李光雨師は「新しいライフ・ステージ」のためにカウンセリングをしておられます。その基本になっているのが、認知行動療法です。しかし、李光雨師はいつくか独特な表現を用いて、ミニストリーをしておられます。きょうはその中の「埋め合わせ解決・対処行動」と「サポート資源」ということを学びたいと思います。簡単にいうと、悪循環パターを変えるためには、考え方を変えなければならないのに、安易な解決策を取るということです。カウンセリングに来られている多くの方は、「私は変えられたくないが、この部分だけを解決して下さい」と希望します。つまり、埋め合わせ解決のためにカウンセラーをサポート資源として使っているのです。
- 埋め合わせ解決・対処行動
エレミヤの時代、偽預言者から祭司に至るまで偽りを行っていました。エレミヤが「罪を悔い改めないと侵略されて滅びる」と言っても聞きませんでした。エレミヤは彼らにこう言いました。エレミヤ8:11「彼らは、わたしの民の傷を簡単に手当てし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」例えて言うなら、癌の人に対して「大丈夫、この軟膏を塗れば治ります」と言っているようなものです。本来なら、手術して悪いものを取り除かなければならないのに、簡単な手当をしているということです。李光雨師は悪循環パターンという表現をよく使います。自分の考えがゆがんでいるために、悪い感情によって苦しめられている人たちがたくさんいます。ある人たちは、怒り、恐れ、無力感、うつ、中毒で苦しんでいます。肉体的にもいろんな症状が現れ、平常な生活ができない人たちもおられます。本来の解決は、ゆがんでいる考えを変えることです。聖書では「悔い改める」「思いを新たにする」という表現が度々出てきます。ところが、それらが表面的で、深いところが変わっていないのです。深いところというのは、核信念とかコア世界観と呼ばれる、信念の塊です。信仰と信念は似て非なるものです。信仰は神のことばと聖霊によって与えられます。しかし、信念は生まれてからその人の中に形成された独特な考え方です。この世では「こだわり」とか「意地」とか「執念」と言ったりします。しかし、信念は固定した観念であり、簡単には変えられません。人々はそれを変えると自分の存在がなくなると思っているからです。「生まれてからこのかた、ずっとその考えで生きてきたので、今更変えられない」というのが本音です。そのため、多少、生きずらい毎日であっても我慢してそれをし続けます。時々、怒りが爆発したり、意気消沈したり、パニックになっても「これが私の生きる道」とやり過ごします。クリスチャンでもそういう人がおり、「このような試練を耐え忍んでこそ本当の信仰者になるのだ」と運命のように受け入れてしまいます。そして、神さまや牧師に「このために祈ってください」とお願いします。しかし、神さまは祈りよりも、考えを変えることを望んでいらっしゃるのです。祈りは神さまのみこころを変えるためにするのではありません。祈りは神さまのみこころを求め、それに合わせて祈るのが本当の祈りです。自分の足りないところを満たすために、神さま利用してはいけません。
李光雨師からたくさんの講義を受けましたが、特徴的な例があげれていました。私の体験も加えながら、埋め合わせ解決・対処行動について具体的に説明したいと思います、たとえば、「人から評価されないと自分の世界が壊れる」という人がいます。これはセルフ・イメージが傷ついている人です。一生懸命やったけど評価されなかった。そうすると、落ち込み、無力感、抑うつや怒りという感情が起ります。ストレスによってお腹を壊すという身体反応も現れます。最終的にあまり考えない、向き合わないという行動をとります。このようなライフスタイルを送っている人はいないでしょうか?このような悪循環パターンを持って生活していないでしょうか?しかし、ここに埋め合わせ解決・対処行動があります。この人はもっと頑張ろう。自分を修練してうまくやろうと努力します。気持ちを切り替え、今度はうまくやろうと努力しても、パターンはほとんど同じです。だんだん鬱になり、疲れが増してきます。重要なのは、ゆがんだ世界観、考えを変えることです。この人の問題点は「私は人から評価されないと自分はやっていけない」という世界観です。正しい世界観は、「たとえ、人から評価されなくても、私はやっていける」です。そこのところを変えないで、人から評価されるように頑張っても、限界があります。なぜなら、人の評価というのは絶対的なものではなく、ある時は評価されても、ある時は評価されないからです。自分に対する価値観を神さまに置いて、自分には価値と能力があるというところに安心したなら良いのです。絶対的な解決を求めないで、ただ頑張ってもいずれは燃え尽きるか、神経がまいってしまいます。
