ハバクク書はエルサレムがバビロンによって滅ぼされることを預言している書物です。人々は預言に全く耳を傾けず、破滅に向かいました。彼は全く希望を持つことのできない時代に預言者として召されました。でも、どんな状況の中でも幻と信仰を持って生きることを教えています。彼が言った「正しい人はその信仰によって生きる」は新約聖書に引用されており、信仰義認のみことばになっています。きょうはハバクク書から学ぶというのではなく、幻について語りたいと思います。このメッセージで幻とvisionが交互に出てきますが同じことを言っています。
1.夢と幻
箴言29:18前半「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」とあります。英語の聖書は、Where there is no vision, the people perish.「幻がないなら、民は滅びる」となっています。幻は神からの啓示の1つであります。旧約聖書を見ますと、神さまが夢や幻をもって人々に語られたという記事がたくさんあります。アブラハムは幻の中で、「子孫が与えられる」と知らされました。ヨセフは夢を見たし、また、パロの夢を解き明かしました。ヤコブは天から下って来るはしごの夢を見ました。また、ぶちとまだらの羊が生まれてくる幻を見ました。エゼキエル書は幻にあふれています。ダニエルもたくさんの幻を見ました。新約聖書ではどうでしょうか?ヨセフは夢のお告げでマリヤを妻として迎えました。ヘロデから逃れるため、夢によってエジプトに逃れました。ペテロは幻を見て、コルネリオのところに行くことを決断しました。パウロはマケドニヤ人の幻を見て、マケドニヤへ出かけることにしました。私がこんな話をすると、ある人たちは「聖書が完成した今の時代は、神さまは夢や幻では語らなくなった」と否定するでしょう。ところが、どうでしょう。ペンテコステの日、ペテロはヨエル書を引用してこのように言いました。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)。聖霊が降られたペンテコステの日から、終わりの日が始まりました。そして、究極的な終わりの日とは、キリストが再臨されて、この世が終わるときです。つまり、キリストが再臨される日までが、終わりの日であり、預言や幻、夢はあり続けるということです。神さまは今も、いろんな方法で語ってくださいます。特に、その人の運命、神さまが抱いているdivine destinyを実現させるために、夢や幻を与えて下さると信じます。1つの夢や1つの幻で、重くのしかかっていた悩みや恐れが吹き飛んでしまいます。
今回は“Destined to win”(勝利するために運命付けられた)という本をかなり参考にしています。この本はKris Vallottonが書きました。彼はビル・ジョンソンと一緒に働いている、ベテルチャーチの預言者です。私はこの本を読む前は、visionを失いかけていました。正直、visionには辟易(へきえき)していました。今から20年前、セルチャーチを始めたことがあります。そのときに「visionがなければいけない」と言われました。Visionって何だろうと、小笠原牧師を2回くらい当教会に招いて講義してもらいました。先生はゼカリヤ書から「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」というメッセージを語ってくださいました。このみことばの背景は、ゼカリヤが見た「1つの燭台と7つのともしび皿」さらには「二本のオリーブの木」という幻があります。今、思えば「セルチャーチとそれが何の関係があるのか」分かりません。大方、牧師が抱くvisionというのは人が増えて教会が大きくなることです。有名になって、いろんなところで教会成長のセミナーを開くことです。でも、教会を構成しているクリスチャンは、「教会が大きくなって、牧師が有名になることが何の得になるのか」と疑っています。教会がデパートのように、人がごったがえすようになると一人分の存在価値が薄くなります。嬉しいのは、予算のことを心配している数名の役員たちでしょう。つまり、教会が成長して大きくなるというのは、牧師の利己的なvisionであり、教会員のひとり一人のvisionにはならないということが分かりました。セルチャーチネットワークは2017年1月で辞めました。その後は、ビル・ジョンソン師が主張する、「この地に御国が侵略することを求めることが教会である」と確信しています。
