2022.2.20「聖書的な伝道法 ヨハネ1:43-49」

 私は神学校で伝道や個人伝道について学びました。また、伝道実習で実践をしたこともあります。しかし、聖書を見ると自分たちが習っていた伝道とイエス様や弟子たちが行っていた伝道とは、かなり違うことを発見しました。一般に私たちは人の話を聞いて、その人のニーズに合わせ、聖書のみことばを提示して救いに導こうとします。ところが、新約聖書を読むと、それは聖霊の賜物を用いた伝道であり、奇蹟やしるしが伴っている伝道であることが分かりました。人々はそのことによって急に心が開き、キリストを救い主として信じていることがわかります。では、新約聖書では、どのような伝道が主流だったのでしょうか?

1.知識のことば

 イエス様は知識のことばの賜物を用いて伝道しました。「ずるい」と言えば、それまでですが、Ⅰコリント12章には「知識のことば」と書かれています。これは、前もって調べたのではなく、超自然的に物事が分かるということです。これは、預言と似た所がありますが、隠されている情報が聖霊の力によって分かるのです。ピリポはナタナエルに、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました」と告げました。ナタナエルは彼がナザレの出身と聞いて「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と馬鹿にして言いました。イエス様はナタナエルが自分の方に来るのを見て「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」と告げました。すると、ナタナエルは「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と答えました。ナタナエルに何が起ったのでしょう?さっきまで、馬鹿にしていたのに、即坐にイエス様を「神の子です」と告白しました。当時、敬虔なイスラエル人はいちじくの木の下で祈る習慣があったようです。イエス様は祈っている姿を超自然的に見て「まさにイスラエル人です。この人には偽りがない」と言いました。つまり、実際にナタナエルに会う前から、彼のことを知っていたということです。そのことに、驚いて、ナタナエルはイエス様を信じたのです。知識のことばによって、彼の不信仰がぐっと変えられ、信仰者になったのです。

 3つ取り上げますが、2つ目はサマリアの女性に対する個人伝道です。ヨハネ4:3,4「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」と書かれています。これは明らかに、サマリアの女性一人を救いに勝ち取るためでした。イエス様は最初は井戸水のことを話し、その後、「いのちの水」という霊的な話題に切り替えました。サマリアの女性は「その水を私に下さい」と願いました。イエス様は「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われました。女性は「私には夫がいません」と答えました。するとイエス様は「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのです」と言いました。すると女性は「主よ。あなたは預言者だとお見受けします」と信仰が急激にアップしました。なぜなら、自分の素性をその方が暴いたからです。でも、彼女は「私たちの先祖たちはこの山で礼拝しましたが…」と急に理屈をこねました。イエス様は「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます」と言われました。すると、彼女は目の前のお方がキリストであることを信じました。それで、水がめをそこに置いてサマリアの町に行き、「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」と伝えました。おそらく、彼女は新約聖書の最初の伝道者であります。彼女が信じた決め手は何でしょうか?イエス様が「夫が5人あった」ということを言い当てたからです。まさしく、これは知識のことばです。イエス様は超自然的な能力で伝道したのですから、「ずるい」としか言えません。神学校でこの箇所から個人伝道について習いましたが、知識のことばについては全く触れませんでした。

 3つ目はルカ19章にあるザアカイのことです。ザアカイは人々から嫌われていた取税人でした。ある時、イエス様がエリコの町をお通りになりました。ザアカイはイエス様がどんな方か見ようとしましたが、背が低かったので、群衆のために見ることができませんでした。あるいは、そこにいた人々はザアカイに意地悪をしたのかもしれません。ザアカイはとても気転が利く人で、先回りして、いちじく桑の木に登って待ち構えていました。イエス様がその木の下で急に立ち止まり、上を見上げてこう言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」ザアカイは、急いで降りて来て、喜んでイエス様を迎えたと書かれています。すぐその後に、イエス様が「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」と言われました。なぜ、ザアカイがそんなに早く、イエス様を家に迎え入れ、救われたのでしょうか?普通だったら、ありえません。彼は劣等感でいっぱいであり、お金だけが頼りだった取税人です。決め手は、イエス様が自分の名前を呼んでくれたからです。まだ、一度も会ったことがないのに、自分の名前が呼ばれ、家に泊まるという予定まで立てられていたのです。これにはザアカイも腰を抜かすほど驚き、「よく木から落ちなかったなー」と思うほどです。イザヤ書43:1あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの」「呼ぶ」ということばは、英語でsummonです。これは「呼び出す、出頭させる、召喚する」という意味があります。まさしく、ザアカイは隠れたところから、「降りて来い」と呼び出されたのです。イエス様のご命令に従ったので、ザアカイは救われました。

