ある先輩の牧師が後輩の牧師に助言をしました。「説教の途中で何を言ったら良いか分からなくなった時、このことばを言いなさい。そうすればなんとかなるものだ」と言われました。ある時、後輩の牧師が結婚式の司式で「病めるときも、健やかなときも、いのちの限り固く節操を誓いますか?」と言いました。花婿が「誓います」と言い、続いて花嫁が「誓います」と言いました。牧師は花嫁の涙に感動して、頭が真っ白になり、この先、何を言えば良いか分からなくなりました。とにかく、手を上げて言いました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」結婚式の誓いというのは、そのようなレベルだという皮肉です。
1.十字架上のとりなし
イエス様が十字架で発したことばが7つあると言われていますが、ルカ福音書にはその最初のことばと、犯罪人に対することばと、最後のことばと3つ記されています。イエス様は朝9時から十字架につけられ、午後3時に息を引き取られました。十字架は、最も醜悪で、最も恐ろしい、ローマが発案した死刑の道具です。神の子イエスは何も悪いことをしていないのに、鞭打たれ、裸にされ、人々から嘲笑され、殺されました。当時、十字架につけられた犯罪人の多くは「やめろ!俺は悪くない。こんなことをしたお前らを呪ってやる」と叫んだことでしょう。しかし、十字架につけられたお方は全く違っていました。ルカ23:34「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」「父よ」と呼びかけていますので、これはイエス様の祈りです。それも、自分を十字架につけた人に対するとりなしの祈りです。イエス様はどのような人たちのために祈られたのでしょう。ルカによる福音書から調べたいと思います。
第一は祭司長と律法学者たちに対してです。ルカ23:10「祭司長たちと律法学者たちはその場にいて、イエスを激しく訴えていた。」ユダヤ人はイエス様を死刑にできないので、ローマのピラトに訴えました。彼らはユダヤ教の指導者で聖書を最も良く学び、神に仕える人たちでした。そういう人たちが先頭に立って、イエス様を迫害し、十字架に渡したのです。ピラトは彼らがねたみのゆえに引き渡したことを知っていましたが、暴動を恐れて妥協しました。ヨハネ1:11「ご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れませんでした」と書いてあります。彼らはイエス様を殺すためには、嘘偽りも平気でした。十戒の9番目に「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」とありますが、ねたみは人の心を盲目にしてしまいます。
第二はローマ兵たちです。イエス様を直接、十字架につけたのはローマ兵たちです。彼らはユダヤ人を憎んでいましたので、彼がユダヤ人の王であるならなおさらでした。ルカ23:37「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲(あざけ)った。ですから、ローマ兵たちは、一般の犯罪者たちよりももっと多くの屈辱と苦しみをイエス様に与えました。十字架刑は彼らの一つのうさばらしでありました。イエス様が十字架の上で祈っておられるのに、彼らはその真下で、イエス様の衣を分けるために、くじを引いていました。おそらく、イエス様の衣は縫い目のない高価な衣だったと思われます。ローマ兵の関心は権力とお金であり、霊的なことには無関心でした。しかし、例外的にローマの百人隊長の何人かは「イエス様が神の子である」と信じていたようです。ルカ23:47百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。昔「The Robe聖衣」という映画がありました。イエス・キリストの処刑に携わったローマ帝国の護民官が、キリストが処刑の際にまとっていた衣を巡る数奇な運命に巻き込まれていく過程を描いています。彼はペテロに会いに行き、迫害を恐れずにクリスチャンになりました。
第三は民衆です。群衆と言って良いかもしれません。ルカ23:25民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」民衆、あるいは群衆は自分自身でよく考えない人たちのことです。彼らは祭司長や律法学者たちに扇動されて、イエス様を十字架につけるように要求しました。彼らはいわゆる傍観者たちです。目の前に十字架の贖いを成し遂げようとしておられるメシアがおられるのに、無関心を装っていました。彼らはイエス様が「他人を救った」ということを認めていました。彼らはそれ以上のことを探し求めませんでした。そして、イエス様のことをあざわらったのです。
