2021.9.19「大祭司キリスト ヘブル9:11-18」

ヘブル人への手紙は、ユダヤ教的な背景を持つ人たちに向けて書かれています。この書のテーマは、「キリストは旧約聖書に示されている犠牲を完了した大祭司である」ということです。つまり、キリストは古い契約をご自分の贖いの死によって終了し、今度は新しい契約を打ち立てました。日本人は旧約聖書の知識がほとんどないので、あまりピンとこないかもしれません。しかし、クリスチャンになると、「旧約聖書も読むように」と勧められます。そのとき、「これらのことはキリストにあって完了しているのだ」と読むならば、すばらしい霊的な糧になるでしょう。きょうは、キリストがどのようなことをなされたのか3つのポイントで学びたいと思います。

1.まことの大祭司

 祭司は神と人との仲介者であり、大祭司はそのリーダーです。モーセがアロンを大祭司に任命し、レビ族から祭司たちを選出しました。彼らは幕屋で奉仕をし、民たちが携えてきた犠牲を神さまの前に捧げました。その犠牲とは、罪の赦し、神との和解、献身、感謝という目的がありました。一口で言うなら、犠牲は人々の罪を取り除き、神さまに近づいて礼拝をするために必要なものでした。レビ記でいろいろ問われている規定は大きく分けて2つあります。第一は、大祭司と祭司たちの任命と奉仕に関することです。第二は、捧げもの種類とささげ方であります。ヘブル人への1つのテーマは「キリストはアロンにまさる大祭司である」ということです。旧約の規定では、大祭司と祭司はレビ族でなければなりませんでした。しかし、イエス・キリストの家系はユダ族であります。そして、ヘブル5章から7章において「キリストはメルキゼデクの位に等しい大祭司である」と書かれています。メルキゼデクというのは、アブラハムが戦いに勝利したとき突然現れた大祭司です。アブラハムは彼に戦利品の10分の1をささげています。メルキゼデクは「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者」(ヘブル7:3)でありました。レビ族はアブラハムから生まれました。メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたのです。その時はまだ生まれていなかったのです。メルキゼデクの位に等しい大祭司とは、祭司職や律法を超越しているということです。まさしく、イエス・キリストはそのような天的な大祭司だということです。

 そのことと、キリストという意味が関係あります。そもそも、キリストはヘブル語のメシヤから来ており、「油注がれた者」という意味です。旧約時代は3種類の人に油を注ぎました。第一は王様、第二は預言者、そして第三は大祭司です。「これらの人たちは、人ではなく神さまが任命した」という証拠に彼らの頭に油を注いだのであります。現代の教会も「油を注いで下さい」と祈ったりします。英語ではanointであり、本来は「聖別する」「聖職に任命する」ときに用いることばです。しかし、新約時代から「聖霊が上から注がれ、内側が満たされるように」という意味で用いられるようになりました。人々は油が注がれることによって、力と権威を帯びることができるのだと信じています。しかし、私たちは旧約聖書から油注ぎの本当の意味を知る必要があります。なぜなら、油注ぎを簡単に使ってしまうからです。車にガソリンを入れるようなイメージで使うかもしれません。何か、エネルギーを注入してもらうみたいな感じです。それも適用として悪くはありませんが、本当の意味は何でしょう。油注ぎは、王様と預言者と大祭司が任命されるときに行われました。イエス様がキリスト、メシヤというときに3つの職が重なっているということを意味します。つまり、イエス様は、王として治め、預言者として教え、大祭司としてとりなすと言うことです。福音書を読むとき、3つの観点からイエス様の働きを見るとき、「まことにそのとおりだなー」と分かります。今、イエス様は御座において、父なる神さまの隣に座っておられます。イエス様は現在も、王として治め、預言者として教え、大祭司としてとりなしておられるのです。アーメン。

