世界各国のほとんどの人が何らかの神さまを信じています。無神論は「神は存在しない」という1種の信仰であります。クリスチャンはまことの神がおられることを信じています。そして、「私はキリストを信じて救われました」と告白するでしょう。でも、神さまが私をどのような根拠で救って下さったかを説明することが難しいと思っているかもしれません。私たちは三位一体の神さまを信じていますが、私たちが救われるために、どのようなことをなさってくださったのでしょうか?
1.聖書による神の啓示
本来、神と言うお方は、超越的であるべきです。一方、偶像は私たち人間が勝手に作った神さまなのですから、その力が人間よりも少しだけ上でしょう。もし、その神さまが、私たちより力が下であれば、「私をどうか守ってください」とは祈ることができません。ですから、神さまは私たちよりも能力が上でなければなりません。でも、どこに本当の神さまがいるのでしょうか?世界中の人たちが、自分なりの神さまを求めて、祈っています。日本でも八百万の神がいるのですから、世界では、どのくらいいるのでしょうか?韓国では神さまを「ハナニム」と言います。「ハナ」は「上方に、一つの」という意味です。「ニム」は「拝むべきお方、神さま」です。ですから、日本のように「どの神様ですか?」という質問は生まれません。日本は数多くある神さまから、どの神さまを神さまとして信じるかを選びます。これを「拝一信教」と言います。しかし、韓国の「ハナニム」が意味するように、神は唯一であり、他には神はいないという信仰を「唯一神教」と言います。世界では、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の3つがその典型だとされています。
ここから急に、経典の話になります。ほとんどの宗教は経典を持っています。仏教の経典には、大きく分けて小乗経典と大乗経典があります。小乗経典は、仏陀の没後に口伝を元にまとめられたものです。原始仏典とも言われるもので、代表的なものは、涅槃経、法句(ほっく)経などがあります。一方大乗経典は仏陀の没後数百年経ってからまとめられたものです。大乗経典の代表的なものは、般若信教、阿弥陀仏経、観音経などがあります。一方、イスラム教ではコーラン、キリスト教では聖書です。ユダヤ教は私たちでいう旧約聖書なのですが、トーラーとタルムードが経典となっています。私たちが信じているキリスト教はいわば「啓示の宗教」と言えます。もちろん、他の宗教も何らかの悟りや神秘体験から生まれたものです。でも、私たちは聖書に神さまご自身と神さまの御旨が啓示されていると信じています。なぜ、啓示が必要かというと、永遠で無限なる神さまを、私たち人間ではとうてい分からないし、分かるはずがありません。もし、私たちが神さまのことを全部分かってしまったら、それは人間と同じか、人間以下になり神さまではありません。そのため、「私はこういう者ですよ」という上からの示しが必要です。これを「啓示」と言います。聖書は「神さまはこう言われます」という啓示を文書化したものだと言うことができます。文書に残すと、後の時代の人も「神さまはこういうお方か」と分かるからです。
一般のキリスト教会は「聖書がこう言います」「聖書にこう書いてあります」と聖書からメッセージをして、聖書から教えます。また、牧師や教師から全部、教わらなくても、聖霊が教えてくださるという信仰があります。これを「聖書信仰」と言います。ところが、啓蒙主義の発展により、「聖書が本当に神さまのことばなのか?」という理性による、メスが入りました。哲学者たちが、理性によって理解できるものを選び、理性で理解できないものを排除しました。どうなったでしょう?聖書のほとんどは民衆の生活から生まれたものであり、そこにわずかばかりの神さまの啓示が含まれているという結論に達しました。たとえば、「モーセが書いたとされる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、実はずっと後の時代の人たちが編集したものである。啓示としてのモーセの十戒は認めるにしても、モーセが全部書いたわけではない」ということになったのです。新約聖書にもメスが加えられ、「歴史的なイエスと聖書に書かれているイエスとは違う。イエスが本当におっしゃったことを聖書から抽出しなければならない」と考えました。また、パウロ書簡をコンピューターにかけ、「エペソ人への手紙はそうではない。他の人が書いたものである」と結論が出されました。多くの奇跡が取り除かれ、比喩的にあるいは象徴的に解釈するようになりました。ドイツの神学者たちは「たとえ、聖書に誤りがあったとしても、聖霊によって神のことばになる」と主張しました。この新正統主義という考えが、イギリス、アメリカ、そして日本に入ってきました。これが日本の主流のキリスト教会の立場です。