私は日本人も、これらの三つのグループに分けられるのではないかと思います。第一は祭司長や律法学者たちですが、これは何等かの宗教を既に信じている人たちのことです。日本の多くの家には仏壇と神棚があります。大体は家の宗教であり、本当に信じている人はいません。でも、お寺の檀家となるとそういう訳にはいきません。彼らはお経を唱え、さまざまな修行に参加します。他には新興宗教にはまっている人たちも結構いらっしゃいます。こういう人たちは心の中にすでに先客がいますので、キリストを信じるためには、先客を追い出さなければなりません。ですから、よっぽどのことがない限りは、これまでの宗教を捨てて、キリストを信じるというところまでにはいきません。第二のグループはローマ兵たちですが、これはこの世の関心事に心がいっぱいの人たちです。お金や物、地位や権力、楽しみや快楽を求めて生きています。私は毎日、散歩をしていますが、水戸街道にはいくつかの高級車が通ります。ベンツやアウディ、レクサスのスポーツタイプ…たぶん高級車は彼らのスティタスを象徴しているのでしょう。私は「ガソリンが食うし、だれかから傷つけられるかもしれないし、大変だなー」と思います。第三のグループは民衆あるいは群衆です。彼らはキリスト教についてはある程度、知っています。でもその知識はだれかの意見やだれかの受け売りであり、自分が調べたものではありません。そして、教会に来て、信じようとしません。なぜなら世間体もあるし、肩身の狭い生き方はしたくありません。信じて迫害を受けるよりは、今のままの生活で良いと思っています。十字架は2000年前の出来事ですが、イエス様をとりかこむ人たちは変わりありません。イエス様は今も「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と私たちのために祈っておられるのです。
2.敵に対するとりなし
イエス様は山上の説教でこのように教えられました。マタイ5:43-44「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」この教えは、私たちにとって最も難しい祈りではないでしょうか?難しいというよりも不可能です。だって、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」って、ありえないです。しかし、イエスさまはその教えを教えられただけではありません。イエス様ご自身が十字架の上で祈られた祈りがまさしくこれです。イエス様はご自分を十字架につけたローマ兵や祭司長、律法学者たちのために祈ったからです。生身の人間だったら、「何するんだお前ら、神のさばきを受けるぞ!」と言っても構いません。江戸時代、千葉県の農民一揆を起こした人物の話です。佐倉惣五郎という人は、下総国佐倉藩の裕福な農民でした。ところが、領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴を行いました。直訴の結果、訴えは聞き届けられ、佐倉藩の領民は救われました。ところが、惣五郎夫妻は磔となり、男子4人も死罪となりました。農民のために生命を奉げたその一生は「佐倉義民伝」などに語り伝えられました。ところが、その佐倉惣五郎は、十字架にはりつけにされた時に、あまりの苦しみに耐えられず、「俺は、お前の代の六代も七代までも、呪ってやるぞ~!」と絶叫して死んだと伝えられています。佐倉惣五郎の話は、私たちに感動を与えますが、イエス・キリストの死とは全く違うものです。私も偉そうなことは言えません。もし、私がクリスチャンにならなければ、「なんで俺が死ななけりゃならないんだ。ちくちょう!」と死んでいったでしょう。
イエス様はご自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈られました。まさしく、ご自分が教えられたように実行しました。イエス様の祈りはうわべだけのものではなく、真実な祈りでした。どうして、そのような祈りができるのか不思議でたまりません。中川健一牧師は、イエス様のこの祈りで信じたそうです。中川牧師は「この祈りは世界を変えた祈りである」とおっしゃっていました。私はイエス様の祈りは大祭司の祈りではなかったかと思います。なぜなら、イエス様は父なる神と全人類の間に立って、「私が十字架にかかるので、どうか彼らを赦してください」ととりなしておられるからです。中川牧師は、自分も祈られた祈りの中に入っていると分かったのでしょう。私たちもイエス様の祈りの中に入っていました。なぜなら、エペソ1:5「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」と書かれているからです。神さまが私たちを選んでくださいましたが、それだけでは救われません。エペソ1:7「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」つまり、キリストは私たちの選びが実現するために、十字架の血によって私たちの罪を贖い、とりなしてくださったのです。