2021.10.24「行いよりも優先 マルコ10:17-22」

きょうの箇所はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されています。ということは、この記事はとっても重要であるということです。おそらく、ユダヤではこういう人こそが、神の国に入る人だと思われていたからでしょう。聖フランチェスコは、イエス様が青年に言ったことをそのまま実行して、修道士になったと言われています。もし、財産をみな売り払い、貧しい人たちに施さなければ、救われないとしたなら、「信仰義認」という福音の教理と反してしまいます。きょうの学びは、「私たちは何を優先すべきなのでしょうか」ということの第4回目です。

1.行いよりも優先

 前半のポイントは「行いよりも優先すべき事は何か」ということです。3つの福音書から分かることは、この人は青年であり、役人であり、また多くの財産を持っていたということです。ユダヤ人は「こういう人が救いを得る模範的な人である」と考えていたでしょう。なぜなら、あとで弟子たちが「それでは、だれが救われることができるのだろう」と驚いているからです。しかし、彼がイエス様に近づいて質問した、最初の質問が間違っていました。マルコ10:17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」彼のようにイエス様に近づいた人は非常にまれです。彼は「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」と聞いています。つまり、彼は「自分の良い行いによって永遠のいのちが得られる」と考えていました。おそらく、彼のことばの背後には、「私がどれだけ良い行いをしているかお聞きください」という傲慢な気持ちがあったのかもしれません。おそらく、そういう人が来たら、教会では「人間の行いではないですよ。キリストを信じるだけで救われるんですよ」と諭してあげるでしょう。しかし、それは、罪を悔い改める機会をなくさせる余計な親切です。イエス様はそうではありませんでした。マルコ10:19「戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」モーセの十戒の、後半の戒めを提示しました。彼は「待ってました」とばかり、こう答えました。マルコ10:20「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」

 彼は宗教的な家庭で、きよく正しく育てられたに違いありません。だから、モーセの律法を良く学び、それを守って生きてきました。「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」と答えました。私などは、ありえないことです。人を馬鹿にし、喧嘩をし、うそをつき、盗み、なんでもしてきました。だから、「私はそのようなことをみな、少年のころから破ってきました」と開き直って答えるかもしれません。大体、私のような人は「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」なとどは聞きません。でも、それで良かったと本当に思っています。なぜなら、イエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイ9:13)とおっしゃったからです。青年役員が来る前に、イエス様は子どもたちの話をされていました。マルコ10:15「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」子どもは、救われるために良い行いをできません。また、「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」などと生意気な質問もしません。彼らのできることは、ただ、イエス様のところに来るだけです。大体、子どもというのは、手も顔も衣服も汚れています。地べたをはって来るかもしれません。今だったら、「アルコールで消毒を!」と叫ぶかもしれませんが、当時はバクテリアと一緒に食べていました。腹を下しながら、免疫力がアップしていたのです。私が子どもの頃、良くお腹をくだし、富山の置き薬「赤球はら薬」を飲みました。私は病院とか医者にかかったことがありません。いつも鼻をたらし、袖がテカテカしていました。当時の子どもたちもそんな綺麗じゃなかったでしょう。それでも、イエス様は子どもたちが来るのを拒ままないで、抱いて祈ってあげました。おそらく、この青年役員は、綺麗な衣服を着て、品行方正に育てられたので、イエス様の教えには我慢できなかったのではないかと思います。

 イエス様は遠回しで、律法を守っているかお聞きになられました。なぜなら、律法は罪があるかどうか知らせてくれる養育係りだからです。でも、彼は全く罪を認めることができませんでした。そのためイエス様は次の質問をするしかありませんでした。マルコ10:21イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」このシーンの聖画をいくつか見たことがあります。彼はターバンをかぶり、金が刺繍されたガウンを着て、青色の服を着ています。そして、イエス様が貧しい人たちを指さしています。しかし、青年は左手を腰に当て、目を斜め下に向け暗い顔をしています。現代風の絵もありました。金持ちの青年はオープン・スポーツカーの脇に立っています。助手席には若いアラブ風の女性が乗っています。二人の子どもがものめずらしそうに車を触っています。青年は車のドアを開けて、立ち去ろうとしています。なぜ、イエス様は「あなたの持ち物をみな売り払って、貧しい人たちに与えなさい」と言われたのでしょうか?律法の5から10までは人に対する律法です。レビ記は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)と命じています。つまり、本当に律法を守るなら、そこまでする必要があるからです。イエス様はマタイ福音書では「もし、あなたが完全になりたいなら」とおっしゃっています。完全というのは、「律法を完全に守って完全になりたいなら」という意味です。ですから、そのことは「持ち物をみな売り払って、貧しい人たちに与える」ということなのです。