 でも、ヘブル人への手紙は「イエスがまことの大祭司である」ということを長々と述べています。何故かと言うと、旧約時代は終わり、私たちは新約の時代に住んでいるということを分からせるためです。私たち異邦人は旧約の律法とか儀式を守らなくても、キリストを信じるだけで救われます。これは本当です。しかし、面々と続いているキリスト教会の歴史の中で、旧い契約のもとで生きている時がたくさんありましたし、今もあるということです。本当は新約時代に住む私たちには不要なのに、几帳面にも旧約時代のことをやっていることがあるのです。たとえば、ある人たちは、新約時代は福音書から始まっていると考えています。なぜなら、マタイによる福音書の手前に「新約聖書」と書かれているからです。そして、少し読み続けると「山上の説教」が出てきます。「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)のみことばを読むと躓いてしまうでしょう。他にも実行不可能な戒めが福音書の中にたくさん出てきます。良きサマリヤ人のたとえを読んだ人はどう思うでしょう?イエス様が「あなたも行って同じようにしなさい」とおっしゃったので、自分を犠牲にして人々を助けなければならないと思うでしょう。イエス様が十字架にかかり、死んでよみがえるまで、旧約時代なのです。なぜなら、それまで罪の贖いも完成していないし、聖霊も下っていません。だから、イエス様が与えておられる命令を果たすことができないのです。イエス様が福音書でおっしゃっていることは、旧約聖書の律法と同じなのです。いや、もっと実行不可能な律法です。ですから、新しい契約のもとから見なければなりません。言い換えると、完成された贖いと注がれた聖霊によって、福音書を読む必要があるのです。

イエス・キリストは新しい契約を結ぶために、この世に来られました。人間の大祭司は自ら弱さがあるので、迷っている人々を思いやることができます。しかし、イエス様は神の御子であったので弱さはありませんでした。その代わり、人間と同じように苦しみ、従順を学ぶ必要がありました。ヘブル5:8-10「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。」

2.永遠の贖い

 旧約時代の大祭司と捧げる犠牲には限界があります。大祭司は人間から選ばれます。彼は人間であるため、罪と弱さをまとっています。そのため、自らの罪をきよめるために動物の血を流さなければなりません。また、人間なのでやがて死ぬので、その務めを手渡して行く必要があります。もう1つは捧げる動物です。当時は羊、やぎ、牛を祭壇の前で殺しました。その時に流される血が重要でした。レビ記には「血にはいのちがあるので、贖うことができる」と書いてあるからです。祭司はその血を祭壇にそそぎました。また、年に一度、贖罪の日というのがあります。これはイスラエルの民全体に対する贖いです。大祭司がきよい動物の血を携えて、至聖所に入ります。至聖所にある契約の箱のふた、贖罪蓋にその血を注ぐのです。一年に一回ですが、毎年、毎年行われました。ヘブル人への手紙は7章から10章まで、「キリストが1つの永遠のいけにえをささげ贖いを全うされた」と何度も書かれています。つまり、「もういけにえは、捧げる必要はない」ということを繰り返し書かれています。ヘブル人への手紙を読むと、なぜ、同じことが繰り返し書かれているのか、驚くばかりです。少し、みなさんにも驚いてもらうために、繰り返しのべられていることを今から引用させていただきます。

 ヘブル7:27「イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。」驚くべきことは、動物ではなく、大祭司であるご自身のからだをいけにえとして捧げたということです。ヘブル9:12「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」このところにはっきりと、やぎと子牛との血ではなく、ご自分の血によって、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げられたと書かれています。動物ではなく、イエス様の尊い血だったので、ただ一度で、永遠の贖いになったのです。レビ記5章から7章まで書いてありますが、いけにえの中で最も中心的なのは、罪の償いのためのいけにえです。このところには、「罪は、ただでは赦されない」ということがよく分かります。人は動物の頭に手を置いて、祭司の前で罪を告白します。すると祭司は、その動物の首を切って血を流し、その血を祭壇に注ぎます。そのことによって罪が赦されるのです。動物を連れて来た人は、「私の身代わりにしてしまい、可哀そうなことをしたな」と悔やんで、今度から罪を犯さないようにしようと思うでしょう。でも、数週間後、あるいは数か月後、またやってしまって、別の動物を連れてくることになります。イスラエルの民は100万人以上いるので、大変な数になると思います。これではらちがあきません。

