私は最近、日本人の牧師の説教を聞くことはあまりありません。現在は、いろんな団体の活動から離れているからです。もっぱら、英語の説教や本からですので、あちらの方に傾いているのかもしれません。でも、たまにユーチューブで日本人の説教を聞くと、嫌になるというか、気持ち悪くなります。なぜでしょう?多くの場合、福音ではなく、律法を語っているからです。当教会のみなさんは、鈴木牧師の説教を毎週、聞かれていると思います。大変、結構なことです。でも、旅行や出張先で、その地の礼拝に出席してみてください。もし、違和感があるなら、福音的でないということです。きょうは、何が福音的で何が福音的でないのか、学びたいと思います。
1.説教とは
たまに、だれかから、「お説教された」ということばを聞きます。大体、日本語の「説教」という呼び方が悪いです。説教というと、「上から目線で諭される、くどくど注意される」みたいなニュアンスがあるからです。教会の礼拝では、説教という項目がありますので、今更、変えることができません。ある教会ではメッセージというかもしれませんが、説教は説教であります。「説教する」を表す、ギリシャ語が3つあります。第一は、ケリュッソーです。これは「公に宣言する」という意味です。英語ではproclamationと言います。「キリストはあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。罪の代価は支払われました。あなたもキリストによって罪の赦しを受け、救われることができます」。これは、宣言であります。宣言ですから「きっと、救われると思いますよ」ではいけません。私は聖書に基づき、講壇の上から、福音、神の国、イエス・キリストを公に宣言しています。第二はユワンゲリゾーです。これは「良い知らせを伝える、宣べ伝える」です。英語ではpreachです。ですから、牧師のことをよく、preacher、説教者と言います。つまり、説教には伝道の要素が含まれるということです。バプテスト教会では、最後に「イエス様を信じる人は、前に出て来なさい」と招きをします。しかし、毎回やっていると脅迫されているようで気分が悪いと思います。第三は、ディダスコーです。これは「教える」ということです。イエス様も会堂でよく教えられました。使徒19:8「その人々は、みなで十二人ほどであった。それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた」とあります。その後、パウロは反対にあって会堂から身を引き、ツラノの講堂で2年以上、論じたと書かれています。まとめると、説教には、公に宣言する、良い知らせを伝える、聖書から教えることの3つの要素が含まれているということです。
続いて、説教と呼べませんが、補助的なものがあります。証はどうでしょうか?証のもとの意味は、証人です。ペテロはペンテコステの日、騒ぎで集まった人々にこのように言いました。使徒2:32「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」また、パウロは議会で弁明していますが、そのとき、自分がダマスコで回心したときの様子を証しています。私も説教で8人兄弟の7番目とたまに証します。ある人たちは、説教に自分の証を入れるのは邪道だと批判します。しかし、黙示録19:10「イエスのあかしは預言の霊です。」とあります。人が証を語ると、そこに聖霊のみわざが起り、パワフルであるということです。その次には、対話型のものもあります。エマオに向かう二人の弟子たちの間に復活のイエス様が入って来られました。ルカ24:27「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」とあります。あとから、その方がイエス様だとわかりました。家庭集会や小グループの集会では、お話しの途中に、相手に「どう思いますか?」と聞いたりします。対話型で行うと、親密感が増すばかりか、相手がどのような考えを持っているか分かります。その結果、彼らの考えを変えることもできます。他には説得するというものもあります。使徒18:4「パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。」とあります。説得するはギリシャ語でディアレゴマイであり、「強く証言する、論争する、立証する」という積極的な表現です。説得もありでしょうか?
