イースターおめでとうございます。イスラエルに行くと、イエス様がよみがえられた墓と思われるところが複数あるそうです。ある墓の中には英語で“He is not here. He is risen indeed.”「ここにはおられません。彼は実によみがえられました」というみことば掲げられているそうです。まさしく、2000年前のきょうの朝、イエス・キリストは死を打ち破り、よみがえられました。きょうはそのことを学び、復活の信仰を新たにさせていただきたいと思います。
- ここにはおられません
マルコ16:1-4「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」3名の信仰深い女性たちが朝早く、イエス様が納めておられるお墓の前にやってきました。何のために来たのでしょう?イエス様のご遺体に香料を塗るためです。死体の腐敗を遅らせるためであろうと思います。でも、ヨハネ19章を見ると、すでにイエス様のお体には没薬と沈香を混ぜ合わせた大量の香料が亜麻布と一緒に巻かれていたはずです。その上さらに香料を塗るとは不自然です。でも、彼女らの行為は常識から逸脱していますが、イエス様に対する深い愛情の現れであろうと思います。でも、そのような愛情表現は、的外れで不信仰な行為でした。なぜなら、イエス様は何度も3日目に、よみがえると告知していたからです。彼女らは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。そこには信仰のかけらもなく、ご遺体に香料を塗ることだけを思案していました。でも、墓は空っぽで肝心なご遺体はそこにはありませんでした。ヨハネ福音書には「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません」(ヨハネ20:13)というマグダラのマリアのことばが記されています。女性たちはイエス様のご遺体を慕い求め、お体に油を塗りたいと願っていたのです。
このことは私たちに何を教えておられるでしょうか?それは、宗教の終わりを教えています。世界中のほとんどの宗教は、死と関連しています。そして、彼らは死んだ教祖を祀り、香をたいたり、お供物を供えたりして拝んでいます。あらゆるアニミズム、仏教、神道、新興宗教のほとんどが死んだ人を拝んでいるのは不思議なことです。私は台湾やインドネシアの教会を何度か訪問したことがあります。しかし、ある日、訪れたとき、香が町中に立ち込めていました。キリスト教やイスラム教の他に、土着の宗教があるらしく正月やお盆に死者のために香を焚くようです。日本もお彼岸にはそういうことをします。以前は何とも思いませんでしたが、クリスチャンなってからは気持ち悪くなりました。では、キリスト教会はどうなのでしょう?ローマ・カトリックは十字架で死なれたイエスのためにミサをあげます。ギリシャ正教会では香をたきます。ルター派教会では礼拝時にローソクを灯すようです。必ずしも死なれたキリストを礼拝しているとは思いませんが、キリストの死を強調していることは確かです。「それが何が悪い」と言われれば、それまでですが、イエス様のご遺体を慕い求めた女性たちと似ているような気がします。私たちはむしろ、死んでよみがえられたキリストを礼拝すべきなのではないかと思います。聖書にその根拠が記されています。マタイ28:16「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。」
もう1つ教えていることは、イエス様の復活は、死の終わりです。御使いが彼女らにこう告げました。マルコ16:6「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」「ここにはおられません」とは、救い主は、墓の中にはいないということです。そして、この救い主は死を打ち破り、今も生きておられるということです。ルカ福音書には「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ24:5,6)と書かれています。創世記3章にはアダムとエバの堕落の記事が記されています。アダムが罪を犯したために、人は死ぬようになりました。旧約聖書のいたるところには死は必ずやってくるものであり、誰一人として避けることができないと書かれています。それにも関わらず、死からよみがえるという預言もあります。詩16:10「あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」ペテロはペンテコステの日、このみことばを引用して、「キリストの復活の預言が成就したのだ」と説教しています。「すべての人は生まれたら死ぬ」、これは誰一人まぬがれることができない運命です。生物学者も、宗教もこのことを受け入れています。しかし、一人だけ死から死なないからだへと生還した人がいたのです。パウロは「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。(Ⅰコリント15:20-22)アーメン。キリストの復活は、私たちの復活の保証となられたのです。やがては、「死は勝利に吞み込まれた」(Ⅰコリント15:54)が実現するのです。キリストを信じている者は、死からいのちに移り、復活を生きているのです。
御使いは「ここにはおられません」と言われました。それはまた、「生きている方を死人の中に捜すような愚かなことはしてはならない」ということです。私たちの救い主キリストは、死を打ち破り、今も生きておられるお方です。私たち教会は、死者を祀っているようなこの世の宗教とは違います。死を打ち破り、今も生きておられるキリストと共に生活する、これが私たちの信仰生活です。私たちが生きているうちに再臨が来るかもしれません。そうしたら、死なないで天に引き上げられるでしょう。それだったら、墓も必要ありません。再臨が遅れて、その前に死ぬかもしれません。それでも、大丈夫です、私たちもいずれ、イエス様のように死からよみがえるからです。私たちはすでに、死からいのちに移り、復活を生きているからです。アーメン。
2.アンビリーバブル
「アンビリーバブル」という名前のつくテレビ番組があります。世界中の奇跡的なことを見ることができる収録番組です。歴史上、「信じられないほど驚くべき出来事とは」何でしょう?それはイエス・キリストが十字架で死なれた後、3日目によみがえられたことです。聖書はそのことを証言している人たちに満ちています。しかし、「復活の証言者たちは果たしてどうなのだろう?」と情けなく思えるようなことがそのまま聖書に記されています。もし、説得力に満ちた一貫した証言を集めるなら、このような書き方はしないでしょう?聖書はあえて、弟子たちや女性たちの証言をありのまま残しています。手を加えているとか、改ざんしているという様子は見受けられません。しかし、その方がアンビリーバブルな出来事が信憑性があるように思えてくることも確かです。まず、彼らの証言はどのような特徴があるのでしょうか?
