試練においてもっとも悩むことは、「なぜ、こんなことが起んだ」という疑問です。試練は、神さまを信じている人にとっては、信仰を揺るがす危機的なものとなります。この世の人たちはできるだけ試練に合わないように願って、占いを受けたり、厄払いをするでしょう。主の祈りでも「私たちを試みに会わせず」と祈りますので、試練に合わない方が良いに決まっています。でも、聖書に一貫しているのは、どんな人にも試練がやってくるということです。
1.誘惑と試練の意味
ヤコブ1:12「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」ヤコブ書を見て分かるのですが、「誘惑」と「試練」が交互に出ています。実は2つとも同じギリシャ語で、あるところでは誘惑、あるところでは試練と訳されています。Ⅰペテロ1:7「あなたがたの信仰の試練」とありますが、この試練はギリシャ語でドキミオンであり、「試験」とか「試練を経た」という意味のことばです。ところが、ヤコブ1章の試練はペイラスモスであり、良い意味では「試練、試験、ためす事」であり、悪い意味では「誘惑、試み」です。「試練に耐える人は幸いです」は英語の聖書では、temptation「誘惑に耐える人は幸いです」となっています。ということは、1つの出来事において、その人にとって誘惑になったり、試練にもなったりするということです。たとえば、何か思いがけない悪いことが起きたときどう思うでしょうか?「神さま、どうしてこんなことが起きたのですか?」「どうして守ってくれなかったのですか?」とつぶやいたり疑ったりすることはないでしょうか?旧約聖書の民数記をみると、イスラエルの民は荒野で様々な試練に会いました。しかし、彼らは「水がない」「食べ物がない」とつぶやきました。彼らは、神さまを疑ったのですから、「誘惑」になっているということです。逆に、「神は乗り越えられる試練しか与えない」とテレビ・ドラマの『仁』のように考えるなら、それは試練であり、いずれは益になるということになります。
そのことをヤコブは1章13-17節まで、このように弁明しています。「だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」ヤコブは「誘惑は神さまから来たものではない」とはっきり言っています。では、誘惑は一体どこから来るのでしょう?人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。エバは「その木の実が、おいしそうに見えたので」食べてしまいました。ゲハジは銀と晴れ着に目がくらんで、ナアマンから贈り物を受けました。ダビデは屋上から「美しい女性が体を洗っているのを見て」欲望がわき、罪を犯してしまいました。まさしく、私たちの内側にある欲望が、誘惑に勝利させてしまうのです。しかし、背後に「誘惑者」がいることも忘れてはいけません。主役は私たちですが、誘惑をけしかけてくる悪魔がいるということです。だから、イエス様は「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」(マタイ6:13)と祈るようにおっしゃいました。「悪からお救い下さい」は、「悪い者からお救いください」と書かれている聖書の写本もあります。ヤコブは神さまは誘惑など与えない良い神さまであることを強調しています。神さまはどんなお方でしょうか?「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのもの」と書いてあります。「上」というのは、まさしく神さまのことであります。しかも、「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」と言われています。つまり、父なる神まはいつも、常に善なるお方であるということです。星占いや易では、「天体の運行によって」運・不運が変わります。そのため、常に易者に聞いたり、何かを調べなければなりません。そういう人は恐れに満たされ、平安で生きることができません。私たちの神さまは、父なる神さまであり、私たちに良い贈り物、完全な賜物を与えたいと願っておられるのです。
