きょうは、「さばくな」ということを聖書から学びたいと思います。これは、この世の裁判を否定しているのではありません。これは、神の御国に住む私たちに言っているのです。私たちの神さまは父なる神さまであり、さばき主です。イエス様は弁護者ですが、同時にさばき主です。私たちすべては、キリストの十字架の贖いによって赦された罪人です。もちろん、神の前では義とされてはいますが、この世にいるかぎり肉という罪の残渣(のこり粕)があることを忘れてはいけません。そのため、私たちはどうしても、人の欠点や罪をさばきたくなるのです。
1.さばくな
マタイ7:1-2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」「さばく」ということばは、ギリシャ語で「クリノウ」であり、「裁判する、裁く、有罪の判決を下す」という意味です。英語の聖書はjudgeであり、「裁く」の他に、「批判する」という意味もあります。「クリノウ」の前に「メー」がついているので、現在命令法で、習慣としての人のあら捜しを好んですることを禁じています。イエス様は「さばいてはいけません。さばかれないためです」と命じておられます。なぜなら、御国の子らの交わりである教会内でも、この戒めが破られることによって、神との間、人との間に不幸な断絶が生じるからです。「人をさばく」というのは、言い換えると、人のあら捜しをする、批判する、人の間違いを正すということです。アダムとエバは、食べてはならない木から取って食べました。その木とは、「善悪を知る、知識の木」でありました。それ以来、人間は、神の代わりに善悪を判断することになりました。本来は、神のみがさばきを下す権威があるのに、人が代わりにやってしまうようになったのです。
では、人をさばくとどうなるのでしょうか?イエス様は「さばくとさばかれる」とおっしゃいましたが、3つのことが同時に起ります。第一は、さばいた相手の人から「お前はどうなんだ」とさばかれるということです。言い換えると、他人を批判するその規準に従って、自分も評価されるということです。ディール・カーネギーは『人を動かす』という本の中で、歴代の大統領や有名な人物を何十人もあげて、人を非難することがいかに無駄なことか述べています。アメリカの偉大な実業家ジョン・ワナメーカーのことばです。「私は残念ながら、40近くになってやっと、人間はたとえ自分がどんなに間違っていても、決して自分が悪いとは思いたがらないものだということが、わかりかけてきた。他人のあら捜しは、何の役にも立たない。相手は、すぐさま防御体制をしいて、何とか自分を正当化しようとするだろう。それに、自尊心を傷つけられた相手は、結局、反抗心を起こすことになり、まことに危険である。」私は、この本を読んだとき、マタイ7:6のみことばを思い起こしました。マタイ7:6「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」私は、このみことばは、神さまを知らない、異邦人に対することばだと思っていました。なぜなら、「犬」とか「豚」と書かれているからです。しかし、どんな人でも、罪があり肉があります。つまり、だれでも人から批判されると、むっときて、「そういうお前は何なんだ」と怒ってしまい、素直に「そうですか」と聞く人はいないということです。ディール・カーネギーは、「盗人にも五分の理を認めよ」と言っています。なぜなら、人には肉があり、自分は間違っていないと思っているからです。私たちは親切心で、あるいは義憤から、人を注意したり、批判して、人を正そうとします。しかし、多くの場合は役に立たないことを知るべきです。
第二は、今度は、自分をさばかなければならなくなるということです。「人に言っておきながら、自分はどうなんだ」という内なる声が聞こえてくるでしょう。人に向かって刃を抜くと、同じ刃で自分を傷つけてしまうことになります。だれも、責めていないのに、自分の良心が責めるのです。「強迫性障害」というのがありますが、脅迫的に自分を見張り過ぎて、やがては心のバランスが崩れてしまいます。箴言28:1「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。」とあります。