かつて、キリスト教国といえば、ヨーロッパの国々、南北アメリカ大陸、オーストラリアでした。戦後は、アジア大陸、アフリカ大陸へと移動しました。それでも、イスラム教の国が西アジアや北アフリカにたくさんあります。ロシアや中国は共産国でありながらも、人口の10%以上はキリスト教です。では、現在、どのようなキリスト教が主流なのでしょうか?聖書の啓示をそのまま信じている教会は本当に少なくて、いわば宗教としてのキリスト教です。神さまの存在は信じていても、遥か遠くにおられ、日常生活にはほとんど関わることはありません。クリスチャンであっても、「奇跡というのはめったに起こらなくて、自分の知恵や力に頼り、死んだら天国には行けるだろう」と考えて生きています。天国に行ける信仰はありますが、この地上において、生ける神さまとの関係がありません。これが平均的なキリスト教信仰です。私は聖書をそのまま信じる福音派の教会から当亀有教会に1987年に赴任させていただきました。当時は日本基督教団に属していましたので、キリスト教以外にも救いはあると言うのが主流でした。当時の役員さんも、半分はそのように考えていました。私はペテロが言ったことばを堅く信じて牧会を行なってきました。使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」この方とは、イエス・キリストのことです。聖書は神さまがだれかを啓示しているだけではなく、神さまに達する道も啓示しておられます。唯一まことの神さまがおられることを、キリストを通して分かるのです。なぜなら、キリストが道であり、真理であり、いのちだからです。
2.キリストの啓示と贖い
第二のポイントは、「なぜキリストでなければならないのか?」ということをお話ししたいと思います。クリスチャンだけではなく、世の人々も「キリスト教」と言います。なぜ、キリスト教なのでしょうか?もちろん「イエス・キリストの教え」から来ていることは間違いありません。でも、教えからだけですと、他の宗教にも教えがあります。釈迦にも教えがあるし、天理教も教えがあるし、創価学会にも曼荼羅みたいな教えがあります。しかし、本当に教えだけで人が救われるのでしょうか?簡単に言うと、私たちを救ってくださる「お方」が必要なのではないでしょうか?そのお方が、神が人になられた御子イエス・キリストです。「なぜ、キリストがいなければならないのか?」ということです。キリスト教の異端であるエホバの証人は、キリストの神性は認めません。だから、一生懸命布教活動をして、14万4千人の天には入れなくても、せめて地には入れるだろうと頑張っています。彼らは良い行いによって、エホバなる神さまに近づくことができると信じています。では、「なぜキリストなのか?」そこには、2つの理由があります。
第一はキリストご自身が父なる神の啓示であるということです。聖書はもちろん神さまを啓示していますが、キリストは「神さまは私の父である」と言われました。ヨハネ14章でピリポとの会話が記されています。ヨハネ14:8-9「ピリポはイエスに言った。『主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエスは彼に言われた。『ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」神さまが父であるという考えは他の宗教にはほとんどありません。天理教は「親神」と言いますが、教理のほとんどは聖書を真似たものです。教えはあっても、罪を贖うお方がおりません。イスラム教のアッラーの神は、全知全能の審判者であり、父という概念はありません。私たちが注意すべきことは、父と呼べるのは、御子であるイエス・キリストだけであるということです。正確に言うと、キリストの父なる神ということになります。私たちはキリストを信じると、養子にされて、神さまをお父様と呼べるようになるのです。「神の子どもとされる」は英語でadoption「養子縁組」という意味です。もう一度、申し上げますが、イエス様は「私を見た人は、父を見たのです」とおっしゃいました。父なる神とはどのようなイメージがあるでしょうか?全知全能だけではなく、愛であり、善なるお方だということです。イスラム教にはそのような考えはありません。私たちに対する計画を持っておられ、私たちが目的をもって永遠に生きることができるようにすべての必要をお与えになるお方です。イエス様はマタイ6章で「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」(マタイ6:26)とおっしゃいました。だから私たちは地上において、余計な心配をしなくても大丈夫だということです。
