2021.5.9「人を恐れるな マタイ10:28-31」

 人は何かに恐れています。高所恐怖症の人もおれば、閉所恐怖症の人もいます。多くの人たちは、対人恐怖症でなくても、人の評価とか、人からの批判を恐れているのではないでしょうか?きょうは「人を恐れるな」と題して、聖書から学びたいと思います。

1.人を恐れると

 人を恐れるとどうなるのか?箴言29:25「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる。」「わな」(ヘブル語でモウケシュ)とは、鳥を捕まえる道具です。道具とは、かぎ、わな、首なわのことです。昔は、違法であったかもしれませんが、針金で輪っかをこさえて、野兎を取ったことがありました。イノシシを捕える名人をテレビで見たことがあります。イノシシの足がワイヤーを踏むと、ぎゅっと絞まって動けなくなる罠を使っていました。私たちも人を恐れると、ぎゅっと捕えられて、身動きができなくなるということでしょう。日本人は人の目を恐れて生きています。「人が自分をどう思っているか?」「自分は人からどう見られているか?」評判とか評価が気になります。なぜなら、子どものときから、「人に笑われないように」と親から教えられてきたからです。そのため、着る物でも、髪の毛のスタイルにしても、履く靴までも気を配ります。しかし、ある年代になると、全く、気にしなくなります。私もコープによく買い物に行きます。会社帰りのOLはピシッとしていますが、高齢の女性は髪もとかさず、着ているものもくたびれています。「髪の毛を染めて、整えたら、10歳は若く見えるのになー」と思います。でも、人のことを言えません。私もひどい格好で行くので、そのように見られているのかもしれません。学校や職場ではどうでしょうか?容姿だけではなく、成績とか、能力、人格性が比べられます。日本は価値基準がとても狭いので、ある基準に達していなかったり、どこか逸脱していると、はじかれてしまいます。仲間外れとかいじめが横行していますので、何とかその対象にならないように、気を配って生きているのではないでしょうか?聖書は、人の目を気にしたり、人の評価を気にするなら、わなにかかると言っています。罠にかかると、自分らしい生き方ができなくなります。自分の個性や考えを奪われて、きゅうくつな生活を送ることを余儀なくされるでしょう。最も重要な、神さまが与えてくれた運命を果たせなくなります。ヘブル12章には「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、自分のレースを走りなさい」と言われています。

 聖書には人を恐れて失敗してしまった人たちがたくさん記されています。民数記13章にありますが、12人のスパイたちが約束の地を探ってきました。10人のスパイは「その地に住む民は力強く、背の高いものたちだ。…私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」と言いました。カレブとヨシュアだけが、攻め上ろうと言ったのに、10人は「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちよりも強いから」と言いました。イスラエルの全会衆は、否定的な報告を聞いて、「エジプトに帰ろう」と泣きわめきました。その直後、10人のスパイは打たれ、20歳以上のイスラエルは荒野で屍をさらすことになりました。また、イスラエルの初代の王、サウルは神さまよりも人を恐れました。ある時、主から「アマレクとアマレクの家畜を全部滅ぼしなさい」という命令を受けました。ところが、サウルは肥えた羊や牛の最もよいものを惜しんで殺しませんでした。しかも、アマレクの王、アガグをいけどりにして帰ってきました。後から、そのことがばれで、サムエルからしこたま叱られました。サウルは口では「私は罪を犯しました」と言いました。そして「私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです」と言い訳しました。その後、サムエルに「どうか、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私と一緒に帰って、あなたの神、主を礼拝させてください」(Ⅰサムエル15:30)とお願いしました。サウル王は人の目を恐れて、罪を犯してしまいました。新約聖書では、弟子のペテロが人を恐れて、イエス様を三度も知らないと言ってしまいました。最初は、一緒に死んでも構いませんと豪語していたのに、自分も捕えられてしまうのでないかと恐れたからです。ペテロは聖霊を受けてから、初代教会のリーダーになりました。しかし、パウロからこのような叱責を受けています。ガラテヤ2:11,12「ところが、ケパ(ペテロ)がアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。」

