キリスト教会では、「御霊に満たされる」ことは、ガラテヤ5章の「御霊の実」を実らせることだと解釈しがちです。しかし、初代教会の人たちは、品性が良くて迫害されたのではありません。キリストを大胆に証し、しるしや不思議を行なったので、ユダヤ教徒たちから迫害されたのです。そのように考えると、御霊に満たされるとは、迫害を恐れずに、初代教会の人たちがしたように生きるということであります。ところで、弟子たちが最初に御霊に満たされたのは、「ペンテコステの日」であります。十字架の前の弟子たちは、恐れて隠れていました。ところが、ペンテコステの日から、別人のように福音を宣べ伝え、キリストが今も生きておられることを証明したのです。ということは、そこに御霊に満たされるとはどういうことなのかヒントがあるようです。
1.御霊に酔う
エペソ5:18-19「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」「御霊に満たされる」とは、御霊に支配されることであると分かります。酒に酔うとは酒に支配される状態です。外側から見たら、これらの2つはとても良く似ているということです。酒に酔うと、大声でしゃべったり、歌ったりします。御霊に満たされると、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美するようになります。また、酒に酔うと、人目をはばからず、自分がしたいことをします。つまり、大胆になって人を恐れなくなるということです。御霊に満たされると、恐れがなくなり、キリストのことを証し、ある場合は、癒しのために祈りをするでしょう。しらふのクリスチャンは、つまり、御霊に酔っていないクリスチャンは、「もし、断られたらどうしよう?」とか、「もし、癒されなかったらどうしよう?」と二の足を踏んで、チャンスを逃してしまいます。でも、御霊に酔っているクリスチャンは、人から嫌なことを言われても平気です。また、癒されなくても、とにかく祈ってみようと思います。10年以上前ですが、岡山から中嶋先生がいらっしゃいました。そのとき、癒しと預言の賜物が開花しました。そのときは、恥も外聞も捨てて、腰とか足を癒す祈りをしました。また、預言もし、自分でも不思議なくらい、みわざが起りました。あの時は、「酔っていたんだなー」と思います。今はしらふになっていますので、めったに預言をしません。なぜなら、自分勝手に預言したら、まずいんではないかと思うからです。しかし、御霊に酔ったクリスチャンは、はずれようが当たろうが結果は気にしないで、預言をするということです。大体、預言というのは、勇気を出してひとこと口から出さないと、次のことばが出てこないという性質があります。なぜなら、預言のもとのことばは、bubbling「泡のように吹き出す」という意味があるからです。
きょう何度が引用させていただきますが、Kevin Dedmonと言う人が『鍵がかかていない天』という本を書いています。エペソ5:18「御霊に満たされなさい」とは、他のことばで言うと、「御霊によって、御霊に酔ったままであるように」であり、「御霊の影響下に生きることである」と言っています。なぜなら、エペソ5:18「御霊に満たされなさい」はギリシャ語聖書では、現在形の動詞が使われています。そうすると、継続の意味になります。正確に訳すならば、パウロはエペソの人たちに「御霊に満たされ続けなさい」と命じていることになります。つまり、「あなたは毎日、御霊の影響下で生活しなさい」ということです。「かつては」とは「あの時は」では、いけないということです。「ずっと、御霊に酔ったまま生きよ」ということです。また、「放蕩する」とは、抑制がきかなくなり、道徳的に悪いことや法的に悪いことを行ないます。そして、次の朝、目覚めると「なんて恥さらしなことを、申し訳ないことをした」と反省します。つまり、この世の酒に酔って、恐れという抑制がきかなくなり、クレイジーな危険を冒すということです。問題は、酔いがさめると「自分はなんてことをしたんだ」と、悲しくなることです。反対に、御霊に酔うとどうなるのでしょう?恐れという抑制がなくなり、クレイジーな危険を冒しても、人々を癒し、救いに導き、解放するという正しい行いをします。次の日どう思うでしょうか?自分が御霊に酔って、起ったすばらしいことを誇ることでしょう。「あれは私の力ではない、聖霊の力だった。イエス様すごい、イエス様すごい」と思い出しても嬉しくなります。
