2021.8.22「異邦人コルネリウス 使徒10:1-8」

 コルネリウス(以前の訳コルネリオ)はローマの百人隊長です。百人隊長は福音書にも何人か登場しますが、みな敬虔な人たちです。使徒の働きはコルネリウスに関することが、10章と11章、長々と書かれています。なぜでしょう?少し前のサマリヤの人たちは、ユダヤ人に近い、霊的な混血でありました。ところが、コルネリウスはローマ人であり全くの異邦人でした。異邦人が救われるということは、初代教会にとって結構、ハードルが高い出来事だったからであります。

1.コルネリウスの祈り

 使徒10:1-4「さて、カイサリアにコルネリウスという名の人がいた。イタリア隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。ある日の午後三時ごろ、彼は幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。その御使いは彼のところに来て、『コルネリウス』と呼びかけた。彼は御使いを見つめていたが、恐ろしくなって言った。「主よ、何でしょうか。」すると御使いは言った。『あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています。』」これは御使いがコルネリウスに現れて言ったことです。多くの場合、御使いは神からのメッセンジャーとして遣わされます。御使いは2つのことをコルネリウスに告げました。第一は彼の祈りと施しが神に覚えられているということです。第二は、5節以降に記されていますが、「ヨッパに人をやって、シモン・ペテロを招きなさい」という神からの命令です。この後、コルネリウスは数人の部下を派遣しました。コルネリウスはカイサリアというパレスチナの西の港街に住んでいました。カイサリアはローマのカイサルから取った名前であり、政治的にも軍事的にも重要な都市でした。普通でしたらローマ兵はユダヤ人に対して、高圧的で威張り散らすこともできたでしょう。しかし、コルネリウスはユダヤ人が信じる神を信じていました。彼だけではなく、「全家族とともに神をおそれかしこみ」とありますので、霊的なリーダーシップもありました。さらには、「ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」とあります。ユダヤ人から搾取するのではなく、多くの施しをしていました。ルカ7章にもカペナウムにいた百人隊長ことが記されています。ユダヤ人が「この人は、私たちの国民を愛し、私たちの会堂を建ててくれた人です」とイエス様に告げています。彼はあとから「このような立派な信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と褒められています。このように、ローマ兵の中にも、信仰の篤い人たちがいたということです。

 第二歴代誌には、このようなみことばがあります。Ⅱ歴代16:9「 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」主なる神さまはあまねく全地を見渡しておられます。だれが、ご自分と全く1つになっているか人々の心をご覧になっています。「全地」というのは、イスラエルだけではなく、全世界ということです。しかも、祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられているのです。もちろん、まことの神さまへの祈りということが前提であります。でも、コルネリウスの場合は、まだイエス・キリストを知りません。だれの名前で祈っていたのでしょうか?聖書が啓示している創造主なる神でしょうか?あるいはユダヤ人が信じている「アブラハム、イサク、ヤコブの神」でしょうか?チョー・ヨンギ師は、かつて肺結核で死を待つしかない青年でした。彼の家は仏教でありましたが、激しい痛みの中から、あらゆる神さまに叫び求めました。「神さま、私を助けに来てください。」しかし、答えがありません。次に別の神さまに叫び求めましたが、答えがありません。最後に彼はやけっぱちで、「もし他に神さまがいるなら、癒してくださいとは願いません。どうか、ただ死ぬ方法を教えてください」と暗い部屋の中から叫びました。彼はひとりぼっちで、忘れ去られているように感じました。数時間後、若い女子大生が彼の家の近くを歩いていました。すると、その家から説明できないような愛が流れてきて、自分をひっぱっているように感じました。彼女はその家のドアをノックしました。すると、その家のお母さんが出てきました。彼女は「あなたは私を知らないと思いますが、何かお祈りをさせていただくことがあるのでは?」と言いました。お母さんは涙を流しながら、死の床にいる息子のことを話しました。若い女性は部屋に入り、彼のために祈りました。青年はキリストに人生を明け渡しました。彼は癒されて、やがて大教会の牧師になりました。このことからも分かりますように、はっきりした祈りでなくても、神さまの前に届いている祈りがあるんだということです。