このように説教とは、一般に考えられているものより、広い意味があるということです。私が一番、説教で強調したいことは、説教と講演とは違うということです。きょうも、著名人がどこかのホールで講演しているでしょう。ここよりも大勢の人たちが集まり、講演者も高額な謝礼をいただくことでしょう。もし、ためになる話を聞きたければ、そういう所へ出かけたら良いと思います。では、教会でなされている説教と講演とではどこが違うのでしょうか?まず、説教とは神のことばを解き明かすことであります。パウロはテモテに「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(Ⅱテモテ2:15)と命じました。私たち説教者には、語るべき聖書という真理の土台があります。だから、大胆に話すことができるのです。ある人たちは、聖書は書かれた神のことばであり、説教は語られた神のことばであると言います。私はそれを信じません。聖書は神のことばでありますが、説教は神のことばではありません。私は説教とは神のことばから語る、説き明かすことだと信じています。だから、その中に自分の証があったり、時にはジョークさえも許されると信じます。私たちは逆立ちしてでも、イエス様を信じてもらいたいからです。私は聖契神学校で泉田昭師から「説教学」を学びました。泉田師は「説教とは聖霊によってキリストを語ることである」と定義しました。非常に単純明快で、「すごいなー」と思いました。そうです。説教のゴールはイエス・キリストであります。Ⅱテモテ4:3口語訳「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして」とあります。説教者は人々の感情に訴え、ほろりとさせて、イエス様を信じさせたいという誘惑にかられます。あるいは、自分の知性をさらけ出して、インテリ層に訴えたくなるでしょう。そうではなく、説教のゴールは聖霊によってキリストを語ることであります。そうです。聖霊の油注ぎがなければ、いくら上手い話をしても、神さまの働きが現れません。まず説教者が真理のみことばに仕える者であり、そして聖霊の油注ぎをいただいて、聖書からキリストを語りたいと思います。
2.福音的説教とは
第一のポイントでは「説教とは何か」について学びました。さきほど引用しました、泉田師は「説教のもとの意味は、神の国の福音を公に宣言する、知らせる、教えることである」と教えてくれました。ですから、第一のポイントでは「公に宣言する、知らせる、教えることである」と説明しました。しかし、泉田師は「神の国の福音を」と、説教の目的を付け加えています。端的に言うと、「神の国の福音について説教することなんだ」ということです。さきほどは、「聖霊によってキリストを語ることなんだ」と学んだばかりです。一体、どっちが大事なんだと文句が出そうです。少し、聖書から両者について調べてみたいと思います。マルコ1:15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」これが、イエス様の説教です。イエス様の説教の中心テーマは神の国であり、そしてどのように神の国に入れるかでありました。使徒パウロはどうでしょうか?使徒の働き28:31「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」とあります。このところには、神の国とキリストです。初代教会のピリポはどうでしょう。使徒8:5「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた」彼はキリストを宣べ伝えました。結論的に、神の国とキリストであります。
では、福音的説教とは何でしょう?キリストによってなされた福音を説教することです。福音とは良い知らせであり、またキリストが死と悪魔に勝利した知らせであります。そして、キリストによって信じるだけで神の国に入ることができるようになりました。言い換えると、行ないではなく、キリストを信じる信仰によって救われるということです。では、教会において、福音的説教でない説教が語られているのでしょうか?おそらく、亀有教会のみなさんは、聞きなれているので、これが標準だと思っておられるでしょう。でも、旅行先などで、他の教会の礼拝に出席する機会があるかもしれません。私が言うのも何ですが、日本では「私どもは福音派の教会です」と言いながら、律法を語っている教会が意外と多いのです。福音ではなく、いわゆるお説教をしているのです。帰るとき、何か重たいものをいただいたと感じるなら、それは律法的な説教です。律法的な説教には、「〇〇しなければならない」という表現が度々出てきます。説教者がおっしゃっていることは聖書の内容であり、正当的かもしれません。しかし、福音的説教でない場合があるということです。