 イエス様はいつくしんでそう言われましたが、彼はどうしたでしょう?マルコ10:22「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」と書かれています。多くの人たちは、この記事を見て誤解しています。「なあーんだ、持ち物を全部を捧げなければ、救われないのか?」と思うでしょう。弟子たちも、そのように思ったのでしょう?マルコ10:24弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」そのように答えたのは、理由があります。金持ちは神さまから祝福されているので、神の国に入ることができる。もう1つは、「持ち物を全部捧げなければ救われないのか?」と考えたからです。でも、イエス様は行いによる救いをこのところで教えたのではありません。むしろ、行ないでは救われないことを教えられたのです。この青年が最初に発したことばは何であったでしょうか?「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」青年は、イエス様を「良い(尊い)先生」と呼んでいます。イエス様は「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」と言われました。第一に、イエス様は「先生」ではありません。イエス様は「救い主」であり、キリストです。つまり、彼は救いを求めてイエス様に近づいてきたのではありません。第二は、「行いによって永遠のいのちがいただける」と勘違いしていたことです。彼は正確にはinherit「財産として受け継ぐことができるか」と聞いています。今、持っている財産に永遠のいのちを加えたかったのです。青年は行いによって、救いを得ようとイエス様のところにやってきました。だから、イエス様は行いによって救われる道を示されたのです。最初は易しいと思っていましたが、「財産全部を捨てなければ救われない」という険しい道が示されました。イエス様はすべての人に、「財産全部を捨てなければ救われない」とはおっしゃいません。この人物は、行ないによって救われる道を求めたからです。

 聖書に自分の行いによって救いを得ようと神さまに近づいた人はあまりいません。パウロはローマ4章で「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」と創世記を引用して述べています。さらには、「同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認められた」と詩篇を引用して述べています。つまり、福音書に記されているこの青年役員は行いによって救いを求める典型的な人物だということです。聖フランチェスコはイエス様のおことばを文字通り行って献身しました。実際、彼は清貧に甘んじながら、良い行いをして人生を全うしました。しかし、彼が聖書の言う福音を正しく受け止めていたかというとそれは疑問です。なぜなら、修道士たちは、自分たち貧しくなり、清くて良い行いを通して神さまに近づこうとしたからです。もし、行ないで救われるのだったら、イエス様が十字架にかかって死ぬ必要はなかったのです。この青年は「どのように永遠のいのちを財産として受け継ぐことができるか」聞いています。使徒パウロがこのように答えています。ローマ4:14-16「もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。」

2.持ち物のよりも優先

イエス様が青年役員に「帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」と言われました。マルコ10:22-24すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。」このところには、行ないとは別のメッセージがあります。つまり、青年役員は多くの財産を持っていたことが、神の国に入るための妨げになっていたということです。イエス様は十戒の第5番目から10番目の戒めを守っているか彼に尋ねました。彼は「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」と胸を張って答えました。確かにそうかもしれません。でも、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります」と言われたとき、彼は拒否しました。なぜでしょう?イエス様のお言葉は真実です、なぜなら天の御国に入ったとき、それらが自分のものとなるからです。でも、彼は地上で豊かな生活をもっと送りたいと思いました。結局は、永遠のいのちすらも諦めたということです。もし、彼に現代の貨幣で100億円あったとします。「永遠のいのちを受け継ぐために、100億円をささげますか?」と聞かれるようなものです。あなただったら、どうするでしょうか?イエス様を信じて新生している人は、「良いですよ」と言えるかもしれません。でも、本当に永遠のいのちがあるかどうか疑っている人は、「結構です、いりません」と断るでしょう。この青年役員はまだ信じていないので、そういう決断ができなかったのです。

イエス様が十戒の第1から4番目を問わなかったのは訳があります。十戒の第一番目は唯一まことの神だけを礼拝するということです。第二番目は石や金属、人や動物のかたちをした偶像を拝まないということです。この青年役員は第一戒と第二戒に抵触していました。彼にとって財産が神であり、偶像だったことがこのことで明らかにされたのです。イエス様はさらに、「神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」と言われました。つまり、金持ちはお金や財産が偶像になって、神の国に入ることが難しいと言うことです。なぜなら、目に見えない神さまよりも、目に見えるお金や財産に頼ってしまうからです。イエス様はある金持ちの話をされたことがあります。彼は自分の畑が豊作だったので、穀物や財産をしまっておくための倉を新たに建てようと思いました。ルカ12:18-21「『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」イエス様は「持ち物といのちとは関係ない」とおっしゃったのです。つまり、金持ちは自分の富に頼って、長年、楽しんで生きたいと願うでしょう。しかし、いのちは神から授かったもので、いつ尽きるか分からないということです。そして、イエス様は「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです」とおっしゃいました。明らかに、金持ちは神さまを度外視した生き方をしているということです。確かにお金や財産には力があります。でも、それが永遠のいのちを保証するかというと、そうではないということです。この青年は豊かな生活を何十年か送ることができたかもしれません。しかし、永遠のいのちは得られなかったのです。

