恐れは何か対象物がはっきりしている場合です。一方、不安は対象となるものがはっきりしていません。何かに不安なのです。不安は英語でanxietyと言いますが、anxietyは、心配という意味もあります。Worryという言葉もありますが、これは動詞で「悩む、くよくよする、心配する」という意味です。AnxietyとWorryは友達関係かもしれません。でも、私たちはそういう友達を持ってはいけません。Worryを捜してはいけません。イエス様は「あなたがたのうちだれが、心配したからと言って、自分のいのち(寿命)を少しでも伸ばすことができかすか?」(マタイ6:27)とおっしゃいました。神さまが私たちの寿命を握っているので、心配する必要はないということです。このみことばだけで、もう十分という感じがします。
1.心配するな
日本語の聖書は、マタイ6章25節から34節まで「心配する」あるいは「心配するな」が、7回でてきます。口語訳聖書は「思いわずらうな」と訳されています。原文のギリシャ語、メリムナオーは「心配する、気づかう、心にかける、思いわずらう」です。このことばは英語の聖書になると、be anxiousあるいは worryとなっています。しかし、メリムナオーのもとの言葉は、メリゾーであり、「部分に分ける、分割する、分裂する」という意味です。つまり、「心配する」は、「心が引き裂かれる、心が分散する」という意味があるということです。「確かにそうだなー」と思います。心配がつのってくると、心が引き裂かれるように痛みます。このことと関係あるみことばが、実は24節にあります。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」多くの人たちは、24節をカットして、25節から「心配するな」とメッセージをします。しかし、25節の「だから」という接続詞は、前に述べた事側の理由を述べるためのものです。「だから、あなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり。またからだのことで、何を着ようか心配したりしてはいけません」と連続するのです。人々は2つのことで心が引き裂かれています。一方はいのち(寿命)であり、他方は何を食べるかです。また、一方はからだであり、他方は着物です。イエス様は、いのちは食べ物より大切で、からだは着物よりも大切なものであるとおっしゃっています。
イエス様は「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」とおっしゃいました。一人の主人とは、神さまが備えてくださった本質的なものです。ここでは、からだであり、いのちです。もう一人の主人というのは、人間が欲する二次的なものです。ここでは、食べもの、着物です。イエス様は31節で異邦人が切に求めているものをあげています。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい」と。心配の原因は、神さまに関する本質的なものと、人間が欲するこの世的なものと言うことができます。日本人のほとんどは、テレビやインターネット、スマートフォンで、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、心配しています」。もし、天地を造られたお方が私たちを養っていてくださると知るならそれらの心配は去ります。つまり、主人をこの世的なものではなく、神さまと神さまが下さっている本質的なものに目を留めるべきだということです。もし、「本質的なものが何か」ということを知っているなら、食べ物、飲み物、着る物に、そんなに悩まなくても良いです。「私には神さまが下さったからだがある。私には神さまが下さったいのちがある。これに勝るものはない。アーメン」と誇ることができるでしょう。そうなると、食べ物、飲み物、着る物は自分のしもべになり、それらに左右されることがなくなるということです。「あればあるで良くて、なければないで良い」となるのです。