たとえば、「あなたがたは祈らなければ、恵まれた信仰生活を送ることはできない」と言ったとします。祈ること自体とても大事であり、否定するつもりはありません。しかし、「祈らなければならない」は、私たちに「祈る」という行いを要求しています。もし、自分があまり祈っていないなら、「ああ、祈りが足りないなー、もっと祈らなければならない」と決意するでしょう。それを神さまからのチャレンジとして取るならば結構です。しかし、「祈らなければならない」は、要求であり、律法と取ることもできます。では、どのくらい祈ったら良いのでしょうか?1日30分でしょうか?「よし、毎日、30分祈ろう」と決意します。すばらしいことです。でも、どうでしょう?それを実行していくうちに、重たくなるかもしれません。祈りが義務的になり、お勤めになるかもしれません。本来、祈りは神さまとの交わりですから、楽しいものです。でも、それが苦痛になっているなら、「私は祈らなければならない」という律法になっているからです。他にも教会の説教でよく言われることがあります。「あなたは、他の人の罪を赦さなければなりません。」これも、聖書に書いてあることであり、正統的です。そのとき、聖霊様が働いて、「はい、赦します」と決意できるかもしれません。しかし、律法として解釈するなら、「ああ、赦せない私はダメなんだ。信仰がないんだ」となります。二度目に、罪の赦しの説教を聞くとき、心がかたくなになっていることが分かります。他に「愛さなければなりません」「古い自我に死ななければなりません」「あなたは良い証をたてなければなりません」「キリストのように人々に仕えなければなりません」…すべて聖書的であり良いものです。でも、福音ではなく、律法になっています。
パウロは何と言っているでしょう?ローマ7:7,8「ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。」ですから、たとえそれが、聖書的であろうと聞く人が律法として取るなら、逆に従いたくないという肉を刺激することになります。たとい反抗心がなくても、「ああ、自分は基準に達していない、罪がある」と理解します。なぜなら、律法は罪を暴く力があるからです。ですから、同じことを言うにしても、律法ではなく、恵みによって語るなら肉を刺激しなくて良いのです。たとえば、祈るということを例に挙げたいと思います。あなたが祈れないとき、ローマ8:26,27「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。・・・何故なら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしてくださるからです」と書かれています。つまり、聖霊が私たちのために代わりに祈ってくださるのです。それだったらどうでしょう?「私にも祈らせてください」と言いたくなるでしょう。「あなたは古い自我にしななければならない」という言い方に対してはどうでしょう?ローマ6:6「私たちの古い人がキリストとともにつけられたことを…知っています」と書かれています。私たちがキリストを信じたとき、私たちの古い人が死んでしまったのです。そして、今は新しい人が生きているのです。ただし、私たちの肉が生きているので、これは十字架につける必要があります。でも、肉を殺してくださるのは神さまです。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」文字とはモーセの律法です。「してはならない」「しなければならない」という律法のことです。律法を話すと人々が死にます。でも、説教者は新しい契約に仕える者となっています。キリストが律法を成就してくださり、律法から贖い出してくださいました。今は、聖霊が私たちの内側におられ、聖霊が神さまの命令を果たさせてくださるのです。主の御霊のあるところには自由があります。福音的説教を語るところには自由があります。
3.福音的説教の実際
韓国のチョー・ヨンギ牧師が友人の牧師と日曜礼拝について話したことがありました。友人の牧師は「説教のゴールはみなが胸を打ちたたき、涙して悔い改めることだ。礼拝でどのくらい多くの涙を流して帰るか、これが重要だ」と言いました。チョー・ヨンギ牧師は「ああ、それで礼拝に来る人が少ないんだ」と思ったそうです。チョー・ヨンギ牧師の説教はカウンセリング的説教です。何十万人もの信徒がいるので、ひとり一人カウンセリングできません。それで、福音を語りながら、心の問題を解決し、人々を励まし、人々に希望を与え、人々に信仰を与えます。今思えば、カウンセリング的説教とは人々をみことばから励ますことなんだと思います。私が良く聞いている説教者にジョエル・オスティーンがおられます。彼の説教はとても平易で、全世界に放映されています。ある人たちは、聖書の深みがないとか、功利的であると批判します。彼のお父さんのジョン・オスティーンは聖書を深く説き明かした、南部なまりの説教者です。でも、ジョエルはこれまでずっと教会のカメラマンだったので、神学校に行っていません。でも、何十年もお父さんの説教を聞いてきました。1999年お父さんが天に召された後、すぐ、ジョエルが講壇に立ちました。「お父さんと違う」と大勢の人たちが教会を去って行きました。しかし、ジョエルは思いました「私は父とは違う。南部なまりで説得することもない。私の方が、顔が良い。神さまは私に希望のメッセージを語るように召してくださった。アーメン」と、落ち着きました。だから、人から何と言われようと、ジョエルは希望のメッセージを語ることに専念しています。
