ただ今、読んだところだけでも、「奥義」ということばが、5回記されていました。奥義はギリシャ語でミスティリオンです。ミスティリオンは英語ではmysteryです。奥義は人々に隠されているものであり、神さまが教えてくれなければわかりません。イエス様はたとえ話をした後、弟子たちにこのように言われました。マタイ13:11「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。」奥義を知ることができるのは特権です。きょうは、パウロが強調している「奥義」とは何なのか、その内容について学びたいと思います。
1.キリストの奥義
エペソ3:3「先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。」パウロは他の弟子たちのように、イエス様と一緒に過ごしたわけではありません。しかし、パウロは福音書には書かれていない、神学的に深いことを書いています。なぜでしょう?Ⅱコリント12章に書かれていますが、パウロは第三の天にまで引き上げられ、直接、啓示を受けたからです。エペソ3:4-5「それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。」前の時代とは、旧約の時代のことです。創世記3:15「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」と書いてあります。女の子孫とはキリストであり、彼がサタンの頭を踏み砕くのです。これは、キリストの十字架と復活によって成就しました。キリストの予表、あるいは型(タイプ)は旧約聖書中にあふれています。もっとも有名なのはイザヤ書53章でしょう。「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ」とあります。この苦難のしもべは一体だれでしょう?使徒8章でピリポはエチオピヤの宦官に、「この聖句から初めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた」とあります。まさしく、十字架で罪を負われたイエス・キリストのことでした。
ペテロもパウロと同じようなことを言っています。Ⅰペテロ1章10節から12節までを抜粋してお読みいたします。「この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。…キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。…御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。」とあります。おそらく、ペンテコステの日、聖霊が注がれたとき、ペテロたちは、イエス・キリストの死と復活が罪の贖いのためであったことを知ったのでしょう。それまで弟子たちですらも、なぜイエス様が十字架にあげられて死なれたのか、分からなかったと思います。3日目に復活して、そのお姿を見ても未だ分かりませんでした。これは21世紀に住む私たちも同じです。この世の人たちは、学校の歴史でこのように教えられるでしょう。「ナザレのイエスはユダヤ人からローマへの反逆罪として訴えられ十字架で死んだ。その後、弟子たちはイエスが復活したと言い広め、イエスを救い主として信じる教会が誕生した」。おそらく、偉大な宗教家の一人として教えるのではないでしょうか?かつての私は全く、興味がなかったので、偉そうなことは言えません。ただ、高校生のとき、文化放送で加藤諦三という人の話を聞いて、彼の本を何冊か買ったことがあります。その本には、「マタイ伝」とか「ヨハネ伝」と書いてありましたが、それが聖書のことばなのかどうかは分かりませんでした。そういう私が偉そうに「キリストの奥義」とは何か?というのですから、不思議なものであります。
私はキリストの奥義とは、キリストの贖いのことではないかと思います。なぜなら、使徒パウロと使徒ヨハネが同じことを書いているからです。ローマ3:25「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。」このところに、「宥めのささげ物」と書かれています。Ⅰヨハネ2:2「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」それぞれの箇所を、口語訳聖書は、「宥めのそなえ物」を「あがないの供え物」と訳しています。「なだめの供え物」とは何でしょう?ギリシャ語では、ヒラスティリオンですが、もともとはヘブル語の「カッポーレ」の訳語です。カッポーレとは、契約の箱の蓋のことです。出エジプト記25章には「贖いのふた」と呼ばれ、そこに年に一度、大祭司がきよい動物の血を注ぎました。出エジプト25:20「ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする。」ケルビムという天使が左右から翼を広げて、中央を見ているようになっています。おそらく、そのことはペテロが言う「…御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。」ということなのでしょう。
ヘブル9章にはイエス様がまことの大祭司であると書かれています。ヘブル9:11,12「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、…雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」つまり、キリストご自身が、「宥めのささげ物」になって、下さったということです。ローマ3章とⅠヨハネ2章では「宥めのささげ物」と訳されています。それは、キリストの贖いによって、神の人類の罪に対する怒りがなだめられたということです。神は愛であると同時に義なるお方です。罪をそのまま見過ごすことはできません。罪は必ず裁かれなければなりません。愛なる神は御子イエスを地上に送り、御子の上に全人類の罪を負わせて、これを裁きました。キリストは十字架で血を流しましたが、それは契約の箱の上に流された大祭司の血だったのです。そのことによって、神の罪に対する怒りがなだめられ、ご自身の義が満たされたのです。そして、神さまはイエス・キリストを信じる者に、神の義を与えるようになったのです。これを信仰による義と言いますが、私たちの功績ではなく、イエス・キリストが私たち身代わりに死なれたことによる一方的な恵みなのです。これこそが「キリストの奥義」なのです。
2.福音の奥義
