2021.12.5「第三の天から生きる エペソ2:1-6」

 聖書には三種類の領域、あるいは天があると述べています。第一の天は目に見える地上の世界です。第二の天は悪霊や天使が活動している霊的な世界です。第三は神さまがおられるところです。聖書には「御座」と書かれています。使徒パウロは第三の天にのぼったことがあります。エペソ2章には「ともに天の所に座らせてくださいました」と書いてありました。問題は、私たちの世界観、ものの見方であります。西洋は合理主義の影響を受け、霊的な存在を信じていないので、第二の天が欠落しています。東洋、私たち日本もそうですが、第一と第二が混在しており、どこにでも霊がいると信じています。残念ながら、第三の絶対者なる神さまが存在していません。きょうは、3つの天を学びながら、聖書の世界観を持ちつつ、自分の立場を知りたいと思います。

1.第一の天

ます、第一の天について学びたいと思います。創造主なる神は、ことばによって宇宙と地球を創られました。6日間とありますが、現在の24時間なのか、ある程度の長さなのかいくつかの説があります。詩篇19篇は、神さまの創造を賛美しています。ベートーベンは第九交響曲を作りましたが、おそらく詩篇19篇を参考にしたのではないかと思います。詩篇19:1-3「天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す。話しもせず語りもせずその声も聞こえない。」つまり、目に見える天は「神さまの御手のわざのすばらしさを語っている」ということです。ある日、ニュートンの友達で無神論者の科学者がニュートンの家に訪ねてきました。そこには、太陽と惑星と地球と月の精巧なモデルがあったそうです。それは月を回すと地球が自転し、さらに太陽の周りを公転するといった精巧なモデルだったようです。それを見た友人がニュートンに言いました。「おいニュートン、これは立派な宇宙のモデルだな、一体誰がこんなすごいものを作ったのだい?」。ニュートンは言いました。「誰でもないさ」。その友人はむきになって反論しました。「おいおい、誰でもないって冗談はよしてくれ、こんな立派なものが勝手にできたとでもいうのかい? そんなことは有り得ない、誰かが作ったに決まっている」。ニュートンは答えました。「おやおや、おかしなことをいう。君は常日頃から、こんなモデルなど及びもつかないほど精巧で複雑な宇宙が、何人にもよらず偶然の産物によってできたのだと主張しているではないか? それなのに本当の宇宙に比べれば、はるかに単純で、はるかに小さなこのモデルが偶然にできることはあり得ないというのかい? この矛盾をどう説明するつもりかね」「・・・」かくしてニュートンは、無神論者の友人に神の存在を承服させたということです。つまり宇宙のモデルに作り手がいるように、宇宙にも当然それを作った神が存在することを論理的に帰結させたのです。ある人はこれに関してこう反論します。「いやいや、人が作ったモデルは小さくて見ればすぐに人間の作だとわかるけれど、宇宙はもっと大きなものだから何かが作用して偶然にできたのではないか」と。 

しかし、ニュートンにも限界があって、当時の理神論の影響を受けて、宇宙は神の手を離れ、自動的に動いていると考えていたようです。デカルトとニュートンは「世界は機械である」と言いましたが、現在、量子物理学の発展によって、神的なお方が存在するに違いないと考えられています。でも、私たちは人格のないお方ではなく、愛と善と聖なる神さまがおられることを信じています。第一の天、つまりこの地上の世界は目に見えて、物が量れる世界です。この世界を研究するのが、自然科学です。現在は物理学や化学だけではなく、生物、遺伝子、地球物理学…多岐にわたっています。自然界にはいろんな法則があり、それを学者たちが実験を重ねながら証明しています。よく、科学的と言われていますが、どういう意味でしょうか?インターネットで調べてみたら、「科学的とは考え方や行動のしかたが、論理的、実証的で、系統立っているさま」とありました。つまり、彼らが立てた論理や仮説が、実験などで立証される必要があるということです。多くのものが、立証されてきていますが、まだまだ、未知の世界がたくさん広がっています。ニュートンが「目の前には手も触れられていない真理の大海原が横たわっているが 、私はその浜辺で貝がらを拾い集めているにすぎない」と言いました。なんという謙遜なことばでしょう?私たちは創造主が創られた世界をほんの少ししか分かっていないということです。自然科学は目に見えて、量れるものしか対象にできません。残念ながら、霊的な世界とか神さまご自身のことは、自然科学では証明できません。ただし、科学的にそれらを調べることは可能です。多くの人たちは、自然科学と「科学的」というのをごっちゃにしています。目に見えない霊の世界も、科学的に調べるなら、確かに存在していると分かります。非科学的というのは、第二のポイントで学びますが、これは霊の世界を排除した、合理主義から来たものであることを理解する必要があります。日本の教科書では、進化論が証明された事実のように教えられています。「この世界は神さまが創られた」というなら、みんなから笑われるでしょう。実は進化論は未だ証明されていない仮説なのです。進化の途中の化石も発見されていないし、人間は単純な生物の細胞すらも実験室で作ることができません。神さまが創られた遺伝子をいじることができるかもしれませんが、遺伝子を創ったり、正しく操作することはできません。