 ただ今、3つの例をあげましたが、伝道する人の情報が前もって与えられたら感謝ではないでしょうか?もし、これをイエスさまだけの賜物と能力だとつっぱねたら、何の益もありません。イエス様はヨハネ14章で「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです」と言われました。私はだれでも求めるならば、聖霊がイエス様の時と同じように、私たちに知識のことばを与え、前もって示してくださることを信じます。ケビン・デドモン師は、伝道に行く前に知識のことばを聖霊からいただきます。それをTreasure Huntの地図と呼んでいます。

2.しるしと奇跡

 ペンテコステの日、弟子たちの上に聖霊が注がれました。その直後、集まって来たユダヤ人たちにペテロが説教しました。なんと、3,000人がイエス様を信じて、バプテスマを受けました。50日前は、「十字架にかけろ」と叫んでいた人たちが、何と言う変わりようでしょうか?彼らはペテロが説教した直後、「兄弟たち。私たちはどうしたら良いでしょうか?」と聞いています。このような霊的渇きの原因は何でしょうか?まず、ペンテコステの日、天から激しい風が吹いて来るような響きがあったようです。それは、エルサレムに住んでいた人たちに分かる音でした。使徒2:6-8「この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。彼らは驚き、不思議に思って言った。『見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。』」第一は大きな物音です。第二は弟子たち120人がどこかのことばで話していたことです。恍惚状態で、酒に酔っているように見えました。その日は、祭りなのでいろんな地方から人々が集まっていました。でも、良く聞くとめいめいの国の言葉で話しており、地方から来た人たちが理解できたので、これまた驚きです。その後、ペテロが「この人たちは酔っているのではありません」と旧約聖書から聖霊が注がれると預言を話すことの根拠をメッセージしました。それと同時に、先ごろ、十字架で殺されたイエスがよみがえられた事実と聖書的根拠も話しました。「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と結論付けました。そうすると、人々が心を刺されて、救われるためにはどうしたら良いか聞いたのです。さらに使徒の働き3章には、生まれつきの足のなえた男性が癒されたことが記されています。集まってきた人たちにペテロが「悔い改めて、神に立ち返りなさい」と言うと、さらに5,000人の人たちが加えられました。ペテロは聖書から福音を宣べ伝えただけではありません。その前には、しるしと奇跡がありました。人々はそれを見て、心が開かれ、救いを求めたのです。

