私は人間関係で非常に苦労してきました。多くの人たちから傷つけられ、同時に多くの人たちを傷つけてきました。私は家庭において、健全な養育を受けてきませんでした。そのため根性もねじ曲がっていたので、小中高と学校の先生方からとてもたくさん叱られました。理由も分からず、頭ごなしに叱られたことも多々ありました。先生方の私を見下す、冷たい視線が今でも忘れられません。社会人になっても、色んな人たちとの出会いがありました。自分なりに、「こういう上司や指導者が良い」と考えました。クリスチャンになると、真理がわかってきたので、ますます、こうすれば良い人間関係を築くことができると思うようになりました。きょうは、「良い人間関係の秘訣」と題して、4つのことを申し上げたいと思います。
1.肉を刺激しない
ローマ7章に、私たちは救われても肉が残っていると書かれています。肉とは、律法に逆らいたい天邪鬼のような心です。やめろと言われればやりたくなり、見るなと言われれば見たくなるのです。むやみに禁止事項を与えることは、寝ている肉を起こすようなものです。かつては「廊下を走るな!」「ゴミをすてるな!」と書いてあるとイラっとしました。今でもトイレでも「汚すな!」と書かれていると、むっときます。21世紀教会のトイレに、「いつもきれいに使ってくれて、ありがとう」と書かれていました。そうすると、きれいに使いたくなります。パウロは「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないのです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」(ローマ7:18,19)と悩んでいます。ある人たちは、これはパウロが救われる前の状態だと言っています。しかし、パウロは救われた後であっても、律法を突きつけられたら、逆らう肉があると言っているのです。この肉は天国まで存在し続け、その対処法は「肉を十字架につけ、いのちの御霊によって生きること」です。しかし、疲れている時や、何かで悩んでいるときがあります。そういう時に、律法を示されたなら、クリスチャンであっても、むっとくるのです。ですから、自分も人に高圧的で律法的な言い方はしてはいけません。言い換えると「寝ている肉を起こすな!」ということです。
たとえば、十分の一献金を強く勧める教会があります。「十分の一は献金でなく、返金である。十分の一をしない人はどろぼうだ」みたいなことを言います。確かに、マラキ書にはそのようなことが書かれています。でも、パウロは「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」(Ⅱコリント9:7)と言っています。献金をするかしないかは、最後にはその人の信仰です。もし、強制的に献金させられたと思うなら、それは喜びではなく、律法に屈したというみじめな思いが残るでしょう。祈ること、聖書を読むこと、奉仕をすること、隣人を愛すること、全部、良いことです。でも、ローマ7章にあるように、それらは善であることを知っているけれど、私たちの肉が逆らい、そうできないようにしているのです。そのために、私たちはいのちの御霊の法則によって、恵みによって「そうします」と決意するのです。言われてしかたなくではなく、信仰によって「そうします」と決意するのです。ウイリアム・グラッサーという人が『選択理論』という本を書いています。副題は「幸せな人間関係を築くために」です。全部読んだ訳ではありませんが、グラッサー博士は、「外的コントロールが数多くの不幸の元凶である」と言っています。その本に「世間が使う外的コントロール心理学の前提は、悪いことをしている人は罰せよ。そうすれば彼らは私たちが正しいということをするだろう。そして報酬を与えよ。そうすれば彼らは私たちが望むことをしてくれるであろう」と書いてあります。外的コントロールというのは、人に強制的に何かをさせるということです。一方、選択理論とは、相手を信頼して、相手が好むものを選択させるということです。私たちがコントロールできる行動は唯一、自分の行動だけだからです。グラッサー博士は心理学者ですが、どれくらい聖書的か分かりません。でも、彼の教えは生身の人間を扱っており、肉の性質を持っている私たちに有効であろうと信じます。
第一のポイントは肉を刺激しないということです。その人への要求がたとえ正しくても、強制してはならないということです。もちろん、勧めたり、意見を言うのは構いません。しかし、「…するな」とか「…しなさい」と律法的になってはいけません。むしろ、その人と信頼関係を築くことが先決です。そうすればいずれ、その人の中に「私はこうしよう」という意思が生まれてきます。命に関わる緊急事態は別ですが、そうでない限りは、その人の内に住む御霊がその人に思いと願いを与えるまで余地を与えましょう。人間は自分の意思で行動する生き物だからです。
