2021.3.7「いのちの書 黙示録20:12-15」

 天においては、数々の書物があることが分かります。その中の1つが「いのちの書」です。本日は「いのちの書」そして、来週は「数々の書物」と題して、メッセージさせていただきます。書あるいは書物というのは巻物scrollです。ギリシャ語ではビブロスであり、bookのもとのことばであると言われています。The bookと言えば聖書ですが、きょうはThe book of life「いのちの書」について学びたいと思います。

1.旧約聖書

 第一は旧約聖書におけるいのちの書について学びたいと思います。最初に出てくるのが、出エジプト記32章です。モーセは40日間、シナイ山に籠って、主なる神さまから十戒と律法をいただきました。モーセは石に彫られた十戒の板を携えて山から降りてきました。ところが山のふもとでは、何やらお祭りさわぎをしているではありませんか?実はモーセがなかなか山から降りてこないので、イスラエルの民はアロンに「私たちのために神さまを作ってくれ」とお願いしました。アロンは最初しぶっていましたが、仕方なく、人々が捧げた金を集めて、子牛を鋳造しました。人々は「これが私たちをエジプトから救い出した神だ」と言って、子牛を囲んで飲んで、歌って、踊っていたのです。モーセはそれを見て、烈火のごとく怒り、いただいてきた石の板を投げ捨てて粉々に砕きました。その時、レビ人が立って、偶像礼拝を主導した人たち3,000人を剣で切り殺しました。このままではイスラエルの民が滅ぼされる恐れがあるので、モーセは破れ口に立ってとりなしの祈りをしました。出エジプト32:32「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」モーセは神さまと取引きしたわけです。「あなたの書物から、私の名を消し去ってください」と祈りました。自分のいのちと交換にイスラエルの民を生かしてくださいということです。しかし、主は「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。…わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく」と言われました。この短い箇所に、いのちの書と神のさばきについて記されています。

 このことと同じことが詩篇にも記されています。詩篇69:28「彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。」69篇の表題に「ダビデによる」と書かれていますので、ダビデの祈りであろうと思われます。ダビデは紀元前1000年くらいの人ですから、モーセより500年くらい後です。モーセとダビデが言ったことを合わせて考えるとこのようになります。これは1つの説ですが、いのちの書は戸籍と同じで、この地上に誕生したすべての名が記されているということです。そして、罪人のまま死んだ人の名は、その書から消し去られるということです。だからダビデは、「彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように」と祈っているのです。モーセは「その書物から、私の名を消し去ってくださっても結構です」と祈っていますので、その説もありえるかもしれません。

 ダニエル書にも記されています。ダニエル7:10「さばく方が座に着き、幾つかの文書が開かれた。」天における法廷の様子であり、そこで書物が開かれるということです。ダニエル12:1,2「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」これは、ヨハネの黙示録と全く同じことが預言されています。ダニエル書には、あの書にしるされている者はすべて救われ、地のちりから復活すると書かれています。「あの書」というのは、「いくつかの文書」の一つです。おそらく、天に「いのちの書」というがあって、そこに名前が記されている者は救われ、死んでも復活するということです。問題は、「信じたとき名前が記されるのか、あるいは生まれた人すべての名前が記され、あとから消されるのかどちらが本当か?」ということです。ジョン・カルヴァンは予定説を唱えましたが、後の人たちが「それは二重予定でなければならない」と言いました。つまり、神さまが最初から選んだ人がいるとすれば、当然、最初から遺棄されている人もいるはずだというのです。パウロはエペソ1章でこのように語っています。エペソ1:4「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」このとろには、天地が創られる前から、私たちが選ばれていたと書かれています。となると、いのちの書や他の書物も、私たちが生まれる前から存在していたということになります。次週学びますが、詩篇139篇には「私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに書き記された」とあります。つまり、私たちが誕生する前に、「この人はこういう体で、こういう能力、こういう運命に」という計画書みたいなものがあったということです。私たちも物を作るとき、設計図を見て作ります。きょうのテーマは「いのちの書」ですが、キリストにあって選ばれていたとなると、最初から名前が記されていたということになります。