 ヘブル9:25-26「それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」アーメン。伝道するときは、9章27節だけがよく取り上げられます。つまり、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」ということです。とっても恐ろしいことばです。でも文脈を見ると、「人間が一度死ぬ」ということを例として上げているのです。ヘブル書が言いたいのは「キリストは、ただ一度、罪のいけにえとして死んだ。多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられた」ということなのです。キリストは、一度の死で、罪の贖いを完成したというのが、ヘブル書の言いたいことなのです。これまでは、動物をいけにえとしてささげても、人間自身が変わらなかったので、きりがありませんでした。その時は「悪かったなー」と思うかもしれません。しかし、またやってしまうのが罪の中に生まれ、罪の中で生きている人間です。これは旧約聖書のイスラエルがそうであったように、救いを受けていない人たちの特徴です。この世では禊(みそぎ)などと言いますが、きよめられたのは外側だけです。罪は外からやってきた汚れではありません。罪は人間の内側が汚れているので、犯してしまうのです。禊(みそぎ)では無理です。その人自身が問題なのですから。

 この解決について記しているのがヘブル10章です。ヘブル10:4「雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。」ヘブル10:10「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」動物の血では、限界があり、罪が完全に消されることはありませんでした。しかし、イエス・キリストのからだがただ一度だけささげられました。これは、キリストが私たちのために死なれたことにより、私たちの罪がきよめられ、聖なるものとされているという意味です。もっと言いますと、キリストの血が私たちの罪を赦すだけではなく、私たちの良心がきよめられ、罪を犯したくなくなるということです。そして、その人は、キリストの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるということです。なぜなら、キリストの血によって罪責感が消されるからです。ヘブル10:22「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」アーメン。キリストが流された血は、罪の贖いだけではなく、罪を犯してしまうその人をも変える力があるということです。このことは次のポイントで学びますが、私たちがキリストを信じたときに、新しく生まれ変わるからです。かつては石の板に律法を書きつけましたが、新約時代は、私たちの心と私たちの思いに書きつけられるからです。

 現代のキリスト教は上品になっていました。なぜなら、キリストの血をあまり強調しないからです。「え?血なんて気持ち悪い。残酷すぎる」と思われるからです。それよりも気持ち悪いのは私たちの罪です。どろどろ汚れた罪です。表面はお化粧や衣服で飾ることはできるでしょう。でも、内側に潜む罪は、一時は隠せても、チャンスがあれば吹き出してきます。ヘブル10:10「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」心にキリストの血の注ぎを受けましょう。

3.契約の仲保者

ヘブル人への手紙は、旧約聖書と新約聖書の違いをはっきり教えてくれます。言い換えると、旧い契約がどのようにして、新しい契約になったのかを教えてくれます。ヘブル8章から9章まで、日本語の聖書には契約ということばが、14回記されています。それでは、旧い契約と新しい契約の違いはどのようなものなのでしょうか?ヘブル8章7節から13節までしるされています。とっても長いのでここでは朗読しません。私がまとめてみました。旧い契約と新しい契約の違いは何でしょうか?古い契約はエジプトの地から導き出した日にイスラエルの民と結んだ契約です。これはシナイ契約と呼ばれています。そのときは、石の板に契約の条件として、十戒が記されていました。でも、イスラエルの民は主に逆らい、契約を守り通すことができませんでした。一方、新しい契約は石の板ではなく、彼らの心に書きつけるということです。律法を彼らの思いの中に入れるので、「主を知れ」と言わなくても、みな主を知るようになるということです。ヘブル8章7,8節「初めの契約に欠けがあった」と記されています。さらに、ヘブル8章13節「神は、『新しい契約』と呼ぶことで、 初めの契約を古いものとされました。年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。」とあります。つまり、古い契約は欠けがあったので、新しい契約を結び直すと言うことです。そして、古い契約は消え去り、新しい契約が生きるということです。私もウィンドウズのパソコンを使っていますが、ヴァージョンが数年で変わります。これまでWindows7で良かったのに、「今度はWindows10でなければサポートしない」というのです。古いOSと新しいOSということになります。