私の世界観、核信念は脅迫的なものでした。心の傷が癒され、解放されましたが最後に、恐れがあることに気づきました。私は人からの批判や非難にとても弱いです。人から何か言われるとズキュンきます。人のことはさんざんこきおろして、自分が言われるとダメージを受けるのです。ある時、自分の核信念のテーマがはっきりと分かりました。Ⅱサムエル22:2-3のみことばをご紹介したいと思います。これはダビデのいのちを狙うサウルが死んだときに歌った歌です。「彼は言った。「主よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。」主はどのようなお方でしょう?わが巌、わが砦、身を避けるわが岩、わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場です。少なくとも7つあります。同じようなことを言っている詩篇が他に何か所もあります。でも、このようにまとまっている箇所はここだけです。そしてダビデは「あなたは私を暴虐から救われます」と告白しています。ダビデは13年間、サウルからいのちを狙われ、荒野や洞窟に逃げ隠れていました。自分は何も悪いことをしていないのに、サウルがダビデを妬んだのです。「神さまはどうして、13年間もサウルを野放しにしておくのですか?」とダビデも、聖書を読む私たちも思うでしょう。ところが、ここに「あなたは私を暴虐から救われます」と書いてあります。私はこのところを読んで、ああ、私のゆがんだ世界観を一言で言うなら、「暴虐」だったと分かりました。私の父は家庭を正しく治めていませんでした。酒を飲んでは、母や私たちに暴力をふるいました。となりの家に裸足で逃げ込んだこともあります。母が頭の髪の毛を掴まれて、壁にどんと打ち付けられた鈍い音が今でも忘れられません。兄弟たちも互いに喧嘩し、下の私はぶるぶる震えていしまた。すぐ上の兄は私が大事にしていたものを奪い取りました。兄は体力がありあまっていたので、ボコボコにされたことも何度かあります。私は守りのない、機能不全な家で育ちました。私のテーマはまさしく「暴虐」でした。暴虐を受ける度ごとに、心も体もフリーズしていました。大人になっても「暴虐を受けるのでは?」という恐れの中で生きていました。クリスチャンになって、人から言われた批判が暴虐のように思えて、押しつぶされそうな経験が度々ありました。私は神さまに「どうか私を守ってください。どうか私を強めて下さい」と祈りました。しかし、客観的に考えると、人は私をやり込めようとしているのではなく、ちょっとした意見や忠告をしているだけなのです。力で換算すると2ぐらいのものが、私には8ぐらいに感じるのです。「これは受け取り方の問題であり、恐れることはないのだ」と後から分かりました。私はずっと、「神のしもべは苦しみを受けるのだ。主は私の砦、私の盾なのだ」と考えていました。しかし、それこそが埋め合わせ解決・対処行動だったのです。正しい理解は、「それは暴虐のように映るかもしれないが、本当はそれほどのものではない」ということです。私の成育史が暴虐というゆがんだ世界観を作り出したのです。本当は世界は主にあって安心できるところなのです。
最も多いテーマは「理不尽」という世界観です。この人は「自分の力では対抗できないものが、自分の世界を混乱させている」と考えています。そのため、怒り、無力感、諦めという感情があります。なぜ、このようになるのでしょう?先生や上司が偉そうにふるまい、私を支配しているように思える。押しつぶされそうな感じがして、「対抗できない」とフリーズしてしまいます。そして、その人から離れ、関係を遮断します。埋め合わせ解決・対処行動とは、「このような人にはなりたくない。私はそのようなことはしない」と反面教師的になることです。この人は「だれかが、自分の世界に侵入して、自分の世界を壊すのでは」と考えています。この人は「もっと、良くやっていこう」とへりくだるかもしれません。あるいは、プレゼントしたり、その人の言うことを聞くかもしれません。しかし、それは貢であり、本当の解決にはなっていません。根本は「理不尽な扱いを受けたとしても、私は簡単には壊れない」です。「でも、それほどの理不尽なのだろうか?私が理不尽な世界を作り出しているのではないだろうか?私はこれまでずっと理不尽さの中で、苦しんできたのは、私の考えがゆがんでいたからではないだろうか?」このように少し離れて、自分を見ると「私はたいしたことのないことで苦しんでいる。もっとハッピーな人生を送れるはずだ」と分かってきます。おそらく、この人は小さいとき、理不尽という大嵐の中で、脆弱な世界観を持たざるをえなかったのでしょう。でも、私たちの神さまは世界を創造し、今も保っておられます。私たちの父なる神さまは愛であり、私たちの味方です。詩篇3:4-5「私は声をあげて主を呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて眠りまた目を覚ます。主が私を支えてくださるから。」