なぜ、とりなしが必要なのでしょう?それは自分が神からさ迷い出た罪人であることが分からないからです。ギリシャ語の「罪」は、もともと「標的に当てそこなう」「的をはずす」ということばから来ています。まさしく、自分が何をしているのかが分かっていないのです。かつての、私たちはどうだったのでしょうか?エペソ2:3「…かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」とあります。自分が罪の中を歩んでいることが分からず、滅びの道をまっしぐらに進んでいました。しかし、イエス様のとりなしがあったからこそ、私たちはある時、突然、目覚め、イエス様を信じて救われたのです。ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
多くの場合、イエス様の十字架のとりなしと、罪の贖いが分かるのは、結構、後からです。「イエス様を信じるだけで人は救われる」と言いますが、自分の罪が分かって信じる人はそんなにいないのではないかと思います。おそらく、数年後、何かの問題や苦しみに出会ったときに、分かるのではないでしょうか?あるいは、絶対に赦せない人の罪を赦さなければならないことが起こったときに分かるのではないでしょうか?それだけ私たちは霊的に鈍いのです。しかし、イエス様を信じると霊が生まれ変わります。すると、今まで感じなかった罪の悲惨さが分かってくるのです。イザヤが神殿で主の栄光を見たときこのように言いました。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)。預言者イザヤはそれまで、人々の罪をさばいてきました。ところが、自分もその中の一人であることが分かったのです。私たちはある時、「こんなひどい私の罪をイエス様は赦してくださった。なんと有り難いことだろう!」と悟るときがあります。そのとき、不思議なことに、自分に対してひどいことをした人の罪を赦すことができるのです。『ベンハー』という映画があります。彼は自分を奴隷に売ったローマ兵を恨んでいました。彼の生きる目的とエネルギーは復讐心でした。奴隷に売られていくとき、イエス様から水をもらったことがあります。イエス様が山の上で説教していたのに素通りしました。最後に、十字架を負っているお方が水をくれた人だと分かりました。彼はイエス様の「父よ。彼らをお赦しください」という祈りを聞きました。すると、長年の復讐心が消え去りました。雨が降り、十字架の元から死の谷まで、血潮が流れ込み、お母さんと妹のらい病が消え去りました。家族が一緒にイエス・キリストをあがめました。マタイ5:43-44「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」自分の敵のために祈るというのは、究極の祈りです。これができるのは奇跡です。イエス様を信じるといろんな奇跡を体験しますが、自分が人の罪を、特に敵対する者の罪を赦すことができたら、それは奇跡です。でも、それは不可能なことではありません。私たちは、すでにイエス様のとりなしの祈りと罪の贖いを受けている者だからです。
3.犯罪人に対するとりなし
イエス様がかかられた十字架の右と左には、それぞれ犯罪人が架けられていました。イエス様が「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られましたが、最も近くにいたのが両脇の犯罪人たちです。つまり、イエス様のとりなしの「彼ら」の中には、二人の犯罪人も含まれていたということです。片方はその祈りを聞いても、まったく変わりませんでした。ルカ23:39十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言いました。しかし、もう一人は違いました。ルカ23:40-41すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」彼は自分が死にあたるような罪を犯したことを認めました。だから「自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ」と言いました。これは自分の罪を認めていることであり、回心の一歩手前まで来ています。しかし、彼は自分の罪だけではなく、もっとすばらしいことを発見しました。「だがこの方は、悪いことを何もしていない」と言いました。彼はこれまでイエス様と会ったことがあるのでしょうか?あるいはどこかでイエス様の教えを聞いたり、行いを見たことがあるのでしょうか?おそらくはなかったのではないかと思います。悪行を働いていたか、どこかに逃げ隠れていたか2つに1つではないかと思います。ところが、一緒に十字架にかかっておられるイエス様のお姿を間近で見、イエス様の祈りを間近で聞くことができました。