2021.5.23「まことの礼拝 出エジプト7:14-18」

 きょうは「まことの礼拝」という題で聖書から学びたいと思います。今回、大変、参考になった書物がビル・ジョンソン著の“Face to Face365日ディボーション”です。その中から、大変興味深いテーマを発見しましたので、ぜひ、皆さんにも分かち合いたいと思いました。パクリが半分、私のメッセージが半分の割合になっています。出エジプト記を「礼拝」として、読んだことがなかったので、とても新鮮でした。

1.まことの礼拝

 モーセはアロンとともにエジプトのパロ王のもとに立ちました。それは、「イスラエルの民を解放せよ」と談判するためです。当時、エジプトは世界最大の文明国であり、40歳まで過ごしたモーセはそのことを良く知っていました。彼は既に80歳であり、人間的には無力でした。しかし、「神のしもべ」として立てられたモーセは、ヤーウェーなる神の権威を帯びて、パロの前に立ちました。ご存じのように、パロは、せっかくの労働者を簡単に手放そうとしません。そのため、モーセは次々と奇跡を行ない、エジプト人とエジプトの神々に打撃を与えるのであります。きょうは、その最初のところです。出エジプト7:16,17「ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。』ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり…」これは、最初の奇跡の予告部分ですが、礼拝に関するとても大切なことが記されています。日本語聖書は、「わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ」となっています。最近、出版されたメッセージ・バイブルには「彼らが荒野で私を礼拝できるように、私の民を解放せよ」となっています。これは、神さまがパロに対して、「私が所有する民が、私を自由に礼拝できるようにせよ」と法的に訴えているのです。イスラエルの民はヨセフの計らいによって、エジプトの最も良い場所に移住することができました。それから400年たって、イスラエルの民は100万以上になり、パロはとても恐れました。「彼らが敵に寝返ったなら、エジプトが危ない。だから、彼らを奴隷として賢く扱おう」と考えました。パロとはサタンであり、イスラエルは神の民です。しかし、知らぬ間に、彼らは奴隷になっていたのです。これは、私たち人類の「ひな型」と言いましょうか、「予型」であります。

 私たちは神のかたちに造られました。唯一まことの神を礼拝するために造られたと言っても過言ではありません。しかし、アダム以来の私たちは神に背き、罪と汚れに満ちて生きています。ですから、このままでは、聖なる神さまのところに行くことはできません。そのため、イエス・キリストが十字架にかかり、神さまへの道が開かれました。私たちが贖われたのは、死から救われただけではありません。私たちが新しい命をいただいたのは、神さまと交わるためであり、礼拝するためなのです。私たちが主を礼拝し、主を仰ぐとき、transformation変革させられるのです。不思議なことに、私たちは自分の礼拝するものと、同じになります。日本ではさまざまな神さまを礼拝しています。キツネを拝んだら、キツネのようになります。新興宗教の神を拝んだら、その教祖のようになるでしょう。いつも顔を合わせる神さまと似てくるとしたら、怖いでしょうか、嬉しいでしょうか?私たちが礼拝する神さまほど、偉大で聖なるお方は他にいらっしゃいません。神さまが私たちの礼拝を求めるのは、神さまがエゴイストで、私たちから承認を得たいからではありません。そうではなく、神さまは、私たちが神さまの栄光の臨在のもとで、栄光から栄光へと変革させられることを願っておられるのです。Ⅱコリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。私たちは主を礼拝するために、時間を必要とします。また、何かをしながらではなく、全身全霊をささげるために集中しなければなりません。今日は、インターネットでも神さまを礼拝することができます。コーヒーを飲みながら、ねそべりながら、何かをしながら、主を礼拝することが可能なのでしょうか?礼拝で最も、重要なのは、そこに主の臨在があり、自分が主と交わることによってtransformation変革させられるかどうかであります。

