私たちはこの地上に生まれ、だんだん成長します。しかし、残念なことに、ある時から老化が始まり、死に至ります。この肉体はいつまでも生きることはできず、必ず死んで、朽ちてしまうというむごい現実があります。例外なく来る死に対して解決しなければ、この地上で身を立て、名を挙げても、まったく意味がなく、虚無的な人生を送るしかありません。しかし、2000年前、イエス・キリストが死を打ち破り、よみがえらえられました。私たちクリスチャンは永遠のいのちと天国が保証されていますが、短い地上の生活をどのように送るべきなのでしょうか?
1.死の問題
この世の常識は、「人は生まれたら、必ず死ぬ」ということです。仏教では、死を受け入れ、諦めることを教えています。人が早く死ぬと、「ああ、その人の運命だったのでしょう」と言うかもしれません。でも、多くの人たちは死ぬことをできるだけ、見ないようにしています。病院でも4番の病室はありません。その人が今、危篤状態だというのに、「大丈夫だ」と励ましたりします。本当なら、必ずやってくる死に対して、備えをしておくべきなのです。ところで、「終活」などということばがありますが、大体は生前お世話になった人への感謝、身の回りの整理、そしてお墓の準備等でしょう。残念ながら、イエス・キリストを信じて、永遠のいのちをいただき、御国に入る約束をいただくという「終活」はありません。簡単に、死んだ人に対して「天国に旅立った」と言ったりします。天国の大安売りです。はっきり言いますが、キリストを信じていなければ、よみに行きます。よみは地獄ではありませんが、神のさばきを待つ、希望の薄い場所です。キリスト者は、よみではなく、パラダイスに上ります。神のさばきはパスできますが、キリストのさばきはあります。それは、生前どのくらい忠実に歩んだかによって、千年王国(御国)における生活が決まるからです。でも、そのあとに来る、新しい天と新しい地においては、すべてが平等に永遠を生きることができます。私たちはこのような来世観をもっていますが、聖書の福音を知らない人たちはそうではありません。
聖書は死が初めからあったのではなく、後からやってきたことが分かります。創世記1章から3章にそのことが書かれています。私たちは神のかたちに似せて造られました。神さまは、永遠なるお方なので、私たちも永遠に生きるように造られたのです。ところが、最初の人間である、アダムとエバが食べてはならない木からとって食べました。その実が毒であったということではなく、神の主権を犯したので、神との交わりが途絶え、霊的な死が襲いました。主はアダムに必ず死ぬと言いましたが、肉体的にはそれから900年も生きました。たとえ900年生きることができたとしても、死は死であり、永遠から比べたら短い年数です。創世記3:19「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」とありますが、アダム以降生まれた人類の定めは肉体的に必ず死ぬということです。医学的にどのように言われようとも、「おぎゃあ」と肉体的に生まれても、霊的に死んでいる状態であり、魂で生き、限りある肉体の生命で80年位は生きるということです。これはモーセのことばです。詩篇90:10「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。」使徒ペテロもイザヤ書を引用してこのように述べています。Ⅰペテロ1:24「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。」このように、人はこの地上に生まれて来た以上、遅かれ、早かれ、必ず死ぬのです。私は牧師として、何十名の兄弟姉妹の葬儀の司式をし、火葬場にも行きました。「私もいつか、この炉の中に入るんだな」と思います。これが人生の最後であるなら、「ぜひ、小学校の遠足に火葬場を訪れたらよいのになー」と思います。なぜなら、死の問題を解決しないまま、生きていくことになるなら、それこそ残酷です。子どもたちは「将来があるから」と励まされて生きていきます。でも、将来の後にくるのが、老いであり、死であるという現実を教えられないまま生きることになります。やがて来る死に対して、解決のない人たちはどう生きるのでしょう?使徒パウロはこう述べています。Ⅰコリント15:32「もし死者がよみがえらないのなら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから』ということになります。」言い換えると、「生きているうちが花だから、好きな事をたくさんしよう。死後のことなど考えない」となります。仏教でも、「生きることだけでも大変なのに、死ぬことなど考える余裕があるだろうか?」などと言います。なんだか、煙に巻かれた感じがします。真面目な人であれば、あるほど、「どんな良いことをしたとしても、やがて死んでしまうのだ」と考えると虚無的な生き方をせざるを得ないのではないでしょうか?「どんなに真面目に生きても、やがては死ぬのです。人生は無意味なので、私は死にます」と言う人に、どのように答えられるでしょうか?
