私たちはイエス様を信じると直ちに救われます。だんだん救われるのではありません。神さまはまだ出来上がっていないものを下さるのではありません。完成した救いを与えてくださるのです。矛盾するようですが、私たちのからだは、まだ贖われていませんし、御国も完成していません。でも、それらはキリストにある救いをいただくと、やがて私たちのものになります。使徒パウロはイエス・キリストが神の知恵であると言われました。それは神さまが与えた救いの手段という意味です。そして、イエス・キリストを信じると、3つのものが同時に与えられます。
1.義
義というのは、法律用語で、「まったく罪がない」ということです。それだけではありません。神の義に達しているということです。この世において正しい人は大勢いるでしょう。でも、神の義に達している人はひとりもいません。神の義は完全無欠であり、神さましか持っていない正しさです。「本当にそうでしょうか」と、疑う人がいるかもしれません。神さまは私たちが不完全であることを知らせるために、律法をお与えになられました。アダムとエバが造られたとき、律法はありませんでした。なぜなら、神さまと共に歩むことが、神の義であったからです。でも、アダムとエバは食べてはならない木、善悪を知る知識の木から取って食べてしまいました。すると、彼らの目が開け、神のようになりました。本当に神のようになったという意味ではなく、神のように善悪が判断できるようになったということです。でも、同時にそれは神さまを離れて、神のいのちがなくなったということです。つまり、人は善悪を判断できても、それを実行できるいのちがなくなってしまったのです。頭ではそれは悪いことだ、罪であると分かっていても、そのとおり実行できないのです。神さまはモーセを通して十戒をはじめとする律法を与えました。律法は、それを守れば救われるという目的ではなく、いかに人間が罪深いか、神の義に達していないかを分からせるためだったのです。ですから、聖書にある律法1つでも守れるかどうか実行してみるなら、「ああ、私は実行できない。罪人である。神の義に達することができない」と分かるのです。
使徒パウロは、ガラテヤ書4章でこのように言っています。ガラテヤ4:1-2「つまり、こういうことです。相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります。」後見人あるいは管理者というのが、律法のことです。その子どもは、神の子どもとして生まれたのですが、律法の下で暮らしているので、神さまの財産を相続できません。しかし、キリストが来られたのは、「それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした」(ガラテヤ5:5)。キリストが私たちを贖い出すために、つまり神の子どもとするために何をなされたのでしょうか?まず、神の御子は人間として律法のもとで生まれました。そして、私たちが実行できない律法を全うしてくださいました。さらには、十字架で呪われたものとなり、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。ローマ人への手紙3章ではこのように述べられています。ローマ3:20-22「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」簡単に言いますと、イエス・キリストを信じると、神の義がその人に与えられるということです。これは行いによる義ではなく、信仰による義であります。つまり、イエス・キリストを信じた瞬間、あなたに神の義が与えられたということです。だから、パウロは「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)と述べているのです。なぜなら、行ないよるのではなく、恵みだからです。
マタイ5:20「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」律法学者やパリサイ人は神の律法を厳格に守る人たちでした。ですから、彼らの義にまさることは不可能です。パウロも以前はパリサイ人だったので、「律法による義については非難されるところがない者でした。」(ピリピ3:6)と言いました。しかし、Ⅰテモテでは自分のことを「私は罪人のかしらです」と言いました。では、どうしたら、律法学者やパリサイ人の義にまさることができるのでしょう?答えは、イエス・キリストを信じて、神の義をいただけば良いのです。そうすれば、天の御国に入ることができます。現在、キリストを信じている人は、もれなく、天の御国に入ることができます。いや、もう片足は、天の御国に入っているのです。なぜ、私がこのようなことを言うのでしょう?