 エジプトには太陽や月、鳥や動物やかえる、さまざまな偶像の神が祀られていました。大地の神もいれば、陰府の神すらいました。日本は八百万神(やよろずかみ)と言われるほど、数えきれない神々がいます。人々は商売繁盛、安産、厄除け、入学祈願、結婚祈願、安産、病の癒しを受けるために、専門とする神さまのところへでかけます。ある場合は、「それは私の専門ではない」と断られるかもしれません。しかし、まことの神はおひと方だけです。聖書の神は、全知全能ですから、おひと方で良いのです。私たちは、唯一まことの神さまをキリストを通して、礼拝するのです。「人間はだれかを礼拝するように造られている」とある人が言いました。いや、私は「何も礼拝していません」と否定する人もいるでしょう。では、チェックしてください。あなたが朝起きて、一番、最初に何を思うでしょうか?あるいは、あなたが一日、24時間、だれのこと、あるいは何のことに時間を費やしているでしょうか?それがあなたの神さまです。クリスチャンは礼拝とは、日曜日の1時間半であると言うかもしれません。もちろん、それも大事です。しかし、礼拝とは神さまと交わり、神さまを仰ぐことです。ですから、平日、普段の生活においても、礼拝は可能であり、おそらく礼拝していると思います。言い換えると、「あなたの頭は何で満ちているか?」ということです。昔、そういう図柄がありました。人の頭の中につまっているものを文字が再現しています。お金、お金、お金。あるいは女性、女性、女性。頭につまっているものを文字化します。私たちクリスチャンは、イエス様、イエス様、イエス様。あるいは、「信仰、希望、愛」。「感謝、ハレルヤ、アーメン」。…そういうもので満ちていたら最高です。私たちはイエス様によって贖い出され、まことの神さまを礼拝できるすばらしい特権が与えられています。神さまはまことの礼拝者を求めておられます。

2.妥協した礼拝

 エジプトのパロ王はいわばサタンであります。イスラエルは神の民であり、私たちクリスチャンを象徴しています。パロはモーセに妥協した礼拝を勧めました。それに対して、モーセは引き下がりませんでした。では、サタンはどのような妥協した礼拝を私たちに持ち込むのでしょうか?ビル・ジョンソンは「パロのバーゲン、値切り交渉」と題して述べています。

①エジプト内で礼拝せよ

 モーセが「イスラエルの民を行かせ、彼らに私を仕えさせるようにせよ」(出エジ8:1)と告げました。つまり、「エジプトから出て行かせて、主を礼拝させるようにせよ」と言ったのです。すると、パロはどのような値切り交渉をしたのでしょうか?出エジプト8:25「パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。『さあ、この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ。』」「国内で」とは、「エジプトの国内で神を礼拝せよ」ということです。パウロは使徒26章で救いをこのように定義しています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」エジプトの国内にいるということは、サタンの支配下にあり、奴隷状態であるということです。イスラエルの民は、ある一定の場所において礼拝をささげるかもしれません。しかし、その周り全部が、エジプトの領土であります。モーセはパロに「私たちはエジプト人が忌みきらうものを、いけにえとしてささげるなら、彼らは私たちを石で打ち殺しはしないだろうか?」と言いました。創世記46章の後半に書いてありますが、エジプト人は羊と羊を飼う者を忌みきらいます。だから、エジプト人から迫害を受けるだろうということです。

 私たちがサタンの領土内で神さまに礼拝をささげるということに何の意味があるのでしょう?中国では政府が認める三自愛教会があります。中国共産党は海外の勢力が自国に影響を及ぼすことを警戒しています。中国共産党の政府の認証を得ていなければなりません。もし、三自愛教会の中にいるなら、聖書の福音を完全に語ることはできません。そのため、中国には数えきれない地下教会があります。彼らは迫害を受けながらも、共産主義の影響を受けず、自由な礼拝をささげています。そうです。イスラエルが、エジプトの国内で礼拝をささげるなら、自由な礼拝をささげることはできません。サタンの息のかかったところで、まことの神に礼拝をささげられるでしょうか?これは現代にたとえると、キリストを信じていても、洗礼を受けない人たちのことです。結婚できないから、家族が反対するので、会社で孤立するので…いろんな理由で洗礼を受けない人がいます。マルコ16:16「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」信じても、バプテスマを受けない人は、昔の隠れキリシタンです。彼らはひっそりと神さまを礼拝しているかもしれません。でも、それは塩気のなくした塩であり、道端に捨てられ、人々に踏みつけられるでしょう。洗礼を受けることによって、この世から救われます。完全に救われたクリスチャンとして、まことの礼拝をささげるべきです。そうすれば、聖霊による勇気と力が与えられ、神の子どもとして胸を張って生きることができます。