 「聖霊を受けたペテロもそうだったのか」と思うと、私たちも安心するところがあります。私は洗礼を受けて1年後、神学校に行き、いわゆる「献身者」になりました。以前は、傍若無人で、人の目なんか気にしませんでした。ところが、「それでも献身者か?」と言われないように、たちふるまい、ことば使いに気をつけるようになりました(これでも?)。そうすると、緊張して、小さなことで失敗しました。パフォーマンス指向にもなるし、どうしてもがんばってしまいます。「人を恐れるとわなにかかる」というみことばのとおりになってしまいました。当亀有教会に赴任した当時は、「来てやったんだ」みたいなおごりがあり、何とも思いませんでした。ところが、何かのことで批判されると、ぐさっときました。牧師になるとクリスチャンよりも、標準が高く設定されます。どうしても批判されたり、さばかれたりすることが多くなります。未信者の頃は「なんだよ。文句あるのか?」みたいに、対抗できましたが、牧師になるとそういう訳にはいきません。怒りをためると鬱的になったりします。今では、解放されましたが、それでも、人から批判されたり、さばかれたりすると傷つくタイプです。表面ではたいしたことがないように振舞っていますが、内側ではダメージを受けて、それが長く続いたりします。ですから、いわゆる「献身者」は「人目にさらされても、大丈夫だ」という乗り越える力が必要だと思います。私たちは、学校、会社や地域社会でも、人からの評価を恐れてしまうところはないでしょうか?時には、集中攻撃を浴びることもあるでしょう。パウロはローマ8章で、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言いました。人を恐れないで、自分らしく生きるため、どのようにしたら良いのでしょう?

2.まず神を恐れよ

 マタイ10:28「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」このイエス様のことばは、12弟子たちを伝道に遣わすときに語られたものです。しかし、このところには、私たちが人を恐れなくても良いという、理由というか根拠が述べられています。どうしたら、人を恐れないで自分らしい生き方ができるのでしょう?それは、神さまを恐れるということです。このところには、人ができる事の限界と、神さましかできないことが書かれています。私たちに敵対する人、私たちが恐れる人が、最大限何ができるのでしょう?私たちのからだを殺すことです。でも、人から殺され、命を奪われることほど恐ろしいことはありません。「それが一番怖いでしょう?」と言いたくなります。でも、イエス様は「もっと恐れなけばならないことがある」と言っています。それは神さまです。神さまは「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼす」ことができるお方です。ゲヘナというのは「焼却炉」と言う意味ですが、地獄のことです。魂は永遠に生きる存在なので、神さまは地獄の火で、その魂を滅ぼすしかありません。つまり、肉体の死よりも、魂の死が恐ろしいということです。人間は殺せてもせいぜい肉体までです。でも、神さまは肉体だけではなく、魂まで殺すことのできるお方だということです。イエス様は神さまを恐れるならば、肉体しか殺せない人間を恐れる必要はないと言っているのです。すごい、極論だとは思わないでしょうか?神さまを恐れたら、人など恐れるに足りないということです。

 私たちはいろんなものを恐れて生きています。人間だけではなく、病気や死、失敗や破産、悪魔による滅びなどを恐れています。聖書では「恐れてはならない」と何度も繰り返し、命じられています。でも、唯一、例外的に「神を恐れよ」と言っています。日本語は畏敬の意味で、畏れるというふうに言います。しかし、英語の聖書は、どちらもfearであり、区別がありません。旧約聖書には何か所も「神を恐れよ」と命じられています。イザヤ8:13「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。」神さまは、私たちが究極的な恐れを持つべき対象です。なぜなら、神さまは、全能で、全知なるお方だからです。聖書には「この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる」と書かれています。これはどういう意味でしょう?私たちが何かを恐れるときは、そこから逃げて、どこかに隠れようとします。しかし、神さまを恐れる人には、神さまが聖所となるということです。なぜなら、神さまが私たちが恐れるあらゆる対象よりも、力と権威があるお方だからです。イエス様がこのようにおっしゃいました。ヨハネ10:29「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」私たちが最も恐れるものの1つは、人からのさばきや批判ではないでしょうか?詩篇の記者はこのように述べています。詩篇19:9「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」詩篇130:3,4「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」アーメン。神さまは最も権威あるお方です。このお方が「あなたを赦す。もうさばかない」とおっしゃるなら、そうなのです。滅びゆく人間がそのことを覆すことはできません。特にクリスチャンは、イエス・キリストが身代わりに罪を払ってくださったので、罪赦され、義とされている存在だからです。だから、パウロはローマ8章でこのように述べています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」アーメン。

