アフリカでは内乱のため、数えきれないほどの孤児が発生しています。現在の日本では、孤児はほとんどいないと思います。しかし、霊的な孤児はたくさんいると思います。それは、本当の父がいないということです。あるセミナーで、「孤児の霊」ということを学んだことがあります。いろんな理由で父がいない場合にそうなることがあります。自分が幼いときに父を亡くした、離婚していなかったということがあるでしょう。あるいは実際に家にいても、家庭を支えなかった、口をきいてくれなかったという父もいるでしょう。あるいはギャンブルやアルコール中毒で、いない方がよかったというケースもあるかもしれません。きょうは、「神さまが父であるなら」と題して、4つのポイントで学びたいと思います。
1.必要
私の家内や子どもたちが「パパ、どうしてこんなに買ってくるの?」と驚いています。我が家には、お醤油、食用油、カレーのルー、かつおぶし、調味料が山ほど蓄えられています。私がセールで安いとき買って、貯めているんです。丹沢や谷川岳から汲んできた水もタンクで20個くらいいつもあります。新型コロナ・ウイルスのとき「買いだめするなんて」と馬鹿にしましたが、小麦粉やスパゲッテイをたくさん買っていました。このメッセージを準備しながら、「ああ、自分は貧乏性なんだ」と思いました。私には父がいましたが、国鉄を解雇されてから、板金工になりました。秋田は雨が多いので、トタン屋根の仕事ができず、いつも魚釣りに出かけていました。一番上の兄が高校に入ったとき、「お父さんの職業は?」と聞かれて「無職透明」と答えたそうです。その分、母がたんぼや畑を作り、春は筍取りを、冬は縄をなって支えていました。やがて、大きくなった姉や兄が仕送りをしてくれました。子どもたちがお母さんだけを慕うので、父は酒を飲んでは暴力をふるっていました。つまり、私には父がいましたが、家を支えていなかったので、経済的な不安がつきまとうことになりました。
イエス様は「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」(マタイ6:26)と言われました。神さまが私の父でないと思っている人は、とにかく働いて食べていかなければならないと思うでしょう?言い換えると、父のいない人生は、ただ生き延びるための人生と言えます。父なる神さまは自然界の動植物を養っておられますが、私たちは彼らより勝る存在だということです。つまり、全宇宙を創られた神さまが私たちの父であるなら、全ての必要は与えられるということです。でも、日本は神さまが父であることを知らない国民なので、「食うために働くしかない」と必死で生きています。「死活問題」という表現がありますが、「生きるためなら何でもする」みたいなところがあります。そして、定職のない人を馬鹿にする傾向があります。そこへ行くと、ヨーロッパの人たちは父なる神さまを信じています。かつてローマでは奴隷たちが働いて、市民は哲学や政治を語っていました。ギリシヤやイタリヤは赤字大国ですが、毎日、陽気に暮らしています。日本人ほど勤勉な国民はいませんが、「いくら働いても暮らしは楽にならない」とつぶやいています。もちろん、勤勉であることは良いことです。「働かざるもの食うべからず」と言われていますが、パウロが言ったことばではありません。パウロは「働きたくない者は食べるな」と命じたのであって、働きたくても働けない人のことを言ったのではありません。私たちは働くことによって、経済的な支えを得るということは基本的なことです。男性が結婚して、一家の父になったなら、これは避けられない課題であります。でも、専業主婦が仕事をしていないと、考えるなら大きな間違いです。家政婦を雇って、主婦の仕事をさせたらかなりの額を支払う必要があるでしょう。
ジョエル・オスティーンの父の家族は、南部の綿花農場で生計を立てていました。親戚もみんな貧しく、大恐慌が追い打ちをかけました。17歳のとき、彼の父ジョンがキリストに人生を委ね牧師になりました。そうすると、ジョン・オスティーンの両親も親戚も「私たちの先祖はこの農場で働いている。お前もそうすべきだ」と反対しました。しかし、ジョンは「私の家族と子孫は貧困から脱し、豊かな生活を送る」と信仰をもって飛び出しました。その祝福が子どもや孫たちにも及びました。ジョエル・オスティーンのメッセージを「功利主義」と批判する人がいますが、彼の歴史を見るとそうでないことが分かります。彼は「good enough(まあまあ)ではなく、thrive(豊かになる)」と良く言います。多くのクリスチャンは神さまが父であることを知的には知っていますが、あなたはどうなのでしょうか?「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」(マタイ6:26)アーメン。
