聖書には、「瞑想する」を意味するいくつかの表現があります。詩篇119篇には「思いを潜める」が、5回出てきます。ヨシュア記1:8と詩篇1:2は「口ずさむ」と訳されています。ヘブル語の場合は「瞑想する、熟考する、しゃべる、話す、歌う、ぶつぶつ言う」など、幅広い意味があります。私がきょう、頭、つまりマインドで静まりながら、深く考えるということの重要さを語りたいと思います。みなさんは口に出さなくても、心の中でおしゃべりをしているのではないでしょうか?「ああだ、こうだ」と考え、「こうしよう」と決断しておられると思います。夕方、スーパーに行って、買い物をしている時も、「今晩、何作ろうかしら?」と瞑想しているはずです。
1.瞑想による考えの整理
詩篇46:10「やめよ。知れ。わたしこそ神。」と書いてあります。口語訳聖書は「静まって、わたしこそ神であることを知れ」です。欽定訳はBe stillなので、口語訳と同じです。ヘブル語は「不活発、弱い、止める、沈む」という意味のことばです。一体、これはどういう意味なのでしょうか?この世の中は、喧噪に満ちています。都内では電車が2分刻みに動き、テレビやインターネットから情報が川のように流れてきます。仕事や勉強も次から次と課題が出てきます。休むということは罪であり、睡眠時間さえも削って、何かをしています。たまに入院したり、3日くらい旅に出かけると、忙しく動いているわりには非生産的であったということに気が付きます。でも、また日常生活に戻ると、後ろから急き立てられるように、色んなことをこなしています。そういう人が多いのではないでしょうか?でも、そういう人が退職すると急にやることがなくなって鬱になる人が多いそうであります。主婦の場合は、子育てが終わると「空の巣症候群」というのがあるそうです。いやな旦那と毎日、顔を合わせるのが辛いのでしょう。しかし、クリスチャンの場合は、毎日、死ぬまでやることがあります。それは主との交わりです。30年位前から、ディボーションとかクワイエットタイム(QT)というのが流行りました。私も大学ノート100冊分くらい書きました。その日のみことばから、観察、教え、適用、祈りという4つくらいの項目でノートに書いていきます。しかし、よっぽど几帳面でないと、継続できないかもしれません。それよりも、5分聖書を読み、5分瞑想し、5分祈るというのが簡単で良いと思います。
でも、きょう勧めたいのが、必ずしも聖書を読まなくても良い、瞑想であります。瞑想というのは、何もしないで心の中で考えることです。簡単に言うと、自分との会話(おしゃべり)です。瞑想にはそういう意味があります。おそらく100%の人が、自分の心の中で会話をしておられると思います。心理学的にはセルフトークと言って、子どもの頃からやっています。でも、私たちの場合は、そこに神さまをお招きしながら会話をするのです。エゴである自我が会話の司会者です。さらに他の自分がいます。肉的な自分であったり、理想的な自分であるかもしれません。司会者である自我が神さまに問いかけるのです。「〇〇はどうしたら良いでしょうか?」すると、ある考えが浮かんできます。司会者の自我が他の自分に「あの人を赦すべきではないだろうか?」と提案します。もう一人の自分が「いや、私は恥をかかせられた。復讐したい」と言います。また、いろんな会話が進みます。やがて、「その恨みは神さまにゆだねましょう」となります。5分くらい静まって、主の前に心を注ぎ出すと、すかっとします。それまでのモヤモヤが、すっと晴れることが良くあります。Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と書いてあります。欽定訳は“casting all your care upon Him,”「心配事を神さまに放り投げなさい」となっています。瞑想の中で、心の中にあるもやもやもやしているものを風呂敷から出して、1つ1つ神さまの前に差し出すのです。すると、向こうから、何等かの解決がやってきます。たとえ、すぐ来なくても、平安がやってきます。それは、心が1つになって、力に満たされている証拠です。
ある調査で分かったことです。「私たちの脳は、話をする、本を読む、といった意識的な仕事を行っているときだけ活動し、何もせずぼんやりしているときは脳もまた休んでいると考えられてきた。ところが最近の脳機能イメージング研究によって驚くべき事実が明らかになった。安静状態の脳で重要な活動が営まれていたのだ」。キャロライン・リーフ師は「この脳活動の中心となっているのは、『デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)』と呼ばれる複数の脳領域で構成されるネットワークで、脳内のさまざまな神経活動を同調させる働きがある。