 また、コルネリウスは施しをしていたと書かれています。「施し」はギリシャ語でエレモースネーであり、「同情、慈善、施し」という意味です。マタイ6章でイエス様は「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言われました。おそらくコルネリウスオは、偽善者たちがするように、これ見よがしに与えたのではないと思います。本来なら自分はローマ兵のリーダーなのですから、属国に対して、横柄な態度を取っても良かったでしょう。でも、困っている人たちを見て、具体的な助けを与えたくなったのです。それは、神をおそれる心、神を信じる心から出たものと考えられます。別に、報いられようと思ってやったわけではありません。でも、隠れた所で見ておられる天の父が、彼に報いてくださったのです。どんな報いかというと、キリストを通して、永遠のいのちを彼に与えたいと思われたのです。だから、この先を見ると分かりますが、御使いを遣わし、ペテロに幻を見せ、聖霊に語らせ、何とかしてコルネリウスを救いたいと思われたのでしょう。その証拠に、ペテロの説教が終わっていないのに、すべての人々に聖霊を下されたことであります。聖霊の賜物を与えたくてしかたがなかったというニュアンスがあります。まさしく、Ⅱ歴代16:9「 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」そこが異教の地であろうと、極東の日本であろうと、神さまはあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわそうとしておられるのです。私たちも、恵みによって、この神さま見出されたことを感謝いたしましょう。

2.コルネリウスへの神の介入

 この御使いは、神さまからの伝令を伝えるためだけに遣わされました。しかし、福音を伝えるのは贖われた私たちの務めです。御使いは罪から贖われた経験がないので、それができないのです。そのため使徒ペテロに、カイザリヤまで来てもらう必要がありました。ペテロはもと、敬虔なユダヤ教徒でありました。自分がクリスチャンになったとはいえ、異邦人が救われるとは思っていなかったでしょう。そのため、神さまは、ペテロがコルネリウスたちに福音を伝えさせるために色んなことをする必要がありました。第一は御使いを備えられました。コルネリウスに御使いが現れて、コルネリススの部下をペテロがいるところまで派遣させました。第二は10章9節から20節まで記されている「幻」であります。ペテロは食事ができるまで、うっとりと夢ごこちになりました。使徒10:11-15「見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。そして、彼に、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい』という声が聞こえた。しかしペテロは言った。『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、再び声があって、彼にこう言った。『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』」旧約聖書のレビ記に記されていますが、「爬虫類、猛禽類、ひずめのないものは食べてはならない」と書かれています。主はそれを食べなさいと言われましたが、ペテロは「私は一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」と断りました。そのことが3度もあったのに、ペテロは「これは単なる幻ではなく、何か意味がある」ことに気が付きました。きよくない物や汚れた物とは、異邦人のことでした。主がまぼろしの中で、きよめた物を、きよくないと言ってはならない」と言われたのは、異邦人と交わっても良いという意味だったのです。

第三は御霊がペテロ語られました。使徒10:19「ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。『見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。』」御霊は神の霊ですから、神さまです。みなさんは御霊の声を聞いたことがあるでしょうか?とても威厳があります。普通は私たちの霊が私たちの魂に語りかけます。とても静かな声なので、気づかない時が多々あります。でも、御霊の声は、肉声ではありませんが、だれかが話したようにはっきり聞こえ、しかも威厳があります。でも、御霊の声を聞くことを期待しなくても良いです。なぜなら、多くの場合、私たちが危機に瀕している時だからです。「今、語らなければこの人はダメになる」「大変なことが起るぞ」という時に語られます。平野牧師がアメリカにおられた時です。四輪駆動に乗って、山道を走っていました。その時、大きな鹿が目の前に現れたそうです。とっさにハンドルを切ったけれど、車が急な斜面を下ることになりました。その時、聖霊が「右に切ろ」とおっしゃったそうです。先生はわけもわからず、ハンドルを右に切りました。すると、目の前に大木があり、その木を避けることができたそうです。ペテロが降りて行くと、御霊が言われたように、コルネリウスから遣わされて来た人たちがいました。彼は「ためらわずに」彼らと一緒に行くのであります。