話は戻りますが、本当の夢やビジョンは、自分が生きて、人々が生きるものでなければなりません。箴言29:18「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」あるいは、「幻がないなら、民は滅びる」はその通りだと思います。私は教会の牧師として、またメッセンジャーとして、「神さまから夢やビジョンをいただくように」と励ます使命があります。言い換えると、「神さまから与えられたdivine destiny、神の運命をそれぞれが果たすように」と励ますということです。励ますは英語で、inspire 「駆り立てる、動機づける」という意味です。しかし、inspireのもとの意味は「人に霊感を与える、神の啓示によって導く」という意味です。やはり、それは聖書のみことばから来るものだと信じます。そのときに、聖霊がひとり一人をinspireして下さるのです。アーメン。あなたが一度visionに捕えられたら、次はたくさんの困難な出来事がやってきます。しかし、visionはあなたに動機とエネルギーを与えてくれます。Visionは無感動と怠惰を癒してくれます。エペソ2章には「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」とあります。ある人は恵みを強調し、「行い」を軽視します。でも、イエス様は「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)と言われました。
日本語には「頑張る」がありますが、英語にstriveということばがあります。これは「…しようと一生懸命になる。努める」という意味です。ルカ13:24「努力して狭い門から入りなさい」とあります。私はこれまで、「教会が成長するように」とさまざまなvisionに捕えられました。その度ごとに、一生懸命に努力してきました。しかし、たくさんの知識や経験も得たので、無駄にはならなかったと思います。問題は、結果が出ないと失望落胆して座り込むことです。重要なのは、新たなvisionをいただくことです。そうすれば、動機とエネルギーが再び与えられます。「幻がないなら、民は滅びる」とあります。生かされている限り、夢と幻を持ち続けたいです。
- visionの持つ力
第二はvisionがその人にどのような力を与えるのか考えたいと思います。Visionと似たことばで、envisionがあります。これは、多くの場合「未来のことを想像する、心に描く」という意味です。Visionが名詞ですから、envision はvisionを描くでも良いかもしれません。「イメージする」でも良いかもしれませんが、あえてenvisionにしました。ミケランジェロが大きな大理石に向かってこのように言ったそうです。「私はこの岩の中に天使がいるのが見える。私は天使を自由にするまで、彫らなければならない」。普通の彫刻家だったら、岩にノミを当てながら、やっとのことで天使の像を彫っていくでしょう。それは、単調でとっても大変な作業でしょう。しかし、ミケランジェロは、大きな岩の中に天使が閉じ込められているのが見えたのです。その天使を解放してあげようと、1つ1つノミを当てたのです。それはvisionが持っている力と共通しています。Visionは単調な人生を、気分を浮き立たせる人生へと変革してくれます。二人の若者がハンバーガー店でアルバイトをしていました。一人はお金を得るために、ただ忍耐して、一枚、一枚ハンバーグをひっくり返していました。もう一人は、自分のビジネスを興すために、いろんな経験を積もうと働いていました。両者とも同じ鉄板に向かって、ハンバーグをひっくり返しています。しかし、後者はすでに、年収10億円の会社の社長室の大きなデスクに座っているのです。
もし、成功した人生を望むなら、自分の将来に神さまからのvisionを描く必要があります。そうでないなら、あなたはどこに進んでいるか分からないからです。到達地がどこか分からないなら、どの道を行くか分からないし、いくら早く走っても助けにはなりません。あなたがやっていることに対する見通し、つまり将来に対するあなたのvisionがあなたを創り出すのです。それは、あなたが今、成し遂げようとしていることよりも、重要なことなのです。20日ネズミは、一生懸命、目の前のレースを走っているかもしれません。ところが、輪の中をただぐるぐる回っているに過ぎません。私たちも毎日、あくせく働いているかもしれません。もし、将来に対するvisionがなければ、20日ネズミと同じです。「幻がないなら、民は滅びる」と同じです。という私も、これまでは生き延びる人生だったので、人にvisionを持ちなさいとは言えない者でした。私はアメリカに行ったら人生が変わると思っていました。そのために英会話をコツコツ学びました。私を面倒見てくれた貿易会社の先輩は「鈴木君、英語を勉強してアメリカに行っても人生変わらないよ」と言いました。「なぜ、ですか?」と聞きました。実は先輩自身が、英語が好きで、アメリカのキャンプ地で働いていたからです。最初、面接したとき、彼は「私と同じ人が来た」と思ったそうです。それで、同情して会社に入れてくれたのでしょう。先輩は「たとえ英語がペラペラ話せても、アメリカ人はみんな英語を話しているよ。それが何なのだ」と言いました。しかし、私は彼が薦める英語の聖書から、イエス様を信じることができました。まっこう臭い、日本語のニュアンスと違い、英語の聖書は新鮮でした。その後、アメリカも数か月行きましたけど、イエス・キリストが人生を変えてくれました。しかし、英語は今でも役に立っています。
