永遠の命は、聖書における大きなテーマであり、神ご自身の救いの中で私たちに与えて下さる最大の祝福です。今回、ウィットネス・リー著の『聖書の重要な真理』第一巻から、とても大きな示唆をいただきました。彼はその本の中でこう述べています。「永遠の命を得ることと永遠の命の祝福を享受することは、3つの異なる時期に分けられます。第一の時期はこの時代において永遠の命を得ることと関わりがあり、第二の時期は来るべき時代において永遠の命を得ることと関わりがあり、第三の時期は永遠において永遠の命を享受することと関わりがあります」。つまり、永遠の命は3つの時期で区別できるということです。
1.この時代において永遠の命を得る
この時代というのは、私たちがこの世において、このように生きている時代です。ギリシャ語で「アイオーン」は、「時代、世代、この世、現世」と訳されることばです。イエス様が、世の終わりの前兆について話している箇所があります。マタイ24:34「まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。」言い換えると、「この世はいつまでも続かない、やがて終わりが来る」ということです。私たちは今、この時代、この世で生きています。長くて120年、でもいつ死ぬ分かりません。聖書は「人その一生は草のよう。人は咲く。野の花のように。風がそこを過ぎるとそれはもはやない。その場所さえもそれを知らない。」(詩篇103:15,16)と言っています。この世に生まれた限りは、いつか死ななければなりません。世界中に宗教がありますが、そのほとんどが、死後の世界があると信じています。日本人は「他界した」と言いますが、「この世から、あの世に行った。どこかできっと生きている」という考えがあるのではないでしょうか?伝道者の書で「神はまた、人の心に永遠を与えられた」(伝道3:11)と書いてあります。よっぽどの唯物論者でない限りは、「肉体が死んでも終わりではない。霊魂は不滅かも?」と漠然と思っているのではないでしょうか?でも、「永遠の命が欲しいですか?」と聞いても、多くの人は理解できないと思います。おそらく、このまま死なないで、生き続ける「不老不死」と混同しているのではないでしょうか?クリスチャンになるとなんとなく分かりますが、聖書から永遠のいのちとは何なのか理解する必要があります。
Ⅰヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」ウィットネス・リーはこのように解説しています。「この永遠の命とは初めから存在したものです。神の命だけが、初めから存在していました。ですから、永遠の命とはまさに神の命であり、宇宙と時間が始まる前から存在していました。聖書の中で『永遠』とは、初めがなく終わりがないことを意味します。神は永遠であって、初めがなく終わりがないので、神の命も永遠であって、初めがなく終わりがありません。始めがなく終わりがない神の命は、永遠の命です。」なんだか、余計わかりにくくなりました。私たちは時間の中で生きていますので、「永遠とは時間的にずっと続くもの」としか理解できません。しかし、永遠とは初めも終わりもない、時間を超越したものなんだということでしょう。そして、最も重要なことは、永遠の命がイエス・キリストにあるということです。Ⅰヨハネ5:11-12「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」神の御子は肉体となられた神であり、御子の中に具体化された神ご自身です。ですから、神の命は神の御子イエスの中にもあります。そして、私たちが御子を受け入れ、御子を得るとき、御子の中にある永遠の命をも得ることができます。神ご自身の永遠の命は、御子イエスを受け入れさえすれば、無代価に与えられる賜物です。永遠の命は私たちが働いて得るものや褒賞でなはく、神の賜物です。ある青年がイエス様に「先生。永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをすれば良いのでしょうか?」(マタイ19:17)と聞きました。イエス様は律法について話した後、「あなたの全財産を売り払って…私に従ってきなさい」と言われました。青年は悲しみながら立ち去りました。彼は行いによって永遠の命が与えられると勘違いしていました。だから、イエス様は行いで救われる道、律法を示しました。しかし、彼は律法を完全に守ることができなかったのです。
では、永遠の命はいつから持つことができるのでしょうか?ある人たちは、「死んで天国に行ってからだ」と思っていますが、それは違います。永遠の命を得るのはその人が信じた時からです。なぜなら、永遠の命は御子のうちにあるので、御子を信じて受け入れたら、永遠の命を得るということです。Ⅰヨハネ5:12「御子を持つ者はいのちを持っており…」と書かれているからです。ヨハネ5:24「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち」とありますが、英語では、has everlasting lifeとなっています。つまり、私たちは主のことば、福音を聞いて信じるとき、直ちに永遠の命を持ちます。多くの人たちは、自分たちは今、主を信じているけど、将来のある時まで永遠の命を得ることはないと思っています。彼らは「信じる」と「持つ」の間に時間がないことを認識していません。私たちは信じた瞬間に、直ちに永遠の命を持つのです。キリスト教において、多くの人は主を信じる者たちが永遠の命を持っているかどうか、今の時代に知ることはできないと考えています。しかし、神のことばである聖書がはっきり言っています。Ⅰヨハネ5:13「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」また、ある人たちは、永遠のいのちがなくなるのではないかと恐れています。ヨハネ10:28-29「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」私たちが得た命は永遠であるので、私たちは決して滅びることはありません。さらに、一旦、私たちが永遠の命を持つなら、私たちは主の手と御父の手の中にあるので、誰も私たちを奪い去ることはできません。例えば、私が100玉を手の中に握りしめているとします。だれかが私の手から100玉を奪おうとしたならどうでしょう?私を倒さなければ、手の中にある100玉を奪うことができません。私はもう一方の手でボカンとやっつけてしまいます。ましてや、それが神の御手の中にあったらどうでしょう?私たちの外側で私たちを保護する主の手と御父の手があります。私たちはどうして滅びることがあり得るでしょうか?ヨハネは御子を信じた者が、永遠の命を今、持っていることを第一の手紙で保証しているのです。
