2022.5.8「悪霊追い出しの知識 ルカ10:17-20」

昔、エキソシストというカトリックの神父による悪魔祓いの映画を見たことがあります。あの映画を見て、悪霊追い出しというのは多大な犠牲を払うし、いろんな超常現象が伴い、とっても恐ろしいものだと思いました。西洋周りのキリスト教会はそのような霊的存在を否定します。しかし、東洋のアニミズム(精霊信仰)では、先祖の霊や、動物の霊の存在を受け入れています。聖書には、悪霊はサタン(悪魔)のもとで組織化され、私たち人間を苦しめる霊的存在であると書かれています。「悪霊追い出しの実践」は特別なセッションとか、必要な場合に行うとして、きょうは「悪霊追い出しの知識」として、共に学びたいと思います。

1.悪霊つきに対する神話

 Charles H. Kraft師の“Defeating dark angels”(邪悪な天使を打ち負かす)という本の中に、「悪霊に関する12の神話」という章がありました。その中から代表的なものを取り上げたいと思います。第一は「クリスチャンは悪霊に取り付かれることができない」という神話です。これはサタンが最も好む考えであり、そう信じているクリスチャンあるいは教会の中で自由に働くことができます。典型的な教会の指導者たちは、「クリスチャンには聖霊が住んでいるので、悪霊は住むことができない」と仮定しています。クラフト師によると「悪霊はクリスチャンの霊(人格のコア)にはイエスが住んでいる。だが、悪霊は他の部分、肉体、マインド、感情と意思に住むことはできる。クリスチャンの成長過程においては、罪の性質と、悪霊との戦いの勝利が含まれる」ということです。私がクリスチャンになりたての頃、礼拝の前半は頭と心がやもやしていました。後半になってから、やっとメッセージに集中できたという経験があります。

 第二は「人々は悪霊に憑りつかれている」という神話です。悪霊がその人の中に住んでいることを、「悪霊に憑りかれた」と言います。英語ではdemon possessedで、「悪霊に所有されている、占有されている」という意味です。しかし、これは聖書のギリシャ語ダイモニゾマイの誤訳から来たものです。カナンの女性が「娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」(マタイ15:22)と言いました。しかし、多くの場合はhave a demon「悪霊を持っている」の方が正しいのです。でも、悪霊がその人をどれくらい所有しているのかという程度も確かにあります。ゲラサ人の地で墓場で暮らしていた男性は重症であり、彼の人格まで乗っ取られていました。イエス様が彼の名を聞いたのに、内側にいる悪霊が「私の名はレギオンです」と勝手に答えたからです。クラフト師はご自分の経験から「悪霊たちはその人の人格をいつでも完全に支配できるものではない。短い期間か、あるいは相当な期間だけである」と言っています。その人が正気に戻ったとき、あるいは悪霊を縛って正気にさせたとき、悪霊に入られた原因をその人から知ることができます。

 第三は「悪霊からの解放は、big fight(大乱闘)が伴う」という神話です。クラフト師はしばしば、悪霊が人々を投げ飛ばし、当人に恥ずかしい思いをさせたことを見ました。しかし、ある時は、悪霊が乱暴なことをせずに、去って行ったというケースもありました。悪霊を追い出す前に、キリストの権威によって、暴力を振るうことを禁じれば良いことが分かりました。また、感情的な生ゴミ、霊的な生ゴミを取り去るならば、悪霊は弱くなり、暴力をふるうことができなくなります。悪霊は人を驚かすためこけおどしをしたり、注意をそらせるようなことをします。悪霊たちはイエスの御名によって、自分たちが暴力を制限されることを知っています。私たちはイエス様の弟子たちのような経験を積むことが必要です。ルカ10:17 さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」

 第四は「悪霊つきは単純な精神的な病気である」という神話です。自由主義と福音派の教会は、「聖書にイエスが悪霊を追い出していると書かれているが、イエスは単に精神的な病気を扱っているのである」と考えています。残念ながら、西洋の自然主義の世界観は、サタンとか悪霊など、超自然的な存在が信じ難いのです。さらには、西洋の心理学を含む科学は、そのような現象に対して正しく説明できません。紀元1世紀の人たちの方が、現代の科学者や学者たちよりも悪霊に関する理解が勝ります。正しくは、精神的な病気のすべてが悪霊からのものではないけれど、精神的な病気も伴うこともあるということです。

