2021.12.19「ことばは人となって ヨハネ1:14-18」

 一般的に、クリスマスのメッセージはマタイやルカ福音書の降誕物語から語ります。あるいは、ヨハネ1章から語るかもしれません。お聞きになる会衆は、「ああ、聞いたことがある」と思うわけです。こちらも手を変え品を変えてメッセージしようとしますが、何せ語るテキストが限定されていますので、そう目新しいことを語れるものでもありません。しかし、不思議なことに聖書のことばを語ると、聖霊が働いて会衆一人ひとりに新たな発見や感動を与えてくださいます。そのことを期待して、先週の続編にあたるヨハネ1章14節からみ言葉を取り次ぎたいと思います。

1.ことばは人となって

 ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。」ことばというのは、先週学びましたが、それはロゴスであり、宇宙万物を造られた神であるということでした。「ことばは人となって」とありますが、ロゴスなる神が、人となったということです。宇宙万物を造られた方が、一人の人間になるとは一体どういうことでしょうか?また、何の目的があって、そのような大それたことをなされたのでしょうか?日本語では、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と訳されていますが、原文のギリシャ語はどうでしょう?直訳すると、「ロゴスが肉となり、私たちの間に天幕を張られた」というふうになります。天幕というのは、パウロも肉体を朽ちていく天幕にたとえています(Ⅱコリント5章)。そして、ロゴスが肉となったという意味は、神が肉体をとって人間になったということです。これはギリシャ人にとっては我慢ならないことでした。なぜなら、彼らは「霊魂は善であるけれど、肉体は悪である」と考えていたからです。使徒ヨハネの時代はエピクロス派とストア派が残っていました。これは私の極端な見方で、専門家から批判されることを承知で申し上げたいと思います。エピクロス派は快楽主義とも呼ばれ、肉体がどんな悪いことをしても、霊魂には影響しないと考えていました。一方、ストア派は禁欲主義とも呼ばれ、肉体をいじめることによって、霊魂がきよめられると考えていました。どちらにしても、「肉体は悪であり、神が肉体を取ることはありえない」とギリシャ哲学の影響を受けた人たちは、このことに躓いたのです。

 一方、同じ頃、グノーシスという神秘主義の人たちもいました。グノーシスは「隠れた知恵」という意味であり、キリストを信じるだけでは不十分だと主張しました。彼らは物質は悪であり、霊的なものがより価値のあるものと考えてこれを追求しました。ですから、物質を造った聖書の神は低い神であり、もっと崇高な神がいる、その方は「デミウルゴスだ」といいました。物質を否定し、霊的なものだけを求めるというのは他の宗教にもあります。ヒンズー教や仏教は物質はかりそめであり、霊だけが実体であると考えます。ですから、僧侶たちは世から離れ、ひたすら瞑想や禅をするわけです。するとどうなるでしょう?物質や科学や産業すらも否定することになり、それを信奉した国は必然的に貧しくなります。聖書の神は自然や物質を創造されたあと、「よかった」と言われました。そして、人間にはそれらを治めなさいお命じになられました。科学や産業の発達は、プロテスタントの信仰が基盤であるといっても過言ではありません。残念ながら、産業革命と啓蒙主義の行き過ぎが祟り、霊的なものを無視し、物質的な繁栄だけを求めるようになりました。それが現在の「地球温暖化」という付けを食らっているわけです。それはともかく、どんな宗教にも霊的で、神秘的なものを求めるところがあります。問題はバランスであり、目に見えるものも、目に見えないものも重要だということです。

 ヨハネは「ことばが人となった」ということを、ご自分の手紙で、もっと詳しく述べています。Ⅰヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」これは弟子のヨハネが肉体をとられたロゴスを証言していることばです。「初めからあったものとは」ヨハネ1:1の「ロゴス、ことば」です。その方が人となって、人々の間に現れました。それで、ヨハネはその方から聞いて、自分の目で見て、じっと見つめ、自分の手でさわったということです。ヨハネはロゴスを、「いのちのことば」「いのち」として言い換えています。おそらくは、永遠のいのちをもたらすお方だということでありましょう。多くの人たちが言うこととは何でしょう?「神がいるなら見せてみろ」ではないでしょうか?あるいは、「ここに来たら、会ってやる」というかもしれません。それは、「私はアメリカ大統領の存在を信じない。私は会ったこともないからだ。ここに来たら、会って認めてやる」と言ったらどうでしょう?「お前は一体何様なんだ」と馬鹿にされ、相手にしてくれないでしょう?宇宙万物を造られたお方が、「私が神です」と現れたら信じるというのは傲慢のきわみとしかいえません。でも、その方が、肉体をとってこの地球の歴史の中に入ってこられたのです。つまり、イエス・キリストこそが、神が人となったお方です。その当時の人たちは、イエス様のお声を聞き、じっと見て、手で触ることもできました。私たちは「神がいるなら見せてみろ、見たら信じてやる」と言うかも知れません。その代わり、弟子のヨハネが「私が見ました、聞きました、触りましたよ。神が人となったお方を!」と証言しているのです。少し残念ではありますが、現代の私たちは直接、見て、聞いて、触ったことのあるヨハネの証言から信じる他はないのです。