 まとめます。ペテロがコルネリウスのところまで行くために、第一は御使いが遣わされました。第二は天から幻が示されました。第三は御霊がペテロに語られました。現代の教会がこれら3つのものを果たして、導きや決断の根拠にするでしょうか?ほとんどの教会は、「聖書が完成した今は、そういうものはない」ときっぱりと言うでしょう。もし、「私は幻を見たので、そうしました」と言うなら、頭がおかしいと思われ、教団から追い出されるでしょう。つまり、現代の教会は御使いも、幻も、御霊の声も信じていないということです。おそらく、聖書のことばは信じると言うでしょう。でも、解釈がどうなのか問われるでしょう。教会の決議のほとんどは会議によって、しかも多数決によって決定されます。祈ることは祈りますが、大体は人間考えと教団の伝統が支配します。彼らはそれも神さまの御手の中にあると理屈をつけるでしょう。使徒の働きにペテロが幻によって、異邦人と会ったということが3か所も記されています。最初は使徒10:9、食事の前に見た幻です。第二回目は、使徒10:28、ペテロがコルネリウスと多くの人たちに、自分が見た幻を告げています。第三回目は、使徒11:5、エルサレムの教会で語っています。なぜなら、ペテロが割礼を受けていない人たちと一緒に食事をしたと非難されたからです。ペテロが自分の見た幻とコルネリオの回心を話すとどうなったでしょう?使徒11:18「人々はこれを聞いて沈黙し、『それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。』」ペテロが見せられた天からの幻が重要な裏付けになったということです。

 私たちは神さまに余地を与えるべきであります。どんな余地かと言いますと、御使い、幻、御霊の声です。いつ、そういうものは終わったのでしょう?聖書のどこに、そのようなことが書かれているのでしょう?聖書の一番、最後は、ヨハネの黙示録です。そのほとんどがこれから起る内容です。確かに、黙示録はその名のとおり、黙示的に書かれています。でも、黙示録2章から3章は古代から現代の教会のことです。このところには「耳のある者が教会に言われることを聞きなさい」と少なくとも7回記されています。と言うことは、今でも御霊が私たちに語っておられるということです。これは黙示でも何でもなく、そのように命じられているとストレートに解釈するのが本当です。今でも御霊が私たちに語っておられます。聞こえないのは、私たちが聞こうとしないからです。幻もあります。使徒16章にありますが、パウロがマケドニヤに渡ることを決断したのは、幻を見せられたからです。教会は聖書を誤りなき神のことばとして信じています。そして、字義的に解釈すべきだと言います。それだったら、聖書に記されているように、今も、御使いが遣わされ、幻があり、御霊の声はあるのです。もちろん、聖書を読むことは基本中の基本です。でも、私たちの神さまは生きておられ、聖書に書いていないことを示すためには、いろんなことをなさるのです。なぜなら、奇跡的に示されないと頑固なところがあるからです。

3.コルネリオの回心

 ペテロがコルネリウスのいるカイサリアに着きました。そうすると、コルネリウスは、親族や親しい友人たちを呼び集めて待っていました。「多くの人が集まっていた」とありますが、どのくらいの人数なのか定かではありません。コルネリウスは、使徒ペテロが来るので、なんとか福音を聞いてもらいたいと多くの人たちを集めていたのでしょう。ペテロの説教の中心部分を引用させていただきます。使徒10:38-40「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。」このところには、地上におけるイエス様のみわざ、十字架の死、そして復活が語られています。最後に、恵みによる救いが語られています。使徒10:43 「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」ペテロはユダヤ人のように割礼とかモーセが言う宗教的義務については一切語っていません。「この方を信じる者はだれでも、罪の赦しが受けられる、つまり救われる」と言っています。もう、完璧です。でも、ペテロはさらに何かを話し続けていました。コルネリウスたちもみことばに耳を傾けていました。そのときに、聖霊がお下りになりました。また、ペテロが語り終えてもいないし、招きもしていません。なのに、「もう十分でしょう」とばかり、聖霊がお下りになられました。