②遠くへ行かずに礼拝せよ

 出エジ8:28「パロは言った。『私は、おまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。』」パロは「荒野でいけにえをささげて良いけど、決して遠くへ行ってはならない」と条件を付けました。サタンは私たちが変化することを許すかもしれませんが、それは一部だけです。サタンは神の民をコントロールすることをやめません。私たちが神さまを礼拝しても、サタンにどこか一部を握られていることがあります。そのような人々は、神さまに人生のすべてをささげて、神さまを礼拝するのは行き過ぎていると考えてしまいます。イエス様の葬りのために、高価な香油を惜しげもなく、注いだ女性のことを考えてみましょう。その香油は一年分の給与に値しました。イエス様を除いて、人々は「度を超えている」、「過激だ」と批判しました。しかし、イエス様はこの女性がしたことをほめて、贅沢で度を超えた礼拝が、イエス様の物語を伝えるところどこでも、語られると言いました。「度を超えている」「過激だ」と考えた人たちは、「神さまは道理をわきまえたお方だ」と思っていたのでしょう。しかし、本当の礼拝とは、度を超えた礼拝であり、そして度を超えた礼拝だけが、変革という度を超えた結果を生み出すのです。贅沢で、度を超えた礼拝が神さまの心を感動させるのです。ビル・ジョンソンは「あなたの人生とって、贅沢な礼拝とは何ですか?あなたはどうしたら変革させられると考えていますか?」と問いかけています。

 遠くへ行くとどうなるでしょう?戻って来られないかもしれません。近くだと、すぐ戻って来られます。これは単なる距離的なことを言っているのではありません。自分の常識の範囲内か、もしくは、度を超えているかということです。これを礼拝について考えてみたらどうでしょう?ある教会では、礼拝中に手を上げて賛美することが過激だとして許しません。「アーメン!」とか「ハレルヤ!」とメッセージ中で言うのも禁じられています。もちろん、踊ったり、異言で何か言ったら礼拝堂からつまみだされるでしょう。しかし、ダビデは神の箱を迎えるとき、主の前で、力の限り踊りました。そのとき、着物がはだけて、お尻が見えたかもしれません。二階から見ていた、ミカルは「ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって」と皮肉を言いました。ダビデは「私はイスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前でお喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう」と言いました。Ⅱサムエル6:23「サウルの娘ミカルには死ぬまでこどもがなかった」と書かれています。彼女は呪いを受けたのではないかと思います。もちろん、このような公の礼拝では、ある程度の節度があるでしょう。でも、神さまがあまりにもすばらしくて、心から叫びつつ賛美をしても良いのではないでしょうか?踊りながら賛美しても良いでしょう。礼拝堂に主の霊が満ちたならば、もっと過激なことが起るかもしれません。お昼の12時で終わらないかもしれません。どんどん人々が出入りし、終わるのが5時になってしまうかもしれません。「笑点」なんか見ている暇はありません。リバイバルを妨げるのは、それは「度を超えている」「過激だ」と考える人たちの妨害です。教会の秩序を守る余り、燃えている人に水をかけるような行為をするのです。人々が聖霊に満たされたなら、「度を超えている」「過激だ」ということがあるんだ、と今から理解しておく必要があります。教会の秩序とリバイバル、どっちが大切なのでしょうか?どうぞ、「もう戻って来られないかもしれない」というところまで行ってください。主にあって、私たちの理性や道理を超えたところまで行きましょう。

③壮年の男だけで礼拝せよ

 出エジ10:11「『そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。』こうして彼らをパロの前から追い出した。」パロは壮年の男だけ行って、主を礼拝せよとは、妻や子どもたちを連れて行くなということです。サタンは家族全部が神さまを礼拝するのをとても恐れています。なぜなら、そこには霊的な一致による力が生み出され、神さまをあがめる世代が増殖するからです。家族全部が主を礼拝すると、急激に力と祝福が増し加わり、だれも止められなくなります。悪魔はそのことを理解しているので、家庭を破壊するために、残業を奨励します。聖書で、神さまは「なぜ、夫と妻が1つになるようにしたのか」を説明しています。それは、神をあがめる子孫を持ちたいからです。特に、神さまをあがめるという目的があるときは、一致が一致を生み出します。昔も今も、敵の標的は、家族が1つになることに対して向けられます。どんな方法で、敵はあなたの家族を分裂させ、破壊しようとしているのでしょう?

