この世の人たちの多くは、イエス・キリストは赤ん坊として生まれ、母マリヤの胸にいだかれたというクリスマスのことを連想するでしょう。クリスチャンであっても、イエス様が神であるということに対しては良く分からない人がいます。使徒パウロはいくつかの書簡で、イエス様が神であることを記しています。おそらく、パラダイスに引き上げられて、イエス様から直接啓示を受けたからかもしれません。きょうはコロサイ人への手紙1章を中心に、イエス様が神であることを学びたいと思います。
1.見えない神のかたち
コロサイ1:15「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。」モーセやイザヤなど、旧約聖書の人たちが「主を見た」と言っていますが、主の栄光を見たのであって、そのものずばりということではないと思います。なぜなら、ヨハネがこのように言っているからです。ヨハネ1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」イエス様と3年間も一緒にいた弟子のピリポがイエス様にお願いしています。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエス様は「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ14:8-10)と言われました。弟子たちは、最後の最後まで、イエス様が神であることを疑っていました。もし、私たちが2000前、弟子たちと一緒にいても、同じことを要求したでしょう。なぜなら、私たちの肉眼と知性とによって、神さまが分かると考えているからです。
コロサイ1:15「御子は、見えない神のかたちであり」と書いています。「かたち」は英語の聖書では、imageです。ギリシャ語はエイコーンであり、「像、肖像、似姿、形」という意味があります。パソコンで、アイコンと言いますが、もともとは、ビザンチン美術から来ており、聖像や聖画像のことをイコンと言いました。ギリシャ正教会は私たちと同じように聖書を読みません。奥まったところの天井と壁に、天国の絵が描いてあります。それをイコンというのですが、そのイコンを見て、神さまに対する信仰を持つようにしているのです。イメージもエイコーンもイコンも、「かたち」であります。つまり、「このかたち、イメージを通して、本当のものを想像しなさいよ」ということです。私たちは生きておられるイエス様を見るとき、「ああ、神さまはこういうお方なんだ」と分かるのです。福音書に記されている、イエス様の罪人に対する愛とあわれみ、ご人格、力あるわざや奇蹟、それらを総合すると、神さまがどのようなお方か分かるのです。ヨハネ14:10,11「私が父のうちにいて、父が私のうちにおられることを、信じていないのですか。私があなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。私のうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。私が父のうちにいて、父が私のうちにおられると、私が言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」イエス様は福音書で、さまざまな力あるわざや奇蹟を行ないましたが、イエス様の内におられる父なる神がなされたということです。聖書を全く読まないで「神さまがわからないので。神さまを見せてほしい」と言ってはいけません。福音書に生き生きと描かれているイエス様を見ると、父なる神さまがわかるのです。
コロサイ1:19「なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ」。新改訳第三版は「本質」と書かれていますが、原文にはありません。新共同訳は「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」と訳しています。忠実に訳すなら、「父が持っておられるすべてのものを、御子の内に宿らせた」ということでしょう。ヨハネ1:14 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」イエス様は恵みとまことに満ちておられました。でも、その前に「父のみことからこられたひとり子としての栄光」と書かれています。そのまま訳すと、父がご自身の栄光を与えた、御子の栄光と解釈できます。ある人たちは、旧約聖書の神さまと新約聖書の神さまとは違うと言います。旧約聖書の神さまは厳しくて、怒っているように思えます。しかし、神さまは、いつも逆らうイスラエルの民に対して長く忍耐しておられます。彼らを何度も、捨て去ることができましたが、永遠の愛で愛しておられるのです。新約聖書の神さまはイエス・キリストの十字架の贖いによって、罪人に対する態度を変えられました。罪に対する怒りがひっこめられ、愛と恵みが全面に出ています。それは、イエス・キリストの贖いのゆえです。そして、父なる神は、御子イエスにご自身の性質と力を託して、私たち人類に和解の手を差し伸べておられるのです。私たちはイエス様を通して、愛と善であられる父なる神さまを見ることができるのです。
2.先に生まれた方
コロサイ1:15「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。」もう一箇所、コロサイ1:18前半「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。」15節は「すべての造られたものより先に生まれた方です」と書かれています。そして、「御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。」と書かれています。神学的に「御子は神のひとり子であることを認めますが、いつ、どのように生まれたのか?」ということが問題視されました。父から生まれたのであれば、父よりも劣る存在ではないかという考えも出てきました。パウロはイエス様が「最初に生まれた方」というときに、そこには2つの意味があると思います。第一は、「御子はすべての造られたものより先に生まれた方であって、その方が万物を創造した」ということです。17節「御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています」と書かれている通りです。これは時間的に、あるいは被造物と比べてという意味です。すべての被造物よりも前におられたのですから、神さまに違いありません。この地上においては、お母さんが子どもを生みます。正確に言うと、お父さんとお母さんの共同作業であります。神さまは愛でありますが、愛のかたちとして男と女をそのように造られたのだと思います。では、神さまが女性を必要とするかというとそうではありません。偶像の神々には「女神」が必要とされていますが、真の神さまには不必要です。ご自身の中に、すべてのものがそなわっているからです。みことば通り考えるなら、「永遠の昔に父なる神がひとり子を生んだ」ということであります。