 数学者であり、哲学者であったパスカルは回心したとき、こう叫びました。「哲学者や学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。確信、確信。万感の思い、喜び、平安。イエス・キリストの神」と叫びました。そして、彼の書「パンセ」でこのように述べています。「私たちが神を知るのは、イエス・キリストを通してだけなのだ。この仲介者なしに、神とのすべての交わりは取り去られる。イエスを通して、私たちは神を知る。」アーメン。哲学は観念イデアを重要視します。現代で言うと概念でも良いかもしれません。神様を観念、あるいは概念的に捉えることも可能でしょう。キリスト教神学はそのような概念的な学問です。中には、概念だけで神様を信じる人もいるかもしれません。でも、世の中の人は、「拝む対象を見せてくれ、ご本尊はだれなんじゃ」と要求するでしょう。そのとき、私たちは「目に見える神様は偶像です。そんなご本尊はいません」と言うでしょう。しかし、それは半分間違っています。正確には、「神が人となったお方がいます。それがイエス・キリスト様であり、ご本尊です」と言っても良いのではないかと思います。なぜなら、「見て、聞いて、触りたい」のが人間だからです。イエス様は2000年前その要求を満たしてくださったのです。もう1つは哲学と両極のもの、それは神秘主義です。神秘主義にはそのような学問は不要です。神の霊に、私たちの霊が合わさることによって、霊知という悟りが与えられるからです。朝散歩をしていると、お寺から何かをたたいて、お経を読んでいるような音を聞くときがあります。実際に、多くのお寺では朝早くからお経を唱えています。私たちは空念仏ではないかと馬鹿にしますが、本当はそうではありません。1時間も無心になって、お経を唱えていると不思議な霊的な高揚、エクスタシーが得られるのではないかと思います。どの宗教でも、そのような神秘的な体験はつきものです。だから、そのような宗教が絶えないのです。今ではアメリカ、ヨーロッパで禅やヒンズー教の瞑想が流行っています。つまり、キリスト教会の理性に訴えるだけのメッセージでは、不満足なのでしょう。でも、そこには人格的な神様はいません。とは言うけれども、私たちも彼らから学ぶところがあります(霊的体験等)。

 ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネは「この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と言っています。「栄光を見た」のは、言い換えると神秘的な体験をしたということでしょう。聖書にはそのような神秘的な体験をした人の証に満ちています。イザヤは神殿で神の栄光を見て「ああ、私は滅んでしまう」(イザヤ6:5)と叫びました。エゼキエルはサファイアのように見える王座を見て、「まさに主の栄光の姿ようのであった」と言って、ひれ伏しました(エゼキエル1:28)。神の栄光をヘブル語で「シェキナー(輝き)」といいますが、罪ある人間が滅びてしまいます。新約聖書では、ペテロとヨハネとヤコブは、イエス様の輝いた姿を見ました。パウロは第三の天に引き上げられて、特別な体験をしました。ビル・ジョンソンも「朝3時頃、1,000ボルトの電流に打たれ、それが3日間続いた」と証しています。このように信仰には神秘的な体験がつきものだということです。それを安易に口に出して人に言うと、かえって不信に思われますが、分かる人には分かるのです。「ことばが人になったという」ことは、観念ではなく、神が人になったという事実の証明です。また、「ことばが人になったという」ことは、神秘であり、奥義です。ロゴスなる方が肉体を取ってきてくださったことにより、私たちもこのお方と出会い、神様を信じることができるということです。神様は高いところから「私を信じなさい」と言っておられるのではありません。「私の御子ロゴスを地上に送るので、彼を見て信じなさい」と訴えておられるのです。神の子イエスは父の命を受けて、この地上に降りて来てくださいました。これから起こるであろう、多大な危険と誤解と拒絶を覚悟して、歴史の中に飛び込んで来てくださったのです。