第一は彼らの驚きがそのまま表現されているこということです。マルコ16:7,8「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」聖書はここで終わっています。その後は、かっこになっています。かっこでくくられているのは何故でしょう?新約聖書はギリシャ語の写本があり、最も古いもの(原典)は、現存していません。原典からの写本が世界のいたるところにあり、それをまとめて、「これが原典に最も近いものであろう」と集めたのが今、私たちが手にとっている聖書です。でも、この8節で終わっている聖書もあります。また、9節からの内容を記している聖書もあります。でも、数的には8節で終わっている聖書が多い。でも、これで終わると尻切れトンボ状態です。「そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とマルコ福音書が終わったなら、まことに情けない終わり方です。人為的にしてはいけませんが、数的には少なくてもその後のことを記した聖書も発見されました。「やっぱり、こちらも付け加えよう。でも、かっこ付けで」と20節まで書いたのだと思います。それでは、霊感されていないかというと、内容的に矛盾していたので、良いだろうと思って、まとめたのではないでしょうか。なぜなら、後半の部分にヨハネ福音書の20章のマグダラのマリヤの証言、ルカ24章のエマオの途上の2人の弟子、さらにはヨハネ福音書の20章の弟子たちの前に現れたイエス様のことが重複するように記されているからです。
なぜ、弟子たちの証言に信憑性があるのか?主がよみがえられたことに、とても驚いているからです。8節には「震え上がり、気も動転していらからである。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と書かれています。マタイ福音書は少し違います。「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った」(マタイ28:8)とあり、すっきりしています。神的なものに触れて、恐れたり、驚くというのは、私たちの自然の姿かもしれません。マルコ4章には、イエス様が嵐の海を静めた奇跡が記されています。弟子たちの反応はどうだったでしょうか?マルコ4:41「彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖まで言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」また、マルコ9章には変貌山の事が記されています。マルコ9:5,6「ペテロがイエスに言った。『先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。」栄光の姿を間近に見て、弟子たちは、恐怖に打たれてしまいました。日本語は恐怖の「恐れ」と、畏怖を現わす「畏れ」を使い分けています。しかし、英語もギリシャ語も区別はなく、恐怖の「恐れ」のみです。ドイツの神学者ルドルフ・オットーが、『聖なるもの』という本で「ヌミノーゼ」という言葉を造りました。これは、「畏怖と魅惑という相反する感情を伴い、身体の内面から特殊な感情が沸き起こるものである」という意味なようです。つまり、罪ある人間が聖なるお方に触れるときの宗教的体験です。イザヤが主の栄光を見たとき、「ああ、私は滅んでしまう」(イザヤ6:5)と叫びました。つまり、主の復活を知った弟子たちは、喜ぶ前に、恐れたということは当然の反応だったのです。
第二は彼らの不信仰がそのまま表現されているこということです。マルコ16章の後半を読むと、「信じなかった」ということばが、繰り返し出てきます。11節「彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。」これは弟子たちのことです。13節「その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。」これはエマオの途上の二人のことです。14節「その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。」なぜこのような、恥ずかしいことがそのまま記されているのでしょうか?それは、キリストの復活がそれほど信じがたいことだったからです。イエス様を直接見た人たちが、そうであったなら、その証言を聖書から知る人たちはどうなんでしょうか?怪しいと思わざるを得ません。しかし、弟子たちの不信仰がそのまま表現されているということは、逆に信憑性があるとしか思えません。後代の人を信じさせようと、作為的に書くならこのようには書かないからです。歴史上最も「アンビリーバブル」なことが起ったからです。もう1つ「信じれない」という英語の表現に、incredibleというのがあります。これは「信じられない」という意味と「とてもすばらしい」という意味があります。Credibleは「信用できる」ですが、incredible
となると、「とても、信じられない!」となるのです。キリストの復活は、私たちの理性や経験や科学的な常識を超えた、すばらしい出来事なのです。聖書には信じられないような奇跡が数限りなく記されています。聖書の最初のページに、「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1:1)とあります。そして、人類における最大の奇跡は十字架で死なれた方が、栄光のからだによみがえられたことです。正確には、父なる神が、御子イエスをよみがえらせたのです。そのことによって、御子イエスの贖いが完全であったことが証明されたのです。
3.福音を宣べ伝えよ
マルコ16:15-18「それから、イエスは彼らに言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。』」このところに、信じると書かれていますが、何を信じるのでしょう?イエス様は「福音を宣べ伝えなさい。福音を信じたら救われます」と言われました。でも、福音とは何でしょう?どのような内容を信じたら、救われるのでしょうか?ところで、マルコによる福音書の書き出しは、「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。」(マルコ1:1)でありました。そして、最後のマルコ16章でイエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と言われました。つまり、このところで福音が完成したので、この完成した福音を宣べ伝えなさいと言うことでしょう。マルコ15章においてイエス様は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエス様が人類の罪を負ったために、父なる神から裁かれ、捨てられたことによる叫びです。しかし、マルコ16章においては、週のはじめ、日曜日の朝、イエス様は墓からよみがえられました。御使いは「ここにはおられません。あの方はよみがえられました」と知らせました。つまり、福音とは十字架の贖いの死と、死からの復活の2つになります。イエス様は私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられました。この方を信じるなら、罪赦され、救われます」ということでしょうか?でも、よみがえりがそんなに重要なことなのかクリスチャンでも分からないのではないでしょうか?
