2022.3.20「創造者を覚えよ 伝道者の書12:1-9」

伝道者の書は伝統的には栄華をきわめたソロモンの作と言われています。箴言は彼が神さまを信じていた頃に書かれた書物かもしれません。一方、伝道者の書はソロモンの晩年に書かれた書物かもしれません。なぜなら、ソロモンの人生の後半は主を離れ、偶像の神々を信じて堕落してしまったからです。だから、「空しい、空しい」と反省の意味で綴っているのかもしれません。だから、「そうなってはいけませんよ」と反面教師的に読むならば益になると思います。

1.人生の目的の土台

 伝道者12:1前半「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」なぜ、「若い日に、創造者を覚えよ」と勧められているのでしょうか?しかも、このところには「神さま」とか「主」ではなく、創造者です。ヘブル語で神は「エロヒーム」と言いますが、「創造者」という概念が含まれています。なぜなら、創世記1:1に「はじめに神が天と地を創造された」と書かれているからです。聖書の神は、宇宙と全世界と全被造物を創られた神さまです。伝道者は、このことを「あなたの若い日に、覚えることができたら何と幸いだろうか?」と言うのです。何故、「若い日」なんでしょうか?「若い日」は英語の聖書でyouthと書かれているので、青春期です。青春期というのは、人生についていろいろ考える時であります。「人は何のために生きるのか?」という哲学的な問題にでくわします。親や学校の先生が「勉強しろ」と良く言うでしょう。すると子どもは「何のために勉強するの?」と言い返します。おそらく、彼らは「良い学校入って、良い会社に入るためだ」と言うでしょう?「それからどうするの?」と聞くと、「良い家庭を築いて、豊かな人生を送るためだよ」と答えるでしょう。「それからどうなるの?」と聞くと、「んん、年取って、死んで、立派なお墓に入るんだ」と答えるかもしれません。すると、子どもは「なあんだ、最後は死ぬんだ。死ぬために一生懸命勉強してどうなるの?」と反論するでしょう。おそらく、創造者を知らない親や学校の教師は、答えを持っていないと思います。そして、「屁理屈言わないで、だまって勉強しろ。勉強しないとろくな大人にならないぞ」とおどすでしょう。そのうち、子どもが大きくなり、何も考えないで、自分がやりたいことや、楽しいことに目を向けて生きるでしょう。どういう訳か、青年記を過ぎると、人生の意味とか死後のことは考えなくなります。

 つまり、「若い日」というのは、創造者なる神さまに目を向けるチャンスなのであります。だから、「わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。太陽と光、月と星が暗くなる前に、また雨の後に雨雲が戻って来る前に」と警告しているのです。おそらく、「太陽と光、月と星が暗くなる」というのは、思考力が衰えるということでしょう。「雨の後に雨雲が戻って来る」というのは神さまからの啓示の光が見えなくなるというイメージがあります。つまり、霊的な事が分からなくなるということです。さらに、12章の3節から7節までは年を取るとどうなるのか比喩的に教えています。3節の「家を守る者たちは震え」とは、手足が震えるということです。「力ある男たちは身をかがめ」とは腰が曲がるということです。「粉をひく女たちが少なくなって」は歯が少なくなるということです。4節の「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり」は耳が遠くなるということです。「人は鳥の声に起き上がり」とは朝早く目が覚めるということです。私も朝起きるのがとても早くなりました。5時頃、目がさめています。昔、山崎長老さんが朝4時に起きて、『一日一章』を始め、何冊も本を読むとおっしゃっていました。5節の「アーモンドの花は咲き」は、しらが頭になるということです。「バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く」は、性欲の減退、呼吸困難が起るということです。最後にどうなるのでしょう?「銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて…」というのは、寿命が尽きて、水がめが砕かれたように転がるという死の荒涼たる様を描き出しています。そして、8節「空の空。伝道者は言う。すべては空」となるのです。つまり、創造者を覚えないで、生きるならば、このような結末を迎えてしまうということです。私は毎日朝夕散歩をしていますが、中川の土手の反対側に大きな墓地があります。夜になると、墓石がキラキラ光っています。「一体、どれくらいの人たちが、まことの神さまと出会ったのだろうか?」と空しい気持ちになります。