自動車が停止してもいつでも発進できるようエンジンを切らないでおくのと同じように、これから起こりうる出来事に備えるため、さまざまな脳領域の活動を統括するのに重要な役割を果たしていると考えられている。」何を言っているのか分からなかったかもしれませんが、続けます。「神さまはまた、私たちの心の無意識の部分での本質的な活動が、ほとんどの心の行動が起こる場所であり、それが常に24時間支配的であるように脳を設計しました。私たちが考えているのは、思考の選択、構築、および分類です。簡単に言えば、休んでいるときでさえ、無意識の心の中で常に起こっている高エネルギーの活動です。私たちが意識的に考え、私たちが言おうとしていることはすべて、無意識の心の中の情報と活動によって推進されています。したがって、無意識の心は私たちのすべての言葉と行動の根源を持ち、私たちはこれらの根源が何であるかを心で選択します。」
私たちが何もしないときでも、たとえ眠っている時であっても、脳は活動しているということです。研究が示しているのは、集中的な内省的な状態である休息、瞑想に入ると、無意識の活動の有効性を強化し、高めることです。研究では、注意、記憶の構築、学習に関与するガンマ波が大幅に増加し、この指示された安静状態に移行すると幸福などの肯定的な感情に関連する活動が増加することが示されています。これは詩篇46:10の知恵です。「静まって、私が神であることを知りなさい。」私たちは外部の世界に対するスイッチを切り、集中的な瞑想の状態に切り替える時を度々、持つべきです。外側からは停止しているようですが、あなたは神さまと交わりつつ、自分の思いを告げるのです。すると、脳内の精神的資源がスピードアップし、あなたの思考はより高いレベルに移行します。瞑想は神さまが与えた知恵であり、大いなる資源の活用法です。
2.瞑想による悪い考えの駆除
Ⅱコリント10:4,5「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。」私たちの頭、マインドは戦場です。悪魔が悪い考えをばらまいています。また、神の存在を認めないこの世の考えが入ると、混乱して正しい判断ができなくなります。そのため、聖書的でない悪い考えを「打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させる」必要があります。「取り押さえる」という言葉は、「捕虜にする」「捕虜にして引いて行く」という意味の言葉です。コンピューターには、ウィルスを駆除するためのソフトを予め入れておく必要があります。インターネットやメール、だれかのUSBから、入るときがあります。そのときソフトが作動して、ウィルスを捕虜にして活動できなくするのです。私たちは信仰生活において、様々な情報が入ります。中には、聖書で言っていない、まことしやかな嘘があります。たとえば、「一般の信徒は、伝道しても信仰告白に導いてはいけない。癒しの祈りもしてはいけない。牧師に任せるべきである」。「キリストを信じるときに、一緒にこれまで犯してきた罪を悔い改めるべきだ」。「聖霊を受けているしるしは、異言を語ることである」…神学的に偏っている教団や教会がありますので、要注意です。その時は、どの先生が言ったかということよりも、「聖書のどこに書いてあるのか?」という問いが最も重要です。その時、一箇所だけで判断するのではなく、文脈を見ながら、総合的に判断する必要があります。でも、きょうは日常的に起こっている問題について語りたいと思います。
第一のポントでも申し上げましたが、私たちは情報過多の時代に生きています。最も悪いのは、テレビ、インターネット、メール、ライン、ツィッター、インスタグラムの断片的な情報です。脳科学者のキャロライン・リーフはこう述べています。「いわゆるソーシャルメディアの専門家から、以前の情報が消化される前に、情報は一口サイズで、新しい情報が絶え間なく流れてきます。これは刺激ではありません。それは爆弾です。140文字に削減され、次のより優れた情報を探す中毒になりました。学生たちの想像力に欠くことを許し、静かに座って本を読むことを楽しむことができません。このミルクセーキとマルチタスクの勢いの調査結果を共有する前に、ソーシャルメディアが社会、ビジネス、生活において重要な役割を果たすと確信します。正しく使用し、バランスの取れた方法で使用すると、驚異的なコミュニケーションツールになります。私は進歩に大賛成です。しかし、間違って使われると、この良い物は悪い物になります。」ミルクセーキは牛乳に砂糖・卵などを入れて強くかき回して作った飲物で、ごちゃまぜの情報という意味です。マルチタスクというのは、複数の作業を同時に行うことで、パソコンから来たものです。しかし、これを日常の生活で行うと、どうなるのでしょうか?注意力が散漫し、思考の質が急速に低下するばかりか、脳に損傷を与えます。残念ながらしばしばADDおよびADHDと誤ってラベル付けされてしまいます。箴言4:20-23「わが子よ、注意して私のことばを聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それらを見失うな。自分の心のただ中に保て。それらは、見出す者にとっていのちとなり、全身の癒やしとなるからだ。」
