イエス様は天の栄光を捨てて、人間としてこの地上に来られました。御国の福音を宣べ伝え、御国への道を開いてくださいました。あるときは人々の病を癒し、またある時は「アブラハムの子どもだから」と身分を回復してあげました。しかし、ご自分は捕えられ、当時の宗教家たちやローマ兵からひどい目にあわされました。その後、極悪人と一緒に十字架刑に処せられました。しかし、それは私たちのための罪の贖い、そして、尊厳の回復だったとだれが知り得たでしょう?
1.尊厳
イエス様がこの地上においておもに3つの働きをされました。福音宣教と教えと病の癒しです。しかし、どうしてイエス様が人々の病を癒されたのでしょうか?ある人たちは、「当時は医療が発達していなかったので、イエス様にとっての社会的な奉仕が病の癒しであった」と言います。それでは現代は病が医療の発達によって根絶され、人々は病から解放されたのでしょうか?そんなことを言う人は一人もいないでしょう。最新の医療を得たいと大学病院に行くと人々が満員で、1時間くらい待たされるでしょう?それでも、お医者さんはリスクを強調し、「完治します」という保証をくれません。私は医療も神さまが下さった一般的恩寵であることを認めます。私が本日言いたいことは、イエス様は肉体の病だけに目をとめただけではなく、その人の尊厳をも回復してあげたということです。12年間も長血をわずらっていた女性が、イエス様の衣のすそに触れて癒されました。その時、イエス様は「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」と言われました。「娘」と言われて、これまで受けてきた恥と呪いが取り去られたのではないでしょうか?また、18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女性を癒してあげました。その時、人々が憤って、イエス様に「安息日には、癒してはいけないのです」と言いました。イエス様は「安息日であっても、牛やロバを小屋からほどき、水を飲ませるでしょう。この女はアブラハムの娘なのです」と言いました。イエス様は彼女の病を癒しただけではなく、尊厳をも回復してあげたのです。
尊厳を英語で言うと、dignityです。Dignityは「精神・人格などの尊さ、尊厳、高貴、気高さ」という意味です。日本人は、大和魂とか武士道、サムライなどと言うかもしれません。でも、日本人は第二次世界大戦のときは、中国や朝鮮を侵略しました。歴史を調べると、ポルトガル、スペイン、英国、フランス、オランダが海外に進出し、植民化しました。日本だけが、なぜ恨まれるのでしょう?これは私の意見ですが、日本の軍隊は、中国や朝鮮に侵略した際、彼らの尊厳をことごとく傷つけ、そこなったことです。戦争においては、殺人、略奪、婦女暴行はどこの戦争でもあるでしょう。しかし、日本は彼らの名前を取り去り、別の名前を付けました。戦争下でも、捕虜の扱いは決められていました。しかし、それを無視し、動物以下の扱いをしたのです。だから、戦後70年たっても、彼らは私たちを恨んでいるのです。私たちはアメリカ軍によって、原子爆弾が投下され、大空襲を受け、沖縄と本土を合わせると100万人近く命を落としたと思います。しかし、日本人はアメリカ人をあまり恨んでいません。無条件降伏したために、沖縄を除いてほとんどのものは失いませんでした。今もアメリカと安保協定を結んでします。アメリカはいわば日本の敵国でした。しかし、あまり恨んでいないのは、日本人の尊厳を傷つけていないからです。GHQが来たとき、天皇陛下を戦犯にせず、身分を保持したのも、恨みを買わないことの要因だったと思います。これは逸話であり、定かではありません。天皇陛下がマッカーサーに「日本をキリスト教にしましょうか?」と提案しました。すると、マッカーサーは「いや、信仰は個人の自由だから」と断ったそうです。それでも彼は、数えきれない聖書を日本に与え、「ララ物資」によって、教会も恩恵を被りました。アメリカ人を恨んでいないのは、彼らが日本人の尊厳を守ったからだと思います。それは、キリスト教の教えが根底にあったからかもしれません。