 持っている人は、持っていない人よりも誘惑の度合いが違います。私のように貧しい家庭で生まれ、しかも育ちの悪かった人には、この青年役員の気持ちが分かりません。イエス様はルカ6章で、「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです」とおっしゃいました。ルカ6章はマタイ5章と違って、「平地の説教」と呼ばれ、弟子たちに向けて語られたことばです。さらにこのように書かれています。「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。」「飢える」あるいは、「泣き悲しむ」というのは、この地上のことではなく、死んで後のことではないかと思います。もし、この地上の人生の長さしか考えないで、「今、富んでいればそれで良い」と考えるなら、それは愚かなことです。なぜなら、この世の人生よりも、永遠の方がはるかに長いからです。問題は天の御国で永遠に生きるか、地獄の火炎の中で永遠に生きるかです。こうなると、「なまじっか持っていない方が良かった」と思ってしまいます。しかし、神さまがこの地上のだれかを富ませているのは理由があると思います。イエス様は「帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」と言われました。つまり、金持ちは貧しい人たちを助けるために、神さまがその人に富を与えたということです。神さまは金持ちをご自身の恵みの管として用いたいのです。だから、ケチになって自分だけが富んで、神の前に富まない者になってはいけないということです。イエス様はこの青年役員にも「わたしに従って来なさい」とおっしゃったのですから、弟子として私に従って来なさいと招いてくださったのです。

私たち一人ひとり、持ち物や財産を持っている量が違います。少ない人は多く持っている人をうらやんではいけません。なぜなら、多く持っている人は、より責任があるからです。それはタラントのたとえと同じです。重要なのは、持ち物や財産、お金よりも優先すべきものは神さまであるということです。なぜなら、神さまがすべてものを一人ひとりにお与えになっているからです。あなたは「いや、これは私が一生懸命働いて得たお金です」と言うかもしれません。あるいは、「いや、これは私が先祖から受け継いだ尊い財産です」と言うかもしれません。でも、資本主義であろうと社会主義であろうと、もとはと言えば、創造主なる神さまが一時的に与えたものです。私たちはそれらを正しく管理するように召されているのです。聖書は「やがて神さまの前で申し開きをする、清算する時が来る」と書かれています。ペテロはこの後、とてもけちくさいことを言っています。マルコ10:28-30「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。」ペテロが捨てたものとは、小さな舟と網ぐらいでしょう。イエス様は「報いを期待するなんて意地汚いぞ」とはおっしゃいませんでした。福音のためにすべてを捨てた者に対しては、イエス様は大きな報いがあることを告げておられます。多くの場合、報いは御国において、つまり千年王国のときのことです。しかし、イエス様は「今この世で、100倍を受ける」とおっしゃいました。つまり、ささげたことに対する報いはこの地上においても、十分に期待できるということです。

 キリスト教会に一般に広がっている考えは「神と人のために生きる」ということではないでしょうか?なぜなら、多くの人たちはキリスト教とは十字架を負って従う、自己否定の宗教だと信じているからです。確かにそれは真実です。でも、「この私には、友達と楽しめと言って、子山羊一匹くださったことがありません」と言った放蕩息子のお兄さんのようであってはなりません。彼の心には「父なる神さまはけちくさい」という苦い思いがありました。当時の律法学者やパリサイ人たちは喜んで神さまに仕えているのではなく、仕方なく義務的にそうしていたのです。イエス様はどうだったでしょうか?ヘブル12:2「この方(イエス)は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」とあります。イエス様は十字架の後に来る、すばらしい報いを信じていました。真面目なクリスチャンが陥りやすい問題はメシアニック・コンプレックスです。私がやらないと世界が滅びてしまうという考えです。でも、世界を支えておられるのは父なる神さまです。私たちはイエス様がそうなされたように「父なる神さまがしなさい」ということだけをすれば良いのです。私たちは神さまや人にささげるだけではなく、ちゃんと自分のことも養う必要があります。そうしないと、活動する力が出て来ないからです。共依存のことを書いている、Melody Beattieという人のことばです。「今持っている贈り物をあなた自身と世界に与えなさい」。彼女は自分を喜ばせることは悪いことではないと言っています。私たちはすべてを所有しておられる神さまのもとで仕えています。神さまから愛されたダビデはこのように言っています。詩篇16:11「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります。」