2.来るべき時代において永遠の命を得る
「来るべき時代」とは何でしょう?マタイ12:32「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」とあります。このところに2つの時代があります。「この世」とは、「今の時代」とも訳せることばで、第一ポイントで話した、今、生きている時代です。しかし、このところには、もう1つの時代が記されています。「次に来る世」とあります。ここに使われている「世」は、ギリシャ語の「アイオーン」、英語でaeonであり「一世代」「一時代」という意味です。もう1つ「世」を現わすことばに「コスモス」があります。これはworldであり「世界」という意味です。ここでは、「アイオーン」が用いられているので、「次に来る時代」と訳すべきです。この世、つまりこの時代は、キリストの再臨と共に終わりを告げることになっており、その後に、来るべき世、来る時代が続くはずです。中島みゆきさんが「まわるまわるよ時代は回る…生まれ変わってめぐり逢うよ」と歌っていますが、それは嘘です。時間は回るのではなく、始めから終わりへと一方向に進んでいます。この世はいつか終わります。でも、そのときキリストが再臨され、次の世が来るようになっているのです。聖書では、次の世あるいは、次の時代を「御国」と呼んでいます。イエス様は弟子たちに「御国が来ますように祈れ」とおっしゃいました。御国とは、神の支配という意味ですが、具体的には千年王国のことであります。千年王国のことは、イザヤ書で、福音書で、そしてヨハネ黙示録20章でしばしば語られています。もし、私たちが来るべき世である千年王国に無知であるなら、報いを受けるために生きることができないでしょう。「報いを受けるなんて、意地汚い」と思うでしょうか?救いは一方的な神からの恵みですが、救われた後は、主から報いを受けるために生きるべきなのです。
マルコ10:29-30「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。』」このところにも、「この世」と「来るべき世」と言われています。正しく訳すと「今の時代」と「来るべき時代」です。今の時代は、私たちが生きている恵みの時代のことです。そして、来るべき時代は、千年王国の時代です。主は「わたしのために、また福音のために、すべてを捨てた者は、…来たるべき世で永遠のいのちを受けます」と言われました。ここで言われている永遠の命は、第一のポイントで言った恵みとしての永遠の命とは明らかに異なっています。私たちはすでに、永遠の命をいただいていますので、さらに永遠の命をいただく必要はありません。しかし、来るべき時代、千年王国でいただく「永遠の命」は恵みではなく、褒賞のことを指しています。褒賞としての永遠の命を得るためには、主のため、また福音のためにすべてを捨てるという代価を払わなければならないということです。これは信じて直ちに永遠の命を得ることとは明らかに異なります。信じることは代価を払うことをだれにも要求しませんが、これらの聖句における、「すべてのものを捨てる」という要求は極めて高い代価です。でも、千年王国で得られる褒賞としての永遠の命とは何なのでしょうか?いくつかの聖句から、その命について考えたいと思います。
黙示録2:10「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える」。ウィットネス・リーはこう述べています。「主は死に至るまで忠実である者たちに、命の冠を与えると約束しています。冠は王として支配するという栄光の象徴です。命の冠は命の中で王として支配するという栄光の象徴です。こういうわけで、主が命の冠を与えるのは、彼が命の中で王として支配するという栄光を与えることを意味します。これはこの時代に信仰によって得られる永遠の命の無代価の、恵みの賜物とは関係ありません。そうではなく、それは最高の代価を払うことに対する、来たるべき時代に得られる永遠の命の褒賞です。この褒賞は、来たるべき時代に命の中で王として支配するという栄光を享受することです。」ウィットネス・リーが『聖書の重要な真理』第六巻で千年王国を図解しています。千年王国は天的部分と地的部分の上下に分かれています。上の天的部分においては、黙示録20:4,6「勝利者たちは千年間、栄光の中でキリストと共に王として支配する」ということです。下の地的部分にはイスラエルの民、その周りには諸国民がいます。イザヤ65:21-22「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。」
もう一箇所開きます。黙示録2:7「勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。」救われた人たちが、いのちの木から食べることができるのは、新天新地の新エルサレムに行ったときです。そのことは黙示録22章に記されています。ところが、神のパラダイスにあるいのちの木から食べることのできる人たちがいるということです。その人たちは、千年王国において、来るべき新エルサレムの命の木の実を前もって味わうことができるということです。命の木の実を食べるとは、永遠の命の祝福を享受すること、すなわち永遠の命そのものを享受することです。この永遠の命の祝福の享受は、救われた者がみな新天新地であずかるものです。しかしながら、勝利者だけが千年王国で永遠の祝福の前味を享受することができます。私たちはこの地上において、御国の喜びを先取りして生きることができます。それは祝福の特徴です。今度は、千年王国に行ったとき、新天新地の喜びを先取りすることができるということでしょう。つまり、何らかの代価を払うことによって、次の時代において報いがあるということです。今の時代は、千年王国、御国の準備として欠かせないということです。イエス様が「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます」と言われとおりです。