 アニミズムや仏教の世界では高度な文明は発展しませんでした。プロテスタントのキリスト教が科学の発展や産業革命を興したと言われています。でも、人間は高慢になり、神さまなしでも生きて行けると言いました。パウロはローマ1章でこのように述べています。ローマ1:20-22「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、…」私たちはキリストを信じて、霊的に生まれ変わるとき、「ああ、その世界は創造主なる神さまが創られた。私も神さまの傑作品なんだ。ハレルヤ!」と喜ぶことができるのです。父なる神さまは今も、働いておられ、かつて創造したこの世界を保持しておられます。

2.失われた第二の天

 聖書は、この地上つまり物質的な世界だけではなく、もう1つ上の霊的な世界があると言っています。エペソ2:1-2「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」このところに、「空中の権威を持つ支配者」と書かれていますが、一体だれのことでしょう?パウロは「不従順の子らの中に働いている霊」と言い直しています。霊とは悪霊のことであり、神さまを信じていない人たちを支配しているということです。Ⅱコリント4:4「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」とあります。空中の権威を持つ支配者が、Ⅱコリントでは「この世の神」と言われています。この世の神とは、サタンであり、悪霊の親玉です。サタンは人々が福音を聞いて救われないように、人々の思いをくらませて、邪魔をしているということです。なぜ、この世の神なのでしょう?イエス様は悪魔から誘惑を受けました。その時、悪魔は「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。」と言いました。イエス様はただ「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」と言っただけです(ルカ4:6-8)。もし、悪魔が言っていることが嘘であれば、「馬鹿な、これは神さまのものである」と一蹴できたはずです。悪魔は本来、人間に任されていた権威を横取りして、この世の神としてかなりのものを支配しているということを理解できます。

福音書を見ますと、イエス様が人々から悪霊を追い出しているシーンをたくさん見ることができます。病の霊、汚れた霊、口がきけず耳をきこえなくする霊などが出てきます。あるとき、イエス様がゲラサというところに行きました。すると墓場に住み着いている、夜昼、叫んでいる裸の男性がいました。人々は彼をたびたび足かせや鎖でつなぎましたが、彼は鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまいました。だれにも彼を押さえる力がありませんでした。彼はそのお方がイエス様だと知ると、駆け寄って礼拝し、「いと高き神の子、イエス様!どうか私を苦しめないでください」と懇願しました。イエス様が「お前の名な何か」と聞くと、「私の名はレギオンです」と答えました。彼の人格は完全に悪霊に支配されており、彼の内にいた悪霊が答えたのです。レギオンとはローマの軍団の呼び名で6,000人であったと言われています。あとで2,000匹の豚が湖へなだれ落ちておぼれてしまったので、よっぽどの数であったと思われます。この記事の前に、イエス様と弟子たちはガリラヤ湖を舟で渡ってきましたが、激しい突風が吹いて、舟が沈没しそうになりました。この前後から解釈すると、ゲラサの地方を支配していた悪霊が、イエス様と弟子たちを滅ぼそうとしたのではないかと思います。ダニエル書10章には「ペルシャの国の君」と出てきますが、それはペルシャを支配している階級の高い悪霊ではないかと思います。このように、サタンを頭として、ピラミッド型に悪霊が組織されているのかもしれません。