 と言う訳で、私たちは神さまと和解する必要があります。なぜなら、生まれつきの私たちは「ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:3)。しかし、罪ある私たちがイエス・キリストを信じるなら、恵みによって救われるのです。ローマ5:1「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」アーメンです。キリストを信じる者は、いつ心臓が止まっても神さまの前に立つことができます。たとえ、肉体的にだれかから殺されたとしても、神さまから既に永遠のいのちが与えられて、魂は死ぬことはありません。栄光のからだをいただいて、永遠の御国で生きることができるのです。ですから、歴史の中で多くの聖徒たちが迫害の中で、死を恐れずに殉教していったのです。マタイ10章の「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」は、殉教覚悟の信仰と言えるでしょう。殉教を覚悟していたなら、何ものも恐れることはないということです。もし、「教会に行くな、信仰を捨てろ」とご主人が脅しても、「私はこの場で、殺されても平気です」と言えるのです。そうすると、夫は恐れて、「信仰とはそれほど重要なものなのか」と逆に恐れるでしょう。もし、「あなたのために信仰を棄てます」などと言ったら、「ああ、信仰とはその程度のものなんだ」と、その先、ずっとなめられるでしょう。第二次世界大戦中、日本の多くの教会は妥協しました。礼拝堂に神棚を祀り、天皇陛下を礼拝し、戦争の勝利のために祈りました。ところが、ホーリネス系の牧師たちは、軍部を恐れずに抵抗しました。そのため、かなりの人たちが殉教したと聞いています。

 今は、比較的、平和な時代です。信仰にいのちをかけることは少ないかもしれません。でも、まことの神を恐れているなら、私たちは人を恐れる必要はありません。人が何と言おうと、人がどんな脅しをかけてきても、せいぜい殺せるのは肉体までだからです。私たちは、そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れます。まことの神をおそれるなら、人を恐れる恐れから解放され、自由に生きることができます。

3.恐れに打ち勝つ

 聖書には人々の恐れに打ち勝った人たちのことがたくさん書かれています。初代教会の人たちは迫害を恐れずにこのように祈りました。使徒4:29 -31「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。アーメン。大胆さは、聖霊に満たされたクリスチャンの姿です。私たちが聖霊に満たされるなら、臆病でなくなり、力が与えられます。パウロがテモテにこのように書き送っています。Ⅱテモテ1:7「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」テモテは有能なパウロの弟子でした、しかし、人を恐れる弱さがあったかもしれません。しかし、私たちが聖霊に満たされるとき、大胆になることができるのです。ここに「慎みの霊」とありますが、もとの意味は、self-control(自制)、あるいはself-discipline(自己訓練)となっています。このみことばには、だんだん恐れなくなる、恐れを克服していくという成長を含んだ意味があります。私たちが神さまを恐れ、神さまに支配していただくようにささげます。すると、聖霊による自制や自己訓練が与えられるということです。これまでは人を恐れていたけれど、だんだん恐れなくなるということです。この世では、面の皮が厚くなるというようですが、私たちの場合は、抵抗力が与えられるということです。心理学的には「以前は、恐れのレベル8だったけれど、レベル3か2になった」と言うようです。私たちがこの地上で生きているうちは、全くゼロになることはないかもしれません。でも、3か2のレベルだったら平気だということでしょう。