彼は短時間に、この方がただものではない、いやメシアであることが分かったのではないかと思います。だから、彼はこう言いました。ルカ23:42そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」これはどういう意味でしょう?御国とは王国であり、イエス様が王として君臨する時という意味です。彼は、イエス様は来るべき王国の王であることが分かったのです。これまで、多くの人たちがイエス様のお話を聞き、イエス様の御姿を見ることができたでしょう。でも、イエス様が来るべき、王国の王であることを知っている人は少なかったでしょう。おそらく、片方の犯罪人に、啓示の霊が与えられて、短時間で分かったのでないでしょうか。
これで会話が終わってもよさそうですが、彼は小さなお願いをイエス様にしました。彼は「私の罪を赦し、私を救って、御国に入れてください」とは願っていません。何を願ったのでしょうか?「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」そうです。「ただ、十字架のとなりに私がいたことだけを思い出してください」と願っただけです。キングジェームス訳を見ると、彼の信仰告白のように思えます。“Lord, remember me when You come into Your kingdom.”「主よ」と告白しています。弟子たちを含めて、ほどんどの人たちが、「イエス様が死んだらすべてがおしまいだ」と失望落胆していました。ところが、この犯罪人は「あなたが御国に入られるときには」と言っています。つまりは、イエス様が死んで終わりではなく、よみがえって、召天して、天に帰ったら「主」という称号をいただく王国の王様だということが分かっていたのです。確かにピリピ2章にはそれゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」と書いてあります。彼には完全な信仰がありました。「死と復活と召天と王国を携えてやってくる王様だということを」です。でも、「私の罪を赦し、私を救ってください」とは口幅ったくて言えませんでした。「この期に及んで、何を言のか?」とたしなめられるのが怖かったからです。でも、イエス様は違いました。ルカ23:43イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」神学的には「パラダイス」はまだできていません。イエス様がよみに下られて、復活するとき、よみの一部を携えあげ、それがパラダイスになるからです。イエス様は彼に「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。正確には、この犯罪人は一度死んでよみにくだります。イエス様も彼と一緒によみにくだります。そして、イエス様がよみがえるとき、よみの一部をたずさえてパラダイスを作るのですが、そこにこの犯罪人が含まれているということです。言い換えると、彼はイエス様と一緒によみにくだり、イエス様と一緒にパラダイスにのぼったということです。正しいかどうか分かりませんが、だれよりも最短にパラダイスに入った人です。
犯罪人に対するとりなしは私たちに対するとりなしです。彼の信仰告白は罪の悔い改めがありません。彼は「私の罪を赦してください。私を救って下さい」とは言えませんでした。カトリック教会が言うような良い行いもしていないし、教会に通って聖書も勉強していません。まともな信仰告白もしていないし、洗礼準備会すらしていません。彼のことを役員会にかけたら、「無理!」と、否認されるのは間違いありません。でも、イエス様は「私を思い出してください」と言った、この犯罪人をパラダイスの第一号にしてくださいました。これはイエス様が父なる神の前にとりなしてくださったからできたとことです。イエス様は「彼はことばが足りませんが、私のことを来るべき王として信じていました。だから、彼は救いを得ることができます」ととりなしてくださったのではないでしょうか?私たちの信仰は果たして完全なものなのでしょうか?「信じます」と言っても、どのくらい信じているのでしょうか?アメリカの教会では「信じる」の他に、「人生を明け渡します」という告白を加えています。でも、100%人生を明け渡している人は稀でしょう。教会では牧師と役員がその人の信仰告白が真実かどうか審査します。でも、人の心を読める人はいません。なぜなら、洗礼を受けても半分くらいの人が教会を去るからです。しかし、ここで言えることは、私たちが信じられたのは、私たちが救われたのは、イエス様のとりなしがあったからです。「彼、彼女の信仰告白は不十分かもしれません。罪のこともまだわかっていません。でも、私を信じると言ったのですから、彼、彼女の信仰を完全なものとして、受け入れてください」ととりなしてくださったのです。私たちが義と認められたのは、イエス様のとりなしのお陰です。