きょうは妥協と自己満足からどのように脱却することができるか共に学びたいと思います。日本のキリスト教会はクリスチャンが1%未満であり、なかなか教会が成長しません。礼拝に集まっている人も少ないので、牧師たちはどうしても妥協と自己満足に陥ってしまうところがあります。また、私たちの個人個人の生活においても、不景気が続くと気持ちが低迷し、「これくらいで良い」と基準を下げてしまうかもしれません。きょうは旧約聖書の士師記からギデオンという人物を取り上げて学びたいと思います。
1.ギデオンの召命
イスラエルの民はヨシュアをリーダーとして約束の地であるカナンを占領しました。しかし、ヨシュアの死後、民たちは妥協し先住民を追い払おうとはせず、むしろ一緒に住み、彼らと結婚までしてしまいました。その結果、彼らが拝んでいた偶像をも拝むようになってしまったのです。士師記6:1-6「イスラエルの子らは、主の目に悪であることを行った。そこで、主は七年の間、彼らをミディアン人の手に渡された。ミディアン人の勢力がイスラエルに対して強くなったので、イスラエル人はミディアン人を避けて、山々にある洞窟や洞穴や要害を自分たちのものとした。イスラエルが種を蒔くと、いつもミディアン人、アマレク人、そして東方の人々が上って来て、彼らを襲った。彼らはイスラエル人に向かって陣を敷き、その地の産物をガザに至るまで荒らして、いのちをつなぐ糧も、羊も牛もろばもイスラエルに残さなかった。」その当時、イスラエルの宿敵はミディアン人とアマレク人でありました。彼らは収穫物や家畜を全部奪って、少しも残しませんでした。あまりにも襲撃が激しいので、イスラエルの民は罪を悔い改め、主に叫び求めました。すると、主は士師と呼ばれる指導者を立てました。そして、その指導者が敵を追い払うというのが士師記のパターンです。罪→外敵によるさばき→叫び→士師による救助となっています。イスラエルはデボラとバラクによって、40年間、平穏な生活を享受できていました。しかし、彼らと闘おうとはせず、だんだん妥協していきました。しまいには、彼らの神さまも拝むようになっていたのです。だから、主からのさばきがミディアン人によってもたらされたのです。
このところではギデオンが士師として立てられます。士師記6章11節以降にギデオンの召命が記されています。一体、ギデオンはどういう人だったでしょうか?ギデオンは地下に隠れ、ぶどうの踏み場で、小麦を打っていました。ミディアン人を恐れていたからです。そのとき、主が現れてこう言いました。「力ある勇士よ。主があなたと共におられます」。その言葉を聞いたとき、ギデオンは「一体、だれのことを言っているのだろう?」と耳を疑いました。ギデオンは「私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです」と言い訳をしました。つまり、一番弱くて小さい者が何をできるかということです。しかし、主は「私はあなたと共にいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ」と言われました。ギデオンはそのあと、いくつか「しるし」を求めた後、ようやく立ち上がります。最初に何をしたでしょうか?主のために祭壇を築きました。でも、その場所にはバアルの祭壇もありました。イスラエルの民は、カナンの農穣神、バアルを拝み、祭壇を築いていたのです。何という背信でしょう。主のための祭壇の方は壊れているではありませんか。ギデオンは、主から命じられ、バアルの祭壇を壊し、主の祭壇を築きました。その祭壇に全焼のささげ物をささげるわけですが、その薪は、アシュエラ像を切り倒した木であります。本来なら昼やるべきところを、ギデオンは仲間たちを連れて、夜、密かに行いました。朝起きて、それを見た町の人たちはどう思ったでしょう?士師記6:29-30「そこで、彼らは互いに言った。『だれがこのようなことをしたのか。』彼らは調べて尋ね回り、『ヨアシュの子ギデオンがこれをしたのだ』と言った。町の人々はヨアシュに言った。『おまえの息子を引っ張り出して殺せ。あれはバアルの祭壇を打ち壊し、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。』」なんというていたらくな!主のために祭壇を築いたのに、バアルの祭壇を打ちこわし、アシェラ像を切り倒したことを咎めたのです。しかも、人々は「お前の息子を引っ張り出して殺せ」とまで言いました。ありえないことです。彼らはそれほど、偶像礼拝に染まっていたのです。
でも、ここにすばらしいことが記されています。ギデオンに新しい名前が与えられました。「エルバアル」です。これは、「バアルは争う」あるいは「バアルが争え」という意味です。なぜなら、「バアルが神であるなら、自分の祭壇が打ち壊されたのだから、自分で争えば良いのだ」とギデオンが言ったからです。つまり、「偶像の神が果たして、人間を滅ぼすことができるだろうか?やれるものなら、やってみろ!」ということです。「バアルは私と争うのか?」「エルバアル?」これが、ギデオンの別名になりました。まさしく、ギデオンはルターのような宗教改革者でありました。ルターはローマカトリック教会から「抗議する者、プロテスタント」と呼ばれ破門されました。ルターは開き直り、「ああ、それで結構、私たちはプロテスタントだ」と言ったのです。それが、私たちの教会の流れです。新聖書注解書にこのように書いてありました。「ギデオンの名がエルバアルになった。それはかくかくしかじかの理由である」という話は、テレビや新聞のない時代に、口コミで全イスラエルに広がり、ミデヤン人やアマレク人から身を隠していた人々の心をゆさぶって、決起ののろしを上げさせる引き金となった。…と書いてありました。