 何故、若い時に創造者を知ったら幸いなのでしょうか?それは自分がどこから来て、どこへ行くのか分かるからです。創造者を知るとは、自分が神さまから造られた存在であり、自分のルーツを知ることができます。ということは、人生を目的をもって生きることができるということです。また、神さまからせっかく与えられた命を無駄にはできないと思うでしょう。残念ながら、この世の教育は「人間はアメーバ―から偶然に進化したものであり、猿とはほとんど変わりない」と教えます。人間が偶然に生じたのであれば、そこには目的も意味も存在しません。そこには強い者が生き延びるという、「自然淘汰」「適者生存」という考えが生まれます。ナチスのヒトラーは20万人の心身障害者をガス室に送りました。その後、「アーリア民族が最もすばらしいのだ」と600万人のユダヤ人を殺害しました。ダーウィンが『種の起源』を発表したとき、ヒトラーは歓喜したそうです。日本の教育はぼやかして教えていますが、進化論というイデォロギーに立つなら、「弱肉強食」を支持していることになります。「老人や弱者にやさしい社会」と言われますが、全くの欺瞞であり、進化論とは矛盾している価値観です。何故なら、「生産できない者は、生きる資格がない」という考えが根底にあるからです。本来、人権や福祉の考えは、創造者なる神を信じなければ、成り立たないものです。私たちは能力や年齢に関係なく、創造主なる神から造られたから価値があるのです。

 聖書に『創造主訳聖書』というのがあります。「主」はそのままですが、「神」というところを、「創造主」に置き換えています。たとえば、マルコ福音書を見ますと、「わが創造主、わが創造主。どうして、わたしをお見捨てになったのですか」となっています。聖書の「神」が全部、「創造主」になっているという徹底ぶりです。この聖書の巻末にこのようなことが記されていました。世界の国々では、国民の何%くらいが創造を信じているでしょうか。たとえば米国やカナダでは約60%、隣の韓国では約50%と、創造を信じている人が過半数を占めています。日本人は何%くらいが創造を信じているのでしょうか。個々人が何を信じるかは、何を教えられたかで決まります。日本では進化論は教えられますが、創造論を学ぶ機会はほとんどありません。結果として、ほとんどの人が創造は非現実的で、進化が事実だと信じるようになるのです。」その後、カラー図版で創造の科学的証拠が紹介されています。ほとんどのキリスト教会では、神さまが世界を創造したことは認めています。しかし、有神論進化論と言って、「神さまが生物を進化させた」という折衷案を起用している教会もたくさんあります。ですから、厳格な「創造論」だけでアプローチすると敵を作ることになります。しかし、聖書が日本語に訳した「神」はやはり問題があるかもしれません。なぜなら、日本人は「神」と聞くと、「八百万の神」を想像するからです。日本人は菅原道真とか徳川家康、死んだ人たちを神さまにします。また、何かの名人を「〇〇の神さま」と持ち上げたりします。その反動として、ある教団は「神さま」と言わないで、「イエス様」だけを呼ぶようにしています。お祈りするとき「天のお父様」ではなく、「イエス様」と呼びかけます。「イエス様」という名前は他にいませんので、日本には向いているということです。でも、聖書の神は三位一体なので、「父なる神さま」の役割を過小評価すると、信仰生活に問題をきたすことになります。

 それはともかく、特に日本人はイエス・キリストを信じる前に、創造主なる神さまを知る必要があります。イエス様は「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)とおっしゃったからです。このみことばは、神さまとイエス様の両者を信じる必要があることを教えています。福音的には創造主だけを信じても、贖い主イエス・キリストを信じなければ、救いが完成しているとは言えないでしょう。なぜなら、人間は創造後、堕落してしまったからです。堕落した人間をイエス様が回復するためにやって来られたからです。でも、私たちは「創造主なる神」をバイパスして、完全な信仰を持つことは不可能です。創世記の1章、2章、3章は、聖書の中で最も重要な部分の1つです。そして、伝道者の書12章の「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」は、ソロモンだけではなく、聖書が言うメッセージであることは確かです。新島襄少年は、漢訳聖書の創世記1:1で神を信じました。真夜中このように祈りました。「神さま。この天と地をおつくり下さったことを感謝いたします。私の両親をつくられたことを感謝いたします。私をもおつくりくださったことを感謝いたします。今まで知らなかったとはいえ、お礼を申し上げなかったことをおゆるし下さい。」その後、新島襄はアメリカに渡り、完全な信仰を持って、日本に帰国し、同志社大学を創設しました。日曜学校の子どもたちは、中学校に入ったら、歴史の授業で猿から進化する絵を見てびっくりするでしょう。「なあんだ。うちの両親はなんと非科学的なんだ」と思うでしょう。私たちは自分の子どもを学校だけにゆだねてはいけません。日曜学校はもちろん、ある人たちは「チャーチ・スクール」「ホーム・スクーリング」をやっています。なぜなら、創造論を土台にした教育がいかに大切かを知っているからです。私たちも「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と勧めるべきであります。