2.子どもを刺激しない
私たちは年齢的に、たとえ大人であっても、子どもの心を持っています。心理学ではそれをインナーチャイルドと呼んでいます。インナーチャイルドは大人になりきっていない、子どもじみた心のことです。外見は立派な大人でも、多くは子どもじみた心を持っています。たいていは、大人である自分が、子どもの自分を説得しながら生きています。つまり、子どもの自分に、「本当はこうなんだよな。大丈夫だよ。私がわかっている」と励ましながら生きているのです。私がこんなことを言うと、「いや、私は外側も内側も大人である」と反論する人がいるかもしれません。もちろん、両者とも成長していれば問題ありません。しかし、だれでも子どもの部分があり、時々、それが人間関係を難しくするということです。私は昔、猫を飼っていました。猫は大人になっても、毛布とか柔らかいものを両足で揉む動作をします。おそらく、赤ちゃんのとき、おっぱいを吸っていた頃が忘れられないのではないかと思います。人間も同じで、外見は立派な大人でも、子どもを内側に持っていると考えるのが妥当です。そして、その子どもは今もなお、成長の過程にあるということです。
ですから、内側の子ども、インナーチャイルドをむやみに刺激してはいけません。これは結婚して、妻が夫に何か要求する時に起ります。たとえば、妻が夫に高圧的な口調で何か注意します。すると、夫はまるでそれが母親から言われたような気がします。特に、口うるさい母親のもとで育った人は、ピキーっと反応して、「うるさい!」とはねつけてしまうのです。なぜなら、そのとき、昔の子どもに戻っているからです。だれのことでもない、これは私の経験です。そのため私は家内に、「あなたは私のお母さんではない。妻なのだ」と言い返します。しかし、統計的には男性の方が、子どもじみた部分を持っているようです。会社では立派な大人を演じています。演じているというよりも、そうしないとなめられてしまうからです。見えないarmorよろいかぶとを着て出て行きます。仕事が終わり、家のドアをあけると、よろいかぶとを脱ぎ、急に子どもっぽくなります。だからと言って、どうか馬鹿にしないでやってください。男性が無防備であるということは、家庭が平和で安全な場所であるという証拠です。朝起きたら、またarmorを着て会社に出て行くのです。ちょっと悲しい感じがしますが、それが男です。
しかし、男性ばかり言うと偏ってしまいます。女性にとってのインナーチャイルドはおそらく、お父さんとの影響が大ではないでしょうか?お父さんが子どものとき、ちゃんと自分を受け入れ、愛してくれたなら問題はありません。しかし、冷たく扱われ、虐待を受けた人もいます。そうすると、その人のインナーチャイルドは男性を信頼できず、身を委ねることができません。外見は男性の助けを必要しない、独立心にあふれた女性です。でも、内側は脆弱なのです。そういう女性が、おおらかで包容力のある男性に出会ったなら幸いです。でも、多くの場合、自分の父親に似た男性と結婚してしまいます。結婚後、その男性をやりこめるという怨念晴しの人生を送るかもしれません。解決は父なる神さまと出会うことです。そして、最高の夫であるイエス様と結ばれることです。ローマ・カトリックの修道女はイエス様と結婚して、生涯、独身を守るそうです。私たちはプロテスタントですから、そうはしませんが、霊的にはそれが一番であると思います。生身の人間から、自分の必要を満たしてもらわなければと求めるので失望するのです。男性の方だって、子どもなのですから、逆に慰めてほしいのです。女性が父親を求めても、それがないのです。ですから、父なる神さまと霊的な夫であるイエス様からその愛をいただくしかありません。
何だか、結婚問題になりましたが、要はだれでも、子どもの部分を持っているということです。ですから、内なる子どもいらだたせてはいけません。子どもというのは、ほめて、受け入れて、愛してもらうことが一番なのです。ほめると甘やかすことになるので、良くないと言いますが、そんなことはありません。いっぱいほめて、励まして、内なる子どもを養育しましょう。やがては、内なる子どもが大人へと成長していくことを期待いたしましょう。
3.恥をかかせない
