2021.2.28「奴隷からの解放 ガラテヤ4:1-7」

 今どき奴隷なんて存在しないと思うかもしれません。ところが、あなたは人からどう見られているか、他人の評価が気にならないでしょうか?あなたは自分より優秀な人や成功した人がそばにいると気持ちが落ち着かないでしょうか?あなたは高価なプレゼントをいただいたとき、「自分にはそぐわない」と素直に喜べないでしょうか?あなたは何ができるか、あるいはどんな資格があるかによって自分の価値を評価してはいないでしょうか?あなたは人から何か言われると傷ついて夜ぐっすり眠れないことはないでしょうか?いくつかあげてみましたが、これらのことが当てはまるならばあなたは立派な奴隷です。

1.奴隷から神の子へ

 ガラテヤの教会の人たちは、福音を信じて救われました。しかし、あとからやってきたユダヤ人が「モーセの律法と儀式を守らなければ、完全には救われない」と言いました。そのことに驚いたパウロが、「信仰によってのみ救われるのに、だれが迷わせたんだ」と怒って書いたのがガラテヤ人への手紙です。ガラテヤ3章23節から4章の前半までは、「奴隷と神の子ども」について記されています。パウロは律法を後見人にたとえています。後見人は、その人が成人になるまでに、財産の管理を委託されています。そのため、真の子どもでありながら、自分の相続財産を自由に使うことができません。パウロは「子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります」と言っています。言い換えると、私たちはキリストを信じて救われる前は、奴隷であったということです。そして、律法が奴隷である私たちを制限していたために、神の子どもとして自由に生きていなかったと言っています。パウロは3章8節で、「神を知らなかった当時、あなたがたは、本来は神でない神々の奴隷でした」と言っています。そして、無力、無価値な幼稚な教え、さらには各種の日と月と季節と年とを守っていたということです。ガラテヤの教会はせっかく救われたのに、そのような奴隷の状態に逆戻りしていたのです。

 私たちもガラテヤと同じで、この世の教えや慣習によって支配されています。家ではアニミズムと言って、何でも神さまにして拝むことを教えられます。学校に行くと進化論を教えられ、無神論的になります。カレンダーには仏滅とか大安、友引があって、それを見て、結婚式や建て前、葬式を決定します。ある人たちは、方向が悪いとか色がどうのこうのとこだわる人がいます。せっかく神さまが新しい日を与えてくれたのに、ジンクスによって台無しにしてしまいます。日本では律法という用語はありませんが、いろんな道徳や慣習があります。法律もありますが、条例とか校則、社則で縛られています。中には聖書にないような規則もあります。「男らしくない」とか「女らしくない」とか言われたりします。だれが決めたのか分かりませんが、時々「常識がない」とか「常識はずれ」と言われます。多くの人たちは子どもの時から、「人に笑われないように」「人様に迷惑をかけないように」と生きているのではないでしょうか?私もかなり、普通でないところがあり、いっぱい注意されて育ちました。私にとって、後見人とは、父母、きょうだい、学校の先生、会社の人たちでした。しかし、25歳でクリスチャンになってから、本来の自由を回復していきました。絶対者なる神さまがおられ、この方に従っていけば間違いないと思ったからです。しかも、天地を造られた神さまが私の父であることを知ったことは革命的でした。

 ガラテヤの人たちは、律法の下から贖い出されたのに、また逆戻りしました。せっかく、神の子としての身分が与えられたのに、奴隷に戻ってしまったのです。なぜ、律法の下にあると奴隷になってしまうのでしょうか?出エジプト記20章には、主が十戒を授けられた記事があります。その時、民はどう反応したでしょう?出エジプト20:18,19民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」この姿こそが、律法のもとにある奴隷状態の人たちです。彼らはエジプトの奴隷から救われましたが、こんどは律法の奴隷になってしまいました。その証拠として、彼らの神は恐ろしい、さばきをくだす神さまでした。でも、聖書の歴史をみると、神さまのみこころは彼らを祭司の国とするためであり、後見人として律法を置いたのです。でも、彼らは律法を全うすることができず、結果的に祭司の国になることができませんでした。ガラテヤの人たちは、律法の下に逆戻りしたために、恐ろしい神さま、さばきの神さまになってしまったのです。なぜなら、律法は「これくらいで良い」と、決して妥協しません。常に、完全であることを要求します。生身の人間が、律法を全うすることができません。