 ヨシュアは主からこのように言われました。ヨシュア1:9 「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」このところに、「命じたではないか」と書かれているので、前にも語られたことがあるということです。実際、モーセが生きていたときも「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:6)と命じられていました。今度は、ヨシュアがモーセの後継者になり、約束の地に入る直前のことです。40年前、イスラエルの民は、恐れのゆえに約束の地に入ることはできませんでした。しかし、彼らの轍を踏まずと申しましょうか、恐れないで攻め上る決意をしたのです。恐れと信仰とは一緒に歩くことはできません。恐れを取ったら、信仰は去って行くでしょう。しかし、信仰を取るなら、恐れは去って行きます。カレブという人は85歳になって、「主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください」(ヨシュア14:12)とあえて、巨人たちを倒しに行くのです。カレブは主に従い通したので、その地を勝ち取り、相続することができました。私たちが恐れないで進んで行くと、神さまが用意されていたものを得ることができるということです。

 少年ダビデはどうだったでしょうか。戦いが長引いだので、ペリシテ軍は「イスラエルからだれか代表者を出せ、こちらも出すから。一対一で戦おう」と提案しました。ペリシテは身長が3メートルもある戦士ゴリアテを立てました。彼は頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていました。足には青銅のすね当て、背中には青銅の投げやり、槍の柄は機織りの巻棒のようで、槍の穂先は7キログラムの鉄でした。彼は「おれと勝負しろ。俺が負けたらおれたちはお前らの奴隷になる。俺が勝ったなら、お前たちが俺達の奴隷になるのだ」と言いました。このことばを聞いたとき、イスラエルは意気消沈し、非常に恐れました。そのとき、兄たちのためお使いに来たダビデがその様子を見て、「このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう」と言いました。サウル王は「あなたは、あのペリシテ人ところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから」と言いました。でも、ダビデは私に戦わせてくださいと戦いに出向きました。ゴリアテはダビデを見て、さんざん馬鹿にしました。しかし、ダビデは巨人ゴリアテよりも、万軍の主を見上げました。「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」と言って立ち向かいました。ダビデは袋の中から石を取り、石投げでそれを放ちました。すると、その石はゴリアテの額に当たり、額にめりこみました。彼がうつぶせに倒れたので、ダビデはとどめを刺しました。ダビデは、巨人ゴリアテを恐れず、立ち向かい、勝利しました。

 この後、ダビデはサウル王から妬みをかい、13年間も荒野や洞窟をさまようことになります。ダビデは敵からの恐れにさいなまれていたことでしょう。ダビデが書いた詩篇には私たちのなぐさめとなることばがたくさん記されています。詩篇18では「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら」と言いました。「とりで」というのは、要塞という意味です。詩篇46篇では「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」と言いました。避け所とは、シェルター、避難場所と言う意味です。つまり、私たちの神さまは全知全能なるお方であり、すべての権威と力のあるお方です。私たちはこのお方のもとに逃げ込むことができます。このお方のふところに隠れるならば、どんなに多くの敵がやって来ても大丈夫です。使徒パウロはエペソ6章で「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、…天にいるもろもろの悪霊に対するものです」と言いました。つまり、私たちに敵対し、非難をあびせる人たちの背後には、悪魔がいるということです。悪魔こそが「兄弟たちの告発者であり、日夜彼らを私たちの神の前で訴えている者」(黙示録12:11)なのです。ですから、血肉である人間と戦ってはいけません。多くの場合、肉的な人たちが告発者となり悪魔に用いられているのです。ですから、これが主の戦いであることを知り、人ではなく、神さまに訴えるのです。告発の矢が飛んできても、私たちは神さまのふところに留まりつつ、戦うのです。人間的な戦いをしたら悪魔の思うつぼです。主が私たちを弁護し、主が私たちのために戦ってくださいます。神が私たちの味方であるなら、人も悪魔も恐れる必要はありません。