2.愛顧
もし、宇宙を創られた神さまと父という親しい関係を持ったならどうなるでしょう?父なる神さまは特別にその子どもを愛してくださるでしょう。マタイ7:11「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」私も父親ですが、「自分の子どもたちには良いものを与える」という心理が良く分かります。長男が小学生の頃、ガンダムのおもちゃが流行しました。一個、300円から500円くらいのかわいいモデルです。ある時、息子のおめあてのものが近くの店に置いてありませんでした。あの時は、いろんな玩具屋を尋ね、松戸まで行ったことがあります。どの子か忘れましたが、特定のパンパースを捜し求めて夜中に薬局に出かけたこともあります。おそらく、私の子どもたちは、「パパは必ずどこかから手に入れてくる」という信仰があると思います。自分の子どもであるなら良いものを与えたいというのは親心です。知らない子どもが、道端で「アイスクリーム食べたい」と近づいて来たら、すぐ買ってあげるでしょうか?我が子だったら、スーパーが閉まる直前でも走って行くかもしれません。
愛顧は英語でfavorと言います。英語の聖書に度々出てくるのですが、日本語聖書では「愛する」「恵む」としか訳されていません。Favorは「愛顧」「好意」「かわいがり」です。たとえば、ルカ2:52「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」とあります。KJVはAnd Jesus increased in wisdom and stature, and in favor with God and men.この意味は、「イエス様は知恵と背丈と、神と人からの愛顧と、3つの分野が増し加わった」となります。イエス様は一般的な愛ではなく、favor愛顧が必要だったということです。私たちは子どものとき、両親から一般的な愛ではなく、愛顧、かわいがりをいただく必要があります。愛顧を受けることによって、自分は特別に愛されている、私は特別なんだと言う「自己愛」が満たされるでしょう。フロイトは私たちの潜在意識に住む「イド(子ども)」は、3つの特徴があると言います。それは、「自己中心self-centerd」と「自己愛narcissistic」と「依存dependent」です。この世の躾ではそれらの3つを否定するかもしれませんが、子どものときにある程度、満足させてあげないと、偏った大人になってしまうでしょう。ある人たちは、Favorは聖書的でないとおっしゃるかもしれません。2箇所だけ聖書から引用致します。箴言3:4「神と人の前に好意favorを得、聡明であれ。」、箴言22:1「名声は多くの富より望ましく、愛顧favorを受けることは銀や金にまさる」。アーメン。
ジョエル・オスティーンが“The power of favor”(愛顧の力)という本を書いています。半分くらい読んだら、「そんなにうまくいくもんか?眉唾物だな!」と思ってしまいました。たとえば、「あなたはまもなく昇進します」「あなたの病気は突然、癒されます」「あなたを助けてくれる人がまもなく現れます」などと書かれています。「何の根拠があってそう言えるのか?私はたくさんのことを期待してきたけど、そうならなかった。こんなメッセージで2万人もの会衆が毎週来ているなんておかしい」とまで思って、読み続けるのが嫌になりました。「何の根拠があって」と改めて問うたとき「彼にとって宇宙を創られた神さまが父だからじゃないか」と答えがやってきました。一般的なクリスチャンはキリストの贖いがなければならないとか、約束のみことばが与えられないとだめだとか言います。しかし、私がクリスチャンになってからの40年を振り返ると、「願った以上に答えられたものってたくさんあるなー」と気づかされました。会社をやめて神学校に行けたこと、結婚、亀有教会の牧師になったこと、子どもたちが健康で成人したこと…思い出したらたくさんありました。では、なぜ、ジョエル・オスティーンが言うfavorが信じられないのか?それは、私自身、父なる神の我が子に対する無条件の愛ということを知らないからだと分かりました。愛顧favorというのは、こちらの行いや態度がどうであれ、一方的に与えられるものだからです。つまり、父なる神さまから一方的に条件なしに、昇進や病の癒し、助け手が送られてくることを期待して生きて良いということです。あなたは父なる神さまから特別に可愛がられています。アーメン。
3.アイディンティテイ