2.固有な人生の土台

 あなたの創造主を知るなら、あなた固有の人生を送ることができます。なぜなら、創造主はあなたを二人といない、固有な存在として造られたからです。私たちは一人一人違います。指の指紋、目の虹彩、声紋、歩き方…、現代はそれらによって、その人本人なのか認証できるようになりました。外見だけではなく、能力、考え方、性格、好みなど双子であっても同じではありません。その根拠がこれです。詩篇139:13「あなたこそ私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方です。」『詩篇139篇、瞑想と講解』という著書の中でこのように解説しています。13節の「内臓」と訳されたことばは「腎臓」です。「腎臓」は人間の意思、感情のありか、住み家と考えられていました。「組み立てられた」は、「knit織る」と訳すことができます。神はまるで布を織るかのように、体の各部分を合わせられたのです。さらに、16節「あなたの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々がしかもその一日もないうちに」とあります。「日々」とは、ダビデが経験するに違いない栄枯盛衰を意味しています。彼の人生の毎日、毎日、とそれに伴う出来事はすべて神ご自身の書に書かれています。その上、ダビデの日々のどれもが存在しないうちに、それらがform形成されてしまっていたと言います。結局、この節で予定の教理が教えられているのは事実です。そして、この事実を消し去る方法はありません。実際、起って来るすべてのことは神によってあらかじめ定められています。神はご自身の計画を持っておられます。だから、神にとって不意打ち、とか、予想外の出来事というのは何もないのです。神は将来起ることすべてを予知しておられます。アーメン。つまり、神さまは私たちの一人一人の人生をご自分の書物に記しておられる、運命付けておられるということです。

 続いて、箴言のみことばを引用します。箴言22:6「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」一般にこのみことばは、「日本人の躾」のように捉えがちですがそうではありません。英語の詳訳聖書はTrain up a child in the way should goと訳していますが、補助的にこう書かれています。And in keeping with his individual gift or bent.となっています。「彼、彼女の個人的な賜物と傾向を保ちながら訓練せよ」となっています。つまり、「神さまがその子個人に与えている賜物と傾向を壊すなよ。むしろそれらを伸ばせよ」ということです。Bentということばは本来、「曲がった」という形容詞です。しかし、名詞となると、心の傾向、性向、性癖、適正という意味になります。簡単に言うと、その子の性格や好みということになります。これも、神さまがその子に与えたものなんだということです。私は中学を卒業するとき、どの高校に行くか迷いました。適性検査みたいなものが、あったかどうか忘れました。重要なのは、偏差値であり、どの高校に間違いなく入れるかということでした。私は工業の機械科を受けたかったのですが、担任は土木科だったら大丈夫と勧めました。一番上の兄が、同じ土木科だったせいもありました。しかし、暗黒の高校時代を送ることになりました。卒業後、建設会社に入りましたが5年後に退社しました。そのとき、製図のトレース、デザイナーをトライしましたが、英語で生きて行こうと、町田タイピングスクールに行きました。失業保険が切れる直前、厚木の小さな貿易会社に入ることができました。しかし、そのことによって、会社の先輩から伝道され、クリスチャンなることができました。

 創造主なる神が、私たちの外見だけではなく、能力、考え方、性格、好み、そして生きる道までも創造して下さったとは何と驚くべきことでしょうか?つまり、創造主なる神を知ると、「私は私で良いのだ、人と比べる必要は全くないのだ」と悟ることができるということです。日本は単一民族を誇り、海外から比べて、ものすごく画一化した人の価値観を持っています。学校では5教科ができる子どもが優秀だとみなされます。ケン・ロビンソンは『学校教育は創造性を殺してしまっている』というセミナーでのように語りました。「現在の教育制度は、産業主義社会のニーズから生まれたと言うことをご存じでしょうか?1つ目は働くために有用な科目が最優先ということです。2つ目は学力です。学校の成績だけがいまや知性だと思われていますが、大学側のイメージだけで教育制度を作ったからです。知性について3つのことがわかっています。第一は多様であることです。我々はこの世界を あらゆる視点から捉えます。視覚的だったり聴覚からであったり、感触からであったり、抽象的な捉え方もしますし、動きながらだったりします。第二は知性とはダイナミックです。第三は知性とは比類ないものです。ジリアン・リンは、学校から学習障害があるとみなされました。集中力がなくいつもそわそわしていました。今だったらADHDと言われているんでしょうが1930年代はADHDなどという概念はありませんでした。お母さんはジリアンを連れて専門家に相談に行きました。しばらくたってから、専門家は母親に向かってこう言いました。「お母さん、ジリアンは病気なんかじゃありません。ダンサーですよ。ダンススクールに通わせてあげなさい」。やがて彼女は有名な振り付け師になりました。彼女の作品は誰もが知っている『キャッツ』や『オペラ座の怪人』です。つまり、5教科だけで、子どもの能力を測ることはできないということです。なぜなら、みんながみんな工場や会社で働くわけではないからです。最近はやっとダンスや歌を教えてくれる学校ができました。しかし、「それで食っていけると思っているのか?普通の学校に入れ!」と猛反対する親が多いのではないかと思います。