 第五は「特別な賜物を持っている人だけが、悪霊を追い出すことができる」という神話です。彼らは「解放の賜物」あるいは「解放の油注ぎ」のある聖職者だけにそのことが許されていると考えています。サタンはそのような神話が大好きです。なぜなら、そのことによって人々が悪霊を追い出すことをしないからです。Ⅰコリント12章、ローマ12章、エペソ4章、Ⅰペテロ4章に御霊の賜物について記されていますが、「解放の賜物」という賜物はありません。私はすべての信者が悪霊を追い出す権威があると信じています。地上において、イエス様は聖霊の力によって人々を悪霊から自由にしました。イエス様は彼の弟子たちに悪霊を追い出す権威を与えました。マタイ28章で「私があなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」と言われました。私たちにも彼らと同じ聖霊が与えられています。すなわち、弟子たちと同じ力と権威が与えられているのです。解放の働きは、賜物ではなく命令に従うかどうかの問題なのです。

 クラフト師が言う「神話」は12まであり、時間に制限があるので5つだけに留めておきたいと思います。この項目の結論としてクラフト師はこのように述べています。実際に、悪霊たちのほとんどははったりです。彼らはほんの小さな力しか持っていないのです。人間が感情的あるいは霊的な問題を持っていることによって、悪霊たちに法的に彼らの中に住むことを許されているのです。もし、生ゴミを取り扱うなら、彼らの力は去って行きます。イエスにあって与えられている力と権威は、敵よりもはるかに偉大で無限なのです。イエスは十字架の上でサタンを完全に打ち負かしました。しかし、私たちは神さまが何故、サタンを野放しにしているのか分かりません。私たちが理解すべきことは、私たちがイエスと同じ、あるいはそれ以上のわざを行なうことができる(ヨハネ14:12)ということです。私たちがイエスの御名によってこの戦いに臨むとき、恐れる理由は全くありません。アーメンです。

2.悪霊の名称とそのグループ

 私はクラフト師の本と一緒に、もう1冊別の本も読みました。それは、“Pigs in the parlor”で直訳すると『客間にいる豚』ですが、どうしてこういう題なのか分かりません。100万冊も売れている「悪霊追い出しのガイドブック」です。クラフト師とこの本が共通して述べているのが、悪霊にはグループがあるということです。“Pigs in the parlor”から少し引用します。悪霊たちはその性質によって身元を確認することができます。嫌悪の悪霊は、「嫌悪」と呼ばれています。それぞれの悪霊は何らかのスペシャリスト(専門家)です。嫌悪の悪霊は、情欲を育てることはしません。彼はただ、嫌悪を促進するたけです。彼らに自分たちの名前を言うように命じたなら、彼らの性質とその身元を確認することができます。他に、反抗、呪い、無頓着などがあります。時に、悪霊は「ジム」とか「シャーリー」という人間の名前を持つことがあります。たまに、外国の名前だったりします。彼らの本当の性質を知ることによって、欺かれることなく解放のミニストリーができます。奉仕者は「悪霊よ、お前の性質は何だ」と、悪霊が持つ性質が現れるように命じるべきです。内に住む悪霊は、一匹(豚なので)だけ発見されることはめったにありません。彼らは互いにグループを作っています。そのグループは、入植者たち、あるいは氏族か家族として言及できるでしょう。一匹の悪霊が見つけられると、直ちに、他の仲間たちに警告を発します。1つのグループの悪霊たちは、その人の特別な分野を支配する目的で団結しています。そこには筋の通った悪霊のパターンがあるので、それぞれの特別なグループを見つけることが大切です。ただし、グループの組み合わせが常に同じということではなく、違った組み合わせが無制限にあります。…“Pigs in the parlor”には、52のグループ名が挙げられていますが、それぞれが独立しているわけではなく、同じ性質を持つ悪霊が他のグループの中にもいるということです。

 チャルズ・クラフト師も同じテーマで述べていますので、これら2冊の本から、悪霊のグループ名をいくつか取り上げたいと思います。今上げる名前は、グループのリーダー名であり、その配下にリーダーと似たような性質を持つ悪霊たちがいます。クラフト師は、第一に特徴的な集団名を上げています。