ローマ8:15「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。」アイディンティテイはもはや日本語になっています。これは「自分はだれであるのか」という自己認識です。聖書を見て分かりますが、「だれそれの子、〇〇」という言い方をしています。たとえば、ヨシュアのことを「ヌンの子ヨシュア」言っています。イエス様の弟子も「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」と紹介しています。イスラエルではその人がだれの子孫であるのか、どの部族に属しているのかとても大事なことでした。そして、名前を呼ぶとき、父の名前と一緒に呼ぶことも多かったようです。ちなみにMcDonaldは、「Donaldの息子」です。現代は、自分がだれの家に属して、だれの子どもであるということが言われなくなりました。個人主義の影響かもしれません。それはともかく、自分の霊的な父が、全宇宙を創られた神さまであると知ることはとても重要です。イエス様は、「天の父と呼べ」と許可を与えたのに、そう呼べないクリスチャンもいます。「父」と呼ぶと、「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い出すからでしょう。地上の父を否定すると、自分のルーツ、アイディンティテイを否定することになります。どんなひどい父であっても、「天の父が地上の父を用いて、この私を存在させた」と理解することはとても重要です。「父なる神さま、あの父とあの母を通して、私を誕生させてくださったんですね、ありがとうございます」と祈ることができたらなんと幸いでしょう。私たちは両親のDNAだけではなく、天の父のDNAも宿っています。それは神の霊、聖霊です。
Theresa Dedmonが“Born to Create”(創造するために生まれた)という本を書きましたが、彼女の証が載っていました。「私は神の愛のために働くように作られていると思っていたので、私のイマジネーションと創造力が神にとって貴重であるとは思いませんでした。言い換えれば、神は私が誰かであるかではなく、神のために何ができるかについて興味を持っていると思いました。私は娘になることを目指していましたが、自分がすでに娘であることを知りませんでした。私は自分が生み出すものによって、神の好意を得なければならないと教えられていました。2002年にカリフォルニア州レディングのベテル教会に来たとき、私は主人の入札を得る奴隷ではなく、人間としての神の価値を理解し始めました。創造の記述を研究すると、男性と女性が何かして神の愛を保つために、神のイメージに彼らを造られなかったことがわかりました。彼らが神に従わなくても、神は彼らの創造主であり、常に彼らの父でした。この真実は、私が不安な孤児として育ってきたので、私から隠されていました。神の無条件の愛を理解しているベテル教会のリーダーシップチームの下に座っているとき、私自身の問題が神にとって重要であることに気付きました。私は厳しい工事監督に悩まされる必要はありません。私は、愛する父が大切な娘として私を世話している家族に生まれ変わりました!これらの真理は、神の見方と自分の見方を劇的に変えました。」アーメン。
パウロは「奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです」と言いました。日本ではフルタイムの献身者になると、「私は神のしもべです」とか「神のはしためです」と自分のことを紹介したりします。半分、冗談かと思いますが、「自分のしたいことを全部諦めて、神さまに全面的に服従するのだ」という考えがどこかにあります。最初は喜んで献身したはずですが、次第に苦しくなり、「普通の信徒に戻りたい」とドロップアウトする人もいないわけではありません。神さまが、普通の信徒には優しい父であり、フルタイムの献身者には厳しい工事監督なのでしょうか?私もかつてはそう思っていたことがありました。神さまが「パウロはあれだけ頑張っていたのに、なんだお前は?歯がゆいぞ!」と思っているんじゃないかと思いました。まさしく、「奴隷の霊」を受けていました。何が問題なのでしょうか?ヨハネ15:15「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」アブラハムは「神の友」と呼ばれました。同じように、イエス様が弟子たちに対して、しもべではなくて、友であると言われました。しもべ、奴隷は神さまの言いつけどおりします。対等な会話もせず、そそくさとその場を去るでしょう。友も神さまの言いつけどおりします。しかし、神さまと親しく交わることが許されています。父なる神さまが「このことをあなたならどうする?」と相談するかもしれません。それは、まるで、父と息子、父と娘のような会話です。私たちはキリストにあって、神さまを「アバ、父」と呼んで、親しく交わることが許されているのです。
