになります。赦さないことによってもたらされる呪いから逃れる唯一の方法は、神への悔い改めと、赦すべき人を赦すということです。苦々しさは庭の雑草のようなものです。庭に侵入する雑草に「不注意な雑草」というものがあります。最初に現れたときは、指先で簡単に摘み取ることができます。しかし、「不注意な雑草」は成長が早く、数日後には2mのトウモロコシの茎よりも背が高くなります。記憶想起という悪霊がいます。これは、私たちの中にある傷やトラウマを生かしておくもので、過去の過ちにこだわる心の中に多く存在します。この悪魔は、過去の傷ついた記憶を生きたままにすることで、被害者を苦しめます。その人は頭の中でビデオループのように痛みのシーンを継続的に見直していることに気づきます。いくつかの傷は内在化され、何年も持ち続けられます。これらの傷は、私たちが接する人々に対する怒り、短気、欲求不満、過剰反応の火をつける役割を果たします。これらの反応は、私たちが未来に持ち越す過去のお荷物です。イエス様は、私たちが荷物を捨てることを望んでおられます。私たちに代わって荷物を運んで下さる、イエス様に重荷をゆだねるべきです。

反応の第三番目、悪魔の木の太い枝は防衛心理です。太い枝は、「攻撃的な枝」とも呼ばれています。拒絶から良く伸びる最初の「攻撃的な枝」は、防衛心理です。防衛的な人は、周りの人に噛みつきます。もしあなたのペットが怪我をしていたら、あなたはそのペットに触れることに慎重になるでしょう。痛みや恐怖であなたを噛んでしまうかもしれません。傷ついた人は噛みつくかもしれません。内面的に傷ついた人は、敏感で防御的になる可能性があります。防御的な人は、悪には悪を返しますが、場合によっては、善にも悪を返します。また、防御心理は人をさばくことで現れます。さばき心とは、「自分を傷つけた人を裁く」、「自分を裁いた人を裁く」という立場です。また、「相手が自分を裁く前に、相手を裁く」という傷ついた心に拍車をかけます。他のことばで言うと先制攻撃です。さばき心は、さらなる被害から自分を守ろうとする無益な試みであり、安心感を与える代わりに、他人からの報復を招きます。それは、拒絶反応の餌となり、さらに大きな心の傷を作ってしまうのです。だからこそ、イエス様は私たちに注意を促しているのです。マタイ7:1-2「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」さばき心は、自分の欠点に目をつぶります。そして、他人の欠点しか見えないような人になってしまうのです。イエス様は、このことを「ちりと梁」のレッスンで教えています。兄弟の目からちりを取り除くためには、まず自分の目から梁を取り除かなければなりません。イエス様は、人がこのような行動を起こす原因をよく知っておられました。また、さばき心のある人は、自分の欠点を他人に転嫁する傾向があります。これは、サタンの道具箱の中の一般的な道具で、投影と呼ばれる拒絶の木の別の枝になります。姉妹方から、牧師が「なってない」と非難されるときが多々あります。多くの場合、その人の父親が独裁的かあるいはいい加減であり、父親的な牧師をさばきたくなるのです。それは明らかに投影であり、サタンが用いる道具の1つです。

反応の第四番目、悪魔の木の細い枝は内向的でひきこもりがちになることです。そのような枝の一つが自己憐憫です。自己憐憫とは、自分が不公平であるという考えに浸ることを許し、それによって自分が完全に惨めになり、取りつかれてしまう苦悩の一形態です。これは、御霊の良い実、特に内なる喜びと平安の実を破壊するパターンです。機会があれば、誰もが自己憐憫の罠に陥る可能性があります。なぜなら、誰もが人生において問題を抱えているからです。しかし、これらのことにあまり影響されず、神の愛と神の平安の中で安定している人もいます。それはどのようにしているのでしょうか?それは、人生のある時点で、自己憐憫と戦うことを意識的に決断したからです。自己憐憫が現実には底なし沼であることを知っていて、それに陥らないようにしているのです。最初は、このサタンの誘いに積極的に立ち向かう必要があるかもしれませんが、しばらくすると、自己憐憫に抵抗することが自然にできるようになり、あまり考えたり抵抗したりする必要がなくなります。このようにして、人生のトラブルに対する健全な反応パターンを確立することができるのです。私たちよりもはるかに悪い状況に置かれている人たちがいることを思い出すことで、私たちの状況は神への感謝の形に変わります。感謝の態度は、悪魔の霊にとって酸素のない部屋のようなものです。

ここまで、拒絶されたときの代表的な反応を紹介してきました。これらの反応は、いずれも神の助言から逸脱したものであり、神が私たちをどのようにお造りになったかを歪めてしまうことになります。神が定めた方法を逸脱するということは、人生における良いもの、健康なものを見失ってしまうということです。要するに、的外れなことをしているのです。

3.拒絶の克服

きょうは詳しく述べませんが、拒絶に対して、間違った対処があります。それは自分の人格を無理に変えるということです。フランク・ハーモンド師は「拒絶された時の人格の調製」と題して、8つ上げています。完璧主義、誤った思いやりと責任感、過度の動物との関わり、様々な種類の欲望、プライドと自己アピール、パーソナリティ調整、注目を集める策略、他人のコントロールの8つです。拒絶された傷に対するこれらの調整は、心の痛みを和らげようとしたり、人生における必要性を満たすために新たな人格を見つけようとする、肉的な共通の努力を表わします。真の愛に照らし合わせてみると、これらの調整はどれも不十分であり、偽りの希望を提供することしかできないことがわかります。このような人格の変化は、私たちの心や魂、さらには神との関係にも悪影響を及ぼします。私たちの本当の姿をゆがめ、周囲の人間関係をさらに壊してしまうのです。

イエス様がこの地上に来られた目的がイザヤ61章に記されています。「心の傷ついた者を癒やすため」とは、「内面の傷」のことを表しています。また「捕らわれ人には解放を」は、「虐待されている人を自由にするため」という意味です。つまり「傷ついた人」の必要は、癒しと解放であり、イエス様がそのように虐待された人を自由にするために来られたのです。イエスさまは拒絶の傷に苦しんでいる人を深く思いやり、また、そこから解放してくださる救い主です。なぜなら、イエス様は神の子であられるのに、最もひどい拒絶を人々から受けたからです。イザヤ53:4「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」福音書を読むと分かりますが、ナザレの人たちはイエス様を「この人は大工ではないか」と拒絶しました。イエスさまは不当な扱いをたくさん受けられましたが、父なる神の愛のもとで安定しておられました。Ⅰペテロ2:22-24「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」イエス様は十字架の上で「終わった」と言われました。そのイエス様が、あなたの拒絶の傷を癒してくださいます。イエス様は、悪魔の牢獄からあなたを連れ出し、神さまと人々との和解を与えてくださいます。解放を受けるために、あなたが第一にすべきことは、自分を拒絶した人たちを赦すことです。イエス様も「父よ。彼らをお赦し下さい」と自分を殺す者たちのために祈られました。自分を怒らせた人たちを赦しましょう。そうすれば、自分の中にある毒や汚れが取り除かれ、神のきよめと天の義のシャワーで洗ってくださいます。「主イエス様。あなたが神の子であることを信じています。あなたが地上に来られたとき、あなたは敵のすべての力に勝利しました。あなたは私の罪のために、進んで十字架で死んでくださり、悪魔の汚れからの完全な救いを成し遂げて下さいました。私は自分の過去をあなたに明け渡します。」