第三は、究極的には、神さまによってさばかれるということです。マタイ18章に1万タラントを赦してもらったしもべのことが記されています。しかし、彼は仲間の100デナリの借りのある者を赦しませんでした。彼を、借金を返すまで牢に投げ入れました。それを聞いた主人は「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と言いました。そして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡しました。「獄吏」とは悪魔の使いです。私たちは自分の罪や欠点を棚にあげて、他の人のことをさばいてしまうところがあります。しかし、それは恐ろしい罪であることを認めるべきです。ローマ14:4「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」私たち一人ひとりは、神のしもべです。その人をさばくのは神さまです。なぜなら、その人の主人だからです。私たちが他の人をさばくというのは、その人の主人である神さまを冒瀆することになるのです。明らかにそれは、越権行為です。さらにパウロは「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」(Ⅰコリント4:5)と言っています。最終的に主がさばくと言っているのに、それが待てないというのはどういうことでしょう。それは、神さまの領分を犯しているということです。私も家庭や学校、会社、教会でたくさん叱られ、注意され、正されてきました。しかし、今思うと、その時はプライドを傷つけられたという恥と怒りがこみ上げ、批判されたことは1つも改めていないということが気づきました。どうしても仕方なく聞いたというのは、例外的にありますが、喜んで聞いたのではありません。他の機会で述べたいと思いますが、人は受け入れら、愛され、ほめられたら、その人の言うことを「お礼」として聞くのではないかと思います。
2.神の法則
ジョン・サンフォード師が立ち上げた「エリヤ・ハウス」という「内なる癒し」の団体があります。日本では20年くらい前から始まり、現在では日本中の教会に広がっています。エリヤ・ハウスで最初に学ぶテーマは「神の法則」です。神が創造された自然界には様々な法則があります。万有引力の法則、作用反作用の法則、熱力学第二法則、フレミングの法則、ボイルの法則…学校で習った記憶があります。私たちは万有引力の法則に逆らうことはできません。高層ビルから飛び降りたら、大けがをするどころか、死んでしまうでしょう。多くの人は、こういう自然科学の法則は認めますが、神が定めた道徳的な法則を認めようとしません。モーセの十戒は神が定めた道徳的な法則です。人が認めようと認めまいと、十戒を破るなら罪に定められ、命を落とすか、大変危険な状態に陥るでしょう。エリヤ・ハウスでは、聖書の中から3つの法則を取り上げ、それを柱にしています。第一は申命記5章の「父と母を敬え」です。第二はマタイ7章の「さばくとさばかれる」です。第三はガラテヤ6章の「蒔いたものは刈り取る」です。エリヤ・ハウスを学ぶと、因果応報的で多少、嫌になります。また、「あなたの苦い根は何か」と悪いものを見ようとするので否定的になります。私は、人間は天国まで完全に癒されることがないと考えています。でも、そこで2年間以上も学び、たくさんの気づきも与えられたことを感謝しています。
「さばくとさばかれる」という法則は、エリヤ・ハウスの3本柱の1つですが、他の2つの法則とも組み合わせています。子どもが最初に出会う人は両親です。多くの場合、幼い時に、母もしくは父をさばくのです。たとえば、私をちっとも、かまってくれないと怒ります。私に、いつも嫌なことを強いるとさばくでしょう。私よりも弟や妹をかわいがると嫉妬するかもしれません。それは、申命記5章の「父と母を敬え」の法則に違反しています。意識する、しないに関わらず、さばきの種を蒔いてしまいました。すると、ガラテヤ6章の「肉に蒔いたものは刈り取る」という法則に落ちることになります。しかも、蒔いたものは何十倍、何百倍もの実を結んでしまいます。つまり、幼いときのさばきが、大人になって、自分の身ばかりか、多くの人を汚すことになります。ヘブル12:15「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」とあります。エリヤ・ハウスの「苦い根」には、いくつかの種類がありますが、さばく気持ちはその1つです。そのため、「苦い根のさばき」と呼ばれています。苦い根のさばきが、多くの人たちを汚すことになります。まず、父と母と似たような人をさばきます。学校の先生、上司、牧師など権威のある人たちをさばきたくなります。結婚すると夫もしくは妻をさばきます。子どもをさばきます。隣人をさばきます。教会の兄弟姉妹をさばきます。このように、幼いときに蒔いたさばきが、実を結び、多くの人を汚してしまうのです。