「一寸の虫にも五分の魂」ということわざがあります。これは、「小さな者・弱い者でも、それ相応の意地や感情をもっているから決して馬鹿にしてはならない」という意味なようです。小さな子どもでも、もちろん大人でもそうですが、プライドを傷つけられるというのは我慢できません。親や教師、上司が下のものを叱るときがあるでしょう。しかし、恥をかかせるような言い方、あるいは存在そのものを否定するような叱り方は良くありません。私は小学校のとき、先生から水の入ったバケツを持たされたことがありました。それも、教室の前の方に立たされてです。女の子から見られて、とても恥ずかしい思いをしました。職場でも、みんながいる前で注意されたり、叱られたりするのは嫌なものです。「1対1でやってくれれば良いのに、なぜ、みんなの前で言うのか」と悲しみと怒りがこみあげてきます。そうすると、その人に対する恨みがだんだんたまってきます。やがて、その人の顔も見たくなくなります。人はみなプライドを持っています。小さな子どもから大人まで大小かかわらず、みなプライドを持っています。その人の存在を尊重してあげなければなりません。だれかから、プライドを傷つけられ、それが殺人という報復に出るというケースはいくらでもあります。
カーネギーの『人を動かす』という本にこのように書かれていました。たとえ自分が正しくても、相手が絶対に間違っていても、その顔をつぶすことは、相手の自尊心を傷つけるだけに終わる。あの伝説的人物、航空界パイオニアで作家のサンテグジュペルは、次のように書いている。「相手の自己評価を傷つけ、自己嫌悪に陥らせるようなことを言ったり、したりする権利は私たちにはない。大切なことは、相手を私がどう評価するか、ではなくて、相手が自分自身をどう評価するか、である。相手の人間としての尊厳を傷つけることは、犯罪なのだ。…そのように書かれていました。創世記9章にはノアの家族が無事に箱舟を出たところが書かれています。聖書に「ノアは正しい人であった」と書かれていますが、油断したのでしょう。ぶどう畑を作った後です。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になって寝ていました。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいる二人の兄弟に告げました。聖書を見る限り、どうってことないと思います。ところが、ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、「のろわれよ、カナン。兄弟たちのしもべとなれ」と言いました。性的ないたずらをしたのか、馬鹿にして言いふらしたのか分かりません。おそらく、父親に恥をかかせたのではないかと思います。他の二人の兄弟はうしろ向きに歩いて行って、父の裸を被いました。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかったということです。つまり、恥を被ってあげたということでしょう。十戒の「あなたの父母を敬え」と共通しているかもしれません。
私たちは学校のときから、いっぱい恥をかかされて生きてきたのではないでしょうか?聖書には「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」(ルカ6:31)と書かれています。逆に言うなら、「自分がしてもらいたくないことを、人にはしない」ということです。つまり、できるだけ人に恥をかかせないように配慮してあげることが重要だと思います。だれでも、「一寸の虫にも五分の魂」のごとく、プライドを持って生きています。自分がプライドを大事にしているように、他の人のプライドもぜひ、大事にしてあげたいと思います。
4.大目に見てあげる
「疑わしきは罰せず」とう法的なことばがあります。英語では“The benefit of the doubt”と言います。たとえば、一人の老人がお金を払わないでレストランから出て行きました。普通だったら「食い逃げ!」と警察を呼ぶかもしれません。でも、お年だから、会計を忘れたのかもしれない。「疑わしきは罰せず」としておこうということです。“The benefit of the doubt”を直訳すれば、「疑わしさの恩恵」となります。いくら疑わしくても、ただ疑わしいだけではまだ有罪にはできません。疑わしくても、証拠がないことによって罪を問われないという恩恵にあずかることです。つまり「好意的に解釈してあげる」「大目にみてあげる」という意味になります。「大目に見てあげる」は、悪く捉えず、良いように解釈してあげるという意味でもあります。そのためには、私たちの目が父なる神さまのような「あわれみの目」が必要です。さばきの目ではなく、あわれみの目です。そうなると、私たちの神観がその人に影響を与えます。その人が、いつも神さまは私に怒っていると思っているならどうでしょう?人に対して、あわれみの心を持つことができるでしょうか?その人が神さまからたくさんのあわれみを受けているなら、人に対しても、あわれみの心を持つことができるでしょう。イエス様はたとえ話で「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」(マタイ18:33)と教えておられます。