日本人は「義」という概念がほとんどありません。日本人は「義」の代わりに、「情け」「慈悲」「あわれみ」を好みます。仏教の世界がおそらく、そうでしょう。教会に何度も足を運びましたよ。礼拝にも出て、一緒に賛美もしましたよ。鈴木牧師を知っています。それだけではダメです。イエス・キリストを救い主、人生の主として信じる必要があります。神さまから義とされると、神の子どもとされる霊が与えられ、神さまを「アバ、父よ」と呼ぶことができるようになります。そうすると、教会の礼拝に来ること、主を賛美することが楽しくなります。中には義務で来られている方もいるかもしれません。ある人は、天国に入るため、「神さまから忘れられないように」と顔つなぎのために教会に来られています。また、良い奉仕をしたからと言って、天の御国に入ることができるのでもありません。マタイ7章に書いてあります。イエス様の名前で預言したり、悪霊を追い出したり、奇跡を行なった人たちがイエス様のところに来ました。しかし、イエス様は「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け」(マタイ7:23)と言われました。私たちは良い行いではなく、キリストを信じる信仰によって義とされ、天の御国に入ることができるのです。キリストは神の義を私たちにくださるために来られました。私たちが罪を犯しても、未だ罪深くても、全く問題はありません。なぜなら、キリストによって既に、義と認められているからです。義と認められたら、それに相応しく生きようとするのです。
2.聖め
英語の聖書では、sanctificationになっています。口語訳には「聖となられた」と書かれています。だから「聖さ」と言っても良いでしょう。私たちはイエス様を信じた瞬間に、聖なる者とされたのです。だから、コリント人への手紙の挨拶で、パウロは「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」(Ⅰコリント1:2)と言いました。しかし、コリント教会はとても肉的であり、この世の罪にあふれていました。でも、キリストを信じたときに、聖なる者とされたのです。旧約聖書において、「聖」は、別の意味がありました。神さまの前に犠牲をささげるとき、人も動物も「聖別」されました。ヘブル語の聖、「カドーシュ」は道徳的な聖さを意味するものではありません。もともとは「神のものとして、選び別かたれる」という意味です。聖となるとは、私たちはキリストによって贖われ、神のものになったということです。これまでどこに属していたのか、だれのものだったのか分かりません。間違いなく、サタンの持ち物であり、滅びに向かっていた存在だったのでしょう。しかし、イエス・キリストを信じたら、神の所有となったのです。不品行を行なっているコリントの人たちにパウロはこのように言いました。Ⅰコリント6:19「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」ある婦人牧師が2歳のとき当時、流行していたポリオになりました。そのため、ちゃんと歩けなくて、転ぶこともよくありました。中学になったとき、人々から馬鹿にされ、真冬の川に身投げをしようとしました。すると、彼女がよく聞く、東北弁で「グダグダ文句を言うな。お前のからだは俺が造ったんだ」という声が聞こえたそうです。後から、それがⅠコリント6章のみことばだと分かったそうです。その声を聞いて、彼女は全く変わりました。そのからだで、神の栄光を現そうとしました。同じように、私たちのからだは神のものであって、聖なのです。その証拠として、聖霊が住んでおられるのです。
オズワルド・チェンバースというスコットランドの伝道者がsanctificationについてこのように述べています。奥義としての聖さとは、完全にイエス・キリストの性質です。そのお方が、私たちに贈物として付与されたのです。「だんたん」とではなく、一回で直ちに、信仰によって現実のものとなったのです。聖さとは、イエス様の聖さが私のものになり、私の人生で現すという意味であり、それ以下ではありません。最もすばらしい秘密である聖い生活とは、キリストを真似ることではなく、イエス様の完全な聖さを人間の肉としての私の中に現していただくことなのです。コロサイ1:27「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」イエス様のすばらしい命の中にある聖さが、信仰によって、神の恵みとして付与されたのです。聖さとは、イエス・キリストの聖なる性質が、私に付与されたという意味です。聖さは贈物であり、イエス様の忍耐、愛、聖性、信仰、清潔、善が、聖とされた魂を通して、現されるのです。聖さとは、キリストを真似ることではなく、impartation付与です。結果として、私たちはゆっくりと確かに、言葉に言いつくせない、健全で聖い生活をし始めるのです。それも、神の力に保たれてです。アーメン。