ローマ4章の終わりにこのようなパウロのことばがあります。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」(ローマ4:25)。昔読んだ、ホーマー・ダンケン著『キリストの再臨の備え』にこう書いてありました。「赦しは神が創造してくださった位置まで回復されること。つまり、プラスマイナスゼロです。義とされた私たちはプラスプラスの位置まで引き上げられること」。そのため私は、「十字架の死は、私たちの罪の赦しのためである。そして、キリストの復活は、私たちが義と認められるためである」と理解していました。だから「十字架の死だけ信じるのは不十分で、復活も信じなければ義の高さまでには行けない」考えていたのです。でも、後からパウロは同じことを、表現を変えて言っているのだということが分かりました。パウロは、そのような言い方をローマ人への手紙でよく用いています。おそらくこれは、ユダヤのラビたちが用いる、「たたみかけの論法」なのかもしれません。英語の詳訳聖書を読むとそのことが良く分かります。Who was betrayed and put to death because of our misdeeds and was raise to secure our justification.となっています。後半の部分を訳すと「彼は私たちの義の保証となるためによみがえらされた」となります。ウォッチマン・ニーは、「借金とその証文」にたとえています。ある人が友人から借金をしました。その友人はチャラにしてくれると言ったのですが、昔は電話もありません。しかし、友人からその借用証書を受け取ったとき、はっきりとわかったそうです。同じように、イエス様が十字架で私たちの罪を支払ってくだったという聖書の約束があります。「でも、天国に行ったとき、私の罪が清算されていなかったらどうしよう?」その人は天国に行くまで、不安な日々を過ごすしかありません。しかし、「父なる神がイエス様をよみがえらせたのは、私の罪が支払われたことの証拠です」と分かったならどうでしょう。「私は罪赦され、義と認められている」と、天に召されるまで祝福の中を生きることができるのです。キリストの復活は罪が贖われていることの証なのです。
イエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい』と弟子たちにお命じになり、天にお帰りになりました。でも、あの弟子たちで本当に大丈夫なのでしょうか?女性たちを除いて、十字架の前から逃げてしまった弟子たち。ペテロは三度もイエス様を知らないと言いました。イエス様がよみがえられたのに、女性たちは死体に香油を塗るために墓に来ました。女性たちは震え上がり、恐ろしさのあまり、主がよみがえられたことを告げられませんでした。気を取り直して弟子たちに告げても、なかなか信じようとしませんでした。「そんな不信仰に満ちた弟子たちに福音をゆだねて大丈夫だろうか?」とだれでも思うでしょう。しかし、一番最後にすばらしいことが記されています。マルコ16:20「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」すごい。よみがえられた主を見た弟子たちは全く変えられ、恐れずに福音を伝えに出て行きました。そればかりではありません。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、確かなものとされました。でも、天に上げられたはずのイエス様がどうして、弟子たちとともに働けるのでしょう。これはおそらく、助け主聖霊によって、可能だったのではないかと思います。私たちにも同じ福音宣教の命令が与えられています。でも、私たちは弟子たちと同じように、恐れやすく、信仰も弱いです。でも、弟子たちと同じように、イエス様も私たちともにおられ、助け導いてくださいます。もう1つ素晴らしいことが書かれています。マルコ16:17,18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語りその手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」これは使徒たちのことではなく、牧師や伝道者のことでもありません。信じる人々すべてに保証されていることです。福音書でイエス様は人々の病を癒し、悪霊を追い出し、天国が近づいたことを証明されました。私たちもキリストの福音を伝えるとき、このようなしるしが伴うのです。多くの人たちは「どうして癒しや奇跡が起こらないのですか?」と聞きます。それは、福音を伝えていないからです。こちらが福音を伝えると、このようなしるしが伴うのです。なぜなら、今も生きておられるイエス様が私たちの背後で働いていてくださるからです。イエス様は私たちの口、私たちの手、私たちの足を通して働きたいのです。