2.恵みとまこと

 ヨハネ1:14後半「この方は恵みとまことに満ちておられた。」さらに、ヨハネ1:16,17「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」これらのところに、「恵み」ということばが、4回出てきます。また、「まこと」が2回です。でも、注目すべきことは「恵みとまこと」とペアーで出てきているということです。結論から言うと、イエス・キリストは「恵みとまことに満ちておられた」ということです。まず、「恵みとは何か」ということを一緒に考えてみたいと思います。恵みはキリスト教会だけではなく、この世でもたくさん用いられています。女性の名前で「恵」「恵子」「幸恵」「咲恵」・・・たくさんあります。この世で、「恵まれている」というとき、才能とか運、健康、美しさを言うのではないでしょうか?「天才」とえば、音楽家ではモーツアルトでしょう。まさしく、神様からそのような能力を恵みとしていただいた人物です。同じ、音楽家にベートー・ベンがいます。彼は天才というよりも努力家です。彼の父は「天才モーツアルトのようになるように」と虐待とも思えるスパルタ教育をしたそうです。そのことが効して、大作曲家になりました。生まれつきの才能がなくても、努力である程度までは行くということでしょう。恵みと努力を比べるのは、変かもしれませんが、努力は恵みには敵いません。芸術だけではなく、スポーツの世界にも言えることです。私などは、中学生のときトランペットにあこがれてブラスバンドに入りました。トロンボーンしか空きがなくて1週間でやめました。そのあと、陸上部に入りましたが、これも1週間でやめました。高校に入り、ボクシング部に入りましたが半年でやめました。デビュー戦でTKOで敗れたからです。音楽の才能もないし、運動神経もありません。ただ、私の場合は「うるさい」「声が大きい」とよく𠮟られたことです。今、思うと、神様は私に「しゃべり」という恵みを下さったのかもしれません。今こうやって、講壇からメッセージを語っていますが、「うるさい、だまれ」といわれた人だったのです。私たちは努力も必要ですが、神様が自分に与えておられる恵みは何かということを知ることがもっと重要です。神様から与えられた才能や能力を伸ばしていけばよいのです。

 しかし、キリスト教会で「恵み」というとき、一般的なものではなく、それは「救い」に関することです。エペソ2:8「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」恵みは、その人の業績や行いによらず、一方的に与えられる「神の賜物、プレゼント」です。もっと言うと、受ける資格がないのに、一方的に与えられる好意という意味です。恵みは、天から太陽の光が注ぐように、天から雨が大地に降るように、一方的にやってくるのです。本来なら、日の光や雨のように、それをありがたく頂戴すればよいのですが、いざ「救い」のことになると「結構です。いりません」という人が出てきますが、なぜでしょう?イエス様は「子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」(マタイ18:3)とおっしゃいました。子どもは疑うことを知りません。プレゼントをあげたら、素直に受け取ります。しかし、大人になると「ただより怖いものはない」と受け取りません。なぜかというと、これまでさんざん、だまされてきたからです。おまけに「宗教は怖い、宗教は危ない」と聞かされたので、聖書の提示する救いも「うさんくさい宗教の一つ」と思うのです。特に日本では江戸幕府260年の中で、邪宗門といわれて来たので、怖い宗教という偏見ができてしまいました。日本は文化国なのに、まれに見るクリスチャン人口の少ない国といわれているのはそのためです。この世の宗教は必ず、行いが伴います。ただ信じるだけだと、人間の肉が許さないのです。「救われるために、私にも何かをやらせてほしい」という欲求があるからです。難行苦行、何か犠牲を払うと「ああ、救われている」と思うのです。しかし、それは人造宗教であり、聖書が与える恵みによる救いではありません。でも、どうして恵みで救われるのか、ある程度、説明しないとダメかもしれません。「ただ、信じれば救われるんですよ」と言えば言うほど、人々は遠ざかってしまいます。