 ガラテヤ4:4-7「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」アーメン。イエス様が私たちを律法から贖い出してくださいました。私たちは律法を行なうことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるようになりました。そして、身分的には奴隷ではなく、神の子になりました。その証拠として、聖霊によって「アバ、父よ」と神さまを呼べるようになったのです。ユダヤでは幼い子どもがお父さんを呼ぶとき、「アバ」と言います。日本語では「お父さん」、英語ではパパです。神の子どもになったらどうなるでしょう?神さまが持っておられるものを相続できる、相続人になります。後見人の下にいるときは、全財産を自分のものとできないため奴隷と全く同じでした。ところが、今は、自由に神の子どもとして、神さまのものを自分のものとして使うことができるのです。あなたは「頼れるのは自分だけだ」と、生き延びるために生きてきたのではないでしょうか?それでは奴隷と同じです。そうではなく、キリストを信じた今は、神の子どもであり、無尽蔵の富と財産をいただけるようになったのです。

2.奴隷から友人へ

 ギリシャやローマ時代は奴隷が売買されていました。彼らは腕力があるか、何か能力があるかなどで、その価値が決まりました。知識があり、頭の良い奴隷は家庭教師になりました。売春をする女奴隷(ヘタイラ)もいました。彼女らは政治家の教養、弁論を提供する存在でもありました。同じ奴隷でも、主人から全財産を任された奴隷もいました。旧約聖書のヨセフがそうでありました。マタイによる福音書25章には、5タラント、2タラント、1タラントを主人から預かったしもべたち出てきます。主人はしもべたちに、自分の財産を預け、後から清算しました。使徒パウロは自分をイエスのしもべと言いました。正しくは、ボンド・サーバントであります。本来なら年季が開けて、自由になれるのですが、自ら進んで主人に仕えたいと志願したしもべです。出エジプト21:6「その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」とあります。神さまに仕える人は、パウロのように「私は神のしもべです」と言ったりします。私が座間キリスト教会で奉仕しているときは、自分を「しもべ」と呼んでいました。実際、その教会では奉仕者を「教会スタッフ」と呼んでいました。一見、かっこ良いように聞こえますがstaffは、もともと「つえ」とか棒という意味です。それが、職員、社員、幹部という意味になりました。でも、自分をしもべと呼ぶのは果たして聖書的なのか疑問に思います。

 ヨハネ15章でイエス様が弟子たちにこのようにおっしゃっているからです。ヨハネ15:14,15「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」しもべは自分で勝手に判断して行動することができません。主人から言われたことだけを忠実に行うのがしもべです。余計なことをしたら「勝手なことをするな」と後で叱られます。でも、イエス様は「父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたから」と、言われました。つまり、イエス様が主要なことは教えたので、「あとは自分で判断して行いなさい」ということです。「ほうれんそう」という言葉を聞いたことがあります。「報告、連絡、相談」です。実はこれは統一教会がマインドコントロール下で働かせていた信徒たちへの義務です。信徒たちは、自分で考えるのをストップさせられていました。常に上からの判断に従いました。牧師の権限が絶大な教会は、スタッフが勝手に判断して行動すると、叱られることもあります。常にお伺いを立てて、それから行動し、後からちゃんと報告するのです。当亀有教会は全くそのようなことはなく、「あ、そうだったの」ということが良くあります。私も「やっても良いですか」と聞かれると、「どうぞ勝手にやって」と答えたりします。まことに自由すぎる教会です。