Envision、visionを抱くためにはどのようにしたら良いでしょうか?偉人の伝記を読むのも良いでしょう。私は信仰の人と言われる、ジョージ・ミュラーの本を読みました。彼の本を読むたびに、「私の信仰がなんと小さいのだろう」と脅迫されました。そのため、彼の本を捨てました。これは良い例ではありませんでした。小中学生のクリスチャンの偉人伝はとても読みやすいです。新島襄とか、ナイチンゲール、DL.ムーディ、リンカーンなどは必須かもしれません。もう1つは、inspireしてくれる人と直接会うということです。私は座間キリスト教会で救われ、そこで8年くらい奉仕していました。大川牧師を間近で見ていました。また、日本や世界で用いられている牧師や伝道者がその教会に大勢、訪れました。チョー・ヨンギ師、申賢均師、それから本場アメリカのカルバリーチャペルの牧師たちです。しかし、賜物が違うので、先生方と同じように話せる訳がありません。ある時、安海靖郎師が祈祷会でお話しされました。とても自由に話されて、「ああ、このような先生になりたいな」と思いました。もう一人はインドネシアのエディ・レオ師です。なぜなら、エディ師は人の霊に訴えるように話していたからです。このように、神さまに用いられている先生に触れると、何かinspireされて、「このような先生になりたい」と思うわけです。それも1つのvisionを抱くことではないかと思います。「すりこみ」ということばがありますが、音楽や落語などでも、だれに師事したかがその人の運命を決めます。
ヘブル人への手紙11章をみると、聖書の偉人たちが列挙されています。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ…私たちは彼らの信仰を学ぶことができます。聖書のその箇所を読むと彼らの声が聞こえるようであります。新約聖書にはヨハネやペテロ、バルナバ、パウロがいます。私たちはそういう偉人たちことを思うとinspireされます。モーセはシナイ山に登った後、顔の皮膚が光を放っていました。モーセはそのことを知らなかったのですが、人々は恐れて彼に近づくことができませんでした。しばらくすると、顔の光が消えていきました。再び、モーセは山に登って主をお会いして、顔が光っているときに、人々に神さまのことばを語りました。その後、主と話すために入っていくまで、顔に覆いをかけていました。つまり、モーセの栄光は、一時的であったということです。そのことを書いているのが、Ⅱコリント3章です。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)。私たちの特権は、イエス様と親しく交わることができることです。そこに主の御霊がおいで下さり、私たちが内側から変えられて行くのです。そのとき、主の御霊が私たちにこれからのことや、神さまの計画を私たちに示してくださるのです。私たちの一番の模範者ははやり、イエス・キリストです。イエス様は贖い主でありますが、同時に私たちの模範者です。模範といっても、イエス様と同じように行動することはできません。私たちの中にイエス様の御霊がいらっしゃいますので、イエス様の命が現れてきます。それぞれ違った性格や考え方、能力があっても、イエス様の命が現れてくればそれで良いのではないでしょうか。
- 夢と幻と信仰
多くの男の子たちが、有名なサッカー・プレイヤーにあこがれて、夜まで練習しています。しかし、現実は彼らの中の0.001%の人が日のみを浴びるのです。夢や幻も良いかもしれませんが、現実の厳しさに出会うと、粉々になるでしょう。大人になればなるほど、夢や幻を見なくなります。なぜなら、現実の厳しさが骨身にしみているからです。「それに、年も年だし、今更何ができるんだ」と思います。しかし、人にはできないが神にはできるのです。そこに神さまが関わるならば、人間的な能力は全く関係ありません。ある人の話です。父も母も家庭を顧みない機能不全の家庭に育った男の子がいました。彼は作家になりたいという願望を持っていました。彼は高校に入りましたが、15歳でドロップアウトしました。そのため、読み書きの方法を習うことがありませんでした。彼はそれが恥ずかしくて、酒を飲んでは心の痛みを隠していました。35歳になっても、道端で友達らと飲んでいました。ところが、ある日のこと、火のような何かが彼の中に燃えました。彼は友達らに「もう十分だ。私が酒を飲むのを見るのは最後だ」と言いました。彼らは「冗談だろう」と笑って言いました。しかし、その日がturning pointになりました。彼はアルコールから解放されたのち、41歳で高校に戻りました。そこで、読み書きを学び、卒業できました。彼は自分をとても誇りに思いました。そして、詩を書き始めました。彼にはすばらしい賜物があり、雄弁な作家でした。彼の夢は機能不全の家庭や、悪い生活、アルコールの下に埋まっていましたが、まだ生きていたのです。彼はあるコンテストに出したら3位に入賞しました。彼はさらに努力し、技術も増し加わり、国のコンテストに出したら、最優秀賞を勝ち取りました。75歳になっても書き続け、人々にinspireを与えています。私たちはこのことから、夢を成し遂げるために、遅すぎることはないということを知るべきです。