 しかし、西洋の世界観は、第二の天、つまり霊的な世界が欠如しています。なぜか、それは17,18世紀から興った啓蒙主義思想の影響です。さらに、自然科学も発展し、いろんな発明・発見がなされました。第一に西洋の世界観と特徴づけるものは「唯物論」です。唯物論者にとっては、見ることのできるもの、調べることのできるもの、証明することのできるものです。第二は「合理主義」です。彼らは、「聖書の目に見えない霊の世界は作り話である。人間の理性に合わないものは非現実的である」と切り捨てました。しかし、西洋には心のささえである宗教が古くからあったので、神さまを捨てることはしませんでした。つまり、神さまがおられる第三の天は認めましたが、悪霊や天使、奇蹟や癒しという第二の天は認めませんでした。そして、第一の天である、この地上の目に見える物質的な世界だけを頼って生きることにしました。そして、人間には優れた科学技術や医療があるので、神さまは不要だと思うようになったのです。だから、病気の癒しのために、神さまに祈るなら、それは時代遅れの非科学的なことであると敬遠されるようになったのです。戦前戦後、日本に渡って来た宣教師たちは、西洋の洋服を着たキリスト教を伝えにやって来られました。彼らは、自国の神学校で「聖書が完成して以来、奇跡は終わった。もう必要ない」と教えられたので、そのまま、日本の教会にそれを伝えたのです。宣教師がインドネシアやインドに行くと、たくさんの祈祷師がいました。天然痘やらい病などが蔓延しており、「キリスト教で病気が治ったら信じる」と言われました。宣教師たちはこれまで学んだ神学を捨てて、聖書の通りに祈ったら奇跡が起きたそうです。

東洋はアニミズム、精霊崇拝をしていますので、霊的なことがあっても不思議とは思いません。魔術師、祈祷師、霊媒者が霊をあやつり、人々を惑わしています。日本でも政治家や芸能人は霊能者のお告げをいただいているようです。しかし、東洋のアニミズムは、第三の天、つまり絶対者なる神さまの存在を信じません。そればかりか、第一のこの地上の物質的な世界と、第二の霊的な世界が混ざっていて、境目がありません。彼らは科学も信じていますが、同時に背後で働いている悪霊の存在も信じています。家を建てるときも、この方角が悪いとかいいます。受験勉強やお産の時も神社にお参りに行きます。頭では科学や医学を信じているのに、心はアニミズムなのです。スーパー・コンピューターが設置されるとき、神主さんを呼んでお祓いをしてもらうそうですが、信じられるでしょうか?日本ではパワースポットを求めて、色んなところに行くようですが、霊の世界を信じているからです。しかし、それはまことの神さまではなく、諸霊、悪霊たちであります。パウロは、キリストは悪霊たちよりもはるかに権威あるお方であると言っています。エペソ1:20,21「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」アーメン。私たちは悪霊や御使いが活躍している第二の天を認める必要があります。しかし、その上に、絶対者なる神がおられることを知る必要があります。

3.第三の天から生きる

 聖書には第三の天があるとはっきり記されています。Ⅱコリント1章2を見ますと、使徒パウロは自分の名こそあげていませんが、第三の天に引き上げられて、直接神さまから啓示を受けました。そして、福音書にはない、キリストの神性、教会など、神学的なことを書くことができました。ヨハネも預言書を書くために、天に引き上げられました。ヨハネ黙示録4:1-3「その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。』他ちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。」ヨハネは第三の天に引き上げられ、御座に座っておられるお方と御使いたちを見ることができました。まさしく、第三の天とは父なる神さまと、召天されたイエス・キリストがおられるところです。でも、どうでしょう?私たちは霊的に御座のところにいるとエペソ2章に書かれています。エペソ2:6 「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」何かの間違いではないかと疑ってしまいます。