柿谷正期師が『豊かな人生の鍵』という小冊子で「苦い根と心の傷」ということを述べています。ひとりの臨床心理学者が、犯罪の背後にある理由について8年間調査しました。調査を始める前に彼は、だいたいの予想をつけました。経済的な貧困、家庭の崩壊、教育の欠如などが理由ではないかと。実際に調査してでてきた答えに、彼は驚きました。犯罪の背後にある3つの主要原因―その第一は人の心の中にある苦々しい思い、第二は自己憐憫、第三は責任転嫁でした。さらに、柿谷師はこう述べています。苦々しさの存在するところには、不平、イライラ、怒り、非難も存在します。苦い根はいろいろな形であわわれます。人につらく当たるのも苦い根のあらわれです。コロサイ3:19「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」妻につらく当たっている人は、苦々しい思いをもっている人なのです。妻に対してだけではありません。私たちは人につらく当たるとき、そこには苦い根があるのです。つらく当たるとも訳せる「苦い根」というギリシャ語には、槍の先という意味もあります。鋭く感覚を突き、切ったり刺したりする―そういう意味合いのことばなのです。人につらく当たるとき、じつに、その人を切ったり、刺したりしているのです。
それではどのように、苦い根のさばきをはじめ、心の傷が癒されるのでしょうか?エリヤ・ハウスでは5つのステップを提示しています。①気づき、②悔い改め、③赦し、④十字架につけて死なす、⑤新しい命が与えられるように祈る。私たちはそもそもの原因である、父と母を赦す必要があります。もちろん、父と母にも悪いところ、行き届かなかったところがあるでしょう。でも、幼い私たちも罪があり、それらを悪く取って、怒ったりさばいたりするのです。私たちはそのことを悔い改めるのです。重要なのは、十字架につけて死なすということです。たとえば、人を非難したり、つらく当たるというのは、構造になっています。樹木でいうと、幹の部分です。何十年もそのように生きてきたので、性格の一部になっているのです。パウロがガラテヤ書でこう述べています。ガラテヤ5:24「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」クリスチャンであるなら、古い人がキリストとともに十字架につけられ、死んでいることを認めています。それは神さまがすでになさったことです。しかし、もう1つは、自分が、主体的に十字架につけるのです。それは肉であり、罪の構造です。この場合は、人をさばくという肉の性質を十字架につけるということです。そうすると、神さまがその性質を殺してくださいます。最後に、新しい性質を神さまからいただきます。御霊の実は、「愛、喜び、平和、寛容、親切…」とあります。さばき心の反対は、寛容さと親切です。寛容とは、人の欠点や罪を大目に見るということです。親切というのは、あわれみの手を差し伸べるということです。父なる神さまは寛容なるお方です。ある方が、「神さまは死ぬまで人をさばかないのに、神さまより先走ってさばくのですか」と言いました。私たちは人をさばきたくなるとき、イエス様のことを思うべきです。Ⅰペテロ2:22,23「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」私たちは聖霊によって、キリストの心をすでに持っています。聖霊様が私たちを導き、助けてくださいます。
3.ちりと梁
イエス様は他人をさばく人に対して、どのように教えておられるでしょうか?マタイ7:5「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」「偽善者よ」というのは、イエス様をよく非難した、パリサイ人や律法学者に向けているのだと思います。でも、いつも他人をさばいている人は、パリサイ人や律法学者たちと同じだということです。彼らは聖書の律法を手にとって、人をさばいていたので、だれも太刀打ちできませんでした。「神のみことばは、生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭い」とヘブル4章に書かれています。でも、彼らは他人をさばきながら、みことばをちっとも実行していませんでした。いや、多少は実行していたかもしれません。でも、律法の基準は100%なので、どうしてもごまかすしかありません。だから、偽善的にならざるを得なかったのです。イエス様は他人をさばく人に対して、「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」とおっしゃっています。リビング・バイブルには、「梁」というのをlog丸太と書いています。また、「ちり」というのは、ギリシャ語はカルフォスで、chip木片です。ポテト・チップスのチップです。イエス様は大工でした。ですから、よく丸太を加工したでしょう。丸太をかんなや、のこぎりで切ると、削りくずが出ます。私は子どもの時に、槇ストーブにくべるために、木をのこぎりで切りました。たまに、切った粕が目にはいって、とても痛かったことがあります。それにしても、丸太と削りくずでは、たとえがオーバー過ぎる感じがします。大体、目に丸太は入りません。イエス様は「人の目から削りくずを取らせてくださいと言う前に、自分の目から丸太を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、削りくずを取り除くことができるのです」とおっしゃいました。