そして、イエス・キリストこそが、新しい契約の仲保者であるということです。古い契約のときは、モーセが間に立ちました。モーセはとても忠実な神のしもべでした。そして、新しい契約の仲保者は、御子であるイエス・キリストです。モーセは神の家の忠実な番人ですが、キリストは神の家を忠実に治めるお方です。新しい契約を結ぶ前に、キリストがどうしてもしなければならなかったことは何でしょうか?古い契約を完了し、それを終わらせるということです。イエス・キリストはそのためにどのようなことをなされたのでしょうか?旧約時代は幕屋で犠牲をささげて罪の赦しを受けました。そして、年に一度、イスラエルの民を贖うため、大祭司が血を携えて、至聖所に入りました。この幕屋は比喩であり、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできませんでした。ヘブル9:11、12「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」キリストはご自身の血によって、一回で永遠の贖いを成し遂げられたのです。そして、キリストが流された血が私たちの良心をきよめて、生ける神に仕える者としてくだるのです。ヘブル9:15「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。」イエス・キリストが父なる神さまと私たちの間に立って、契約を結んでくださったのです。私たちは何度、約束を交わしても破ってしまいますが、キリストは真実なるお方です。キリストが父なる神さまと契約を結んだとき、私たちはどこにいたのでしょう?私たちは時間と空間を超えて、キリストのからだとして、そこにいたのです。アーメン。

ヘブル9章16節に「遺言」ということばは何度も書かれています。ヘブル人への手紙にも書かれていますが、遺言というのは、遺言者が生きている間は、決して効力がありません。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのです。そのとき、遺言には遺言者の死亡証明書が必要であると書かれています。遺言者とはキリストであり、キリストが十字架で死んだのち、新しい契約が発動したということです。英語の聖書にそのことが良く示されています。旧約聖書は英語で、Old Testament「古い遺言」という意味です。そして、新約聖書は英語で、New Testament「新しい遺言」という意味です。Testamentを正確に訳すと「死後の財産処分に関する遺言書」という意味です。また、契約を交わすときは、必ず血を流したようです。創世記15章に主とアブラハムが契約を交わしている記事があります。そのとき、きよい動物を真っ二つに裂いて契約を結びました。ヘブル10章にも、「小牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも注ぎかけ」と書かれています。しかし、今の世の終わりに、キリストご自身がいけにえをささげて下さいました。キリストは古い契約の違反を死によって贖い、さらに、ご自身の血を流して新しい契約を結んでくださったのです。だれでもキリストにあるなら、新しい契約のうちにいます。新しい契約の特典とはどのようなものでしょうか?

①罪の赦しのために動物のいけにえを捧げる必要はありません。なぜなら、キリストが一回で永遠の贖いを成し遂げてくださったからです。

②以前、律法は石の板に書かれていました。今は聖霊によって私たちの心に書きつけられています。だから、「主を知れ」と教えられなくても分かるということです。

③キリストの血によって良心がきよめられ、罪責感はなくなりました。私たちはキリストの血によって、いつでも大胆に神さまのみもとに近づくことができます。

④キリストの遺言により、永遠の都に住むことができるようになりました。私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 私たちはもちろん旧約聖書も読みます。その時、忘れてはならないのは、キリストの贖いを通して読むということです。きびしいさばきの記事を開きました。その時、「ああ、キリストの贖いがなければ滅ぼされていたなー」と感謝するのです。新約聖書にもたくさんの律法や命令があります。そのとき、新しい契約の中にある者として読むのです。すると、主の恵みによって可能になってきます。私たちの内におられるキリストが現れて、律法や命令を実行させてくださるのです。人にはできないが神にはできるのです。新しい契約の中にある者の特徴は平安です。