もう少し、キャロライン師の本から引用させていただきます。「バランスがすべてです。私たちの脳は、深く考えると健康的なパターン、回路、神経化学物質で反応しますが、複数の情報の表面だけをざっと見ると反応しません。詳訳聖書のコロサイ3:15は、平和をキリストから来る「魂の調和」として説明し、私たちの心に生じるすべての質問を考え、選択し、決定し、最終的に解決する審判の役割を果たします。 しかし、ミルクセーキ、マルチタスクは、脳内の混乱を引き起こし、魂の調和を不可能にします。科学者は、アメリカの若者の間でミルクセーキ、マルチタスクに費やす時間が、過去10年間で120%増加したことを発見しました。Archves of General Psychiatryのレポートによると、テレビを見ながらコンピューターゲームをプレイするなど、10代の間に電子メディアに同時に触れると、若い成人期、特に男性のうつ病や不安の増加に関連しているようです。10代の若者は1日あたり平均8時間半のマルチタスク電子メディアにさらされていることを考えると、何かをすばやく変更する必要があります。これは非常に現実的な問題であるため、ノルウェーの研究者は、Facebook依存症を測定するためのBergen Facebook Addiction Scaleと呼ばれる新しい機器を開発しました。ソーシャルメディアは、私たちの日常生活でテレビのように偏在しています。この研究は、マルチタスクソーシャルメディアが薬物、アルコール、化学物質の乱用と同じように中毒性があることを示しています。
私は中学のとき、担任の教師から、本を読めと言われました。しかし、実際に本を読み始めたのは、26歳で神学校に入ってからです。そして、洋書1冊を最後まで読めるようになったのが、60歳からです。ジョエル・オスティーンの本を読んでから自信がついて、他の本も読めるようになりました(今は合計140冊)。自慢ではありませんが、集中力、理解力がぐっと増しました。私は朝、4冊の洋書を3ページずつ読みますが、その都度、椅子に頭を伏せて、黙想します。書かれていたことを深く思い巡らします。そして、私の今の状況と比べて、適用するところを考えます。そして、学んだことをメッセージにしてこのようにアウトプットしています。話を元戻しますが、私たちの思い、マインドはいわば戦場であります。私たちはどの情報を受け入れ、どの情報をブロックするかセコムする必要があります。夜寝る前に、テレビドラマやサスペンスを見るとそのままそっくり、潜在意識に入ってしまうでしょう。その結果、あなたは、恐れと不安のミステリーな毎日を過ごすことになります。今の若者たちは、スマホを離すことができません。ラインやインスタ、ユーチューブは現代の偶像であります。私たち人間は人やメディヤよりも、まことの神さまと霊によって交わる必要があります。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」聖霊様は、私たちといつでも会話する準備ができています。
3.瞑想による決断と選択
「決断と選択」は神さまが与えた偉大なる力であります。1つ心になることはどれくらい力があるのでしょうか?創世記11:6「【主】は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。」彼らは天に届くような塔を建て、名を上げようとしました。これは全地が1つのことば、1つの話しことばであったからです。主はそれを恐れて、彼らのことばを混乱させました。バベル(混乱)であります。これは個人にも言えることであり、私たちの心が分裂している場合は、力が分散されて大きなことはできません。ヤコブはどっちつかずの人をこのように言っています。ヤコブ1:6-8「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。」安定の欠く人というのは、なかなか決断しない優柔不断の人であります。旧約聖書にはバラムという預言者が登場します。モアブとミデヤンの長老たちは、預言者のバラムにイスラエルを呪ってくれと頼みました。しかし、神はバラムに「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。また、その民をのろってもいけない。その民は祝福されているのだから。」(民数記22:12)とはっきり告げました。ところが、バラムはお金欲しさに、何度も神さまに伺いを立てようとしました。ロバが口を開いて、このまま行くと危ないと告げました。Ⅱペテロ2:15,16「彼らは正しい道を捨てて、さまよっています。ベオルの子バラムの道に従ったのです。バラムは不義の報酬を愛しましたが、自分の不法な行いをとがめられました。口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。」もし、私たちが主のみこころをはっきり知っておきながら、逡巡して、どっちつかずの道を歩むなら、神さまの祝福は得られません。