 現代の教会は聖書が完成した今日は、人々が驚くようなしるしと奇跡は不要であると言います。ある人は使徒たちがこの世を去ったとき、奇蹟も止んでしまったと言います。それを「休止」いうのですが、教会の歴史を見ますと、そんなことはありません。ペンテコステの日に起きたことが度々起こっているからです。私たちはそれをリバイバルと呼んでいます。リバイバルが来ると100年経ってもダメだったものが、一瞬にして起こります。残念ながらリバイバルの寿命は短くて3年、最長でも30年です。そればかり、あてにするのも問題ですが、聖霊様がなさるときには、しるしと奇跡が伴うということです。なぜ、しるしと奇跡が必要なのでしょうか?原住民と言ったら怒られるかもしれませんが、未伝地(福音が伝えられていない国や地域)に行くと、必ず魔術師や祈祷師との戦いがあります。彼らは聖書のことばだけでは信じません。「どっちの神さまが本物か勝負しょう。この病人を癒して見ろ」みたいに言うのです。「いやいや、使徒たちが去って以来、奇蹟としるしはなくなりました。聖書を読んでキリストを信じて下さい」と言っても無理です。たとい高度な神学があっても、まだ信じていない人たちには役に立ちません。しかし、不思議なことに聖書のみことばどおり行うと、しるしや奇跡が起こるのです。そうやって、宣教師や宣教団体はアジアやアフリカ、南米の人たちをリバイバルしました。彼らのほとんどは、福音派ではなく、ペンテコステやカリスマ派と呼ばれています。なぜなら、聖書のしるしや奇跡をそのまま信じているからです。今から40年前、「力の伝道」というのが、ジョン・ウィンバーによって提唱されました。これは福音派の人たちが、聖霊体験して変えられた最もすばらしい例でした。日本にそのことが入ったとき、教会内に分裂が起りました。多くの牧師は拒否しましたが、その集会に行った信徒たちが目覚めたのです。確かに順番的には牧師が最初にすべきだったのですが、リバイバル時は混沌も一緒に入ってきます。だから、変なこともたくさん起ります。「たらいの水と一緒に赤子を流す」ということわざがあります。これは、「不要なものと一緒に大事なものまで捨てるな」と言う意味です。現象ばかり批判して、リバイバルの火を消してはならないということです。歴史を振り返りますと、教団や教会の番犬(ブルドック)が、「それはおかしい」と、リバイバルをとどめてしまことがたくさんありました。

 使徒パウロはⅠコリント2:4「そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした」と言っています。英語の聖書は“demonstration of the Spirit and of power.”です。福音宣教は、ことばだけではなく、デモンストレーションと力が必要だということです。かつての私は、「伴うしるし」と考えて、「伴わなくても良いんだ」と割引して受け止めていました。しかし、そうではなく、必須アイテムなんだと分かりました。なぜなら、イエス様ご自身がそのように宣教されたからです。使徒10:38「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました」イエス様は私たちと同じ人間でありました。もちろん、神の子であり、神さまでした。しかし、イエス様は御自分の神の力で不思議やしるし、病いの癒しや解放をなされたのではありません。もちろん、ご自分でやろうと思えばできたでしょう。しかし、あえてそれをしなかったのは、私たちの模範となるためでした。神はイエス様に聖霊と力を注がれました。だから、あのようなことを行なうことができたのです。イエス様は天にお帰りになる前に、弟子たちにこのように命じました。ルカ24:49「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」このことが、ペンテコステの日、弟子たちの上に成就しました。ですから、私たちもイエス様を信じるだけではなく、いと高き所から力を着せられる必要があるのです。すべてのクリスチャンは聖霊を内にいただいています。どうぞ、聖霊の力を上からもいただきましょう。そうすれば、だれでもしるしと奇跡の伴う、本当の福音宣教が可能になります。

3.病の癒し

 福音書を見ると、イエス様が開口一番、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と説教しました。イエス様は集まって来た人々に福音を宣べ伝え、神の国について教え、そして病を癒し悪霊を追い出されました。つまり、福音宣教と教えとミニストリーの3つを並行して行いました。つまり、イエス様は福音を宣べ伝えただけではなく、病の癒し、障害を持った方の癒し、そして悪霊に縛られた人たちを解放してあげました。それらはメシヤの預言の成就だったのです。イザヤ書61:1「【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とあるからです。つまり、病の癒しは「ついで」ではなく、福音宣教とコンビだったのです。では、なぜ、イエス様は病の癒しをなされたのでしょうか?イエス様は「神の国は近くなった」とメッセージされました。でも、人々は神の国が来たことをどのように知ることができるのでしょう?神の国には病も傷害もありません。イエス様は「神の国とはこういうものですよ」と体験させるために、病を癒し、傷害を回復してあげたのです。癒された人たちは、「ああ、神の国とはこういうものなのですね」とその前味を味わうことができました。しかし、病が癒されてもそれだけではこの世限りの人生です。病を癒された人たちは、「永遠のいのちもいただきたい」と、魂の救いを求めたのです。つまり、病の癒しは神の国に入るための入口になったということです。