福音の奥義とは何でしょう?それは一口にいって、異邦人も救われるということです。エペソ3:6-8「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり」。異邦人とはどういう意味でしょう?異邦人はギリシャ語でエソスで、「民族、国民」という意味です。そこに、冠詞がついて複数になると「異邦民族、外国人、ユダヤ人以外の異邦民族たち」という意味になります。簡単に言うと、「ユダヤ人以外の外国人」という意味です。キリストの時代には、異邦人は軽蔑と嘲笑を表わすことばでした。マタイ18:17「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」このところでは、異邦人と取税人が同等に扱われています。山上の説教では、「また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。」(マタイ5:47)と言われています。さらに「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。」(マタイ6:31,32)と言われています。つまり、異邦人とはまことの神を知らない外国人、救いからもれている人たちという意味なのです。
私たち日本人はキリスト教を外国の宗教と言って、敬遠します。日本で世界地図を買うと、日本が真中になっています。しかし、一般の世界地図はヨーロッパとアフリカ大陸が真中にあります。日本はどこにあるかと言うと、東の端、極東であります。イスラエルから見ると、東の端とは日本です。知らない人もいますが、イスラエルはアジアの西の端です。NHKの大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」がありました。昭和39年の東京オリンピックの2年前、インドネシアでアジア大会がありました。そのとき、インドネシアは政治の問題で、イスラエルと台湾を招待しませんでした。戦後に独立したイスラエルに反対する国々があったからです。そのとき、あらためて思いましたが、「ああ、イスラエルはアジアだったんだ」と思いました。福音はイスラエルのエルサレムが発祥地ですが、ヨーロッパに渡り、アメリカ大陸に渡り、そして中国やアジアに渡ってきました。そして、現在は地球を一周し、イスラエルに届いています。ユダヤ人が未だキリストを信じていないのは、皮肉としか言えません。イザヤ65:1「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」イザヤが言っている「探さなかった者たち」「呼び求めなかった国民」とは異邦人のことです。極東に住む私たちのところまで福音が届けられ、救われていることを感謝しましょう。
3.神の計画の奥義
エペソ3:9-11「また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。」これまでのことを復習したいと思います。第一はキリストの奥義であり、それはキリストの贖いでした。第二は福音の奥義であり、異邦人も救われるということでした。では、第三の奥義とは何でしょう?今、読んだところにはじめて「教会」という名称が出てきました。ところで「教会」という名称は、旧約聖書にはありませんでした。では、教会にあたる旧約聖書の名称とは何なのでしょうか?出エジプト記19:5,6「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」この箇所には、主なる神さまとイスラエルが交わした契約が記されています。このあと十戒をはじめとする律法が与えられました。旧約時代はイスラエルが「神の民」と呼ばれました。ヘブル語では神の民の集まりを「カーハール」と言います。キリストによって贖いが成し遂げられ、新しい契約が結ばれました。イスラエルは躓きましたが、その代り、異邦人が救われました。この人たちは「新しいイスラエル」であり、神の民です。彼らを何と呼ぶかというとギリシャ語でエクレーシアと言います。それを私たちは「教会」として訳していますが、神の民の集まりのことです。教会の誕生自体が神の奥義と言えるでしょう。
でも、エペソの手紙3章後半には「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現」とあり、また「私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画」とあります。神さまは万物を創造したときに、何を実現したかったのでしょう。また、キリストにおいてどのような永遠のご計画を成し遂げたかったのでしょう。「神の永遠のご計画」とは何でしょう?教会は「イエス様を知らない人たちが、一人でも多く神の御国に入るように福音を宣べ伝えなければならない」と言います。また、教会は「互いに愛し合い、互いに仕え合うことが重要なんだ」と言います。また、教会は「世の光、地の塩としてこの世に神のご支配をもたらす必要があるんだ」と言います。みんな当たっていますけど、「神の永遠のご計画」については話したことも、聞いたこともありません。みんな目先のことは言うかもしれませんが、神の永遠のご計画は何かということが分かりません。もし、そうであるならゴールがどこか知らないで走っているランナーのようであります。教会はどこから来て、どこに向かっているのでしょうか?もう何年も前になりますが、ウィットネス・リーの『神の永遠のご計画』という本を読んだことがあります。その本の副題が「神のエコノミー」であります。この本を読んで、「神の永遠のご計画とはこのことなんだ」と目が開かれる思いがしました。今から少し、その本を参考にしながら、説明させていただきます。
まず「神のエコノミー」とは何でしょう?Ⅰテモテ1:4第三版「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。」このところに、「神の救いのご計画の実現」と出てきます。ギリシャ語で「救いのご計画」は「オイコノミア」となっています。オイコノミアは「家令の職務、一家の管理、管理、手配、計画」という意味があります。「神のエコノミー」とは、「神さまが持っておられる富や財産や諸事にかかわるものなどの分与」を意味します。日本では、economyを「節約」とか「経済」に訳すでしょう。でも、economyは英和辞典を引くと「富と資源の有効な処理と生産の増強」と書いてあり、ギリシャ語のオイコノミアと全く同じです。ウィットネス・リーはこのように述べています。「オイコノミアは、神ご自身を人に分け与えるという神のご計画の中心点を強調しようとして使われています。神さまには3つのパースン(神格)があります。3つのパースン(神格)は、神聖な分配、聖なる分与である神のエコノミーのためにあります。源としての御父は、御子の中に具現化されており、経路としての御子は、伝達としてのその霊の中に実際化されています。」…「何を言っているのかさっぱり分かりません」という心の声が聞こえてきます。神さまは私たちに何を分与したいと願っておられるのでしょうか?それは、もともと人間にはないもので、神さましか持っていないものです。エペソ3:9「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現」とありますから、創世記にさかのぼる必要があります。アダムは神さまが備えてくださったエデンの園に住み、エデンの園を管理していました。まもなく、エバが与えられ、二人は神さまの御声を聞き、神さまと共に歩んでいました。どころが、二人はサタンの誘惑に負けて、エデンの園から追い出されてしまいました。この先、アダムの子孫、イスラエルが選ばれ、シナイ契約が結ばれました。だけど、イスラエルは神さまに反逆し、罪を犯し続けました。何が足りなかったのでしょう?