このところから私たちが学ぶべきこととは何でしょうか?この箇所は、「妥協と自己満足からの脱却」について教えているのではないかと思います。日本のキリスト教会、ありは終末に住む私たちクリスチャンの状態を指しています。ラオデキアの教会は妥協と自己満足の教会を象徴しています。主は「熱くもなく冷たくもないので、私は口からあなたを吐き出す」(黙示録3:16)と言われました。まさしく、これはギデオンがいたころのイスラエルの姿でした。ミディアン人とかアマレク人は悪魔と悪霊を象徴しています。彼らに作物や家畜を奪われているのに、立ち向かう勇気もありませんでした。しかも、争いを避けるために、彼らの神さままで拝んでいました。妥協と自己満足の信仰生活から脱却するため、3つのことを学ぶことができます。第一は、自分がだれであるか知るということです。主の使いはギデオンに「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる」と言いました。口語訳は「大勇士よ」となっています。こちらの方が響きが良いです。ギデオンは敵を恐れて地下にかくれて麦を打っていました。そのように言われても、「私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです」と答えました。私たちも自分の生まれや育ちのせいにします。過去の不条理やトラウマをひきずって生きています。心の癒しやカウンセリングも必要ですが、そろそろ逆転勝利して未来を生きるべきでしょう。自分の評価は小さい者かもしれませんが、神さまのあなたに対する評価は「大勇士」です。第二は祭壇を築き直すということです。ギデオンはその前に、バアルの祭壇を取り壊し、そのそばにあるアシェラ像を切り倒しました。これは、あなたが神さまよりも大事にしているものです。仕事、趣味、家族、人々、それらは悪いものではありません。でも、いつもそれらのことで思いがいっぱいであるなら、偶像と同じです。神の国とその義を第一に求めることによって、仕事、趣味、家族、人々が生きてくるのです。そして、祭壇を築くとは、神さまを礼拝し、神さまに自分自身をささげるということです。ギデオンがした全焼のささげものとは、私たちの献身を意味します。祭壇には個人、家庭、教会の3つがあります。個人の祭壇とはディボーションです。家庭の祭壇とは夫婦や子供たちと心を合わせて祈ることです。教会の祭壇とは、公の礼拝を守るということです。言い換えるとそれは、妥協と自己満足を悔い改めることです。
そして、第三は「エルバアル」です。悪魔と争う者です。ヨハネ10章に「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません」と書かれています。イスラエルはミディアン人とアマレク人に作物や家畜を奪われていました。彼らに立ち向かおうとせず、彼らを恐れ隠れて生活していました。私たちクリスチャンも悪魔から良きものを盗まれているのは、悪魔に立ち向かわないからです。ヤコブは「神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります」(ヤコブ4:7)と言いました。私たちは「エルバアル」です。悪魔になめられてはいけません。私たちはキリストにあってすでに勝利者です。イエス様は「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」とおっしゃいました。本当の豊かさとは、この世のもので満たされることではありません。この世のものも確かに必要ですが、私たちは御国の豊かさ、御国の喜び、御国のいのちで満たされる必要があります。そうすれば、この世のものはそんなに欲しくなくなります。キリストにあって満ち足りることができるからです。キリストにある満足というのは、自己満足とは違います。自己満足は例えて言うと、ため池の水です。よどんだ水はすぐ腐ってしまいます。しかし、キリストにある満足は、心から湧き出る泉のようでいつも新鮮です。内側から湧き上がっては流れ、湧き上がっては流れていくからです。私たちは昨日のことで満足してはいけません。たえず新しいみことば、新しい恵み、新しい体験を求めていく必要があります。哀歌3章に「主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は偉大です」と書いてあります。パウロのようにうしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、賞をいただくために目標を目指して走りましょう。