- サポート資源
図で示すと分かりやすいのですが、「埋め合わせ解決・対処行動」を支えているのが「サポート資源」です。李降雨師が「埋め合わせ対処行動とサポート資源」についてこのように説明しています。たとえば人から評価されないと自分の世界が壊れるという人がいます。それを埋め合わせるためにどう考えるでしょう?「もっと、うまくやっていこう」とします。喧嘩して関係が悪くなった時に、何かをプレゼントします。これが埋め合わせ行動であり、貢ということです。その行動を正当化するために、何かを代わりにするということです。もう1つは、「人から認められなくても、神さまが認めてださる」と考えます。実はそれは、埋め合わせ解決・対処行動なのです。この人は、聖書を読んだり、ディボーションをしたり、祈ってもらったり、牧師に電話をかけて相談します。聖書、ディボーション、祈り、牧師、そして教会の兄弟姉妹すべてが良いことですが、その人のサポート資源になっています。もともとの考えを変えないならば、いつまでも人の評価に苦しんで、神さまと人々に頼らなければなりません。しかし、それでは悪循環パターは回りっぱなしです。多くの人たちは、考えを変えないで、埋め合わせ対処行動の方を直そうとします。ある人たちはより良いセミナーを受ける、大きな集会で祈ってもらいます。やっていることは良いけれど、悪循環を回すためのエネルギーになっています。恐ろしい事実です。つまり、教会で提供しているものが、良いことのために用いられていないということです。その人の根本的な悪循環を解決するためではなく、逆に悪循環を助長させるように用いている。悪循環の世界観を変えない限り、サポート資源の提供は、悪循環を回すための資源になってしまうのです。
神さまをサポート資源として用いることがあるとは、まさしく「目からうろこ」です。本当は神さまは私たちがそんなに苦しまなくても、ストレスをかかえなくても、平安に生きてもらいたいのではないでしょうか?なのに、どうして苦しみや試練をしょいこんでしまうのでしょうか?「ああ、神さまどうか私を助けてください。苦難を乗り越える力を与えてください。あなたはすべてのことを良きことに変えてくださいます」アーメン。でも、また同じ悪循環を繰り返してしまう。根本的な解決は、環境や状況を変えることではなく、深いところにある自分の考え、ゆがんだ核信念であります。核信念こそが、私たちを恐れさせたり、混乱させたり、無力にしてしまうのです。このところを変えないで、埋め合わせ解決・対処行動を取ってしまう。幸いなのか分かりませんが、その悪循環パターンを支えてくれるものが周りにあります。教会、兄弟姉妹、牧師、聖書、祈り、そして神さまです。こんなことを言うと、「そうではない」と反発する人がいらっしゃるでしょう。では、「祈り」のことを考えたいと思います。よく「私のために祈ってください」とお願いする兄姉がいらっしゃいます。とりなして祈ってもらうことは悪いことではなく、むしろ良いことです。しかし、祈りの中には、サポート資源的なものがあるというのをご存じでしょうか?つまり、その祈りが的外れで、自己中心的で、神さまのみこころとずれている場合です。つまり、自分の考えを変えるのではなく、自分の環境や状況の改善のために、あるいは自分の苦しみや痛みが和らぐように祈ってもらうということです。もしかしたら、元凶は、あなたの考え、核信念のゆがみから来ているかもしれないからです。聖書は「悔い改めなさい」と書かれています。これは「罪を悔い改めなさい」ということではなく、あなたの考え方を変えなさい」という意味で多く用いられているのです。端的に言いますが、祈りは自分の願いを申し上げ、神さまにきいてもらうためのものではありません。確かにそれもありますが、祈りは神さまとの交わりです。交わりなのですから、こちらが「神さまのみこころは何ですか?」と聞く時間も与えなければならないということです。祈りは一方的にこちらの願い事をまくしたてることではありません。それならば、偶像の神さまと同じです。私たちは神さまと交わると、「あなたの祈りの方向を変える必要がありますよ。あなたはこのように祈るべきです」と聖霊が教えてくださります。私たちは神さまのみこころを知って、それを祈るなら100%かなえられます。多くの人たちは、みこころを知ることを求めないで、ただやみくもに祈っているので叶えられないです。