たとえば、相手に完全な非があるときはどうでしょう?交通事故でも100対Oというのがあります。私も10数年前、高級ワゴン車の横っ腹に車をぶっつけたことがあります。夜、鉄道下の小さなトンネルを抜けたとたん、ひゅーっと車が横切ったのです。相手はお譲さんが救急車で運ばれたので、急いでいたらしいのですが、私が飛び出しのですから、完全に悪くなりました。相手は女性でしたが、カンカンに怒り、名刺の裏に「私が悪かったです」とひとこと書かせられました。私は何も言えず、そこに座り込み、警察官が来るのを待ちました。女性は一方的に、まくしたて、事故証明書が作成されました。あとから、保険会社から、「一筆書いちゃダメ」と言われましたが、女性ドライバーに完敗しました。交通事故だけではありません。もし、相手に完全な非があるときはどうでしょう?一方的に約束をやぶったとか、大事な何かを壊されたということがあるでしょう。仁王立ちして、「どうしてくれるんだ!」と言いたいかもしれません。でも、責めるのをほどほどにしないと、人間関係に亀裂が入って修復不可能になります。相手は、卑屈になって、あなたの顔を避けるでしょう。もし、相手が言い訳でもしようものなら、「言い訳するな!」ともっと怒るかもしれません。しかし、大目に見てあげることが重要です。つまり、相手を徹底的に打ち負かすのではなく、逃れの道も与えるということです。言い訳をしたなら、「そういうこともあるね」ぐらいに、しておけば良いのです。その人を徹底的に打ち負かすなら、その人はきっと恨みを抱くでしょう。恨みは復讐になりかねません。なぜなら、その人は悔しくて、悔しくてたまらないからです。だから、人の犯した罪や間違いは大目に見てあげましょう。
イエス様は「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」(マタイ18:33)とおっしゃいました。相手からすると、もうどうにもこうにも償うことができない。平身低頭で謝るしかないというケースがあるでしょう。その時、私たちは「この落とし前、一体どうしてくれるんだ!」と言ってはいけません。自分も神さまから多大なあわれみを受けた者だからです。ですから、その人をあわれむべきであります。私は自分の子どもが殺されたりしたことはありません。もし、そのような親御さんの立場になったなら、やっぱり苦しむと思います。誰でも、その時が来なければわかないこともあります。しかし、最終的な解決は、赦しであり、あわれみであると思います。アメリカは銃社会ですが、ある母親の息子が10代の少年に撃ち殺されました。犯人は10数年刑務所に服役しました。母親はどうしたでしょう?もちろん、苦しみ、嘆きました。しかし、その母親は息子と同じ年頃の男性を赦しただけではありません。出所後、自分の息子にしたそうです。普通の人ならできないでしょうが、クリスチャンであったので可能だったのでしょう。
みなさんの中に、大目に見てもらったという良い思い出はあるでしょうか?あるいは、本来ならむちゃくちゃ言われてもしょうがないのに、許してもらったという経験はおありでしょうか?私は子どものときから落ち着きがないというか、おっちょこちょいでした。何べん先生から叱られたか数えきれません。よくまあ無事に生きて来れたと思います。小学校高学年だったと思いますが、近くの中学で文化祭がありました。村ですから、文化祭の模擬店がとても感動しました。そこに、かけうどんが販売されていました。食券を購入してお兄さんにお願いしました。近所に住むお兄さんが、テーブルに運んできてくれました。何かの拍子に、私が手をひっかけて、どんぶりごと、うどんが床に落ちてしまいました。「うあー」と私は気が動転しました。すると、そのお兄さんが「さーっ」と駆けつけてくれて、床のうどんを片付けてくれました。その後、新しいうどんを持ってきてくれたんですね。もし、家だったら、「どこ見てんだ!」とものすごく叱られたでしょう。何のおとがめもなく、うどんを食べることができました。そのお兄さんの家は村では有名でした。彼の兄が刑務所に入ったことがあるからです。前科者を出した家ということであまりよく思われていなかったようです。ところが、「とし」という彼の弟さんが、私にとても良くしてくれました。私の子どもの頃は、暗い思い出しかありませんでした。でも、私のそそうを大目に見てくれた、「とし」というお兄さんのことが忘れられません。
自分の子どもや部下に対して、あるいは関係者に対して、完膚なきまで打ちのめしてはなりません。必ずその人から恨みを買います。「ごめんなさい」とはきっきり自分が犯した罪を告白しないと許さない親や先生がいます。あまり責めないでください、謝り方が半分でも良いのです。退路を塞いではいけません。逃げ道も作ってあげるのです。神さまの目から見たらみんな罪人です。私たちもあわれみを受けた一人です。イエス様は「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」(ルカ6:36)とおっしゃいました。