ヤコブは「二つのものに悩んでいる人は安定がない」と言っています。ヤコブ1:6-8「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」私たちはどちらかを主人にし、どちらかをしもべにしなければなりません。イエス様が「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」とおっしゃったからです。もし、二人の主人に仕えようとするなら、「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」。ニール・アンダーソン師はこのことから、結婚について教えています。神さまの願いは、「夫と妻が、時が良くても悪くても、死が二人を分かつまで、共に生活する」ことです。しかし、結婚後、fantasy 幻想を追い求める場合があります。現実の結婚生活よりも、もっと魅力的なことに走ります。若いカップルが結婚したとします。しかし、二人の関係がうまくいかなくなり離婚することを考え始めました。二人は、まもなく離婚するかもしれません。なぜなら、妻は結婚よりも、自分のcareer職業を設立したいと願っています。一方、夫は妻よりも、自分を尊敬してくれる女性と出会いました。結婚における、神さまの願いは明確です。でも、彼女の方がもっと魅力的です。こういうのは、芸能界の方々に多いと思いきや、そうでもありません。妻は、「別に夫に頼らなくても生きていける」と思っています。夫は、妻を一生涯愛し抜くという献身度が足りません。「他も良いかな」と思っています。でも、聖書は何と言っているでしょう?「そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」
この世の中は、神さまから離れた世界であり、無神論の考えに満ちています。端的に言いますと、神さまという主人がいないのです。神さまという絶対的なお方がいないので、混乱している状態です。もし、「神さまが私の主人であり、神さまのおっしゃることは絶対的なんだ」と分かるなら、「どうでも良いもの、消えてなくなるもの、表面的なものは」ぱーっと消えてなくなるでしょう。異邦人である日本人はどうでも良いことを心配し、悩んでいるのです。では、クリスチャンはどうでしょう。神さまが仕えるべき主人であると知りながら、この世のものにしがみついている場合もあります。そういう人は、未信者よりも分裂度が大きくなり、心の葛藤も増すことでしょう。どうぞ、絶対者なる神さまに従いましょう。そうすれば、心配がなくなります。
2.責任を果たせ
どうしたら心配しなくて良いのか、別の観点から学びたいと思います。それは、神さまの責任と自分の責任を分けるということです。自分にできないことは神さまに任せて、自分がしなければならないことだけをやるということです。そうすれば、心配しなくても良くなります。このところには、2つの実物が例証されています。たとえというよりは、presentationであります。現代はパワーポイントなどで行いますが、イエス様は人々が良く見ている、空の鳥と野の草をあげました。しかし、都会に住んでいる人は、あまり馴染みがないかもしれません。イエス様が現代に生きておられたら、別のものを用いたかもしれません。マタイ6章は、とても、のどかで牧歌的な感じがしますが、深い真理が込められています。多くのクリスチャンは、「ああ、神さまが養ってくださるんだ。だから、心配しなくて良いんだ」というところでストップしてしまいます。このところに、神さまがしてくださる分と、空の鳥や野の草がすべきことを明確化する必要があります。言い換えると両者の責任は何かということです。
まず、空の鳥はどうでしょう。マタイ6:26-27「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」神さまは空の鳥に何をしておられるのでしょう。彼らは人間のように「種まきもせず、刈り入れもせず、倉にもおさめることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださる」とあります。私は朝早く、桜通りを通って、国道六号に行き、中川の土手を散歩します。季節によっていろんな鳥を見かけます。すぐそこには、尾長が住んでいます。すずめもいます。六号線に行くと、「ぎゃあ、ぎゃあ」鳴いているので「むく鳥」かもしれません。冬は中川にカモや川鵜がいます。他に鳩やサギもいます。ツバメはごくたまに見かけます。彼らは口をあけて、神さまが養ってくれるのを待っているのでしょうか?そうではありません。朝早く起きて、虫をついばんだり、木の実や草から落ちた種をついばんでいるのです。水鳥は川に潜って、子魚をつかまえて食べています。すずめやカラスは人間様が食べ残したものをあさっています。では、空の鳥のために、草木や虫、小魚、人間を与えたのはだれなんでしょうか?天の父、神さまです。神さまが自然のすべてを創られ、保持しているので、空の鳥が生きられるのです。でも、彼らはじっと口を開けて待っているわけではありません。ちゃんと、神さまが備えたエサをさがして食べているのです。つまり、空の鳥は自分の責任を果たしているということです。