Kevin Dedmon師はミニストリー・チームを率いて小旅行をします。出発前に、教会の祈祷室で声を出して笑い、聖餐式をし、神の臨在を飲みます。それは、奇跡が欲しい人に出会って、酒を漏らすためです。先生はDrinking and leaking「飲んで、漏らす」と言っています。目的は、旅行中、ずっと酔って、どこでも、いつでも神の機会を知るためです。あるとき、家に帰る途中、夜10時、ミニ・マートに立ち寄りました。それまでは、車のバンで雑魚寝して、神の臨在に酔って、笑っていました。私はガソリンを入れていましたが、私の妻と二人はミニ・マートの入口で、3人のために祈っていました。まもなく、彼らは膝や腰に手を当てて、良くなったかどうかテストしていました。その時、妻と二人の学生が手を置いて、神の臨在を彼らに漏らしていたのです。その間、数人の学生が、トイレの近くでトラックの運転手のつま先に手を置いて祈っていました。その人は振り返り、運転の助手に話しかけました。彼は背中をひどく痛めて、運転ができなかったのです。まもなく、学生たちはトラックから降りてきた彼に、知識のことばを語り、背中の痛みが去るように祈りました。トラックの助手は「なぜ、私のことがわかるんだ」と驚き、彼も癒されました。学生たちは飲み、ただ、自分たちができることを発見して、漏らしただけです。すると、そのとき、ミニ・マートの女性店員が私たちがしているのを見て、やってきました。「おそらく、店の商売を邪魔しているので怒っているんだろうなー」と思いました。彼女は、「グループのリーダーはだれか」と聞くので、「私です」と答えました。私は、叱られるのを覚悟して、気持ちを引き締め、羊のように答えました。ところが、彼女は今日の朝、医者から「子宮頚部にがんがある」と宣告され、夫と二人の子どもに勇気を奮い起こして告げるつもりだったと言いました。彼女はクリスチャンではありませんでしたが、私たちが店の外でしていることを見て、近づいて来たのです。私は学生の一人を呼んで、彼女に預言のことばによって神の運命を伝えさせました。そして、私たちは神のすばらしさを宣言し、笑って、祈り始めました。数分後、彼女の目から涙があふれ、「蝶々のような感覚がお腹の中を通過しました」と表現しました。私たちは彼女を祝福し、彼女のミニ・マートで起きたすばらしい出来事に感謝しました。
「飲んで、漏らす」あるいは「笑う」ということを奇異に思うかもしれません。使徒の働き2章には、教会に聖霊が注がれ、弟子たちが聖霊に満たされたという記事が記されています。使徒2:12-13 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。…それに対してペテロは「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。…』と答えました。ペテロは神の霊が上から注がれたので、このようになったんだと説明したのです。つまり、弟子たちは御霊に満たされていたのであり、天からの新しいぶどう酒に酔っていたのです。おそらく、弟子たちは大声で福音を語ったり、互いに笑ったりしていたのでしょう。その姿が、酒に酔っているように見えたのです。その後、ペテロは福音を語り、人々を招いています。つまり、新しいぶどう酒である聖霊は、イエス・キリストを通してでなければいただくことができないと言ったのです。使徒2:37,38人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と言いました。つまり、「私たちと同じように御霊に酔うことができる」と言ったのです。
その直後、3000人の人たちがバプテスマを受けて救われました。この時のペテロは何と大胆なのでしょう?まるで別人のようです。50日前はイエス様を3度も知らないと否定しました。なぜなら、ペテロは恐れに掴まれていたからです。しかし、今はどうでしょう?文句を言いに詰めかけていた群衆に、「私たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です」と大胆に、メッセージを語りました。どうして、そんな危険なことができたのでしょう?そうです。ペテロは御霊に酔っていたのです。御霊に酔って、キリストの復活と、世の終わりに起る聖霊の注ぎのことをすらすらと語っていたのです。しかし、それだけではありません。ペテロや他の弟子たちから、御霊が漏れていたのです。天からの新しいぶどう酒の香りが、そこいら中に漏れていたのです。それは、それは、甘い香りでした。だから人々は近づいてきて、「どうやったらそのぶどう酒がいただけるのでしょうか?」と飢え渇きをもって臨んだのです。すかさず、ペテロは「悔い改め、罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と言いました。ペテロと弟子たちが御霊に酔っていたので、新しいぶどう酒が漏れて、人々に影響を与えて行ったのです。初代教会の力の源は、御霊に満たされること、つまり、御霊に酔うことであったのです。
2.御霊にあふれる