エゼキエル書36章に、「神の永遠の計画と神のエコノミー」のヒントが記されています。エゼキエル36:26-28「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」神さまの第一の計画は、神さまがわたしの霊をあなたがたのうちに授けるということです。これはキリストを信じる者が内にいただく聖霊のことです。神さまの第二の計画は、「あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」です。ヨハネ黙示録21章に天国の完成形「新しい天と新しい地」のことが記されています。黙示録21:3「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。」アーメン。これが、私たちのゴール、教会のゴールであります。神さまにとっての永遠の計画は、神さまが私たちと共に住むことです。そのために、キリストの贖いによって罪を取り除き、そして、ご自分の霊を与えて永遠に生きる者としてくださったのです。ウィットネス・リーが一番、言いたかったことはこのことです。「神のご計画は、ご自身を私たちの中に分け与えることです。このご計画は、ご自身の創造と贖いの中心です。神はこの目的のために、つまり神がご自分を中に分け与える入れ物とするために、人を造り、また贖われました。全宇宙の中で―
時間と空間と永遠の中で、神のエコノミーの中心はご自身を人性の中に分け与えることです。最終的には、創造、贖い、造り変えに関する神のすべてのみわざの究極的な完成は、神と人との宇宙的な混ざり合いにあります。このようにして新エルサレムは、聖書66巻に記録されているように、神のすべてのみわざの究極的な結果として存在するに至ります。」
ウィットネス・リーは「混ざり合い」ということばを使うので、誤解をされるのかもしれません。でも、彼が言わんとしていることは分かります。ローマ8章には「御霊」「神の御霊」「霊」と22回も記されています。しかし、ギリシャ語の聖書はすべてプニューマなので、聖霊なのか、私たちの生まれ変わった霊なのか、はっきりいって見分けがつきません。新共同訳は全部「霊」と訳しています。もし、「神の霊」と書いてあるならば、明らかに聖霊のことです。でも、「霊」としか書かれていないなら、私たちの霊なのか聖霊なのか分からないというのが真実です。それほど、聖霊が私たちの霊と一緒に住んでくださるということです。神さまがご自分の霊を私たちに分け与えてくださったということは、すばらしい特権ではないでしょうか?また、ウィットネス・リーは天のエルサレムこそが私たちのゴールであると述べています。エルサレムは旧約聖書では神殿が立てられていました。その後、バビロンによって滅ぼされましたが、再建され、イエス様の時代もありました。しかし、ローマによって滅ぼされ、現在も壊されたままです。ヘブル11章では「都」として書かれています。そして、ヨハネ黙示録21章は「聖なる都、新しいエルサレム」として書かれています。そこでは、私たちに永遠のいのちと、栄光のからだが与えられています。そして、新しい天と新しい地に永遠に住むのです。私たちは、新しいエルサレムで神さまの御顔を仰ぎ見ることでしょう。
旧約聖書の時代は隠されていましたが、私たちの時代は奥義が解き明かされて、鮮明に見えるようになりました。私たちはこれらのことに、慣れっこになってはいけません。パウロはこのように言っています。Ⅰコリント4:1,2「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。」私たちには奥義が何であるかが開かれました。ずっと長い時代、隠されていたものです。もちろん、これからも新たに開かれることがたくさんあるでしょう。しかし、根本的な3つの奥義がエペソ3章から教えられました。私たちに天の奥義を知ることが赦されていることを感謝しましょう。このことを私たちの宝として大切にしつつ、信仰生活の励みといたしましょう。