第二は「先に生まれたとは、時間的な意味ではなく、称号だということ」です。「先に生まれた」というギリシャ語はプロトートコスであり、長子(長男)という意味があります。旧約聖書にそのことを示すみことばが2つあります。出エジプト4:22「そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。【主】はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。』」もう一箇所は、詩篇89:27「わたしもまた彼をわたしの長子、地の王たちのうちの最も高い者とする。」注解書には「長子は、万物の相続者、任命された支配者を意味する特別な称号であって、時間的関係で用いられるものではない」と言われています。つまり、御子には独自な立場と栄誉が与えられているということです。三位一体では、御父と御子は同等であると言っているのはそのためです。キリスト教の異端は、御子を父なる神よりも、下位の者として扱います。なぜなら、「父から造られたからであり、被造物だから」と言うのです。そうではありません。父なる神と同等の権威を帯びた長子であり、被造物ではありません。これは奥義であり、被造物である人間が、「ああだ、こうだ」と言える問題ではありません。
ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあります。ひとり子は、英語の聖書ではhis only begotten Sonです。母は子どもを産むときはbornですが、父が子どもをもうけるのはbegetです。His only begotten Son「そのひとり子」にも、特別な意味が含まれています。これは贖罪のことを考えるときも重要なことです。父なる神がひとり子を十字架に与えて死なせるということによって罪の贖いがなされました。もし、父なる神の被造物、あるいはご自分よりも低い者を代わりに死なせても十分な贖いにはならないでしょう。父のひとり子、父と同等な神であるからこそ、身代わりになることができたのだと考えられます。御父は御子に全類の罪を負わせ、罰することによって、ご自身の義が満たされ、罪ある人たちを赦すことができるようになったのです。ハレルヤ!アーメンです。
3.創造者
コロサイ1章を見ますと、まるで御子お一人で天地万物が創造されたかのように書かれています。コロサイ1:16、17「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」おそらく、コロサイの地方には、異端的な思想があったと思われます。どんな異端かと申しますと、天使的な諸霊力を礼拝していたのでしょう。そればかりか、キリストがこれらの天使的諸霊力の一つであるかのように考えていました。これに対し、パウロは「天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたのです」と宣言しているのです。エペソ人への手紙にも書かれていますが、「王座、主権、支配、権威」は、天使の階級の事を指していると思われます。もちろん、天使は神さまによって造られたもの、被造物です。御子はそれらの天使の長ではなく、天使をも造られた神であるということです。私たちは御子イエス・キリストを礼拝しますが、天使は礼拝しません。
また、コロサイには「万物は御子にあって造られ」「万物は御子によって造られ」「御子のために造られた」「万物は御子にあって成り立っています」と4つの方面から書かれています。英語の聖書でそれぞれを言うと、in Him, by Him, for Him, in Himとなります。私たちは「え、父なる神さまが世界を創造されたのでしょう?御子イエスだったのですか?」と疑問視してしまうでしょう。このところには聖母マリヤに抱かれた赤子の御子イエス様はありません。小さくて弱い、人間イエスではありません。万物を創造された神である御子です。しかし、聖書全体から考えると御子がお一人で万物を創造されたとは考えることはできません。創世記1章1節には、「初めに、神が天と地を創造した」と書かれています。しかし、ヘブル語を見ると分かるのですが、神は複数形の「エロヒーム」です。そして、創造したの「バーラー」は単数形です。しかも、このところには創造主なる神と、神から発せられたことば、そしてそれらを生み出したであろう「神の霊」の存在が記されています。つまり、父、子、聖霊の三位一体の神が、万物を創造したということが考えられます。でも、ヨハネ1章には「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」と書かれています。「ことば」は、明らかに受肉前の御子であり、やはり万物の創造に参与されたということが記されています。
このように考えますと、創造は神お一人でなされたのではなく、御子も能動的に参加されたということです。箴言を見ますと、「知恵がちまたで叫んでいると書かれています。また、「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によって、尊く好ましいあらゆる宝物で満たされる。」(箴言24:3,4)と書かれています。聖書的に「この知恵」というのは、受肉前の御子ではないかと考えられます。つまり父なる神は知恵である御子と一緒に、万物を創造されたと考えるのが妥当ではないかということです。私たちはこの地上に肉体を持って来られたイエスではなく、受肉前の御子イエスさまがどんなお方であったのか知ることによって信仰が高められます。もし、私たちと同じサイズのイエス様だったら、あまり頼る気持ちになりません。慰めてはくれるかもしれませんが、神の力をもって支配して、救い出してくださるとは考えられません。そういう意味でも、コロサイ1章から神である御子イエスさまを「みことば」から思うということは、すばらしい事だと思います。