残念ながら、「神さまが私たちの父である」という考えが日本人にはありません。世界で日本人ほど勤勉な民族はいません。ヨーロッパの人たちは、あまり働かなくても結構、裕福な生活をしています。イタリアやギリシヤはあれだけ赤字なのに、明るくのびのびと生活しています。日本は一年間に3万人以上も自殺をしています。カンボジアはとても貧しい国ですが、自殺者はほとんどいないそうです。世界のどこかで紛争が起こっていますが、3万人も死んだら、戦争と同じです。日本人は頑張りや努力はあっても、「神の恵み」がありません。「そんなに頑張らなくても、私たちを養ってくださる神さまがおられる」ことが分かったなら、自らの命を絶たなくても良いと思います。クリスチャンになっても、父なる神さまのことが分からない人がいます。多くの場合、模範的な父に育てられたことがなかったからです。ヨハネは第一の手紙2章で、「小さい者たち、若い者たち、父たち」と3種類の人を書いています。クリスチャンになっても、若い者たちぐらいにはなれます。しかし、父になれないのは心が癒されていないからです。福音書のイエス様を見たなら、父なる神さまが分かり、「あわれみの心」が与えられます。イエス・キリストの中に父なる神さまのすべての良きものが隠されています。私たちはキリストの名によって何でも求められる神のこどもです。
第二はキリストの贖いです。他の宗教には「罪」という概念がありません。だから、当然「贖い」もありません。キリストによる罪の贖いこそが、キリスト教の神髄と言っても過言ではありません。でも、これは単なる教えではなく、私たちの存在をかけて信じるという信仰が必要になります。「なぜ、2000年以上も前に、ゴルゴタの丘で死んだイエスが私の救い主なんだ」ということは私たちの知性では分かりません。Ⅰヨハネ4:9-10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」神さまは愛であられます。また、同時に神さまは義なるお方でもあります。人間には罪があるので、義なる神さまはさばかなければなりません。「では、どうしたら罪ある人間を愛することができるのか?」神さまはお考えになったと思います。それは、ご自分の独り子を世に遣わして、人類の罪を彼に負わせ、宥めのささげ物にするということでした。「宥め」というギリシャ語はヒラスモスであり、もともとは「贖罪所」ということばから来たものです。これは契約の箱の上を被っていたもので、贖罪日にこの上に贖いの血が注がれました。ヘブル人への解釈によると、大祭司なるキリストが「ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」(ヘブル9:12)と書かれています。つまり、キリストが十字架で身代わりに死ぬことによって、私たちの罪を贖ってくださったのです。贖いは父なる神さまと御子イエスさまがなさったことであり、私たち人間が頼んだわけではなく、神が一方的になさったことです。これこそが神の愛です。
しかし、だからと言って自動的に全人類が救われるわけではありません。十字架によって成し遂げられた贖いを信じる必要があります。これがパウロが言っている信仰による義です。ローマ3:22-24「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」「神の義」という表現は日本人には何のことなのか分かりません。義というのは法律用語であり、神の前で全く正しいという意味です。逆に言うと、全く正しくなければ救いは得られないということです。でも、全く正しいかどうか、何で分かるのでしょう?それは、聖書に示されている命令、律法を完全に守ることです。でも、自分の行いによって神の前に義とされる人は一人もいません。むしろ、「あなたには罪があります」と示されるだけです。つまり、行いでは無理なのです。しかし、もう1つの道がありました。それは、キリストの贖いを信じるということです。そうすると、義なる神さまが、ご自分の義をその人に与えてくださるのです。これは、恵みであり、プレゼントです。多くの人は、キリスト教の救いを誤解しています。「私は罪深いので、もっときよめられてから信じます」という人がいますが、永遠にそういうことはやってきません。罪あるまま、汚れたままで良いのです。なぜなら、キリストがすべての罪を贖って下さったからです。ですから、私たち人間がすべきことは、キリストの贖いを受け取る、つまり信じるということです。自分でかせいだものだったら、「いつかなくすのでは?」とびくびくします。でも、信仰によって一方的に与えられたのだったら、安心できます。聖書はこう告げています。「救いの問題はキリストにあってすべて完了しました。問題はこのキリストをあなたがどうするかにかかっています」。