ペンテコステの日、二階座敷にいた弟子たちは、聖霊に内側からも外側からも満たされました。言い換えると、聖霊によって生まれ変わり、また聖霊が上から臨むことによる聖霊のバプテスマを受けたのです。福音派の教会は、聖霊のバプテスマということをあまり言いません。かつての私もそうでした。なぜなら、ビリー・グラハムが『聖霊』という本で、聖霊によって生まれ変わるのと、聖霊のバプテスマは同じ意味であると言っているからです。しかし、ペンテコステ系の教会は「それは違う、救われた後に、聖霊が上から臨むという聖霊のバプテスマが必要である」と言います。すると、福音派の教会は、私たちは聖霊に満たされることを望むが、あなたがたが言う聖霊のバプテスマは必要でない」とつっぱねるのです。つまり、福音派の教会は「ペンテコステは歴史的に1回の出来事であり、繰り返し同じようなことは起きない」と言うのです。確かに、ペンテコステは1回の出来事であることは認めます。しかし、聖書を見ると、使徒4章にも「集まっていた場所が震い動き、一同が聖霊で満たされた」と書かれています。また、使徒19章には、パウロが手を置くと、エペソの人たちが聖霊を受けました。それだけではありません。教会の歴史をたどると、繰り返し同じことが起きています。私たちはそれをリバイバルと呼んでいますが、聖霊がある人たちに臨むと、奇跡やしるしが起り、宣教が格段に広がっていきます。それが現在においても、世界のあちこちに起っています。結論を言いますと、ペンテコステは一回的ですが、聖霊が上から臨むことにより、教会の働きが爆発的に伸びるということがあるのです。
ヨハネ7章で、イエス様はペンテコステのことをこのように預言しておられます。ヨハネ7:37-39 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」このみことばから判断すると、イエス様が栄光を受けるというのは、十字架の贖いを成し遂げ、復活し、父のもとで栄光を受けるということです。ペテロは「神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(使徒2:33)と言いました。つまり、これはペンテコステの日に成就したということです。イエス様は聖霊が注がれることを「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とたとえておられます。後で、説明しますが、「生ける水の川」というのは、エゼキエル47章の預言の成就でもあります。ヨハネ4章で、イエス様は井戸水から、「生ける水」について語られました。これはイエス様を信じる人と内側から、永遠のいのちの水がわき出るということです。これは、永遠のいのちですから、「救いの体験」と言うことができます。しかし、ヨハネ7章は救われた人が後で受ける、聖霊の満たしであります。泉よりも規模が大きい、川にたとえられています。原文はrivers と複数になっていますので、四方に流れて行くという言うイメージがあります。泉の場合は、個人的な体験です。多少、人にもその水を与えることができるかもしれません。でも、川は、個人にとどまらず、周りの人たち、町、あるいは国々を潤していくというイメージがあります。まさしく、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)の成就です。
では、聖霊が私たちの内側からあふれ出て、川のように流れていくために、私たちにできることがあるのでしょうか?私たちは一方的に、「神さまリバイバルを起こしてください。そうすれば、初代教会の弟子たちのように出て行くことができます」と祈ることしかできないのでしょうか?エゼキエル47章にそのヒントがあります。ご存じのように、神殿から流れ出た水は、500メートルくらい行くと足首、さらに500メートルくらい行くと腰まで達し、さらに500メートルくらい行くと、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となったと書かれています。そればかりか、川の両岸には非常に多くの木があり、あらゆる実をつけました。「この川が流れ行く所は、すべてのものは生きる」と書いてあります。これはエゼキエルが見た幻ですが、水は、最初どこから出ていたのでしょうか?エゼキエル47:1「彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。」第一のポイントで引用したKevin Dedmon師はこのように解説しています。川の流れの源は、神殿の南、祭壇の南であることがわかります。ここは、祭司たちが主にむかって礼拝をささげる場所です。つまり、礼拝と賛美と感謝をもって、神さまの臨在を飲んでいる絵を見ることができます。その結果、喜びと幸いと笑いが起り、超自然的なことが起ったのです。私は酔っているので、公の場所で知らない人たちに預言をします。そして、肉体的に希望のない人たちのために祈ります。しらふであるなら、御国をもたらすというリスクを避けて、その機会を通り過ごすでしょう。飲んで漏らすことは、超自然的な生活を当たり前のように生きるきわめて重要な鍵です。イエス様はヨハネ17章で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われました。それは、聖霊の新しいぶどう酒を飲みなさいということです。来て飲むなら、それが流れ出て行くのです。イエス様は飲んで、漏らしなさいと言っているのです。Kevin Dedmon師の言わんとしていることが分かるでしょうか?