 コルネリウスの回心から学ぶべきことは、神学的な順番など関係ないということです。組織神学では、「救いの順序」ordo salutisというのがあります。予定-召し-信仰-悔い改め-義認-神の子-聖化-堅忍-栄化です。カルヴァン主義とアルミニウス主義、ルター派、それぞれ異なります。「え、救われるための順番なんかあるの?」と多くの人は思われるでしょう。私は、混乱を与えないために滅多にこういうことは言いません。救いの順番など、コルネリウスの場合は全くあてはまりません。一般的には信仰を告白して水のバプテスマを受けます。なのに、まだ「信じます」とも言っていないのに、突然、聖霊が彼らの上に下りました。使徒10:45-47「割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。』」アーメン。ペテロが私たちと同じ聖霊を受けたのですから」と言っていますが、これはペテンテコステの時の経験です。11人の弟子は除いて、120人の人たちは、聖霊を上からと内からと一遍に受けたのです。つまり、聖霊による新生と聖霊による上からの注ぎ、つまり聖霊のバプテスマです。コルネリウスたちも同じ聖霊の体験をしました。「すでに聖霊を受けたのだから、水のバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか?」と言っているのです。つまり、あとから水のバプテスマを授けたということです。このことを例外として処理するなら、聖霊を軽んじることになります。人を回心に至らせるのは、究極的には聖霊です。聖霊は神ですから、主権があるので私たちの神学通りにしなくても良いのです。ペテロのすばらしいことは、聖霊のみわざを重んじて、彼らに水のバプテスマを施したということです。

 ヨハネ福音書では、聖霊が風にたとえられています。ヨハネ3:8「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」これはどういう意味でしょう?風は目に見えません。また、どこから来てどこへ行くのかもわかりません。しかし、木の枝の葉が動いているとき、「ああ、風が吹いているなー」と分かります。同じように聖霊も目には見えません。聖霊もご人格がありますので、私たちの支配を受けません。しかし、聖霊がその人に働かれるとき、人は生まれ変わります。また、力をいただいて大胆になります。初代教会ではそのとき、異言を発したり、預言をしました。でも、これを定式にしてはいけません。ある教団は、「聖霊のバプテスマを受けると必ず異言を話すものだ」という神学を持っています。私はそうは信じません。もし、そんなことを信じたら、異言の出ないクリスチャンは二流と見なされ、ある人は異言みたいなものを発するでしょう。神学は、体験や現象を土台にしてはいけません。しかし、聖霊を受けるとおのずと変化がやってきます。これは神である聖霊がなさることであり、私たちが「こうでなければ困ります」と注文をつけてはいけません。コルネリオの回心から学ぶことは、神さまは異邦人も救いたかったということです。弟子たちは、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」と言われていたにもかかわらず、頭が堅くて、乗り越えるのが大変だったということです。私たちは聖霊を求めますが、聖霊様の方が与えたくて仕方がないということも学ぶべきです。なぜなら、コルネリウスたちが、「信じます」とか「聖霊に満たして下さい」と願ってもいないのに、豊かに与えられたからです。ルカ福音書には、このようなみことばがあります。ルカ11:9「とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」このみことばは、使徒の働きを書いた、ルカだけのものです。マタイによる福音書は「求めなさい。そうすれば与えられます。…天におられる父が、どうして求める者たちに良いものをくださらないことがあろうか」となっています。マタイの「良いもの」がルカでは「聖霊」になっています。つまり、ルカは「良いもの」の代表は「聖霊である」と言いたかったのです。昔、申賢均牧師がこのようなことをおっしゃっていました。ある主婦が「味噌がない、醤油がない、お米がない」と神さまにつぶやいていました。どうして「お金をください」と神さまに願わないのでしょう。お金があれば、味噌も醤油もお米も買えるでしょう。私たちは「力がない、信仰的に弱い、能力もない」と言うかもしれません。では、どうして「聖霊をください」と神さまに願わないのでしょうか。天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。アーメン。