これはどういう意味でしょう?確かに、私たちの肉体はこの地上にあります。そして、空中には悪霊どもが私たちを誘惑し、妨害しようとしています。しかし、私たちは霊的には、天の所、つまり第三の天にいるということです。私は「パウロのようにパラダイスに上って、イエス様とお会いしたら、信仰が増すのになー」と思っていました。もちろん、そのことも望みますが、既に、御座の隣にいるというのは驚きです。これは、霊的な立場や権威が悪霊どもよりも上だということです。私たちが祈るとき、地上から天に向かって「神さまー、助けてください」と叫ぶようなイメージがあるかもしれません。でも、本当はそうではありません。私たちは目をつぶると、すぐそばにイエス様がおられるのです。ですから、悲壮な顔をして、大声で叫ばなくても、大丈夫なのです。ティモシ-・ワォ-ナーは、霊的な解放を行なうためにこう教えています。「私は天のところにイエス様と共に座っている者なんだ」と理解して、その人を支配している悪魔に立ち向かうなら、王座から、王座の力をもって働きかけていくことができる。「私は神の子どもなんだ!」という権利があることを認める。「悪い者は私に触れることができない。主イエスの御名によって、私は敵に立ち向かう。キリストへの解放のステップを行なうにも、このところに座っていないとできない。ここの立場からしか、悪魔(敵)に対する勝利を要求することができないからである。」

 最近、ベニー・ジョンソン師(ビルジョンソンの奥様)のThe Happy Intercessor「ハッピーなとりなしの祈り手」を読みました。1995年、リバイバルを体験してから、恐れが取り去られ、彼女は世界のあらゆるところに出かけて祈っています。幸いなことに、一人ではなく、同じような思いを持つ仲間も与えられています。過去に虐殺のあったところや、民族間の争いのあったところのために祈ります。ある時は地震が起こらないように、活断層の切れ目に立って祈ったこともありました。日本語訳から引用いたします。彼女が言っている領域とは天のことです。私はこれまで、喜びながら生活していないとりなし手をたくさん見てきました。私たちはテレビを見、新聞を読んでいるときに、暗いニュースを耳にします。これは、第一番目の領域(天)に触れたことになります。すると私たちは守りの祈りを、まずします。とりなし手が第一の領域で立ち止まると、論理と理屈で頭が一杯になり、論理的な祈りになってしまうのです。また、第二番目の領域で立ち止まるとりなし手もいます。この領域は、悪霊がいる暗闇の領域です。つまり、絶望や破壊、恐れを生み出すこところです。私たちは悪霊の世界を垣間見ることもあります。何が悪いことが起り、それが精神的な圧迫をもたらし、祈らざるを得ない気持ちにさせられます。それはあたかも、悪霊の後を追いかけているようなものです。祈らなければ世界が崩壊してしまうかのように思えるからです。一番目と二番目の領域に目を向けるなら、私たちは三番目の領域から目が逸れてしまい、悪魔や生活の中の煩わしさばかりに注目してしまいます。一番目や二番目の領域に目を向けながら祈り預言するなら、私たちは天と一致した祈りはできません。ほとんどの場合、私たちは恐れを動機として祈ってします。恐れに基づいた祈りは、天の答えを生み出す祈りになりません。大切なのは、絶えず神さまに『天の父よ、あなたが今行っていることは何ですか』と尋ねることです。」第三の天はすべてのクリスチャンが住むべき場所です。クリスチャンはみな、勝利の立場に立ち、神さまの戦略を理解し、その協力者として生きるべきなのです。

 私たちは地上でこの世の人たちと同じように生きています。しかし、決定的に違うのは、私たちは神のこどもであり、御使いや聖霊が私たちを守っておられるということです。さらに、私たちの立場は悪魔や悪霊たちよりも上だと言うことです。なぜなら、私たちはキリストによって天の御座に座っているからです。私たちはこの地上の出来事に翻弄されてはいけません。テレビや新聞のニュースには全く希望がありません。また、悪魔の働きを知って、恐れ過ぎてもいけません。私たちはどこにいるのでしょう?エペソ2:6 「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」アーメン。私たちは第三の天、イエス様の御座の隣にいるのです。私たちはどこから戦うのでしょう?イエス様がおられる御座から戦うのです。イエス様がこの地上におられたとき、天の父を仰いで生活していました。同じように、私たちは間近におられるイエス様を仰いで生活します。ある時は、イエス様が「このために祈りなさいとおっしゃる」かもしれません。その時には、イエス様の御名の権威によって祈りましょう。父なる神さまは、神の子である私たちの祈りを通して働きたいのです。父なる神さまは政治や科学の力でこの世を救おうとはなさいません。キリストのからだである教会、私たちを通して救いたいと願っておられるのです。イエス様が「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:18-19)とおっしゃいました。私たちにいっさいの権威が与えられていることを感謝し、御国の拡大のために、その権威を用いましょう。