3.聖霊による回心と導き
私たち一人でイエス・キリストを信じたつもりでしょうが、そうではありません。聖霊が私たちがキリストを信じて救われるように手伝ってくださったのです。未信者に対して、聖霊はどのように働いておられるのでしょうか?ヨハネ16:8,9「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」私たちの知性では、「罪とは何か?」「キリストはだれなのか?」ということを理解できません。そのため、聖霊があなたに近づいて来て、罪について、義について、さばきについて教えてくれます。そうすると、あなたは不安になり、「このままではダメだ。一体どうしたら私は救われのか?」と悩むようになります。最近、アルゼンチンのリバイバリスト、カルロス・アナコンディアの回心の証を読みました。私の人生には大きな空白があり、心には恐怖がありました。人生の目標は平和と幸福を手に入れることであり、仕事で成功し、認められることで、これらのことを達成できると思いました。そのため、品物を集めて、お金を稼ぐことでようやく幸せになると信じて一生懸命に働きました。35歳の時、経済的な高い地位を勝ち取り、国から、最も重要な会社であることが認められました。私は欲しいものは何でも買い、妻にも子どもたちにも欲しいものを何でも与えました。私は幸福な人に見えたはずですが、依然として、大きな空洞があり、私は恐ろしい失敗をしていることが分かりました。私が力いっぱい稼いだ物によって、平和と幸福をもたらすことができませんでした。毎週末は、問題が重くのしかかるので、妻と子どもたちを大西洋の行楽地に連れて行きました。仕事場に戻ると、以前よりも気持ちが悪くなりました。恐れと不安と心配で夜も眠ることができません。私は人生そのものが怖くなり、死、病気、持っているものの喪失、子どもたちの上に恐ろしいことが起るのではないかと心配しました。
みなさんも、キリストを信じる前に、このような経験がなかったでしょうか?これは、聖霊があなたの上に働いておられ、「このままではどうなのか?それで良いのか?」と重荷を与えてくれます。これは、救いに至るための良い意味での、恐れと不安です。払っても、払っても、重くのしかかってきます。カルロス・アナコンディア夫妻が、その町で開かれた大きな集会に出席しました。説教者が「あなたは恐れ、不安、失敗に満ちています。これらすべては神の目の前にあります。あなたの心を彼に与えなさい、そうすれば彼はあなたの家族だけでなくあなたのすべての問題も世話します」と言ったとき、直接、自分に語りかけられていると思いました。その言葉を聞いて、何年も泣けなかったように泣き始めました。説教者が神を必要とする人々はいませんか?」と尋ねたとき、手を上げました。彼のすぐ隣に座っていた奥さんに尋ねる「私はこれを長い間待っていました」と答えました。しかし、手を上げると、1トンくらいの重さがのしかかって来ました。「私の友人や家族、またはクラブのビジネスマンは何を言うだろう?私が一緒に働いた銀行のマネージャーはどう思うだろう?そして、商品マネージャーや他のビジネスマンはどうだろう?私が心にキリストを受け入れる決心をしたために、彼らは私をからかったり笑ったりしないだろうか?」でも、それらをすべて合わせても、キリストによる救いが大きく思えました。彼は1週間後に、聖霊のバプテスマを受けました。その時、自分が人でいっぱいのスタジアムで、自分が理解できない言語で説教している幻を見ました。会社を経営し続けながら、1983年で各地でクルセードを開き、年間35万人が回心しました。アルゼンチンで顕著な癒しと解放が起りました。 聖霊は、あなたが救われた後は、あなたの内に住んで、助け導いてくださいます。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」アーメン。
すべての人々が救われるように、父なる神とキリストがすべてのことを成し遂げて下さいました。自分の意思でキリストを信じることだけが残されています。でも、そのとき、神の霊である聖霊が「あなたも救われる必要がありますよ」と導いて下さいます。人から言われたり、矯正されるとイヤですが、聖霊は静かで優しい声で語ってくださいます。毎日、忙しい日々を過ごしていると、その声が聞こえません。聖霊の声が一番良く聴こえるのは、このような礼拝や、一人聖書を読んでいるときです。神の愛、キリストの恵み、聖霊の交わりが共にありますように。