 という私は、以前はしもべとして長く働いていました。私は亀有教会に赴任した時、「3年で100名礼拝になる。ならなかったら辞める」とまで宣言しました。それが、10年たっても、30年たっても実現することはありませんでした。なぜ100名にならなかったのか、釈明しています。以前の私は、神さまが恐ろしい存在でした。「パウロはあれだけ伝道したのに、お前はなんだ。何というていたらくな、歯がゆいぞ」と言われている感じがしました。背中から水をかけられ、「もっとできるはずだ」とけしかけられているように思えました。これで良いということはなく、「まだ、だめだ」「また、足りない」と自分を打ちたたいていました。それから解放されたのが、2007年『恵みの歩み』というメッセージを聞いた時です。講師のスティーブ・マクベイ師も全く、そのようにがんばっていました。あるとき、イエス様から「あなたの働きではなく、あなた自身がほしい。私はあなたを家政婦として雇ったのではなく、花嫁として結婚したんだ」と言ってくれたそうです。つまり、何ができるかではなく、存在そのものを愛しているということを知ったのです。私のアイディンティテイはしもべでした。何ができるかで自分の価値を量っていました。神さまも、そう見ていると思っていました。しかし、神さまは私たちを救ったのは、ご自分のため働かせるためではありませんでした。子どもとするためであり、また、イエス様の友とするためでした。「もう、さばかれない。愛され、受け入れられている」という安心感が私の働きの土台になりました。

 パフォーマンス指向ということばをご存じでしょうか?これは自分が何かをすることによって、神さまの愛を得ようとする行為です。かつての私もそうでありました。外から見たら、一生懸命に奉仕しています。教会には「神学生」とか「献身者」がいます。彼らが陥りやすい失敗は、神さまのために一生懸命に働くことです。そのことによって自分が神さまから受け入れられていると思ったらどうでしょうか?やっていることはすばらしくても、動機が汚れています。神さまの愛とか受け入れは、私たちの行いによって得るものではないからです。マルコ1章にはイエス様の洗礼式が記されています。イエス様が水から上がられると、天から声がしました。「あなたは、私の愛する子、私はあなたを喜ぶ」。これは父なる神さまの御子に対するおことばです。イエスさまは、まだ何もしていません。それなのに「あなたは、私の愛する子、私はあなたを喜ぶ」と言われたのです。イエス様は公生涯で多くの病を癒し、盲人の目をあけ、死人さえよみがえらせました。しかし、イエス様は父なる神さまに認めてもらうためにしたのではありません。「父なる神さまがなさっておられるのを見て行った」とヨハネの福音書に記されています。そうです。何もしないのに、愛され、受け入れられていたので、安心してミニストリーができたのです。私たちも同じです。私たちが愛され、受け入れられているのは私たちの行いではなく、存在そのものです。父なる神さまは私たちがイエス様を受け入れたとき、満足し、喜んでくださったのです。そして、イエス様も私たちを喜んでくださいました。イエス様は私たちにとって救い主であり、主であります。私たちのあがむべき神さまです。イエス様は、「あなたはしもべではなく、友である」とまでおっしゃいました。「いつくしみ深き」という讃美歌がありますが、原曲はWhat a friend we have in Jesus「イエスという友を持っているって、何てすごいでしょう」という意味です。

3.奴隷から貴族へ

 クリス・バトロン師が“Destined to win”  という本を書いていますが、その最後にテストがあります。決してそうでないが0、まれにが1、ときにはが2、しばしばが3、結構かなりが4、いつも常にが5です。自分で試験するわけです。左側が奴隷で右側が貴族です。前半は否定的な問いが20、後半は肯定的な問いが20になっています。まず、前半の20ケをお読みいたします。