 悪魔が最も恐れるのは、家族全員が救われ、信仰が継承されることです。一代目、二代目、三代目、四代目、五代目…。本当の祝福が見えてくるのは、おそらく四代目か五代目頃じゃないかと思います。ビル・ジョンソンは五代目のクリスチャンであり、その多くが牧師です。奥さんの方は四代目です。ビル・ジョンソンの息子が、信仰による相続財産がどれくらいすばらしいか本に書いています。簡単に言うと、一代目が築き上げた天井が、二代目には一階になり、その高さから始められるということです。この世の中の遺産でも同じことです。親が土地を購入していたら、子どもは土地を買う必要がなく、そこに大きな家をたてられます。商売でも、親が1から会社を創設したら、子どもは親から受け継いだ会社を拡大することができます。霊的遺産もそうです。私たちの信仰を子どもと子孫に残すなら、霊的遺産は考えられないほど広がっていくということです。

④財産はとどめておけ

 出エジ10:24「パロはモーセを呼び寄せて言った。『行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。』」パロがモーセとイスラエルに、最後に持ち出した妥協案は、究極的な神の祝福を受けるための、究極的なテストと言うことができます。当時、羊と牛はイスラエルの財産であり、経済の源でした。パロは「これらを残して、幼子と大人たちが行って神を礼拝をせよ」と言ったのです。私たちは、私たちの経済の源すべてを差し出して神さまを礼拝すべきです。それは、家族全員で神さまを礼拝することと同じくらい重要です。サタンは知っているのです。もし、私たちが経済的な恐れを抱いているなら、私たちの感情と意思と考えに影響を及ぼすことができることを。その結果、私たちは神さまの計画に到達することができなくなります。パロの最後の望みをかけた妥協案から、サタンが最も恐れるものが何かが分かります。それは、神さまの栄光のために、家族全員が彼らの全財産を放棄しても良いという神さまへの礼拝です。これは、絶対的に悪魔を恐れさせます。なぜなら、このような人々を悪魔はとどめることができないからです。神さまは、すべてのものをご自分に信頼することを願っています。私たちの家族、私たちの経済的な資源、私たちの全人生を、です。これは、代価があまりにも大きいように見えるかもしれませんが、値が付けられないほどの報いがあります。ビル・ジョンソンが問いかけています。「あなたは偉大な変革を望むでしょうか?そのために、あなたが持っているすべてのものを神さまにささげるでしょうか?」

 トロントのリバイバリストに、ロドニー・ハワード・ブラウン師がいます。彼が講壇に立つと、1時間くらい献金についてお話しします。神さまに捧げるといかに祝福されるか熱く語ります。そして、献金が終わったあとメッセージします。ベテル・チャーチで、5日間集会を持ちましたが、毎回それを行なうので、会衆はうんざりです。ビル・ジョンソンの息子、エリックは10$ずつ毎回捧げていいました。最後の夜、現金がなければ、約束献金を紙に書いて渡しなさいと言われました。彼は神さまの声を聞いて、500$と書いて差し出しました。差し出した直後、「うちにはそんなお金ないなー」と後悔しました。ところが、夜中にだれかがドアをノックしました。エリックはベッドから起き上がり、灯りをつけました。だれもいませんでしたが、ドアの下から封筒が見えました。その封筒を開くと、500$の小切手が入っていました。エリックは、神さまの供給を二度と疑わないことを約束したそうです。イエス様は天に宝を積むことを教えられました。マタイ6:20,21「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」もし、床下に宝を隠していたなら、いつも床下を見るでしょう。でも、天に宝を積んでいたなら、天をいつも仰ぐということです。経済までを神さまに任せるというのは、信仰の正念場です。でも、本当に神さまが生きておられ、豊かに報いてくださるお方だと知るのは、捧げてみて初めて分かることです。捧げた人は、「やっぱり、神さまは必要を満たしてくださる」と分かります。サタンは私たちに妥協した礼拝をさせることによって、霊的な力をなくした信仰者にしようとします。イエス様は「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコ12:31)と言われました。私たちの全部をささげることがまことの礼拝です。