 いくつかの考え方があります。第一は、生まれた人全員の名前が「いのちの書」に名前が記される。そして、生きている間にキリストを信じない場合は、その名が消されるという説です。第二は、選びの思想から、選ばれている人は生まれる前から、「いのちの書」に名前が記される。また、選ばれていない人、遺棄されている人の名前は、はじめから記されていないという説です。第三は、イエス・キリストを救い主と信じた瞬間、天にある「いのちの書」に名前が記されるということです。この世においては役所に出生届けを出すことになっており、戸籍に名前と生年月日が記されます。アダムにおいて滅びる運命であった人が、キリストを信じて霊的に生まれると、天の「いのちの書」に名前が記される。大体、この三つがあると思います。とにかく、旧約聖書にも、「いのちの書」という考えがあったということは驚きです。新約聖書になると、もっとそのことがはっきりするかもしれません。「いのちの書」にご興味がわいたでしょうか?

2.福音書と書簡

 第二は福音書と書簡からいのちの書について学びたいと思います。イエス様が70人を短期の宣教に遣わしました。そのあと、いろんな奇跡を体験した人たちが意気揚々と帰って来ました。その時にイエス様が彼らにこう言われました。ルカ10:20「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」このところには、いのちの書と明言されていませんが、「あなたがたの名が天に書きしるされている」となっています。「天に」というのは、「天にあるいのちの書に名前が書きしるされている」と考えることができます。イエス様は「何ができたかというわざよりも、自分たちの名前が天に記されている」つまり、「救いを得ていることを喜びなさい」とおっしゃっているのです。これは、私たちを信仰の原点に立ち返らせるすばらしいおことばであろうと思います。私たちは長年信仰生活を送っていると、罪から救われたことをすっかり忘れ、「私は神さまのためにこういうことをした、ああいうことをした」と誇るようになるからです。座間キリスト教会に三畑長老さんがいました。この方は、「テーラー三畑」という洋服店を経営し、盛んな時は10名位の従業員を抱えていました。ある時、大川牧師と一緒に大きな聖会に出席しました。メッセージの前にある人が立ち、「牧師先生を愛しましょう」というような奨励をしました。その中で彼は「私は牧師先生に背広を作ってあげた」と自慢気に話していました。それを聞いていた三畑長老は「なんだ一着か」、指を折りながら、「大川牧師に何着作ってあげたかな?ああ、4着くらいかな」と数えていました。なんと、その後のメッセージが全く、心の中に入ってこなかったそうです。あとから、三畑長老は「ああ、私は何と傲慢だったんだ」と悔い改めたそうです。私たちも良い行いと救いは関係ないことを覚えなければなりません。パウロは偉大な使徒でしたが、「私は罪人のかしらである」と言ったのはそのためです。