私は最初、ホーリネス教団の神学校の基礎科に行きました。その教団は「聖め、ホーリネス」を強調していました。一口に言って、「古い自我に死ぬこと。そのために罪を悔い改めて、きよめられる」ということでした。「きよめられる」とは、受身形であり、自分がきよくなるということではありません。ところが、「私は、もっときよめられなければならない」という律法的で脅迫的なところがありました。卒業後、ウォッチマン・ニーの本を読んで、「私は古い人に死んでおり、きよめられている」と分かりました。もちろん、その当時も、今も、私が言葉や行いできよめられているとは思えないかもしれません。しかし、今、自信をもって言えることは、動機がきよめられたということです。動機はだれの目からも見えない、心の奥底にあるものです。パリサイ人や律法学者たちの行いは正しくて、聖かったかもしれません。しかし、イエス様は彼らを「白く塗った墓のようなものだ」(マタイ23:27)と言われました。つまり、「聖め、ホーリネス」を強調していても、内側の罪に対する葛藤がある方がたくさんおられるということです。内にある罪を常に抑えつけているので、油断したときに、ばっと出てしまうのです。ですから、聖さを強調する教団に性的なスキャンダルが多いのはそのためかもしれません。抑圧によって、聖なる者となることはできません。もちろん、罪を強調して、悔い改めてもダメです。救いも恵みですが、聖めも恵みです。
では、どうしたら良いのでしょう?神さまは私たちがイエス様を信じて受け入れた時に、あなたは聖いとお認めになられたのです。なぜ、聖いのかと言うと、聖いイエス様を受け入れているからです。パウロも「キリストは聖めとなられた」と言っています。その後で、「まさしく、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」とあります。なぜかというと、自己の努力ではなく、恵みだからです。さきほどのオズワルド・チェンバースはこうも述べています。「キリストはだれにでも、ご自身の性質を与え、聖い者としてくださいます。だれ一人、律法に従うことによって、自分を聖くすることはできません。イエス・キリストは私たちに律法や規則を与えていません。『キリストが、ご自身の性質を私たちの中に与えた』という教えを文字通りに解釈するのです。キリストの偉大な救いが私たちの性質を変えるのです。かと言って、キリストが人間の性質を変えるのではなく、キリストは性質の元である、動機を聖めてくださるのです。」アーメン。動機は私たちの心の最も深いところにあります。もちろん、私たちは罪を犯したり、失敗することもあるでしょう。でも、神さまは私たちの動機をご覧になっておられます。「わざとではなかった。結果的には悪かったけど、動機は正しかった」と認めてくださるのです。そのことは、内におられる聖霊が最もよくご存じです。私たちは内におられる聖霊様に嘘をつかないで、共に歩むときに、だんだん聖なる者とされていくのです。何度も言いますが、スタート地点で、聖とされているのです。聖とみなされているので、おのずと聖なる者になっていくのです。
3.贖い
日本語の聖書は「贖いとなられた」となっています。ギリシャ語の聖書は、アポリュトゥシスとなっています。アポリュトゥシスは、「身代金を払って、奴隷・捕虜を自由にしてやる」という意味です。リュトゥシスだけでも「解放」なのですが、アポは「…から」という起源を表わします。私たちは、以前は、罪の奴隷として生まれ、サタンの奴隷市場で売られていた存在でした。しかし、イエス・キリストが十字架で罪の支払をしてくださいました。だからと言って、全ての人が奴隷市場から自由になるのではありません。「イエス様は、私のために罪を支払って下さったのですね」と信じなければなりません。キリストを救い主として信じ受け入れて、初めて、人は救われるのです。信じない人は、代価が払われたにもかかわらず、サタンの奴隷市場につながれている状態です。キリストは十字架で息を引き取られるとき「完了した」と叫ばれました。「完了した」はギリシャ語で「テテレスタイ」と言います。「テテレスタイ」は商業用語で、「完済した」という意味です。しかもこの動詞には「一回ですべて」という意味があります。ですから、キリストは十字架の上で、すべての人のために、ただ一度だけ、しかも永遠に有効な支払をされたのです。でも、もう一度言いますが、だからと言って、自動的に救われているわけではありません。「私のためにキリストが代価を払って下さったのですね。信じます。アーメン」と言って、奴隷市場から出てこなければなりません。扉の鍵はかかっていません。サタンは「そんなうまい話はないぞ。お前が簡単に救われる訳がないだろう」と嘘をついているのです。