そうすると「私たちに病気や事故、災いがどうして起こるのか?」という問題が残ります。クリスチャンであっても病気になることがあります。ある人たちは、病気は神さまが与えた試練であると言います。その時、引用されるのがⅡコリント12章に記されているパウロに与えられた「肉体のとげ」です。つまりは、私たちが高慢にならないために、病気や弱さが与えられていると考えるのです。しかし、福音書を見ると分かるのですが、イエス様は出会った病気、障害をことごとく癒しておられます。もし、それらのものが父なる神さまが試練のために与えたとしたら、イエス様は父なる神さまに逆らっておられることになります。イエス様は「父がなさることは何でも、子も同様に行うのです」(ヨハネ5:19)をおっしゃいました。ということは、イエス様は父なる神さまのみこころを行なっているということになります。ですから、訓練や懲らしめのために、病気や障害を与えるというのは的外れの考えとしか言えません。私には4人の子どもがいますが、父親として、「あの子が生意気だから、病気になれば良い」などとは決して思いません。マタイ7:11「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」とあります。ですから、私たちの考え、神さまを見る目を聖書的にする必要があります。「神さまは良き神さまで、最善以下のものは与えない」と聞いたことがありますが、まさしくその通りです。
でも、私たちはこの世に生きている限り、試練や誘惑、病気や事故や災害に会うことがあります。今、言ったことと矛盾しているように思えます。イエス様は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)とおっしゃいました。ヨハネ福音書では、「世」あるいは「この世」とは神から離れた世界、あるいは人々のことであります。アダムとエバが罪を犯してから、「土地が呪われ、いばらとあざみを生える」(創世記3:18)ようになりました。また、ヨハネは「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。」(Ⅰヨハネ5:19)と言っています。私たちは救われ神に属している者であります。しかし、同時に私たちはこの世で生きています。ですから、世の人と同じように「雨が降って洪水が押し寄せ、風が家に吹き付けること』(マタイ7:25)はあるのです。でも、不思議な神さまの守りが背後にあるということは確かです。問題は、私たちが苦難や災害、病気や試練にあったときどのように対処するかであります。民数記のイスラエルの人たちのように「なんでこんなことが起きたんですか」とつぶやくこともできます。つまり、ヤコブ書が言うように試練が神さまを疑う誘惑にもなるということです。旧約聖書のヨブは一瞬にして、全財産と10人の子どもたちを失いました。ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と神に愚痴をこぼしませんでした。今度はサタンがヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫持で打ちました。ヨブの妻は「神をのろって死になさい」(ヨブ2:9)と言いました。さらには友人たちがやってきて、「お前に罪があるからだろう」とよってたかってヨブを責めました。そのため、ヨブの中に沈んでいた疑問が湧き上がってきました。おそらく1年くらいはトンネルの中を通らされたのではないかと思います。原因は、サタンが彼を試したのです。ヨブ記の大きなテーマは「正しい人がどうして苦しみに会うのか?」ということです。しかし、ヨブ記はとても長い書物ですが、その答えのようなものは記されていません。結論として、私たちが知らなくても、主が全部ご存じであるということです。
試練において度々引用されるすばらしいみことばがあります。多くの信仰者たちがこのみことばによって助けられました、Ⅰコリント10:13「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」テレビ・ドラマの『仁』では、「神は乗り越えられる試練しか与えない」と言われていました。しかし、この聖句にはその理由と解決法が書かれています。第一に「試練はみな人の知らないものではありません」とあります。つまり、試練は世の常であり、だれにでも起こり信仰者も例外ではないということです。第二は、神さまは真実な方だということです。ヤコブ1章にも「私たちを誘惑しない良き神さまである」と書かれています。試練の真っ只中で、「これは神さまから来たものではない。なぜなら、神さまは真実だから」と信じられたなら半分解決されたようなものです。第三は愛なる神さまは「耐えられるように、脱出の道を備えてくださいます」。日本語訳では「試練とともに」と訳していますが、メッセージバイブルは「神はあなたが通り抜けるのを助けるため、いつもそこにおられます」と訳しています。私たちを愛しておられる全知全能の神が、私たちに試練の出口へと導いてくださるということです。まさしく、出口のないトンネルはありません。主にあって、明けない朝はないということです。アーメン。
2.誘惑と試練の目的