・死の霊。自殺、殺人、死の願望、弱さをもたらす霊が一緒にいます。

・恥の霊。罪責、欺き、嘘をもたらす霊が一緒にいます。

・激怒の霊。怒り、苦々しさ、憤慨、意気消沈をもたらすが霊が一緒にいます。

・恐れの霊。思い煩い、心配、パニック、恐怖、恐れ、拒絶、孤独をもたらす霊が一緒にいます。

・嫌悪の霊。復讐、殺人、自己嫌悪をもたらす霊が一緒にいます。

・反逆心の霊。頑固をもたらす霊が一緒にいます。

・情欲の霊。姦淫、幻想、変態、好色をもたらす霊が一緒にいます。

・支配の霊。あやつりをもたらす霊が一緒にいます。

第二は「感情」の霊、強迫観念や中毒をもたらす霊があります。

・中毒(依存症)の霊。ニコチン、アルコール、薬物、大食をもたらす霊がいます。

・パフォーマンスの霊。他の人を喜ばせたい、完全主義、競争心をもたらす霊です。

・同性愛の霊。同性愛は罪であり、背後に悪霊が働いているということです。

・宗教の霊。儀式主義、教義への執着、律法主義をもたらす霊です。

 第三は「オカルトもしくはカルト」の霊。この中には誤った宗教も入ります。

・フリーメーソン、薔薇十字会、ニュー・エイジ

・エホバの証人、モルモン教、クリスチャン・サイエンス

・占い、手相占い、星座占い、タロットカード

・魔術、降霊術、呪文、呪物

・神道、仏教、先祖崇拝を伴った新興宗教、ヒンズー教、イスラム教

 クラフト師の本には、幼い少女が魔術の犠牲にささげられ、多数の男性と交わった結果、たくさんの悪霊が入り込んだため、解放に時間がかかったというケースが書かれていました。

 なぜ、悪霊の名称とそのグループを把握することが重要なのでしょうか?悪霊たちは普通、私たちの感情にくっついており、彼らは感情に関連した名前を持っています。そのため、私たちは、彼らの機能的な名前で呼びます。そのことよって、インナーヒーリング(内なる癒し)を通して、感情や態度を正すことにより、悪霊の働きを弱めることができます。悪霊たちはしばしば、グループで働き、単独で働くことはめったにありません。彼らは階級的に組織されており、一人のリーダーにそのグループを託されています。クラフト師のやり方は、「ねずみ」のかしらを発見し、聖霊の力によって、彼のもとにあるすべての悪霊を縛ることです。名前を知ることによって、グループ内にいる悪霊を同時に追い出すことができます。しかしながら、普通、一人の人物の中には、他のグループが存在し、かしらの悪霊がそのグループを支配しているのです。そのために、1つのグループの悪霊を処理したら、次のグループの悪霊を追い出さなければなりません。続いて、クラフト師が悪霊の階級的な組織についてこのように答えています。私たちは、まず、リーダーの悪霊とコンタクトを取ります。たとえば、「恥の悪霊」と言います。そこに恥の悪霊がいたならば、罪責の霊や欺きの霊、偽りの霊などがいます。彼らは1つのグループを作っているのです。怒りの霊や激怒の霊は、他のグループのかしらです。もし、怒りや激怒の霊がいたならば、そこには苦々しさ、憤慨、意気消沈、失望落胆の霊がいることを予想しましょう。恐れの霊には、思い煩い、心配、パニックをもたらす霊がいます。クラフト師がインナーヒーリングをするときは、その人の中にいると思われる悪霊のかしら名をリストアップします。私がクラフト師と“Pigs in the parlor”の本を読んで、悪霊に機能的なグループがあり、グループごと独立していることを初めて発見しました。そして、その人の傷ついた感情や罪深い行いと悪霊が結びついているということです。一般の教会は、悪霊抜きの罪の悔い改めだけを求めてきました。そうではなく、その人の心の傷を悪化させている悪霊や、その人の罪を助長している悪霊が存在しているのです。

3.悪霊追い出しの前に

 その人から悪霊を追い出す前に、やっておくべき事があります。その人がイエス・キリストを信じて、悪魔の支配から神の支配に移されなければなりません。ですから、私たちが福音を伝え、その人が信じて救われる必要があります。ただ単に追い出しても、悪霊が他の仲間を連れて戻ってくるからです。新約聖書にそのことが書かれています。マタイ12:43「汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。」家とは私たちの心です。悪霊を追い出した心は、綺麗になっています。でも、王であるキリストがいなければ、悪霊がまた入り込みます。自然界は真空を嫌います。同じように、私たちの心の中心にイエス・キリストを主として迎え入れる必要があります。しかし、きょう語っている悪霊につかれているという人たちは、クリスチャンになる前に悪霊に入られた人たちです。クリスチャンになってから偶像礼拝をする人はいません。問題はクリスチャンになる前にそのような罪を犯したり、心の傷を受けたりした人が、悪霊をどこかに宿してしまうのです。クリスチャンはすでに神のご支配の中にいます。でも、体の一部、魂の一部が悪霊によって支配されているのです。石原良人師は『解放のミニストリー』で、こう述べています。教会に来る人々は、数々の罪と傷という悪魔の要塞を携えたままやって来ます。キリストを信じて救われて、神のみ前で義とされますが、その人の今までの霊の歴史は変わっていません。キリストを信じた途端、傷がなくなるでしょうか?もちろん神が特殊なかたちで働かれ、激しい涙とともに、心に癒しを与えられるケースもあるでしょう。しかしほとんどの場合、そんなふうにうまくいきません。石原師は、「悪霊は私たちのどこかの場所を支配している。だから、まず、悪霊が活動する足場を取り壊さなければならない」と言っています。つまり、偶像礼拝や占いなどの罪を悔い改めるということです。また、心に傷があるならば、キリストの十字架によって癒しをいただくということです。また、赦すべき人を主にあって赦すということです。そうすれば、悪霊は足場をなくし、容易に出て行くということです。