メッセージに戻りますが、私たちの生活において、一番、赦せないことはどんなことでしょう?暴力を振るわれたり、大切なものを奪われることもショックです。でも、私は尊厳を傷つけられたことではないかと思います。残念ですが、尊厳は日本語になっていません。平たく言うと、プライドを傷つけられたとか、名誉棄損、メンツを潰されたということでしょうか?でも、尊厳は自分の存在に関わることです。人間だれしも、これだけは失いたくないという誇りがあります。よく、「心が折れた」という表現を聞きますが、自分が生きるための大事なものを失った時に言うのではないかと思います。私たちは人と争ったりすることがあります。家庭でも、夫婦喧嘩や親子喧嘩があります。いざこざは、教会の中でもあるかもしれません。その時、何か批判めいたことを口走るかもしれません。関西では「馬鹿」、関東では「あほ」と言われることがグサッとくるようです。でも、その人の何か大切にしているものを馬鹿にされたらどうでしょう?その人の存在に関わることを否定されたならどうなるでしょう。全力で抵抗するか、あるいは膝を屈するかのどちらかです。私の父は家庭を正しく治めていなかったので、無政府状態でした。すぐ上の兄は私を「ブタ」呼ばわりしました。母は私が高校3年生のとき、「お前が一番、親不孝者だった。ああ、情けない」と吐き出すように言いました。もちろん、私はさんざん悪いことをしたのですから、当てはまるところもあります。高校の先生からも「鈴木は頭がおかしいから相手にするな」とか「破廉恥だ」とか言われました。私は、心の傷をたくさん受けてきたので、自分のアイディンティテイが壊れていました。
第一のポイントで言いたいのは、人の自尊心を傷つけてはいけないということです。なぜなら、その人は神さまが造った存在です。しかも、キリストの血によって贖われたのは、自分だけではなく、相手もそうだからです。私もさんざん、自尊心を傷つけられてきたので、逆に、相手にも同じようなひどいことばを浴びせてきました。自分がやったことは忘れています。でも、今、クリスチャンになって思うことは、人の自尊心を傷つけてはいけないということです。いろんな言い方があると思いますが、触れてならないものがあります。イエス様は「兄弟に向かって、『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されると言われました。
2.さげすみ
イザヤ書53章は「苦難のしもべ」と言われており、イエス・キリストの預言であります。ピリピ2章には、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」と書かれています。罪ある人間であれば、しょうがないところもあるでしょう。歴史上、ひどい扱いを受けてきた人は数えきれないくらいいるでしょう。でも、神であられる方が栄光を捨てて、この地に人となってお生まれになられました。当時の人々が歓迎したかというと、全く、その逆でした。なぜかと言うと、当時、考えられていたメシヤとイエス様が全く、違っていたからです。特に、宗教家たちがイエス様を目の仇にして、迫害しました。イザヤ書53章のことばは、一般の人間がイエス様を見た見方であります。「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」砂漠の地から出る根は、あまり美しくはないと思います。当時の人たちは、メシヤは舞台俳優のようにかっこよくて、高貴なお方であるに違いないと思ったでしょう。力あるわざを行ない、ローマ軍を蹴散らして、イスラエル王国を再建してくださるダビデのような王様だと期待していました。ところが、彼の生まれは私生児で、ナザレの大工でした。彼はエルサレムで律法を学んだこともありませんでした。でも、イエス様の教えには不思議な権威がありました。
イエス様も華々しく持ち上げられたときがありました。公生涯3年半のピークは5つのパンと2匹の魚で5,000人を養ったときです。成人男性だけで5,000人ですから、実際はその倍の人がいたでしょう。この奇跡は、4つの福音書に記されています。ヨハネ6章には、奇蹟を体験した人たちが何をしたか書かれています。ヨハネ6:14 「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」なんと、人々はイエス様を王様にしようと、つめかけたということです。でも、イエス様は彼らの手を逃れて、山に退かれました。人々は「なんでだよー」とがっかりしたでしょう。もっとがっかりしたことが起りました。何と、イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」と言われました。ヨハネ6:60「そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』」この後、多くの弟子たちがイエス様のことばに躓いて去って行きました。ペテロをはじめ12弟子はかろうじて、とどまっていました。でも、イスカリオテのユダはそのとき、イエス様を売ろうと考えていました。十字架にかかる前の日曜日は、エルサレムの人たちが「ホサナ、ホサナ」とイエス様を歓迎しました。ところが、数日後、彼らはイエス様を「十字架につけろ!取り除け!」と叫んだのであります。