さらに問題なのは、カトリック教会の「赦しの秘跡」です。これは洗礼以後に犯した罪のゆるしを与える秘跡のことです。罪の告白は「告解場」に入って、司祭に聞いてもらい、その後、「罪の償い」を告げられます。「とんでもない」と言うしかありません。第一に、キリストは私たちの過去、現在、将来の罪も贖ってくださいました。もちろん、Ⅰヨハネにあるように、罪を犯したら神の前で罪を告白する必要はあります。第二は、犯した罪は、キリストの血によってただちにきよめられ、償いは必要ではありません。ただし、社会的な罪を犯した場合は、法的に、あるいは物質的に償う必要はあるでしょう。でも、神の前には告白しただけで赦されます。罪の代価はすでに払われています。懺悔ではなく、神との交わりの回復のための悔い改めです。カトリックの考えは、まるで「執行猶予」みたいなものです。再度罪を犯さないことを条件として、刑務所の外で恐れながら生活しているようなものです。イエス様は十字架で「テテレスタイ(すべてを支払った)」と叫ばれました。そして、キリストを信じた人は、奴隷市場の外に出て自由の身となりました。だれも、その人を訴えることはできません。ローマ8:33,34「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」司祭ではなく、キリストが御父の前で弁護をしてくださるのです(Ⅰヨハネ2:1)。
私たちは今、どこで暮らしているかちゃんと知らなければなりません。使徒パウロは救われることのことをこのように述べています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」コロサイ1:13、14「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」これらのみことばから贖いとは何かを知ることができます。最初、私たちが救われる前は、暗やみ、つまりサタンの支配の中にありました。サタンの奴隷市場で売られていた存在です。しかし、イエス・キリストが代価を払ってくださり、ご自身を信じた者を移し替えてくださいます。つまり、サタンの支配から、神さまのもと(御子のご支配)の中に移してくださったのです。「移す」ということばは、英語でtransferredです。これは、別の乗り物に乗り換えさせる、積み換えるという意味もあります。以前は滅びに向かっている列車に乗っていました。ところが、乗り換えて、今は天の御国に向かっている列車に乗っているということです。もう、あなたは暗闇の圧政の中にはいません。愛と自由といのちにあふれている、愛する御子のご支配の中にいるのです。このお方は、私たちがたとえ罪を犯しても、ただしに赦してくださいます。天の父も愛にあふれており、怒って、ひっぱたいたりはしません。「反省するまで、一時間、正座」とも言いません。私たちは神さまの愛のもとでのびのびと生活できるのです。これがキリストによる贖いです。
残念ながら、私たちは救われる前の記憶を持っています。前の夫は厳しくて、小さなことでも罪に定めました。「お前はなっていない」と酷評されました。その記憶があるので、どうしても、神さまの愛を自分のものにすることができません。どこかで怯えて生活しています。しかし、ローマ7章にあるように、私たちは一度、死んで新しい夫に結ばれました。新しい夫とは、イエス様のことであり、前の夫とは律法のことです。どうか、昔の夫である律法のところに戻らないように。愛と恵みに満ちたイエス様と暮らしましょう。ある本で、虐待されて育った子どもは、食事のとき、まずおいしいものを袋に詰めるそうです。それを、あとから自分の部屋で食べるのです。彼は愛のふれた家の養子になっているのに、心はまだ虐待された家の中で生きているのです。その子は、2年後にやっと親たちが自分を愛していることがわかり、本当の子どもらしくなったということです。私たちの頭、潜在意識には過去のトラウマやいやなことが残っています。時々、夢の中に現れ、自分を苦しめます。現実においても、昔、自分をいじめた人に似ている人と会うと、フラッシュバックするかもしれません。でも、自分は愛なる神さまのもとにいることを忘れてはいけません。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」解放されることの鍵は、キリストが何をなされたかを心の奥底で納得することです。「キリストが義と聖めと贖いとになられた」ので、私たちは救われているのです。私たちが何かをしたではなく、キリストが救いに関するすべてのことを成し遂げてくださったからです。