 日本にプロテスタントが入って来たのは明治の初頭でした。キリスト教は内村鑑三などのインテリ層に入り、たくさんのミッションスクールが建てられました。ところが、病の癒しはご利益宗教と同じなので、馬鹿にして行いませんでした。そのため、病の癒しを行なう、天理教などの新興宗教や立正佼成会が一般民衆に広がったのです。韓国は戦後とても貧しい生活を余技なくされていました。ところが、チョーヨンギ牧師が三拍子の祝福を説いて、韓国の貧しい人たちに福音が届けました。三拍子の祝福は、Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります」から来ています。つまり、健康であるのは神さまのみこころだということです。キリスト教会では「病は私たちを訓練するためにも存在している。病は神さまから来た恵みである」と言う人がいます。とんでもありません。「子どもがわがままなので、懲らしめのため病気にでもなれ!」と願う父親がどこにいるでしょうか?私たちの父なる神さまは善き神さまであり、私たちにいつでも最善を願っておられます。もし、神さまが訓練のために病気を与えているのに、イエス様がその病気を癒したなら、イエス様は父なる神さまに逆らっていることになります。そうではありません。イエス様がご自分ところに来た、全ての病やわずらいを癒されたのは、父なる神さまのみこころを表わしているのです。まさしく、父なる神さまはあなたのことを愛しておられ、あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように願っておられるのです。

 問題は、「私たちが病の癒しや障害が治るように祈る必要があるのか?」ということです。イエス様はご自分がなさっただけではなく、弟子たちにもそうするようにお命じになられました。マタイ10:7,8「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」教会は、イエス様が弟子たちにお命じになられた他のことは守るようにしています。ところが、病の癒しだけは別だと言います。そうすると、聖書を割引して読んでいることになります。もちろん、教会でも「あの人の病気が癒されますように」とは祈ります。しかし、それはとりなしの祈りであり、直接、手を置いて病の体に命じるわけではありません。イエス様は天にお帰りになられる前、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じ、そのあと「病人に手を置けば病人はいやされます」と言われました。ここでも、福音宣教と一緒に、「手を置いて病の癒しをしなさい」と命じられいるのです。ですから、私たちは福音宣教と病の癒しを分けて考えてはいけません。それらは、一緒だということです。問題は、クリスチャンが病の癒しのために祈る勇気があるかどうかです。「結構です」と言われると、こちらが傷ついてしまうからです。私もそのために、一歩踏み出す勇気がありません。

 「信仰とはR-I-S-K(危険を冒すこと)と綴られている」と言った、ジョンウィンバーがこう述べて入います。「霊的な賜物はおもちゃではなく、道具です。あなたがそれらを使わなければ、決して、専門家になることはできません。公にそれらを使うのは、小さなステップではありません。あなたは失敗して愚かさが現れることを喜んで行う必要があります。何の保証もないのに、聖霊があなたと共にいることを期待するのです。」かつて、ジョンウィンバーは病の癒しを神からのものとして確信して祈りました。一人が癒されるために、100人の人たちのために祈りました。がっかりして、恥ずかしい思いをしたでしょうか?しかし、彼はそれをやり続けました。なぜなら、「今日も神の癒しの賜物はある。福音が宣べ伝えられるところでは必ず起る」と信じていたからです。彼がさらに100人祈ったら、2人が癒されました。彼がやり続けていくうちに、経験と信仰が増してきました。それとともに、癒される人の数も増してきました。結果的に、奇蹟的な癒しは、彼のミニストリーの主要なものになりました。アーメン。

 ジョンウィンバーは癌のため63歳で天に召されました。しかし、彼はペンテコステと福音派の中間的な立場を持つグループの波をピーター・ワグナーと一緒に起こしました。ジョンウィンバーから祈ってもらったビル・ジョンソンは彼の後継者と言えるでしょう。私も小さいながら、同じ立場の者です。現代の教会は、福音を宣べ伝えるだけでは、伝道がはかどらないことに気づく必要があります。知識のことば、しるしと奇跡、そして病の癒しを行なうなら、人々は神の国の前味を味わって、心が開かれ、救いを求めるに違いありません。英会話、家庭集会、コンサート、いろんな伝道法がありますが、私たちはイエス様や弟子たちが行った伝道法に立ち返る必要があります。「信仰とはR-I-S-Kと綴られている」のですから、失敗を恐れず祈って行きましょう。