私がインドネシアに行った時、一人の男性の証を聞きました。彼はとても貧しい人であり、頻繁に医者にかかることができません。彼の頭にはいくつもの腫瘍ができ、一回では取り除くことができませんでした。病院の医者は1か月くらいたってから、また入院するようにと告げたそうです。しかし、彼はお金がないので、病院には行きませんでした。ですから、その人は頭に腫瘍を抱えたまま生活していたのです。彼はある時、家庭で開かれているセル集会に出席しました。みんなが彼を囲んで彼の腫瘍が消えるように祈ってくれました。その男性はまぼろしが見えました。巨大なお方が目の前に立っており、その足は巨大な大木のようでした。彼が見上げてもはるか上に顔があるようです。彼は「あなたは大きすぎてだれか分かりません。もっと小さくなってください」とお願いしました。するとその方がするすると小さくなって、私たち人間と同じサイズになりました。彼は「ああ、このお方はイエス様だ」と直感しました。でも、顔の部分が光り輝いて良くは見えなかったそうです。その後、彼は病院に行きました。お医者さんは「どうして来なかったのか」と彼を叱りつけました。そして、CTスキャンとかMRIで彼の頭を検査しました。すると、何か治療を受けた跡は分かりましたが、以前あった腫瘍はどこにも見つけることができませんでした。お医者さんは「一体これはどういうことなんだ」と彼を病院から返したそうです。私たちは偉大なイエス・キリスト、神であられるイエス・キリストを信じる必要があります。
4.教会のかしら
コロサイ1:18-20「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」コロサイ1:18「こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました」と書かれています。「第一のもの」とはどういう意味でしょうか?第一のもの」はギリシャ語で「第一位を占める」「一番である」という意味です。その前に「こうして」ということばがありますので、その理由があるはずです。「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です」と書いてあります。1つ1つ探って行きたいと思います。「御子は初めで」というのは、もう既に学びました。御子は万物よりも先に存在し、万物を創造されたお方です。造られたすべてのものより先に生まれた方です。そういう意味で、「御子は初めからおられた神である」ということです。その後に「死者の中から最初に生まれた方です」とあります。「死者の中から最初に復活した方です」と言うのが本当ですが、パウロは「生まれた方」と言っています。パウロはⅠコリント15章で「キリストは、眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20)と述べています。つまり、キリストは死を克服して、新しいいのちを証明した最初のお方であるということです。イエス様は万物を創造されたお方でしたが、同時に霊的再創造されたお方でした。つまり、創造と再創造の両局面において第一のものとなられたということです。
もう1つはキリストが教会のかしらとなられたという意味です。どういうお方が教会のかしらになったのでしょうか?それは、十字架で死んでよみがえられてからであります。20節に「地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させて下さったのである」と書いてあります。イエス様は死んで陰府に下られました。Ⅰペテロ3章によると、「キリストは捕らわれた霊たちのところに行ってみことばを語られた」と書かれています。これは勝利を宣言されたという意味です。また、ピリピ2章には「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ」とあります。以前は、キリストは天にあるものと地にあるものを創造された第一のものでした。しかし、死んで陰府にくだり、よみがえってからは、地の下あるものに対しても第一のものとなられたということです。ということは、キリストはあらゆる存在領域に対して絶対的な卓越性を持っているということです。これは、あきらかに当時の異端に対する挑戦であります。天において、地において、そして陰府においても、第一のものだからです。そのお方が教会のかしらになられたということです。ですから、教会のかしらは人間でも、教会の組織でもなく、イエス・キリストご自身だということです。
中世の頃は教会のかしらはローマ教皇でした。イギリスでは国王や女王が教会のかしらになりました。プロテスタント教会は教会のかしらはイエス・キリストであると神学的には認めました。ところが、実際は教会の組織であったり、教団教派の長でありました。地方教会も牧師がかしらになることもあります。イエス様は目に見えないので、一応は教会のかしらにしているかもしれません。でも、実際はかしらであるイエス様からどれくらい指示を仰いでいるかは疑問です。もしかしたら、「私はそのように言っていません」とイエス様がおっしゃるかもしれません。当亀有教会は単立教会です。単立になると、牧師と数名の役員会がかしらになるのかと不安がられます。ある人たちは単立はカルトになりやすいので、大きくて歴史のある教団に属したいと願うかもせれません。大さや歴史はともかく、教会が最も必要なのは、目に見えないイエスをかしらとして仰ぐということです。むしろ、単立の方がストレートにイエス様に近づきやすいという利点があるかもしれません。なぜなら、複雑な組織がないからです。牧師が辞めても教会は残ります。なぜなら、教会とはキリストを神さまとして仰ぐクリスチャンの集まりだからです。教会は建物でも、組織でも制度でもありません。クリスチャン自体が教会です。マタイ18:20「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」