イエス様に対する暴虐、いわゆるさげすみは、福音書の後半に記されています。第一は、当時の宗教家たちから受けた辱めです。ゲツセマネにいたイエス様は、ユダの手引きによって捕えられました。何と、強盗でも捕まえるように剣や棒をもった神殿兵士が遣わされました。ヨハネは「一隊の兵士」と書いていますが、実際はその半分の300人だったかもしれません。ひどいのは、真夜中に、秘密の裁判を開いたということです。マタイ26:59「祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた」とあります。神に仕える宗教家とエルサレムのサンヒドリン議会は、「死刑ありき」の裁判を勝手に開いたのです。これこそ、破廉恥きわまりないことです。結局はイエス様がご自分を神としたことで、死刑の判決がくだされました。マタイ26:67「そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしてなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。『当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。』」なんとひどいことを!私は、その後、彼らの手が萎えてしまったのではないかと思います。人々はイエス様を「キリスト、メシヤ」と言って、なぐったのです。神を恐れないというのはこのことです。
でも、それだけではありません。イエス様はローマ兵からもさんざん苦しめられました。総督ピラトはイエス様を赦そうとしました。原因は宗教家たちのねたみだと分かっていたからです。でも、群衆を恐れ、ピラトはイエス様を十字架に引き渡しました。この直後、イエス様はローマ兵から数えきれないほどの鞭を浴びせられました。当時のローマ兵の1つの楽しみがありました。それは死刑にかかる囚人をいたぶることでした。ある文献によると、王様ごっこなるものがあり、一日、王様でいられ、その人は何でも好きなことができます。しかし、日が暮れるとき、その人が殺されるということです。そのことを彷彿させるように、ローマ兵はイエス様を王様に仕立てました。マタイ27:28-30「そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。」ローマのむち打ちだけでも、大変な苦しみと痛みです。でも、イエス様はこのところで精神的な苦しみを受けました。いばらの冠も痛かったと思いますが、ひどいのはローマ兵たちからのあざけりと嘲笑です。イエス様の回りに全部隊が集まったと書かれているので、数百人もいたでしょう。こんなに大勢の兵士たちから、つばきをかけられたら、どうなるでしょう?一番ひどいのは、イエス様を王様にして、馬鹿にすることではないでしょうか?何故なら、イエス様は、本当はまことの王様だったからです。
イエス様はこの後、十字架につけられました。人々は「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」と馬鹿にしました。イエス様は人類を救うために、人となって来られたのですが、感謝する人はだれもいませんでした。逆に、「十字架から降りたら、信じる」とまで言われました。イエス様の神としての尊厳は、粉々に砕かれました。このことも、罪の贖いの代価でした。
3.回復
私は傷つけられた尊厳の回復のために、いくつかのステップがあると思います。多くの人たちは、私たちが罪を赦されたことだけしか言いません。それは、私たちの加害者的なものが赦されたということです。しかし、私たちは人から馬鹿され、虐待され、私たちの尊厳が傷つけられたという被害者的なものも取り扱う必要があります。なぜなら、心の傷が癒されていないと、自分ばかりは他の人をも汚してしまうからです。ヘブル12:15「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」とあります。ニール・アンダーソン師は“Your foundation in Christ”(キリストにある土台)でこのように述べています。「いくら、私たちが正しく生きていても、他の人たちから危害を受けることは、避けられないことです。肉体的、感情的な虐待は、苦々しさ、怒り、憤慨を私たちに残すことができます。私たちの古い性質は、復讐と報復を求めますが、聖霊は「キリストがあなたを赦したように、彼らを赦しなさい」と言います。しかし、「私がどのように傷ついたか知らないでしょう」と言うでしょう。あなたが、苦々しさを保持している限り、彼らはあなたを傷つけています。赦しは私たちの過去から私たちを解放し、痛みを止めさせます。…赦しとは彼らの罪を寛大に取り扱うことではありません。復讐の権利を手離し、あとは神さまにゆだねることです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)。赦しは、心の癒しの最大の基盤です。