2.ギデオンの戦い
後半は個人の問題というよりも、日本の教会が妥協と自己満足からどのように脱却すべきかということを学びたいと思います。私が救われた頃、1970年代は韓国にリバイバルが起きていました。私や家内も数回、韓国の教会成長セミナーに出かけました。それからまもなく、アルゼンチンにリバイバルが起り、日本の牧師たちが地球の裏側まで行き、聖霊によって倒れる経験をしました。まもなく、悪霊追い出しとか霊的戦いが超教派で行われることになりました。同時に、北米のロスアンゼルス、トロント、ペンサコーラなどにもリバイバルが起り、日本にもたくさんの伝道者が来られました。保守的な教会では教会成長やチャーチプランティングをし始めました。なんとか教会を大きくしよう、教会をたくさん作ろうという運動です。その後は、心の癒しや解放、弟子訓練、セルチャーチムーブメントが起り、今に至っています。日本は開国以来、全世界から宣教師たちが送られてきていますが、クリスチャンの比率は、相変わらず、人口の1%未満です。最近は「一千万救霊」「教会成長」「リバイバル」という声も聞かれなくなりました。40,50年前はキリスト教の本がものすごく出版されました。しかし、最近は本が新たに出版されなくなり、復刻版がオンデマンドで印刷されています。それだけ、本を読む人が少なくなってしまったということでしょう。幸い、私は英語の本を読むようになったので、日本語に訳されていない本をたくさん読むことができて感謝です。新型コロナウィルスが蔓延している中で、原書で読むことができて、すばらしい霊的充電の時となりました(この原稿は、2021年3月19日作成)。単立教会の一牧師が偉そうなことを言うかもしれませんが、今、日本の教会は妥協と自己満足に陥っているのではないかと思います。日本ばかりではなく、それは韓国、アメリカ、ヨーロッパの教会にも言えることでしょう。まさしく、世の終わりは「熱くも冷たくもない、なまぬるい」ラオデキヤのような教会になるということです。
テキストに戻りたいと思いますが、その後、ギデオンはどうしたでしょう?ギデオンのもとにいくつかの部族が集まってきました。ギデオンがどのように戦ったかが士師記7章に記されています。ギデオンと共にいた兵士は3万2千人いました。しかし、ミディアン人やアマレク人、すべての民は海辺の砂のように多くて数えきれませんでした(民数記7:12)。3万2千人でも少ないのに、主は「恐れおののく者は帰れ」と言いました。すると2万2千人が帰って行き、1万人が残りました。主はギデオンに「兵はまだ多すぎる。これこれのことをせよ」と命じました。兵士たちは言われたとおり、水辺に下って水を飲みました。すると主がギデオンに「手で口に水を運んですすった者だけをとっておけ」と言いました。なんと、9700人は膝をついて水を飲んだからです。つまり、それは敵を前にして、油断している姿です。手で口に水を運んですするとは、alert油断のない、用心深い姿を現しています。そうやって飲んだ人は300人でした。3万2千人が1万になり、最後に残されたのはたったの300人でした。ギデオンの顔は青ざめていたことでしょう。その理由は「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、主にむかって誇るといけないからだ」ということです。聖書を配布する信徒団体の名前は、この「ギデオンの300人の勇士」から来ています。
では、彼らは少人数でどのようにして戦ったのでしょうか?士師記7:15,20「彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛と空の壺を持たせ、その壺の中にたいまつを入れさせて、…三隊の者が角笛を吹き鳴らして、壺を打ち砕き、左手にたいまつを、右手に吹き鳴らす角笛を固く握って『主のため、ギデオンのための剣』と叫んだ。」敵の陣営に、どのようなことが起きたのでしょう?真夜中、大声とともに四方からたいまつの火が見えます。大勢の人たちに囲まれていると思ったのでしょう。彼らはあわてて走り回り、同士討ちを始めました。ギデオンの精兵は、ミディアン人を追撃し、首長たちを殺しました。何と、12万人以上の敵が倒され、大勝利に終わりました。人々は「あなたも、あなたの子も、あなたの孫も私たちを治めてください」と集まってお願いしました。ギデオンは「私はあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます」(士師記8:23)と断りました。ここで終わって入れば良いのですが、ギデオンは分捕った金の耳輪をいただくことにしました。その他に赤紫の衣や首飾りもありました。ギデオンはそれでエポデを作り、それを安置しました。イスラエルはみなそれを慕って、そこで淫行を行ないました。それはギデオンとその一族とに罠になったと書かれています(士師記8:27)。ミディアン人は滅ぼされ、ギデオンの時代、40年間穏やかでありました。めでたし、めでたしです。