もう一度言います。死は初めからあったものではなく、後から来たものです。後から来たものだったら、死に対する解決がどこかにあるはずです。ローマ5章を見ると、そのことが示唆されています。ローマ5:12,18「こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。」簡単に言いますと、一人の人アダムの罪によって、全人類が死ぬようになりました。今度は、一人の人イエス・キリストの義の行いによって、いのちが与えられるということです。つまり、キリストが罪を贖って下さったので、キリストを信じる者には、死ではなく、命が支配するようになったということです。実はこの知らせは堕落の記事にありました。創世記3:24「こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。」いのちの木への道というのは、まさしく、イエス・キリストのことなのです。ですから、イエス様はご自分で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)とおっしゃったのです。私たちクリスチャンは、イエス・キリストによって、死に打ち勝ついのちと希望が与えられるということです。
2.死の克服
第二のポイントでは、イエス・キリストはどのように死を克服し、私たちにいのちを与えるようになったのか、もう少し詳しく学びたいと思います。へブル2:14-15「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」へブル人への手紙を見ますと、血と肉を持っている私たちは、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれている存在であるということが分かります。どんなに頑張っても、死を恐れない人はいないということです。唯物論者や生物学者は、「人間は物質であり、死んだら無になるのだ」と信じています。彼らはそうは言っても、心の中では納得していないのです。「もし、死を克服できる解決があるなら、知りたい。でも、神にすがるのは嫌だ。なぜなら、神は存在しないからだ」と言うでしょう。死の問題と宗教は切り離せないと考えているからです。確かに、世界中に数えきれない宗教がありますが、それなりに死に対する解決を持っています。明治以降、日本に西洋の科学と文化が入ってきました。頭では死後の世界は存在しないと考えています。しかし、心はそうではありません。死ぬことを「他界した」と言いますので、どこか別の世界で生きていると考えています。私が子どものころ、母が「草場の陰で見ているから」と言っていました。私はその意味が分かりませんでした。後で調べたら、昔は土葬だったので、「お墓の下から見ているよ」ということでした。「千の風に乗って」と言う歌もあります。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません、眠っていなんかいません。千の風に、千の風になってあの大きな空を吹きわたっています」。確かにロマンチックですが、魂はどうか分かりませんが、死体は墓の中で眠っています。私の母が死んだとき、私の姪っ子が葬儀のとき挨拶をしました。「私のおばあちゃんは死んではいません。私たちの心の中で生きています」と言いました。「すごい文学的だなー」と思いました。私が言いたいのは、多くの人たちは「人は死んだらおしまい。消えてなくなる」とは考えていないということです。
でも、聖書は死をどう見るかではなく、死の解決、死の克服について啓示しています。なぜなら、死は初めからあったものではなく、アダムが犯した罪によって死が入ったからです。へブル2章には、神様の解決が述べられています。父なる神様は御子を肉体をもった姿でこの地上に送られました。その理由は「子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました」と書いてあるとおりです。神の御子が、肉体を持っている私たちを死から救い出すために、ご自分も肉体をもってこの地上に来る必要がありました。これを自己同一化、アイデンティファイと言います。しかし、それだけではありません。「それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし」とあります。聖書によると、悪魔が私たちに対する死の力を持つ者なのだと言っています。これはなかなか、難しい箇所であります。ヨハネはご自分の手紙でこう述べてます。Ⅰヨハネ3:8「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。」Ⅰヨハネ3章から推測すると、悪魔のわざというのは、「死の力」ではないかと思います。でも、人間が死ぬようになったのはアダムが罪を犯した結果なので、そこに悪魔が参与しているようには思えません。人が生きるか死ぬかは、全能者なる神がお決めになられることです。ユダ書に興味深いことが書かれています。ユダ9「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて悪魔と論じて言い争ったとき、ののしってさばきを宣言することはあえてせず、むしろ『主がおまえをとがめてくださるように』と言いました。」聖書注解書にはこのように書かれていました。「モーセが死んだとき、ミカエルはその体を埋葬するよう神によって遣わされたが、悪魔はモーセが人を殺したことがあるので、その死体を自分に引き渡すように主張して激しい論争が起こったのである」と書いてありました。つまり、悪魔が持っている力というのは、人の罪を訴える力です。聖書の大原則は、「罪を犯した者はさばかれて死ぬ」ということです。神様が、悪魔から「この人は罪を犯したのでさばかれるのが当然です」と言われたら、さばくしかありません。こう考えると、悪魔の力とは、罪を訴える力であり、そのことを知った人が死後の裁きを恐れるということではないかと思います。神様を信じていない人であっても、死後のさばきをどこかで恐れているのではないでしょうか?