尊厳の回復のために、いくつかのステップがあると思います。第一は、キリストの贖いです。キリストは私たちの罪だけではなく、悲しみも痛みも贖ってくださいました。イエス様が人となられたのは、私たちを贖うためです。このことを「identify同化する」と言います。ヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」私たちが人からひどい目に合わされ、尊厳を傷つけられたかもしれません。でも、イエス様は私たちと比べられないほど、ひどい扱いを受けました。神であられるのに、人々からあざけられ、嘲笑され、馬鹿にされました。私たちがどん底に落とされたと思っても、その下にはイエス様がおられ、イエス様が私たちを受け止めてくださるのです。なぜなら、イエス様が私たちの受ける痛みを既に受けてくださったからです。
第二は神さまの報いです。父なる神さまが私たちを引き上げてくださいます。ピリピ2章では、イエス様が神の栄光を棄て、人間になり、自分を卑しくして、十字架の死に至るまで従われました。でも、その結果どうなったでしょう?「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ…」と書かれています。父なる神さまがイエス様を引き上げてくださったように、私たちをも引き上げて下さるという保証です。イザヤ書61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」アーメン。だまし取られたものには4倍、盗まれたものには2倍にして償うというモーセの律法(出エジ22:1-9)がありました。だから、神さまは恥や侮辱に代えて二倍のものを所有させると約束しておられます。神さまが私たちを必ず引き上げてくださるのです。アーメン。
第三は身分の回復です。イエス様はザアカイに対して「アブラハムの子」と言われました。18年も腰の曲がっていた女性には「アブラハムの娘」と言われました。12年も長血を患っていた女性には、「娘よ」と呼ばれました。なぜでしょう?恥と苦しみが魂にまで、染み込んでいたからです。イエス様は恥をすすいでくださったばかりではなく、新しい衣を着せてくださいます。新しい衣とは身分です。イザヤ61:3「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」とあります。私たちはいつまでも被害者ではありません。勝利者なのです。英語で被害者はvictimで、勝利者はvictorです。ジョエル・オスティーンは、We are not victims but victorsと言います。神さまは私たちが堂々と胸を張って生きている姿を見て喜んでいらっしゃいます。
私たちはユダの手紙をめったに開きませんが、このような祝祷が記されています。24-25「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。」このところに、「尊厳」ということばがありました。そうです。尊厳は、神さまのものであり、イエス様のものです。私たちが尊厳を神さまに捧げるとはどういう意味でしょう。「もし、私たちが傷ついて、尊厳も何もないような者が神さまを礼拝できるか?」ということです。無理です。私たちが癒されて、神の子としての身分が回復され、尊厳をまとった姿で、神さまを礼拝することができるのです。主は、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせてくださいました。そのようにされた「私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン」と礼拝することができるのです。神さまを礼拝することは、私たちの栄光と尊厳を、神さまにお返しするということです。もし、私たちに何もなかったなら、栄光と尊厳を帰することはできません。神さまが私たちに回復してくださった、栄光と尊厳を神さまにお返しするのです。そうすると、私たちが神さまの良きもので満たされて、たとえ、再び、尊厳を傷つけられるような事態になっても、乗り越えられるのです。なぜなら、私たちの中に、神からの栄光と尊厳がつまっているからです。たとえ、敵対する者たちに囲まれても、神からの栄光と尊厳を私たちから奪い去ることはできないのです。アーメン。