私たちが出会うさまざまな誘惑と試練には目的あるということです。神さまに「なぜこのようなことが起きたのですか」と問うてもほとんど答えてもらえないでしょう。でも、神さまに「何のためなのでしょう」と問うなら、答えてくれるのではないかと思います。それでは、誘惑や試練にはどのような目的があるのでしょうか?ヤコブ1:1-4「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」試練や誘惑を表わすギリシャ語は、おもに2つあります。Ⅰペテロ1:7「あなたがたの信仰の試練」とありますが、この試練はギリシャ語でドキミオンであり、「試験」とか「試練を経た」という意味のことばです。英語の聖書ではtrial試験、proving立証ということばになっていました。もう1つヤコブ書1章の試練は、ペイラスモスであり、3つの意味があります。第一は試みること、試験です。これは、Ⅰペテロ1:7とほとんど同じ意味です。第二は、試みる、試みられるという悪い意味があります。誘惑、試練と訳されており、英語ではtemptationです。第三は、試みる、ためすことという意味があり、英語ではtry,attemptであり、日本ではチャレンジみたいな意味があります。語彙はこのくらいにして、誘惑と試練の目的には、大きく分けて2つあるのではないかと思いました。
第一は、試みること、試験です。私は若い頃、土浦の日立建機の増設工事に携わったことがあります。時々、工場からパワー・ショベルがやってきます。そして、地面を掘ったり、山にしたりします。ブームをぐるぐる回転させたり、前後したりしています。足回りだけではなく、おもに油圧の検査をしているのです。そのテストが終わるときれいに洗って、塗装をして出荷するわけです。車もそうですが、電化製品や加工品、薬剤など、様々な試験を経て、合格したものだけが市場に出るのではないでしょうか。イエス様も公生涯に入る前に、試みを受けました。マタイ4:1「それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた」と書いてあります。試みはペイラスモスの動詞形であり、英語の聖書にはto be temptedとなっています。ヨブのように悪魔が試みのために用いられているということです。イエス様は3つの誘惑をうけ、ことごとくみことばによって勝利されました。イエス様は公生涯において、それらの誘惑にあったとき、勝利できる「合格証」をいただいたわけです。たとえば、5000人を5つのパンと2匹の魚で養ったとき、人々は彼を王にしようと詰めかけました。でも、イエス様はその場を去り山に退かれました(ヨハネ6:15)。イエス様が病の癒しや奇跡を行ないましたが、自分がメシヤだと誇示するためではなく、愛とあわれみから出たことでした。十字架にかかるときは、この世のヒーローからはかけ離れていました。また、エジプトに囚われたヨセフも試みを受けました。ヨセフは、主人の妻から誘惑されたとき、上着を脱ぎ捨てて逃げました。しかし、彼女はヨセフの上着を手にして、訴えました。そのため、ヨセフは監獄に入れられました。彼は13年間も奴隷として過ごすのですが、詩篇の記者はこのように解釈しています。詩篇105:18-21「ヨセフの足は苦しみのかせをはめられその首は鉄のかせに入れられた。彼のことばがそのとおりになるときまで【主】のことばは彼を錬った。王は使いを送ってヨセフを解放した。諸国の民の支配者はそうして彼を自由にした。主人である王はヨセフに自分の家を任せ自分の全財産を治める者とした。」英語の聖書は「主のことばがテストした」と書かれています。やがて、ヨセフはテストに合格して、エジプトの総理大臣になり、ヤコブの家族を寄留させることができました。
第二は、私たちの品性が練られ、完全な者となるためです。ヤコブ1:2-4「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」「完全な者」とはギリシャ語で、テレイオウであり、「仕上げる、完成する、苦難による完成」という意味があります。私たちの成長を見るとどうでしょう?赤ん坊から、子ども、やがて大人へと成長します。そのとき、身体だけではなく、知性や感情も、人格的にも成長していきます。子どものときは簡単に投げ出していたことは、だんだん最後までやり通すことができるようになります。子どものときは簡単に泣いて喧嘩したのに、気の合わない人とでも共同して働けるようになります。試練や誘惑で最も成長する人格は「忍耐」ではないかと思います。ヨブはあれだけ苦しみました。ヤコブはヨブの事をとても賞賛しています。ヤコブ5:11「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。」ヨブの結末は、所有物が2倍になり、子どもが10人与えられ、長寿を全うしたことです。だから、ヤコブは「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」と言うのです。でも、誘惑や試練が訪れたとき、「ヤッホー、これを乗り越えられたなら祝福が待っているぞー」と果たして言えるでしょうか?「ああー」とふてくされ、だれかを恨み、そこに座り込んでしまうかもしれません。