しらふのクリスチャンと酔っているクリスチャンという表現が良いですね。しらふのクリスチャンは理性とか、体裁を気にしています。つまり、人の目を恐れて、癒しの祈りをしたり、聖霊の賜物を用いることを避けるということです。しかし、御霊に酔ったクリスチャンは、人の目を恐れず、失敗も恐れません。大胆に祈ってあげます。上手く行かなくっても、平気です。いや、目に見えないところで、上手く行っているに違いないと信じています。しらふのクリスチャンは静かに礼拝します。手をたたいたり、立ち上がって、踊ったりもしません。なぜなら、礼拝の式順があるからです。しかし、酔ったクリスチャンは、賛美をしているうちに、体が動いてきます。声も大きくなります。それでも、人の迷惑にならないように、できるだけ、抑えようとしています。いつか、礼拝の終わりの時間が分からなくなることもあっても良いと思います。日曜日だけではなく、他の日にも集まって礼拝しても良いと思います。いつの間にか、知らな人が集まってきて、「私にも聖霊のぶどう酒をください」と求めてきます。もう、教会の建物に留まっていることができなくなり、家に帰っても、職場でも酔っています。つい、「ハレルヤ、感謝します」と言ってしまいます。困っている人がいると、手を当てて祈ってあげます。預言のことばや知識のことばも一緒に出てくるでしょう。ペテロはヨエル書を引用して、世の終わりにはこのようなことが起ると言いました。ヨエル書、「酔える」書というのがいいですね。使徒2:17,18『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。』アーメン。これは特定の預言者や教職者だけが預言するという意味ではありません。すべての人とありますので、あなたの息子や娘は預言をします。青年は「私は幻を見た」と言います。ご老人は「私は夢を見た」と言います。終わりの日には、しもべ、はしためも霊が注がれるので、預言をします。身分や職業は全く関係ないということです。すべての人が聖霊に酔っている状態です。だから、預言をし、幻を見、夢を見るのです。
当教会は創立71周年目になりますが、今から50年くらい前に、小さなリバイバルがあったそうです。中高生が20人近く集まり、祈祷室で聖歌を手を叩き、大声で賛美していました。初代の牧師は「近所迷惑だからやめなさい」と注意しました。すると、大工(後のペテロ建設社長)の小林兄が「防音にしますので、このままやらせて下さい」と願いました。牧師はそれでもダメだと禁止しました。その後、中高生20人近くと小林兄は隣の亀有福音キリスト教会に移りました。ちょうどその時、大川従道神学生がその教会の青年会を担当するために派遣されていました。その時、70人くらいの青年が集まっていたそうです。元亀有教会の青年がそこに加わって、そこから牧師や宣教師が出ました。現在、於保先生が牧会しておられますが、当教会の出身です。当亀有教会はチャンスを逸した経験があります。御霊に酔った中高生に、しらふになるように強制したからです。2000年にブラック・ゴスペルによって大勢の若者が当亀有教会に来ました。保守的な教会は「うるさい」とか「未信者を講壇に上らせてはいけない」とか言って反対しました。幸いに、そのとき私は少し酔っていたので、「良いんじゃないの?若者が集まれば」と言って、許可したたけではなく、一緒に加わりました。20年たち、体力的に限界を覚えますが、テナーがいないので辞められません。でも、最近は、その酔いが冷めているなーと思います。もっと御霊に酔って大胆に語り、恐れないでミニストリーを行なうべきだと反省しております。数年前、アフリカで宣教しているコレンダ師に、以下のみことばによって励まされました。マタイ10:7,8「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」御霊に酔ってそのようにしたいと思います。