私は座間キリスト教会で奉仕していた頃、大川牧師のもとで説教とは何か、教えられました。日曜日の夜は、スタッフが説教し、終わった後、反省会がありました。大川牧師に対してはみんながほめますが、夜のスタッフの説教には手厳しいことばが浴びせられます。もう30年以上も前のことなので、正確には覚えていませんが、大川牧師は説教のチェック・ポイントについて教えてくれました。「説教が福音的であったか?」「励ましがあったか?」「聞いてためになったというものがあったか?」「適切な例話があったか?」他にもおっしゃったかもしれません。私はディボーションを学んでから、「説教に適用があったか?」ということも付け加えています。福音的かどうかということは前のポイントでお話ししました。大川牧師は「例話とは家の窓のようなものである。窓がない家は暗いでしょう」と言われました。しかし、大川牧師の説教は例話がふんだんであり、「どこから仕入れてきたのだろう?」と毎回驚きます。最近は、説教の前のジョークにも多くのエネルギーを注いでいるようです。私が座間キリスト教会で説教をたまにさせていただきましたが、途中で行き詰りました。説教準備のため、いろんな注解書や他の先生方の本を読みました。あの頃は、加藤常昭師、榊原康夫師、ウィリアム・バークレーの本を参考のため読みました。私は彼らの本を読めば読むほど、頭が痛くなり、不安と恐れがやってきました。ある時、それらを全部捨てて、その場にひれ伏して、メッセージを待ったことがあります。そのことをきっかけに、聖書を勉強しても良いけど、メッセージは上から来るものだと理解しています。
渡辺善太師が『聖書的説教とは何か?』という本を書いています。聖書的説教とは、定義的に言えば、徹頭徹尾「聖書に始まり、聖書により、聖書に終わる」説教である。そして構造的に言えば、そのテキストが、聖書の聖句からとられるだけでなく、そのテキストが示している主題が、首尾一貫し、一つの論理によって貫かれ、そして高められ、深められ、広げられて、その全体が上昇的にまた下降的に、あるいは帰納的にまたは演繹的に発展させられ、そして全体が徐々にしぼられて、聖書的に結論づけられる説教である。アーメンです。私が説教を準備するとき、一番、苦心するのは説教のアウトラインです。アウトラインとは、「説教の構成であり、どの順番で、どんな内容を語るか?」であります。聖書を調べ、研究した後、目をつぶってひれ伏すと、説教のアウトラインがばーっと浮かび出ます。昔から「やす、落ち着け。やす、落ち着け」と言われて育ちました。目をつぶって、じっと待つのです。あのこと、このこと、いろんなことが頭の中で行き巡ります。この説教で何を一番語りたいのだ。そのことを伝えるために、どういう順番で語れば良いのか?論証すべきことや命題は何か?目をつぶって思い巡らしていると、バーッと浮かんできます。すぐそのことを紙に書き写します。その後、ゆっくりパソコンに向かって、こまかいところを書きます。人の教えや例話を用いますが、メッセージはすでに神さまからいただいていますので、恐れはありません。こんな風にして説教を準備していますので、苦になりません。
最後に、もう一度お話ししたいことは、福音的であることと、聖霊によってキリストを語るということです。私は聖書学院で学んでいた頃、小林和夫先生の教会の祈祷会に潜り込んでいました。大川牧師が「そうしろ!」と命じていたからです。小林和夫先生は旧約聖書を語りますが、その後、新約聖書を語ります。なんという驚きでしょう?イエス・キリストが旧約のことを成就したことが分かります。先生は笹尾鉄三郎師『66巻のキリスト』という本を推薦しておられました。聖書のどの書物であっても、キリストを語っているということです。つまりは、キリストの贖いを通して、聖書を読むということです。するとどんな厳しいことも、「新約の時代はありがたいなー」と恵みを喜ぶことができます。これは、新約聖書でも同じです。新約聖書に書かれている内容がすべて新しい契約であり、恵みかというとそうでもありません。たくさんの律法も記されています。でも、キリストの贖いを通して読むならば恵みになります。また、私たちの内におられるキリスト、聖霊様が思いと願いを与えて、メッセージを実行させてくださるのです。時には、説教でも律法を語るときがあります。律法は神さまからの命令です。でも、神さまは命令を与えると同時に、それを実行できる資源と力もくださいます。神さまを愛し、自分を愛するように隣人を愛することは最も偉大な戒めです。戒めですから、律法と捉えることもできます。でも、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)。Ⅰヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」唇の汚れた者でありましたが、神のことばを取り次ぐ者とさせてくださった、主のあわれみを心より感謝します。愛と信仰によってメッセージを受け止めてくださる愛兄姉に感謝します。