ですから、イエス・キリストが死の恐怖で縛られている人を救うために、いくつかのことをしなければなりませんでした。第一は、人間と同じように肉体をもってこの地上に生まれるということです。第二は、最後のアダムとして神の前に罪のない生活を送り、罪を贖う神の子羊としてご自身をささげるということです。第三はご自分が人類の罪を負い、神のさばきを受けて、死ぬということです。しかし、それは悪魔の罪の告発を封じることになりました。もう、悪魔は人の罪を神の前に持ち出すことができないということです。第四は父なる神が御子イエスを死からよみがえらせたことによって、贖いが完成したことを証明されました。使徒ペテロは「しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」(使徒1:24)と言いました。義なるイエス・キリストに死はふさわしくないということです。第五に、パウロはそのことを「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20)と言いました。つまり、キリストが復活の最初であり、そのあとに、私たちが続くということです。そして、パウロは私たちが復活するとき「死は勝利に吞み込まれた」(Ⅰコリント15:54)と言っています。つまり、死は私たちの敵であり、キリストが再臨されるとき、滅ぼされるということです。 つまり、イエス・キリストが与える死の解決はこの世の宗教とか、文学とか、医学とか、哲学とは違います。人となられたイエス・キリストは自ら死んで、よみがえり、死に打ち勝たれたのです。さらには、世の終わり再び来られ、キリストにあって死んだものをご自分と同じように復活させるということです。私たちはキリストが与えてくださった死の勝利の中で生きることができるのです。
3.復活を生きる
第三は、「キリストが与えてくださった死の勝利の中で生きる」とは、どういうことなのか具体的に聖書から学びたいと思います。キリスト教の救いを、「死んだのち、天国に行けることだ」と定義するなら、まことに薄っぺらいものとなるでしょう。かつて福音派の教会は、大きな大会を開いて「あなたは今晩、死んだら神の前に立てますか?」とチャレンジします。そして、メッセージの後「今晩、キリストを信じる人は前に進み出て下さい」と招きます。一緒に、告白の祈りをした後、「あなたは死んでも、天国に行くことができます。ハレルヤ!アーメン」と言います。このようにキリストの救いを「罪赦され、天国に行けることである」と主張し続けてきたことは否めません。確かに永遠の命をいただき、天国に住まうことができるというのは、究極的な喜びであります。私自身もそことが最高の祝福であり、キリスト教の神髄であると心から信じています。でも、このことがクリスチャンを甘やかせていることを後から知りました。もちろん、天国に行けることを至上の喜びとし、信仰生活を元気に歩んでいる人たちもいます。ところが、「天国行きの切符を手に入れたので、死ぬまで自由に暮らしたい」という人も出てきます。つまり、教会は信じてバプテスマを受け、救われることまで言いますが、その後のことは語っていないということです。洗礼がゴールであって、信じた後は教会につながって、信徒の役目を忠実に果たしなさいということです。その中には、聖日礼拝を守ること、献金をすること、聖書を読みお祈りすること、奉仕をすることなどが含まれています。つまり、それらのことを守っていれば、あとはどう生活しようと関係ないということです。はっきり言えば、「日曜日の数時間は神様にささげますけど、あとは自分の好きな通りさせてください」ということです。箴言に「幻のない民は滅びる」とありますが、まさしくそうです。救いを天国に行くことだけに限定してしまうと、そのようなクリスチャンを作ることになります。しかし、救いは天国に行けることだけではありません。キリストを信じて洗礼を受けた後も、それと同じくらい重要なのです。