 次に記されているのがピリピ人への手紙です。ピリピ4:3「ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」このところには、「いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの同労者」とはっきり書かれています。使徒パウロも「いのちの書」の存在を信じています。同じ、ピリピ3章20節に「私たちの国籍は天にあります」と書かれていました。これも、「いのちの書」と関係しています。なぜなら、国籍には名前が一緒に記載されるからです。ピリピ人への手紙はローマの獄中から書かれたと言われています。パウロの願いは世を去ってキリストとともにいることでした。しかし、彼らのために、もうしばらく地上に留まることを選びました。パウロが厳しい迫害を耐え忍ぶことができたのは、はっきりとした来世観があったからだと思います。死んでも行くところがちゃんとある。自分の名前がいのちの書にも記されていると確信していました。私たちは、天のいのちの書に名前が記されています。福音書には「結婚の披露宴のたとえ」が記されています。招待されていた客(イスラエル)が来なかったので、王様は「大通りに言って、出会った人をみな披露宴に招くように」命じました。私たちは異邦人であり、本来、招きから漏れていた民ですが、キリストあって天の披露宴に招かれている存在です。座間キリスト教会にいたころ、ある兄弟が結婚しました。彼とは一緒に聖書勉強をしていました。お家が裕福だのでしょう。立派な披露宴に招かれました。当然かもしれませんが、「鈴木靖尋様」という名札がありました。大変うれしく思いました。なぜなら、子どものときから一人前に扱われたことがなかったからです。お盆や正月は、姉や兄たちの伴侶が集まり、ビールやお酒を飲み交わします。しかし、私と妹は席がないので、どこか端っこにいるしかありません。自分の席、自分の分け前に飢え渇いていました。分け前を英語でpotionと言います。聖歌717「主はふるまいを」という賛美があります。「主はふるまいをみまえに開き、ゆたかなる糧をそなえ、うえたる者をまねかせたもう。急ぎたりて食せよ、いそぎきたりて食せよ、わがむしろに座れよと、のたもう君は水をも酒にかえたまいし主イエスなり。主は花嫁をむこうるために、やがてこの世にきたまわん。そのとき我も、みまえにつどい、とこしなえに主と食せん。急ぎきたりて食せよ、わがむしろに座れよと、のたもう君は水をも酒にかえたまいし主イエスなり。」天の宴会には、自分の席も名前もあるのです。寂しがったり、卑下する必要はありません。イエス様を救い主と信じているなら、堂々と席につくことができます。アーメン。

 

3.ヨハネ黙示録

 第三はヨハネ黙示録からいのちの書について学びたいと思います。ヨハネ黙示録には、5か所、記されています。黙示録3:5「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」これは、サルデスの教会に送られたものです。サルデスにある教会は、16世紀の宗教改革時代の教会の姿を現していると言われています。堕落していた教会の中にも残りの民がいて、宗教改革がなされたのです。聖書には「残りの民」という思想があります。いくら世の中が堕落しても、少数ではありますが、神さまは「残りの民」をご自身のためにとっておかれるということです。日本もクリスチャンが1%未満ですから、まさしく「残りの民」かもしれません。しかし、私たちは「世の終わりが来る前に、リバイバルを」と願っています。昔は、「一千万人救霊を」と叫んだことがありますが、現在はほとんど聞かれません。リバイバルではなく、サバイバルです。それではしゃれになりません。今、台湾にもリバイバルが起こっているようです。アジアでは、インドネシア、中国、韓国、台湾と来ていますから、今度は日本です。フィリピンはカトリックの国ですが、プロテスタントがかなり増えているようです。神さまは信仰を復興なさる神さまです。忍耐強く待っていると、必ず良いことがあります。

 その次は、黙示録13:8「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。」これは患難時代におこる迫害について記されています。第一のポイントでは「生まれた時にすべての名前がいのちの書に記されている」と申し上げました。そして、滅びる人もいるという二重予定説を退けました。しかし、黙示録13章には「世の初めからその名の書きしるされていない者」がいると書かれています。その人たちは、獣を拝んでしまうということです。こうなると、ぐっと緊張感が増してきます。ある人たちは、「患難時代にはクリスチャンはみな天に引き上げられている。地上に残されているのは、まだキリストを信じていない人たちである」と言います。おそらく、そのときにおられる人々は、信仰を持つためには自分の命と引き換えにしなければなりません。なぜなら、反キリストの勢力があまりにも強くて、獣の像を拝まない者はみな殺されるからです(黙示録13:15)。確かに選びはあります。だからと言って、のんびりしていると、患難時代にいのちを賭けるしかないのです。だから、パウロは「今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)と言ったのです。いつまでも決断を先延ばしにしていると、患難時代に入り、信じるのが困難になるでしょう・