野の草はどうでしょう?ここには、「野のゆり」とも書かれていますが、アネモネかもしれません。28-30節「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」天地を造られた神さまは、野の草に対して何を与えておられるでしょう?日光、水、土壌という3つのものを与えています。植物は日の光を浴びて、炭酸同化作用をします。そのため、葉っぱは太陽に向かって手の平のように開きます。根は水を求めて、根を張ります。そして、水分と養分を吸収します。土壌には、植物が必要なさまざまな養分が含まれているからです。花が咲くと、虫を集めて、花粉を運んでもらいます。子孫を増やすためです。神さまの植物に対する責任は日光、水、土壌です。植物の責任は、根を張り水分と養分を吸収すること、そして葉っぱを広げて炭酸同化作用をすることです。そうすれば、細胞が増殖して成長し、花を咲かせ、実を結ぶことができます。イエス様は、「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」と野の花の美しさを、より賞賛しています。
神さまは、人間は空の鳥や野の花よりもすぐれているとおっしゃいました。何故なら、人間は神のかたちに似せて造られているからです。人間は自分で考え、決断して生きるように自由意思が与えられています。ある親たちは、子どものことを心配して、過度に干渉し、コントロールしています。本来なら、子どもが自分で考え、決断して、その責任を取るべきなのです。人生には、失敗して、痛みを通してでしか学べないことがあります。ある親は、子どもが失敗するのを見たくないので、自分が代わりに決断します。子どもは自分が決断したことではないので、結果に対して責任を取らなくなります。入る学校や会社、結婚相手までも、親が決めるならば、完全に境界線を越えています。そのため、子どもは、いつまでたっても親離れできず、共依存の関係になります。親は「いつになったら自立するの」とぼやいていますが、自分が自立させていないのです。テレビの『渡る世間は鬼ばかり』は日本人の共依存を見事に表している番組です。なぜ、人のことにあれだけ干渉するのでしょう?渡る世間といっても「幸楽」と「おかくら家」の狭い世界ではないでしょうか?親が子どもに対して、最もすべきことは信仰を与えることです。子どもが神さまと結びつき、自分で決断して、その責任を取るようになれば、もう一人前です。
余計なことを心配しないで生きる方法とは何でしょう?神さまの責任と自分の責任を分けるということです。自分にできないことは神さまに任せて、自分がしなければならないことだけをやるということです。もし、私たちが何かのことで心配し過ぎているなら、それは神さまの領域に入り込んでいるということでしょう。イエス様は「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)と言われました。昨日は過ぎ去りました。過去の出来事を変えることはできません。また、明日はまだ来ていません。「ああしたい、こうしたい。でも、こうなったらどうなるだろう」と心配します。私たちは明日のことには対しては、何もできません。神さまは「きょう」という日を私たちに与えてくださいました。神さまの願いは、私たちが「きょう」という日を清一杯生きることです。
3.心配をゆだねよ
最後にどうしたら心配しないで、今日という日を精一杯生きられるのか、約束のみことばを2つ上げたいと思います。最初はピリピ4:6,7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」最初に申しあげましたが、「思い煩うな」というギリシャ語はメリムナオーです。マタイ6章では「心配するな」と訳していましたので、ここも同じようにすべきなのです。しかし、ピリピ4:6の最初に、nothing「何もない」「…さえない」という命令形の否定詞があります。だから、「何も心配するな」となります。しかし、日本語の聖書は「何も思い煩わないで」と訳していますので、これに従いたいと思います。パウロが「何も思い煩うな」と言っているのは、私たちは現実に思い煩うことがあるという前提です。「この地上に生きている限りは、思い煩ってしまうことがあるんだ。だって、人間だもの」となります。これで終わると、だれかの詩と同じになります。聖書はどうしたら良いか解決を与えておられます。6節と7節、とても長い文章ですが、最も重要なみことばはどれでしょう?主動詞はどれでしょう。いろんな飾りを取って、重要な動詞を選ぶとすればどのことばでしょう?それは「神に知っていただく」ということです。しかし、マタイ福音書では、「異邦人のようにくどくど唱えるな。神さまは祈る先から知っておられる」と書いてありました。この祈りは神さまのためではなく、第一に自分のためであることが分かります。自分はどんなことを思い煩っているのか、何を心配しているのか、神さまの前に差し出すということです。