私たちはこのところから、日本の教会に対して3つの教訓を得ることができます。第一は、数の多さではないということです。「3年で100名礼拝を」と言った私の言い訳みたいに聞こえるかもしれません。私がこの教会に赴任した当時、「一千万人救霊」とか「人口の10%がクリスチャンなるように」というスローガン的なものが言われました。何故かと言うと、そのくらいの人数にならないと政治に対しても影響力がないと考えたからです。ある宗教団体は、信者が一千万人位いて、政党まで作っています。「キリスト教会もそのくらいにならなければ、いつまでもマイノリティでは仕方がない」という風潮がありました。確かに韓国ではクリスチャン人口が20-30%で政治や経済界、芸能界にまで影響を与えました。しかし、「数だけ追い求めても良いのだろうか?」という疑問もありました。アフリカの各地にリバイバルが起りました。しかし、ケニアは98%がクリスチャンなのに、政治がとても堕落しています。部族同士の争いが絶えません。救われてはいても、考えが変わっていないのです。数だけ多ければ良いと言うのは、この世の考えです。イエス様は12人を選び、初代教会は120人から始まりました。パウロがこのように言っています。エペソ4:12「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」整えるというのは、人格的な意味ではありません。英語では、equipping「武器を持たせる」という意味です。兵士は素手では戦えません。イエス様は弟子たちに力と権威を与えました。それは、福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出すためです。それは今日も同じです。私たちはめぐまれた信仰生活を送りながら、かつ、このすばらしいキリストの福音を一人でも多くの人に伝えるのです。救うのは神さまであり、伝えるのは私たちです。私たちは一人一人は主の兵士であることを忘れてはなりません。
第二は方法論ではないということです。日本の福音派は、アメリカの大教会のやり方を真似ようとしました。彼らのノウハウをそのままいただき、マニュアル化しました。聖書には信徒が羊であるというイラストレーションがあります。教会は羊を飼うのですが、牧師は1つの群れではなく、複数の農場主になれというのです。こじんまりとした家庭的な教会から、大教会になるためにはこうしなければ、ああしなければと教えられました。市場調査をし、計画をたて、人々を動員し、右肩上がりの教会成長を目指しました。ところが、そのように成長した教会は一部で、なかなかそのようにはなりませんでした。リバイバルが起っている教会では、聖霊が働いていますので、どんなやり方でも人が増えます。しかし、聖霊の力がないのに、いくら頑張っても、最後は、燃え尽きるだけです。しまいには、日本が悪い、自分が遣わされているところが悪いと諦めてしまいます。ギデオンが戦った方法はとても単純です。壺にたいまつを入れ、敵陣を取り囲みます。三隊の者が角笛を吹き鳴らして、壺を打ち砕き、たいまつをかざして「主のため、ギデオンの剣のため」と叫びました。そうすると、敵は驚いて、同士討ちを始め、勝手に滅んでいったのです。大事なことがこのところに書かれています。主はギデオンに「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから」と言われした(士師7:9)。つまり、どんな方法であっても、主が戦ってくださるということです。方法論は二の次だということです。
第三は人をあがめてはいけないということです。イスラエルは勝利したあと、ギデオンのエポデを礼拝しました。おそらく、「このエポデがある限り、イスラエルは安泰だ」と思ったのでしょう。歴史においてキリスト教会に革命をもたらした偉人がたくさんいます。その結果、自分たちの教会や教団名に彼らの名前をつけ、彼らの神学を踏襲しています。神さまがその時代、彼らを立てて、リバイバルを起こしました。それはそれですばらしいことですが、だからと言って、その時の信条や教理を金科玉条にしてはいけません。ギデオンは宗教改革をしましたが、人々はそこにあぐらをかいてしまいました。宗教改革は一回限りではなく、何度もしなければなりません。この世でいるとどうしても、妥協と自己満足という誘惑に陥ってしまうからです。今の日本の霊的状態は荒野かもしれません。かつては、雲の柱と火の柱がイスラエルの民を導きました。雲の柱と火の柱は聖霊を象徴しています。日本にも聖霊が当然、働いておられます。また、イスラエルの民が歩いたその下には、水脈があったと言われています。その証拠に、モーセが杖で岩を打つと水が出ました。日本の状況も、地下に水脈があり、ところどころに泉が湧いています。オアシスもあります。リバイバルとは、エゼキエル書にあるような泳げるような川でしょう。今の教会は荒野を行進しているようなものかもしれません。でも、聖書は「荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れる」(イザヤ35:6)と約束しています。終わりの時代、恵みの大雨が降り、砂漠にどっと川が流れますように。その時は、死んでいた魂がどっと生き返ることでしょう。