 最後に黙示録20章の後半に記されている「いのちの書」から結論を申し上げたいと思います。いのちの書と数々の書物が開かれるのは「大きな白い御座のさばき」においてです。このシーンは明らかに、天の法廷であり、いのちの書に名前のしるされていない人たちがさばかれているところです。黙示録20:12,13「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。」死んだ人たちが復活し、神さまの前に立っています。彼らのために数々の書物が開かれるのは、彼らを罪に定めるためです。彼らが生前に何をしたのか、神の律法あるいは、彼らの良心によってさばかれます。おそらく、彼らは神さまの前に「これこれ、こういう理由でしました」と弁明するかもしれません。すると、神さまは数々の書物を開いて、「これこれ、こういう理由であなたをさばきます」とおっしゃるでしょう。神さまが直接行うのか、直属の裁判官が行うのか定かではありません。この世の裁判と同じで、彼もしくは彼女がしたことが白日のもとにさらされます。なぜ「白い御座のさばき」というのは、それは、マタイ10章でイエス様が「おおわれているもので、表らされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。私が暗闇であなたがたに話すことを明るみで言いなさい」と言われたからです。今日においても、政治家が前に何と語り、今どのように語っているか、その違いをテレビ番組が明かします。ちゃんと録画されているので、彼らは言い逃れできません。人々は大きなスクリーンに過去に犯した罪が次々と映し出されるので、弁明できないのです。

 イエス様を信じている人には、罪に定めるための「行いの書物」はありません。なぜなら、キリストの血によって、すべての罪が消されているからです。私たちは「神の白い御座のさばき」をパスすることができます。しかし、千年王国に入る前に、「キリストのさばき」があります。これは、地獄に行くということではなく、生前どのくらい忠実であったか問われ、千年王国で受ける報いが決められます。一方、「神の白い御座のさばき」は、千年王国が終わり、「新しい天と新しい地」始まる直前にあります。死んだすべての人たちがよみがえり、神さまの前に立つのです。そのとき、裁判のために「数々の書物」が開かれるでしょう。キリストの贖いを受けていない人たちは、自分の義によって、神の義と対抗するしかありません。また、そこには弁護してくださるイエス・キリストもいません。いわゆる、ガチで神さまの義と立ち向かうしかありません。果たして、自分の行いで義なる神の前に立ち尽くせる人がいるでしょうか?でも、ここで「キリストを信じていなかった人たちは、すべてさばかれ地獄に行くのだ」と言ってはいけません。中絶された子どもや福音を聞くチャンスが全くなかった人たちもいるからです。「神の選び」がすべてを解決してくれます。また、マタイ25章は私たちに示唆を与えてくれます。マタイ25:34-36,40「それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』…すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」

 高木慶太師がある本でこのように述べています。「数々の書物とは何であろうか?そのうちの1つは『行いの書』である。その書には、ひとり一人の生涯におけるすべての行いが記されている。その人がキリストを受け入れる機会があったにも関わらず拒んだことや、あらゆる種類の悪い行い、秘密の罪などが記されている。そこに記されているすべての事柄に対して、その人は神の前に責任があることが示される。…神がさばくのはその人が犯した個々の罪ではなく、せっかく与えられたキリストによる救いを拒んだ罪である。最も大きな罪とは、神の愛を受け入れないという罪である。不信仰が最も大きな罪なのである。神は地獄を人間の行く場所として作られたのでは決してない。地獄は、もともとサタンと悪霊どものため作られたのである。人間が地獄に行くのは、神がせっかく備えてくださった罪の赦しと神の愛を受け入れなかった者たちだけである」。Ⅱテサロニケ2:10「また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」とあります。私たちクリスチャンは自分の名前がいのちの書に記されていることを感謝し、何よりも喜ぶべきであります。それと同時に、私たちの家族や伴侶、友人たちもその書物に名前が書き連ねられるように願い求めたいと思います。イエス様は私たちが救われる手立てを十字架ですべて完了してくださいました。必要なのは、主イエス・キリストを信じて、受け入れることだけなのです。