 それで、「恵み」と一緒に必要なのが「まこと」です。まことはギリシャ語でアレセイアで「真理、真相、本当」という意味が一般的です。しかし、宗教・道徳的な真理、特にキリスト教の内容という意味があります。真理には排他的な面があります。数学や自然科学では真理において排他性があるということをだれも反対しません。2+3=5であり、4でも6でも不正解であり、5しかありません。二つの水素分子と一つの酸素を化合すると水になります。牛乳にはなりません。この狭さに対しては人々は何も文句を言いません。なぜなら、真理が持つ排他性は真実を証明しているからです。ところが、いざ神様のことになると、他にも救いがあるというのです。イエス様はヨハネ14章でこういわれました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」全歴史を調べても、私が真理だといった人はいません。哲学者は真理を示し、孔子は道を示したかもしれません。医学はいのちを延ばす方法を開拓したかもしれません。でも、イエス・キリストはご自身を道、真理、いのちとおっしゃったのです。これは全く嘘か、本当に真実か、2つに1つしかありません。しかも、「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」とおっしゃったのですから、すべての宗教を排除してしまうということです。イエス・キリストこそが、神様とのころへ行く、唯一の真理の道、いのちの道だからです。すべての人が、イエス・キリストの前に立つとき、信じるか信じないか、2つに1つの決断が迫られます。これは本当に恐ろしいことです。中には知恵があって「考えておきます、検討します」と答えるかもしれません。でも、人が決断できる時間はありそうで、ありません。イエス様は「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」(ヨハネ12:36)と言われました。年をとったら、知性が暗くなり、信じることができません。また、世の終わり反キリストによって大迫害が起こり、信じることができなくなるからです。今が恵みの時、今が救いの日のなのです(Ⅱコリント6:2)。

 最後に、「恵みとまこと」を結びつける、根拠を申し上げたいと思います。それが、1章17節「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」です。このところにも、「恵みとまこと」ということばが出てきます。として、「恵みとまこと」と対比するのが、律法です。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したとはどういうことでしょうか?律法が人間に示すのは、さばきとまことです。なぜなら、律法は罪をあばくことが専門であり、恵みのひとかけらもありません。でも、律法はまことであり、真理です。詩篇119篇は、神の律法をさんびしている書物です。そこには、「真実の道」(30節)、「真理のみことば」(43節)、「正しいさばき」(62節)、「義のさだめ」(106節)、・・・単に「真実」ということばが4回ほど出てきます。総合して、主の律法は真実であり、まことであるということです。この地上において、律法にかなう人は一人もいません。すべての人が律法によって罪とされ、相応のさばきが下されます。この理由は、神は真実であり、義なるお方だからです。このお方が「自分の真実を曲げて、罪ある人を赦し、いのちを与えるにはどうしたらよいだろうか?」とお考えになられました。父なる神様は2つのことをもって、救いの道を備えられたのです。第一は自分の分身ともいえる御子を人間として遣わすということです。第二は御子の上に全人類の罪を負わせ、御子を代わりに裁くということです。ご自身の律法に対する要求が満たされ、キリストの贖いを信じた者にご自分の義を与えることができます。なぜ、こんな面倒なことをしなければならないのでしょうか?それは神でなければ、罪の身代わりをすることができないからです。天使や人間では代わりにはなりません。また、身代わりをするためには、罪があってはなりません。律法を全うした罪のない人間だけが可能です。そのため、御子イエスは聖霊によっておとめマリアから生まれることにより、アダムからの罪を断ち切りました。また、御子イエスは人間の代表者として、一生涯罪を犯さず律法を全うしました。人間の30歳は一歳の羊と同じです。完全な神の子羊として、ご自身を献げることにより、罪の代価を払うことができたのです。このように、イエス・キリストが恵みとまことに満ちておられるので、ご自身のもとに来るどのような罪人であっても、救うことができるのです。

 「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」とあるとおり、キリストを信じる者は罪にさだめられることはありません。ヨハネは信じじる者に神のいのち、永遠のいのちを与えるとイエス様のことばを代弁しています。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」人はだれでも、車の構造を全部知らなくても、免許を取れば運転できます。私たちも父なる神が何をなされたのか、全部知らなくても、キリストを信じれば恵みによって救われます。私たちの信仰は完全でないし、完全な信仰を持っている人もいないでしょう。でも、信じる対象であるイエス・キリストがまこと、つまり真実に満ちておられるので、キリストの真実によって救われるのです。このクリスマス、救いの道を備えてくださった父なる神の愛と御子イエスの恵みを覚えて感謝しましょう。