1.  私は不十分で、十分に達していないことを恐れています。

2.  私はしばしば、他の人と比べることによって安心感を持っています。

3.  私はしばしば他の人と比べて、他のだれかになりたいと望んでいます。

4.  私は裕福な人たちや成功している人たちの中にいると気持ちが良くありません。

5.  私は力のある人たちに対抗して、自分の立場を作ります。

6.  私は何かを成し遂げられなかったとき、私自身を嫌に覚えます。

7.  私は他の人が私を何と考えているか、詮索する時間が多いです。

8.  私は自分の本当の意見よりも、他の人が喜ぶようなことを伝えます。

9.  私は打ちひしがれた人や必要を覚えている人たちといるときだけ、気持ちが良いです。

10.  私の親友が他の友人と会っていると嫉妬を覚えます、

11.  私は目標を定めない。なぜなら、私自身の期待が失敗しないためです。

12.  私は自分に興味をもってもらいたいために、過度にだれかと接します。

13.  私は簡単に傷ついてしまいます。

14.  私はだれかとプロジェクトを組むとき、自分よりも賜物のない人を選びます。

15.  私はセックスあるいは食事の習慣をコントロールできません。

16.  私はしばしば何かが悪い方向に向かっていると感じます。

17.  私は過去における失敗と罪を後悔しながら生きていることが多いです。

18.  私は将来について思いわずらうことが多いです。

19.  私は他者を赦すことに困難を覚えます。

20.  私はだれかが私に異議を唱えると、個人的に拒絶されたと感じます。

後半は肯定的な質問です。

21.  私は人々に投資し、彼らがより成長することを喜びます。

22.  私は自由に発想する、創造的な人々が周りにいることが好きです。

23.  私は人々が考えて学べる環境を創ることが好きです。

24.  私は自分を愛し、自分を喜んでいます。

25.  私はまわりの人たちが、自分らしく生きているのを見ると気持ちが良いです。

26.  私は重要で成功している人たちを引きつける傾向があります。

27.  私は私と違った見方をする人を自分のチームに選びます。

28.  私はほとんどの時間を平和で暮らしています。

29.  私は自分がすることに対して情熱的です。

30.  私は自分の人生が、ビジョンによって動機付けられています。

31.  私は傷つけられにくいです。

32.  私は世界に対してドラマチックな影響を与えるという夢を持っています。

33.  私は人々が私を好きになることを期待しています。

34.  私は他の人たちが自分の夢を発見し、それを実現できるように助けるのが好きです。

35.  私は自発的にやる人です。   36.  私は良い聞き手です。

37.  私は食事と睡眠とセックスなどの欲求をコントロールしています。

38.  私は生活において、責任が持てる範囲で、目標を定めています。

39.  私は自分の強さ、賜物、弱さが何か気づいています。

40.  私は自分の失敗に責任を取り、他の人からの非難を排除しています。

後半のポイントを足したものから、前半のポイントを引いたものが、最終的なスコアになります。プラス20以上が貴族です。20未満は奴隷です。

 クリス・バトロン師が若い時、眠っている時に、聖書のことばが何度も繰り返されるのを聞きました。箴言30:21-22「この地は三つのことによって震える。いや、四つのことによって耐えられない。奴隷が王となる」。午前3時でしたが、胸苦しさに目を覚まし、何のことだろうと思いめぐらせました。そのとき、「どうしてこの地が、王になった奴隷の下で耐えることができないのか知りたいか?」と主の声が聞こえました。主が続けて言われました。「奴隷は、生まれた時から取るに足りない者として扱われて来た。彼は成長しても自分には大した価値がない事、また自分の意見は尊重されない事を成長する過程で学ぶのだ。それ故、彼が王になり、周りの者にとって偉大な者となったとしても、彼自身の内にある王国においては、彼は自分の価値を認めることができないのだ。そういう訳で、彼は自分の発言にも注意を払わない。彼が導くはずのその人達を、やがては自分の手で破滅させてしまうのだ。私の息子よ。お前こそがその王となった奴隷なのだ。」その朝の数時間で、バトロン師は自分が未だ奴隷であることを悟りました。もう1つ、主が「モーセはイスラエルの民を奴隷から解放することができたのはなぜかわかるか?」と問いかけました。モーセはパロの宮殿で育てられることによって、奴隷ではなく、王子としての考え方を持っていました。モーセは、自分は偉大な者であるという認識があったので、イスラエルの民を奴隷から解放することができたのです。バトロン師は教会のリーダーになっていましたが、相変わらず奴隷のアイディンティテイを持っていたので、周りの人たちを傷つけても何とも思わなかったのです。私たちが自分をどう見ているかということで、周りの人を引き降ろしたり、あるいは建て上げることもできます。私たちは王家に属し、影響を与え、治める者として召されています。王子であり、王女として王の宮殿で生きる事のすばらしさを味わう人生でありますように。