脳神経学者のキャロライン・リーフ博士は、「賜物プロフィール」ということを教えています。一人ひとりカスタマイズされた考え方を持っているということです。カスタマイズとは「特別注文で作ること、注文に応じて作り替えること」です。人には7種類の考え方があって、一人一人順位が違います。「はい」と「いいえ」の、アンケートがあり最も高いものがその人の思考の特徴です。つまり、私たちの回りに起る出来事を7種類の人はこのように考えがちだということです。①個人内思考の人は、自分を外から見つめ、深く考えることができます。集団よりも孤独であることを好み、一人で何でもしようとします。②対人関係思考の人は、他の人の立場に身を置くことができます。人々に動機を与え、導き、指導し、助言する能力があります。③言語思考は、文章を読んだり書いたりすることが好きです。議論し、説得し、楽しませ、指導するのが好きです。④論理・数学的思考の人は、科学的な推論、論理、分析を好みます。複雑で論理的な問題や方程式を計算して処理することができます。⑤運動感覚思考の人は、体を良く動かし、運動神経も発達しておりスポーツが得意です。非常に触覚的、エネルギッシュであり、周りの物体やものを巧みに処理する能力があります。⑥音楽的思考の人は、歌ったり、楽器を演奏したりする能力が優れています。パターンを読み取り、リズムを識別し、直観的に対処し、行間を読み取る能力があります 。⑦視覚・空間思考は、色、光、形、奥行きを見る能力が優れています。目を閉じ、想像力を使って、実際には目の前にないものを見ることができます。つまり、一人の中に7種類の思考がミックスされており、優先順位がそれぞれ違うということです。だから、どうしても自分の思考にあったように、考え、行動してしまうのです。自分のことが分かると、自分と違う人を見ても、「この人はこのような思考の持ち主なんだ」と理解することができるようになります。つまり、相手に自分の考えを押し付けたり、あるいは相手を否定するようなことから免れるということです。むしろ、違った思考の人と協力して物事に当たることができるということです。

キャロライン師は「これまではIQテストがその人の頭の良さを測る主流でありました。しかし、IQテストでは測ることができないものがたくさんある」と言っています。そうですね、IQテストでは対人関係とか、運動感覚、音楽思考の人を測ることができません。いくら能力があっても、テストからもれてしまます。さらに、キャロライン師は「カスタマイズされた自分の思考を伸ばしなさい。賜物の上位のものをよくやりなさい。最も不得意なものを努力して伸ばす必要はありません」と勧めています。学校では、不得意なものが得意になるように、がんばらせます。欠点や弱いところを克服し、バランスのとれた人、バランスのとれた考え方にしようとします。しかし、それは頭にも良くないというのです。なぜなら、神さまがその人に与えた、賜物の特性だからです。このアンケートで、私は個人内思考の人であることがわかりました。私は「勉強しろ」と親から言われたことがありません。兄弟たちがたくさんいたので放任主義だったからです。一番上の姉が、学研などいろんな教材を買ってくれました。子どもの頃から一人で勉強するのが好きでした。今も、一人で本を読み、カリカリ書いて、説教を作っています。セルチャーチを20年以上も携わりましたが、私は対人関係思考ではなかったので、「うまくいかなかったのは当然だなー」と納得しました。

 パウロは「前のものに向かって身を伸ばし・・・目標を目指して走っているのです」(ピリピ3:13,14)と言いました。これは言い換えると、「周りの人と比べないで、神さまが与えてくださった自分のレースを走りなさい」ということです。私たち日本人は、「人から笑われないように」「人に迷惑をかけないように」と言われて育ってきました。そうではなく、人がどう思うかではなく、「神さまが私をどう造られたのか」ということを求めていけば、おのずと信用や評判が着いて行きます。重要なのは、神さまが与えてくださった自分の人生を全うするということです。そのためにも、神さまが私を固有な存在として造られたという考えが重要なのです。