神さまは私たちに自由意思という神さまに似た能力を与えてくださいました。自分で決断し、自分で選択すると言うのは神さまが与えてくれた最もすばらしい能力であると言っても過言ではありません。申命記28章から30章まで2つの道が示されています。第一は「もしあなたが主の御声によく聞き従い、あなたに命じる主のすべての命令を守るなら、次のすべての祝福が臨む」とたくさんのことが述べられています。第二は「もし、あなたが主の御声に聞き従わず、命じる主のすべての命令とおきてを守らないなら、次ののろいが臨む」とたくさんのことが述べられています。祝福のリストには14節、のろいのリストには合計100節用いられています。約7倍であります。こんなに嫌なことがたくさん書かれているのに、イスラエルの民は不従順の道を選び、たくさんの呪いを刈り取ることになりました。彼らは選択を誤ったからです。そのことは私たちにも言えることです。申命記30:19,20「私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。あなたは、【主】があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われたその土地の上に住むことになる。」神さまの願いは、私たちが「いのち」を選ぶことであります。それは、主を愛し、御声に聞き従うということです。キャロライン師はこう述べています。「選択は現実的であり、自由意志が存在します。 自分の外に立ち、自分の考えを観察し、神と相談し、否定的で有毒な思考を変えたり、健康で肯定的な思考を育てることができます。これを行うと、あなたの脳は、あなたの知性、健康、そして平和を改善する前向きな神経化学的突進rushと構造変化で反応します。あなたは魂の調和を経験します。これらは明白な声明です。しかし、私たちの多くは、人生や生物学の出来事や状況の犠牲者であるかのように人生を歩みます。私のセミナー、本、メディアの出演を通して22年近くのセラピストとして何百万人もの人々に到達した私は、他の誰よりも多くの声明を出します。「あなたは犠牲者ではありません。あなたはあなたの反応をコントロールできます。 選択肢があります。」アーメン。
あなたは決断と選択する前に、すぐ人に相談したりしないでしょうか?専門家から助言をいただいたり、カウンセリングを受けたり、親や友達に相談しないでしょうか?それらは悪いことではありません。箴言にも「協議によって計画は確かなものとなる。すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ」(箴言20:18)と書いてあります。でも、最終的に決断と選択するのはあなた自身です。でも、それをどのように行うかということです。聖書は、「やめよ。知れ。わたしこそ神。」(詩篇46:10)と命じています。私たちは、隠れた所で、主の前に出て、主と交わるべきです。これは熟考であり、瞑想であり、沈思黙考であります。そうするとざわめいていた湖面が鏡のようになり、夜空の月を映すごとく、行くべき道が示されます。私たちは追い詰められないと、主の前に出て静まることをしません。さんざん悪あがきをしてから、すべてを投げ出して、主の前に出るということが度々あります。それほど私たちの自我は強く、神さまに聞き従おうとしない性質があるのです。詩篇37:4,5「【主】を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」アーメン。かつて、落ち着きのない注意力散漫、ADHDの私が「集中せよ」とみなさんに説教しているのは、何ということでしょう?母の遺言は「やす、落ち着け!」でした。でも、クリスチャンなっていろんなことを経験して、神さまの前に静まること、これこそが最大の資源であり、力の源であることが分かりました。神さまと一緒に決断したことは揺るぐことはありません。たとえ親しい友が指導者が「やめた方が良い」と言っても、ぐらつくことはありません。あなたはこれまで必要以上に、人々の是認や賛同を求めていたのではないでしょうか?イエス様が十字架にかかる前に人々に相談したでしょうか?もし、相談したら絶対やめてくださいと言われたでしょう。特にリーダの立場の人は四面楚歌と言いましょうか、人々から反対されるものです。でも、神さまと私でmajority大多数です。他の人が何と言おうと、あなたは主に従う道、いのちの道を選ぶべきです。