祈りにはいろいろな要素がありますが、祈りは何のためにあるのでしょう?祈りは、神さまとの交わりです。交流です。父なる神さまは私たちが何を悩んでいるのか、あなたの口から聞きたいのです。また、声に出さなくても、思いの中で瞑想的に神さまと語り合うこともできます。重要なことは、自分は今、どんなことを悩んでいるのか?神さまに言い表すということです。まるで、それは風呂敷をあけて、1つ1つ広げて行く行為と似ています。今は風呂敷ではなく、手下げバックか、ポーチでしょうか?丸ごとではなく、自分の思いの中に詰まって、ごちゃごちゃしているものを神さまの前に差し出すのです。すると、聖霊が私たちに働いてくださり、整理してくださいます。つまり、神さましかできないことと、自分がすべきことを分けてくれます。言い換えると、自分にはできないことを神さまにゆだね、自分ができることをピックアップするということです。意外や、意外、あれだけ複雑だったものが、単純化されます。重要で、優先すべきものと、どうでも良いものが仕分けされます。その結果、パウロが言う「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれる」ということです。そうです。神の平安があなたの心と思いを支配するので、思い煩いが消えてなくなるということです。でも、そこに神さまに対する「感謝」を加えたらもっと良いということです。
もう1つ紹介したいみことばは、Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」このところにも、「思いわずらい」とありますが、メリムナオーの名詞形なので、「心配、心配ごと」です。英語の聖書は「すべての心配を」と訳されています。もっとすごいのは、「ゆだねる」ということばです。ギリシャ語は、「投げかける」であり、castingとなっています。Castingというのは、「投げること」であり、「さおとリールを使って、水面に釣糸を投げることです」。釣りを見たことのある人は、よく御存じだと思います。Castは「投げる、放る」ということです。ゴスペルに、Cast all caresという賛美があります。Cast all cares upon the Lord.「主にすべての心配をゆだねよ」です。でも、Castなので、「神さまに向かって放り投げる」という乱暴な表現です。それだけ心配事は私たちの心から離れにくいということです。べったりとくっついた心配事をはがして、神さまに向かって放り投げるのです。それが、神さまにゆだねるということです。私たちは口で、「すべてをゆだねてお祈りします。アーメン」と言うかもしれません。でも、それは嘘で、しっかり握っている場合があります。「神さまに全部任せたら、とんでもないことになるかも」と、どこかで疑っています。そして、あるものは委ねるけれど、あるものは「自分でなんとかしなければ」と思っています。
ある人が、呼吸器系等の問題で、治療を受けることになりました。そのとき、人工呼吸器を付けられました。その人は、いつものように自分で息を吸おうとしました。すると、息が詰まり、苦しくなりました。そばにいた看護師が、「あなたはただ口をあければ良いのです。自動的に酸素が入りますから」と言いました。その人は、力を抜いて、口を開けました。すると、酸素が肺に入り、それが一杯になると出てきました。私たちは神さまにお手伝いしなければならないと思って、ゆだねきることをしません。もちろん、私たちがすべきこと、責任もあります。でも、多くの心配事は、自分にはどうにもならないことです。では、自分ではどうにもならないことと、自分ができることとは何でしょう?私は「当教会に赴任した時、3年で100名の礼拝にする」と宣言しました。誠に残念ですが、30年以上たっても、達成できていません。「どうすれば良いだろう」といろんなセミナーに出かけて勉強しましたが、うまくいきませんでした。100名礼拝は相手がいることです。つまり、他の人たちが目標達成に関わっています。だから、人々が目標達成の妨げることができます。ニール・アンダーソンは「本当の目標とは、だれも妨げることのできないものを選ぶべきである」と言いました。たとえば、「私は神さまが与えてくれた賜物を用いて、使命を全うする」という目標をたてたとします。この目標を妨げることができるのは自分だけです。他の人は関係ないので、くよくよ心配することも必要ありません。この原則は、学校、家庭、会社においても適用できます。他の人が妨げとなるような目標を立てないようにしましょう。自分だけが妨げとなる目標であるなら、神さまの助けを借りながら、なんとか成し遂げることができるでしょう。余計な心配事や思い煩いを主にゆだね、自分ができることをしましょう。