4.相続人
ガラテヤ4:1-7抜粋「相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります。…そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」さきほどの、ローマ8章と似ていますが、ここでは「子ならば、神による相続人です」と書かれています。パウロは1つの喩えを用いています。それは、子どもが小さかったときは、後見人や管理者の下にあり、奴隷と少しも違わなかったということです。つまり、本当は父の子どもなのですが、まだ小さいので、他の人が親代わりに全財産の運営をしていたということです。ところが、その子が成人になると今度は全財産を自ら管理するようになるということです。言い換えると、父から全財産を相続するということです。私は王家や貴族で生まれたわけではないので、この譬えが夢物語にしか思えません。遺産相続なんて、はじめからない家で育ちましたので、ピンときません。しかし、父なる神さまは地球だけではなく、全宇宙を創造し、所有しておられます。ヨハネ黙示録21章を読むと、神殿の城壁と土台に高価な宝石を使っています。道路は純金でできています。私は工事現場の監督でしたが、土台には最も安いコンクリートを打ちます。道路は砂利と石油のカスであるアスファルトです。そう考えると神さまは何て金持ちなんだろうと思ってしまいます。
私がそのような大金持ちの神さまの相続になのに、お醤油や食用油、カレーのルー、かつおぶし、調味料を蓄えなければならないのでしょう?私がそのような大金持ちの神さまの相続になのに、山から水を汲んでこなければならないのでしょう?さっきは「奴隷の霊」ということを話しましたが、「貧乏の霊」もあるのかもしれません。数年前、21世紀教会で「命の刷新セミナー」を受けたことがあります。そこでは「孤児の霊」ということを学びました。ヨハネ14:18「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」孤児の霊を持っている人というのは、大体が不幸な家庭で育ったことが原因です。彼らは4つに対する偽りの満たしを求めます。①お金、物質、不動産などを所有することによって安全を求めます。②不道徳な性的関係や抑圧された愛によって、愛し愛されることを求めます。③地位や名誉、他人からの賞賛を得ることを求めます。④権力やコントロール、操作によって人生の目的と方向を求めようとします。「孤児と一般の子ども」の違いというのもあります。孤児には名前がない、孤児には相続権がない、孤児には真の家庭の認識がないということです。
私たちは奴隷の霊や、貧乏の霊、孤児の霊から解放される必要があります。そのためには、聖霊によって生まれ変わり、神さまを「アバ、父よ」と呼ぶことから始める必要があります。これまで、自分の知恵や力のみに頼り、生き延びるための人生でした。しかし、父なる神さまは、あなたのすべての必要を満たしてくださる良き神さまです。私たちは奴隷ではなく、父なる神さまの息子であり、娘です。神さまを喜ばせるために働く必要は全くありません。私たちは無条件に愛されていおり、たとえ失敗しても支援し励ましてくださいます。父なる神さまは私たち一人ひとりにすばらしい計画を持っておられ、すべてを益にしようと背後で働いておられるのです。私たちはイエス様がそのようにされたように、父なる神さまと親しい交わりができます。あなたは父なる神さまと親しい友のように交わることができるのです。そのとき、私たちを励まし、あるときは「このようにしなさい。私が必要を満たすから」と導きを与えて下さいます。
リンシ・スナイダーは、In-N-Out Burger会社の所有者であり相続人であるアメリカの億万長者の実業家です。彼女が12歳のとき両親が別居し、数年後、父親は薬物で死亡しました。その後、カルフォルニアのレディングクリスチャンスクールを卒業しました。彼女は3回の離婚を経験しています。義理の兄弟からIn-N-Outの経営を受け継ぎますが、激しい訴訟に巻き込まれました。32歳で会社を完全に支配し、億万長者にランクされました。彼女は敬謙なクリスチャンであり、自分のBurgershopの目的は神に仕えることだと言っています。以前に失敗した結婚、家族の死、信仰がどのようにこれらの不幸に対処するのを助けたかを証し、「イエスが与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません」(ヨハネ4:14)とメッセージしています。また、アルコール中毒者、ドラッグ依存者を助ける働きをしています。父なる神さまは、私たちの苦い思い出を甘い泉に変えて下さいます。神さまの無条件の愛によって、石の心が柔らかにされますように。