3.永遠において永遠の命を享受する
永遠というのは、新天新地のことです。ウィットネス・リー著の『聖書の重要な真理』でこう述べています。「新天新地で永遠において、永遠の命を享受することは、神の救いの完全な享受であり、それは救われた者がみな、永遠においてあずかるものです。」私たちは天国ということばで、全部、片付けてしまう傾向があります。天国は雲の上にあり、「魂として永遠に生きる」みたいなイメージがあるかもしれません。世の人たちは、死んだらみんな天国に行けるいう淡い希望を抱いています。そうではありません。死んだ人すべてが復活し、神のさばきの前に立たなければなりません。そのとき、命の書に名前を記されていない人たちは火の池に投げ込まれ、第二の死を受けるのです。そのことは黙示録20章の終わりに記されています。そして、黙示録20:1「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」と続きます。新天新地は天国の完成形です。もう一度、説明しますが、天国は3段階でやってきます。第一はパラダイス、キリストにあって死んだ人が休むところです。第二は千年王国、御国です。肉体が復活して、回復した地上で1000年間住みます。千年王国は地上の苦しみが報われる場所です。イザヤ35:5,6「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。」アーメン。第三は新天新地です。これは、キリストを信じるすべての人たち入ることのできる恵みの場所です。イザヤ66:22,23「わたしが造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、──主のことば──あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。新月の祭りごとに、安息日ごとに、すべての肉なる者がわたしの前に来て礼拝する。」アーメン。
黙示録21:6「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。」救われた者はみな、新エルサレムで永遠の命の祝福を享受します。そしてこれらの祝福の一つは命の水です。この水は神の御座から流れ出ており、それは神の永遠に生きている命を指します。救われた者はみな、永遠にこの命の水から飲み、神の永遠に生きている命を永遠に享受します。何度も「享受」ということばを用いました。享受とは、「受け入れて自分のものとすること。受け入れて、味わい楽しむ」という意味です。英語ではenjoyです。Enjoyの直訳は「喜び、楽しむ」です。地上ではたえず恐れがあります。楽しみが度を超すと、放縦、あるいは中毒になるかもしれません。しかし、新天新地においてはそういうことがありません。なぜなら、罪がないからです。ある人が、「永遠に生きたら、退屈でしょうがないだろう」と言いました。でも、そんなことはありません。「飽きる」というのも罪の1つですから、新天新地においては罪がないので、飽きることはないのです。いつも、新鮮で、いつもあざやかで、いつも楽しいのです。でも、たとえ永遠の命であっても、何か補充したり、癒しを必要とすることもあるようです。黙示録22:2「都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。」黙示録22:14「自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。」救われた者はみな、新エルサレムの祝福を享受しますが、それにはもう1つの祝福、すなわち命の木が含まれています。命の水は、神の命が永遠に私たちの渇きをいやすことを示し、命の木は、神の命が永遠に私たちの飢えを満たすことを意味します。ですから、永遠の未来において、私たちは神の永遠に生きている命を享受し、それは私たちを決して飢えることも渇くこともないようにさせます。これが永遠における私たちの永遠の命の享受となります。
ウィットネス・リーはこのようにまとめています。「この時代において、私たちは信じるとすぐに永遠の命を得ます。永遠の命を得た後、私たちはそれを享受し、それによって生きることができます。もし私たちが今日、この永遠の命の力によって主のために生きるなら、私たちは勝利者となります。それから、来るべき御国の時代の間に、私たちは主と共に命の中で王として支配し、命の栄光を享受し、永遠の祝福の前味わいを持ちます。最後に、永遠が到来する時、救いを通して永遠の命を受けた私たちは、永遠にわたって新エルサレムにおいて永遠の命の祝福を享受します。」私はこのことを学びながら、創世記3章の堕落の記事を思い起こしました。創世記3:22,24「神である主はこう言われた。『見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。』…こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。」いのちの木は新約聖書では、イエス・キリストご自身を象徴しています。人はどのようにして、いのちの木から取って食べ、永遠に生きることができるのでしょう?それは、永遠の命であるイエス・キリストを食べる、つまり信じることによって与えられます。Ⅰヨハネ5:11-12「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」