もう1つは、自分がすべきことと、神さまがすべきことがあるということです。ある人たちは、「あの人を赦すことができるように助けてください」と祈ります。また、ある人はタバコやアルコール、中毒性のものに対して、「どうか、やめることができるように助けてください」と祈ります。また、ある人は「この病の癒しを信じることができるように助けてください」と祈ります。しかし、それは神さまがすべきことではありません。信仰をもって決断をするのは、あなたであり、その決断を助けてくださるのが神さまです。イエスさまは「あなたの信仰のごとくなりなさい」聖書のあちこちで言われているからです。もう神さまのみこころは分かっています。人を赦すことは神さまのみこころです。ですから、あなたは「私はあの人を赦します」と神さまに告白するのです。そうすると、神さまがあなたを苦しめていた人々や出来事から解放してくださいます。中毒性のものをやめるのは神さまのみこころです。あなたは「私はそれらのものを止めます」と神さまに告白するのです。そうすると、神さまはあなたの信仰をみて、体や魂の中から、中毒性のものを取り除き、解放の道を歩めるように助けてくださるのです。あなたが一歩、踏みださないと、神さまもあなたを助けてくださいません。病の癒しは神さまの100%のみこころです。だからあなたは「この病の癒しを望みます」と祈ってはいけません。そうではなく、「病の癒しをあなたに求めます。あなたが私の病を癒してくださることを信じます」と告白すれば良いのです。即座に癒される場合もあれば、時間がかかるときもあります。アメリカやイギリスから本を頼むと、1か月くらいかかります。それと同じです。発注したので、途中まで来ているのです。
マルコ9章に、口をきけなくする霊につかれた息子のことが記されています。弟子たちはそれができませんでした。イエス様がしびれを切らして、「その子を私のところに連れて来なさい」と命じました。マルコ9:21-25イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」この箇所はとても興味深い箇所です。その子の父親は「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」と願いました。英語の聖書では、But if You can do anything「もし、できるなら」と言っています。イエス様はこれに対して、”If you can believe, all things are possible to him who believes.”「もし、あなたが信じることができるなら、信じる人にすべてのことが可能になるのです」と言っています。さらに、父親は”Lord, I believe; help my unbelief!”「主よ、私は信じます。私の不信仰をお助けください」と言っています。日本語と英語に微妙な違いがありますが、言いたいことはこのことです。信じることはこの父親の責任でした。イエス様は「あなたが信じることができるなら、可能になる」と言われたからです。しかし、この父親は不思議な答え方をしています。「私は信じます」と告白しましたが、その後「私の不信仰をお助けください」と願いました。日本語の「不信仰な私」と訳すと、前のものを全部ひっくり返してしまいます。しかし、この父親は「私の不信仰を助けてください」と願いました。つまり、「悪霊を追い出すことに対して疑いを持っている私の不信仰を助けてください」ということです。言いたいことは、この父親は「私は信じます」と告白していることです。その信仰に対して、イエス様はお答えになられたのです。逆に言うと、この告白がなければ、イエス様は、解放しなかったかもしれません。
中毒、あるいは依存症にはいろんなものがあります。薬物やアルコールだけではありません。ゲーム、スマホやメール、買い物、食べ物、人間(共依存)というものもあります。怒りやうつ、パニック障害も恒常化すると、生活できなくなります。薬を飲んだり、お医者さん、カウンセラーの助けを得ることも否定はしません。どうしても困った時は人の助けを借りるしかないからです。でも、中毒性のもの、恒常化してしまったものは、底落ちしなければならないと言われています。だれかが助けたりすると、かえって解決が長引びくだけで、生殺しの状態になるからです。アルコールを与えてはいけないというのに、乱暴するので与えるのと同じです。親は「かわいそうだから」とお金を出して、麻薬で捕えられた息子を釈放します。息子は釈放後も、麻薬をやるでしょう。母親がサポートしてくれるからです。信仰をもって決断するのは私たちです。「やめます」「信じます」「赦します」「恐れません」「心配をゆだねます」と告白するなら、イエス様が「あなたの信仰のようになるように」とそれができるように、あなたを助けるのです。私も25歳のとき祈ったら、タバコも酒もやめられました。いや、タバコも酒も飲みたくなくなったのです。決断するのはあたなたの責任です。そのようさせてくださるのは神さまです。英語で責任をresponsibilityと言います。ある人は、これは2つの語でなっていると教えてくれました。「神さまのability能力にresponse応えることである」と。神さまをサポート資源に使わないでください。神さまは私たちが信仰をもって決断したことに、応えてくださる神さまだからです。