夢と幻は信仰と結びつけないなら、単なる夢や幻で終わる可能性が大です。ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」しかし、英語の訳の、「信仰とは、望んでいる事柄を実体化する」が適訳です。多くの人たちは、せっかく夢や幻が与えられても「現実は難しいからな」と水をかけて消してしまいます。現実はとても破壊力があり、どんな夢や幻をも打ち砕いてしまうでしょう。そうではなく、夢や幻を信仰によって受け止めるのです。実は信仰はvisionととても相性が良くて、visionを励ましてくれます。さらには、それが実現するように道を示してくれます。いきなり「現実は」と言うと、ものすごい距離感があります。しかし、「信仰は」と言うと、環境や障害を乗り越えさせてくれる力が与えられます。信仰とは見えないものを見ること、不可能なことを信じることだからです。そして、信仰は不可解なことが理解できるようになります。信仰はあなたの態度を変えます。なぜなら、まだ見えていない他の人があこがれることを見ているからです。あのミケランジェロが天使を岩から掘り出して自由にしてあげたいと願ったことは、visionであり信仰でした。なぜなら、彫り出す前から、岩の中に閉じ込められていた天使を見ていたからです。
ジョエル・オスティーンの本から1つご紹介いたします。ジャミーは七歳の時、親が営む農場で暮らしていたのですが、「自分の子牛が欲しい」と彼女が持つ夢を父親に話しました。要は、親のものである牛の世話を手伝って満足するのではなく、自分が責任をもって世話し、自分のものだと言える子牛が欲しいということです。おりしも、その農場ではまさに赤ちゃん牛が一頭、誕生するタイミングでした。でも父親は農場経営の実際から考えて、今飼っている牛の数を一頭でも増やすことは経営を苦しくするし、得策ではないと判断しました。そこで父親は、新たに生まれてくるその牛を売ってお金にし、経営の足しにしようと計画しました。もちろん今後また子牛が生まれることがあったとしても、元からいる牛が死んだりして数が減らない限りは売るつもりでした。しかし、7歳の小さなジャミーは、「その子牛をよそに売らないでほしい」と意外なほど強く望んだのです。ジャミーは来る日も来る日も父親に訴え続けました。「お父さん、お願い。どうかあの子牛を私に飼わせて!お父さんの言いたいことは分かるよ。でも、お願い。今回だけでいいから、どうか大目に見てちょうだい!」数週間後、どうしてもあきらめないジャミーに根負けした父親は、ついにこう言いました。「オーケー、分かったよ。ジャミー。お父さんと賭けをしよう。もし生まれてくる子牛が黒だったら、その子牛はお前のものだ。でも、もし子牛が白と黒のぶちだったり、茶色だったり、ともかく黒以外の色だったら、売ってしまうことにしようじゃないか。」ジャミーは、お父さんが提案してきた賭けに応じました。その時から、彼女は神様に祈り求めていきました。どうか、黒い牛が生まれてきますように、と。毎晩ベッドに就く前には、祈りを欠かさずこう言いました。「神様、黒い子牛を私に与えてくださってありがとうございます。子牛が私のものになることに、何の疑いも持ちません。与えてくださると信じます!」これは、素晴らしい信仰です。大人はたいてい、下手に常識を働かせてしまうので、こういう祈りができていないものです。その賭けから数週間後、問題の子牛は誕生しました。皆さんの予想通りその子牛は黒だったわけですが、それではお話のオチとしてはありきたりですよね?問題の子牛が黒だったというだけではなかったのです。何と、牛の眉間をよく見てみましたら、うっすらとそこだけ白くなっていて、それはまるで『J』と書かれているように見えました。Jはジャミーのイニシャルです。まるで、これはジャミーのものだよ、と言わんばかりではないですか!
Kris Vallottonはこのように言っています。「あなた自身の運命のために、visionをどのように捕えるかを学びなさい。Visionは毎日をすり減らして生きる人生から、永遠の目的に向かって生きる人生に結び付ける能力を与えてくれます。夢と幻は人生に意味を作り出し、困難な季節にあっても、押し進んでいく動機をあなたに与えてくれます。」アーメンです。私たちが自分は生きているという感動したのはどういう時だったでしょうか?学校を卒業したとき、借金を返し終えたとき、結婚したときでしょうか?他にも画期的な出来事が人生においてあると思います。いや、これからも神さまは生きている限り、夢や幻がかなって心が躍るようなことを用意しています。最もすばらしいことは過ぎ去った過去にあるのではなく、これからの未来にあるのです。