あるウェブに「ウィンストン・チャーチルに学ぶ3つのキーワード」というのが書いてありました。第一は「不屈」である。当時の英国はオスマン帝国側戦力を甘く見ていた。およそ1年をかけた上陸作戦は無残な敗走戦に化した。英国軍の死者は2万1千人、オーストラリアなど英連邦から参戦した4か国からは1万三千人が戦死。フランス軍からは1万人が死亡するという大惨事になった。責任を負った立案者のチャーチルは作戦開始の3か月後に罷免される。家族を失った英国民の怒りは火になって燃え盛る。チャーチルは後に「このとき、わたしはほぼすべてを失っていた」と振り返っている。第二は、「孤独」である。先の作戦失敗の打撃から回復したチャーチルは、その後病気(盲腸)や選挙での3回の落選を経験するが、またもや不屈の精神を発揮し、そのつど返り咲く。軍需相、空相兼任の陸相、植民相、大蔵相などの要職を歴任する。それが1920年代最後の年、ころっとツキが変わる。手始めはウォール街の大暴落で財産を失い、復帰した保守党ではインド自治領化に異を唱えたため立場を失う。そして極めつきは、ニューヨークで交通事故に遭うという不運ぶり。彼の政治家生活で最も不遇だった「荒野の十年」の始まりである。「荒野」というのは、もちろん、政治的荒野だ。政府でも党でも要職につけない。いわば政治的プー太郎。ところが、ヒトラーの台頭による20世紀最大の嵐の予兆を彼は捉えることができた。エゴイスト、傲慢、礼儀知らずと批判され続けた男。しかし、第一次大戦も含めた豊富な従軍経験により、軍事と戦争を知り尽くした男。そして、なにより、英国を愛する男が帰ってきた──。第二次大戦開戦直後、海軍大臣に就任したチャーチルを出迎えた海軍最高首脳の言葉は「閣下、お帰りなさい」であったという。第三は「愉楽(心から楽しむ)」こと。そのスピーチと言葉の力、困難や孤立をも耐え忍び、再び立ち上がっていこうとする不屈のウイルパワー(精神力)が政治家チャーチルを際立たせていることを述べてきた。だが、この男を語る際、それだけでは不十分である。「一個人チャーチル」、これがオモシロイのだ。贅沢で、多趣味で、しかもそのどれもが一流。政治家の部分を引っこ抜いたとしても、魅力あふれる男なのである。彼は数えきれないほどの本を読み、また生涯43冊を著している。著作のほうは、いかにも「ミスターブリテン」らしく、主題は英国史。1948年に出した全6巻の第二次大戦回顧録でノーベル文学賞を得ている。…チャーチルほど波乱万丈な生き方をした政治家はいないだろう。だが、油絵、造園、車、ギャンブル、蝶の採集などたくさんの趣味を持ち、精神のバランスをとっていた。
本日のまとめです。成熟し、完全な者となるためには試練や誘惑を通過する必要があるということです。「あの神の子イエス様ですら、その必要があった」と、ヘブル人への手紙には書かれています。ヘブル2:18「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」、ヘブル5:8「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり」とあります。つまり、イエス様は完全な救い主になるために、試みを受け、苦しみによって従順を学び、すべての人にとっての永遠の救いの源になることができたのです。そのように考えると、私たちの人生においても、すべての試練や誘惑、苦しみをパスする、逃れることはできないということです。なぜなら、そのことによって私たちがきよめられ、神さまの働きを全うできる者と変えられるからです。ヘブル11:7「訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」アーメン。もし、私たちが身に降りかかる試練や誘惑を「これは父なる神さまからの訓練である」と考えることができたら何と幸いでしょう。もちろん、自分の不注意や失敗で招いた苦しみも含めてです。「なんで、あんなことを?」と、自分の頭をポカポカ叩きたくなることもあります。でも、そのことを単なる失敗ではなく、尊い訓練として耐え忍ぶのです。そうするなら、失敗も益になります。イエス様は私たちが受けるすべての試練や誘惑に勝利されました。その方が私たちの中に生きておられるのです。だったら、試練や誘惑に打ち勝つ力と命があるはずです。アーメン。