使徒パウロはキリストを信じて復活の希望が与えれた人たちにこのように述べています。Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」「ですから」というのは、これまで復活のメッセージを語ってきたことの結論であり、私たちへの適用です。復活の希望のない人たちは「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」という生活です。でも、天国行きだけの救いだったらどうなるでしょう?「食べたり飲んだりしようではないか。やがて、天国に行けるのだから」となります。外から見たなら、クリスチャンでない人とあまり変わらないことになります。復活を信じているクリスチャンは、この世の人と生き方が違っているのが本当です。パウロは「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」と言っています。このところの文脈から考えると、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」という人たちに惑わされないということです。パウロは「悪い交際は良い習慣を損なう」と注意しています。この世の文化は、死の文化です。それは宗教ばかりではなく、教育や文化に行きわたっています。人々ばかりではなく、新聞やテレビ番組にも、影響を受けるでしょう。もし、私たちが復活の希望について話すと人はどうこたえるでしょう?「あなたはいいわね。何でも信じることは大切よ。精神的に希望が与えられるからね」と言うでしょう。つまり、その人は宗教は精神的なもので、人それぞれの救いがあるということです。その人は、反対しているわけではありません。そうではなく、私たちの救いを相対的なもの、多くある救いの一つにしていることです。言い換えると、「それはあなたにとっての救いかもしれないけど、私には救いにはならない」ということです。ですから、宗教のことを公の場に持ち出すことはタブーになっています。「宗教を押し付けてはならない」というのが、社会人のエチケットになっています。しかし、本当の宗教、本当の信仰は生き方に影響を与えずにはおられません。では、キリストの復活を信じている人はどのような生き方をするのでしょうか?言い換えると、それは死の備えをするということでもあります。
第一は、自分の地上の人生は短く、限られたものであると悟ります。永遠のいのちが与えられたからこそ、この地上での短い日々を、価値あるものとして生きるようになるということです。行くべきゴールが分かっていれば、くよくよ昔のことを悩んで生きる暇はないということです。
第二は、地上での生き方が千年王国で受ける報いを決定するということです。Ⅰコリント3章には、キリストが土台であり、私たちはその土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てるようなものだと書かれています。それは神様から与えられた賜物や時間を正しく管理するということです。「タラントのたとえ」と「ミナのたとえ」から忠実さが重要であることが分かります。
第三は、この地上での使命を全うしてから、主のもとに行くということです。パウロはⅡコリント5章で、「むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうが良いと思っている」と言っています。でも、ピリピ1章では「しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です」と言っています。つまり、本当は早く主のみもとに行きたいけど、地上に使命がある限りは生きるしかないということです。「使命」とは、「命を使う」と書きます。私たちは死ぬ運命にありましたが、キリストによって永遠の命が与えられました。そうであるなら、その地上での限りある命をキリストにささげ、神の栄光のために生きるべきではないでしょうか?もちろん、食べることも、飲むことも、楽しむことを否定しません。パウロは「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:31)と言っています。結論として、私たちはキリストにあって、死の恐れから解放され、復活を生きる存在です。そうなれば、この地上での限りある生活は非常に価値あるものとなります。地上での生活は、千年王国である御国と深くつながっているのです。この地上でいかに生きたかが、千年王国の報いが決定するからです。地上で御国に入るための備えをすることが、「死の備え」なのです。