 石原師はさらに、こう述べています。悪霊は自分の領域を越えて、勝手に私たちの体の中に取りつくことはできません。自分自身と家系の中にある偶像礼拝、占い、霊的体験など、さまざまな罪を通して関わってきます。悪霊に取りつかれた人の「解放」を手伝っていたからといって、あなたの中に即侵入することはありません。不法侵入はできないのです。罪と傷を通してでなければ、悪霊は私たちの中に要塞を構えることはできません。それはちょうど、生ゴミにねずみが集まるのに似ています。私たちの教会のある地域は、毎週火曜日と金曜日が生ゴミの日です。住民はいつもカラス対策に悩まされています。なぜなら、朝、主婦たちが生ゴミを出す時間になるとカラスが必ずやって来て、袋を破り、そのゴミを道路いっぱいに散らかすからです。ネットをかけたりしましたが効果はありません。さまざまな方法で追い返すのですが、人がいなくなるとすぐに戻ってきて、食物探しをします。生ゴミがなければカラスは来ないのです。真のカラス対策は、生ゴミを取り除く以外にありません。同様に、「解放」も、悪霊を追い出すことに焦点を当てるのではなく、罪に目を向けます。生ゴミを放置してカラスを追い返してもすぐに戻ってくるのと同様に、悪霊を追い出したとしても、もし罪を告白し、断ち切ることをしなければ、悪霊は戻ってくるからです。このことが悪霊追い出しの前に必要だということです。

さらに、チャールズ・クラフト師は、さきほどの本の中で、インナーヒーリング(内なる癒し、心の傷の癒し)の必要性についてこう述べています。私たちは怪我をするとその部分を消毒し、包帯を巻いて治療します。しばらく、すると傷が治ります。しかし、心の傷はどうでしょう?私たちは「なかったことにしよう」と上から押さえつけて蓋をするでしょう。しかし、傷を消毒していなかったため、包帯の下に膿が溜まることと同じことが心の中に起ります。その毒が心の中を汚染し、やがて悪霊が住みつくことになるのです。私たちが過去の傷を覆い隠したまま生活しているとどうなるでしょう?神さまと自分と他の人との関係に問題が生じます。神さまが近くにいるのは心地よくありません。神さまが自分を懲らしめるか、さばくかもしれないと恐れているからです。自分に対しては価値のない存在だと思っています。犯した罪によって苦しむのが当然だと思っています。そして、他の人を受け入れることができません。彼らの欠点が見え、さばいてしまいます。彼らと心から親しく交わることができません。なぜなら、本当の私を知られたら、拒絶されるだろうと恐れているからです。だから、人々と距離を置いて、独りでいるのが良いのです。でも、心の中は、妬みと怒りがいっぱいです。チャールズ・クラフト師は、80%の以上の病気は、感情的な問題が根っこになっていると言っています。

クラフト師はこのように述べています。「解放のプロセスでインナーヒーリングを用いることの重要性は、イエス・キリストの愛を現わすことができるからです。解放は私たちの愛ではなく、イエス様の愛によってできるのであり、イエス様ご自身がその人に愛を示して下さいます。悪霊による暴力や叫び、嘔吐するのを見せるビッグ・ショーではありません。私たちは悪霊をおとなしくさせて追い出し、被害者に恥ではなく、イエス様の愛を示したいのです。」インナーヒーリングにおける鍵が3つあります。第一は、傷ついた場所にイエス様をお招きするということです。そして、自分を傷つけた人を赦すということです。第二は、その人を母の胎に一度戻すことをします。多くの胎児は拒絶を体験しており、そこに悪霊がやってきます。だから、私たちはその胎児を祝福し、イエス様の手に抱かれる絵を想像させます。第三は、もし良くない性的な関係から生じた、魂の拘束があれば、それを断ち切ります。罪があれば告白し、加害者がいたら赦す告白をします。多くの場合、被害者的な部分が取り扱われていないので傷が残るのです。イエス様が十字架で血を流されたのは罪の赦しのためですが、同時に、私たちの傷を癒すためにでもあります。イザヤ53章に「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」とあるとおりです。