イエス様がおっしゃりたいことは、「あなたは人の欠点や罪をさばこうとしているけれど、あなたの方がはるかに大きな欠点や罪があるのですよ。まず、あなたはそれに気づきなさい」と言うことでしょう。大体は、自分の欠点や罪は見えません。肉があるので、自分のものは、どうしても過小評価してしまいます。反対に、他の人の欠点や罪を過大評価して、「どうしても私が取り除かなければならない」と正義感に燃えるのです。「しかし、よけいなことをせず、まず、自分の欠点や罪を見なさい」ということです。私たちは、自分の目が丸太によって視界がさえぎられているということ気付くべきです。イエス様はヨハネ9章でユダヤ人に「『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」(ヨハネ9:41)とおっしゃいました。実は彼らが、盲目だったということです。私たちはユダヤ人を馬鹿にはできません。私たちも自分を義とし、他人には罪があるとさばいてしまう性質があるということです。この性質は、私たちが救われる前も、救われた後もあります。救われると霊的な目が開けて、より一層、人の欠点や罪がわかるという面があります。未信者の方がよっぽど寛容なところがあるかもしれません。教会には聖書があるし、聖なるところです。「こうあるべきだ」という基準が、世の中よりもはるかに高いところです。もし、そこに神さまに仕える牧師がいたなら、槍玉に上がるのは必至です。自己弁護しているつもりはありませんが、「品性がない、ことば使いが粗野、いい加減、熱心に伝道していない、祈っていない、愛がない、霊的でない、知的じゃない、さぼっている…」きりがありません。みんな当たっている感じがします。ヤコブ3:1「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」アーメン。でも、言いますが、私をさばくのは教会員ではなく、神さまご自身です。なぜなら、神さまが私を召してくださったからです。パウロはこう言っています。Ⅰコリント4:4,5「私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」アーメン。
岸義紘師がある本で、裁き合いのことを「ちり梁戦争」とおっしゃっておりました。その本の挿絵にはお互いの目から、梁が「ボーン」と、飛び出しています。もうあぶなくてしょうがないですね。どうも、私たちは「自分の欠点や失敗には寛容で、兄弟姉妹に対しては厳しい」という罪の性質が宿っているようです。大川牧師はところどころで、「教会成長の秘訣」ということを話しておられます。70周年の当教会に来られたときもおっしゃっていたと思います。大川先生ご夫妻は日曜日の夜、教会員の悪口を言って、コーラでいっぱいやっていたそうです。あの青年会長は、あの役員は…とさばいて、「スカーっと爽やか」ストレスを解消していたようです。でも、ある時、ヨハネ3章の「聖霊はおのが好むところを吹く」というみことばに目がとまったそうです。そのとき、「ああ、聖霊には人格があり、好んで吹きたいところと、嫌で吹きたくないところがあるらしい」と気づきました。ああ、聖霊が嫌で吹きたくないところとはどんなところだろうか?そうだ、「互いにさばきあう教会ではないだろうか?」と気づいたそうです。先生がその頃、属していた教団はきよめ、聖化を求める教団で、どうしても律法的になり、他人をさばくところがあったそうです。「牧師のネクタイが派手だとか、地味だとか」「子どもが少ないと甲斐性がないと言われ、多すぎるとちょっと控えたら」と言われたそうです。そのとき、はっきりと決断をしました。「牧師が信徒をさばかない、信徒も牧師をさばかない、信徒同士もさばかない」。するとどうなったでしょう?多くの人たちが教会にやってきました。なぜでしょう?赦しの雰囲気があるからです。そして、聖霊様が好んで吹かれるので、多くの人が救われました。私はその体験があった1年後に教会に行きました。私は土木現場で5年間も働いていたので、肉の匂いがプンプンしていたでしょう。でも、「私はさばかれていない。ありのままで受け入れられている」という安心感がありました。しかし、1年後、「私は献身します」と言ってから、あたりの目が厳しくなったことも確かです。それはともかく、「さばきあわない教会」というのは、聖霊様が喜ばれる環境であることは確かです。積極的に言うなら、互いに愛し合い、赦し合い、受け入れ合う教会です。どうぞ、さばきのメガネをはずして、寛容のメガネをかけたいと思います。