2021.1.1「万事が益となる人生 ローマ8:28 元旦礼拝 」

 このみことばを口語訳でお読みいたします。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」口語訳聖書から「万事が益となる」という説教題にさせていただきました。私が座間キリスト教会に通っていた頃、英語礼拝というのがありました。そのとき、ネル・ケネディという女性ジャーナリストがローマ8章28節について語って下さいました。ある少年が何か不幸な出来事があったけれど、それを乗り越えたというお話しをされました。そのときのメッセージがあまりにも強烈でした。ローマ8章28節は私のハンドルネームであり、ライフメッセージの一つです。

1.神の計画

 神さまはあなたに対し、計画を持っているということをご存じでしょうか?エペソ1:4,5「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」このところから分かることは、私たちの救いは偶然ではないということです。エペソ1章には、神さまの選び、神さまのみこころ、神さまの定めがあると書かれています。そのお方が私たちの人生に対しても、ご計画を立てておられるということは至極当たり前のことではないでしょうか?以前の私たちもそうでしたが、この世の人たちはすべてが偶然であると考えて生きています。彼らは進化論を信じており、人間が単細胞から偶然に進化したと考えています。そのため、生まれたのも偶然、死ぬのも偶然です。結婚も偶然に出会った人とです。なぜなら、結婚の相手を配偶者と言うからです。すべてが偶然であるなら、そこには目的も計画も存在しません。しかし、私たちは「神のご計画に従って召された人々」であります。私たちは何をするにも、計画が必要だということを知っています。残念ながら、私たちの人生は手探りであり、なかなか最後まで見通すことができません。おそらく、神さまの方は、私たちの人生の終着点をご存じであり、そちらの方に導こうとされて働いておられことでしょう。しかし、私たちは全行程が分からないので、ただ神さまを信頼するしかありません。でも、神さまは私たちの人生に対して本当に計画を持っておられるのでしょうか? 

 ジョエル・オスティーンが有名な映画俳優のご自宅を訪問しました。彼はすぐれた映画の脚本も手掛けており、部屋に入ると、ガラスでできた大きな棚がありました。その棚には、約150の索引に分けたカードがたくさん詰め込まれていました。彼は様々な映画とそれらのシーンを研究していました。また、どういう映画が良いのか説明もしてくれました。映画には衝突と勝利があり、良い人と悪い人が出てきます。plotと言うのでしょうか、撚り合わせて作品を作ります。とても魅力的ですが、あまりにも複雑に見えました。そこで、ジョエルが「映画を作る時、どこから始めるのですか?」と聞きました。彼は「それは簡単です。私たちはいつも終わりから映画を作ります。一度、エンディングを設定したなら、そこから後戻りして、細かいところを決めていきます。撮影するときも、最も重要な最後のシーンを始めに撮ります。その後、一連のシーンを取って行くのです。」このことは神さまが私たちになさっていることと同じです。神さまは私たちの最後のシーンを最初に宣言しておられます。神さまは、この最後のシーンのところに到着してもらいたいのです。そのため、神さまは私たちの背後で働いておられます。エレミヤ29:11「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ、それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」その最後のシーンとは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものです。モーツアルトはだれもが知っている音楽家の天才でした。最初はとても良かったのですが、人生の最後はとても気の毒だったようです。後世の人たちは天才モーツアルトをたたえていますが、たった35歳の生涯でした。私たちは大事な野球やテニスの試合が見られない場合、録画を撮ります。その後、ニュースなどで自分のファンが勝利したことを聞いてしまいます。「あっ!知ってしまった!」面白味は半減しますが、その録画を再生します。敗けてしまっているシーンが出てきました。「これは大変だぞ!敗けてしまうんじゃないか?」でも、結果を知っているので、どこかで逆転することを知っています。そして、最後の場面に来て、やっぱり勝利したことを喜ぶことができます。神さまは私たちの最後の場面を既に決定しておられるのです。神さまが定めた運命、divine destinyは必ず成ると信じて歩むなら恐れることはありません。

 私の高校生活は暗黒の時代でした。一番上の兄と同じ秋田工業高校土木科に入りました。物理とか構造力学がさっぱりわかりませんでした。強くなりたいという一心でボクシング部に入部しました。けれど12月のデビュー戦で鼻血が止まらずTKOで敗れました。その後、極度の劣等感に陥り、窓から飛び降りたいと思う時もありました。中間テストのとき、先生から「鈴木、試験をしなくて良いから精神科へ行け」と言われました。ある日、学校の帰りスーパーで万引きして捕まりました。許してくれないのでボクシングで殴ろうとしました。次の日、母が呼ばれ三者面談。担任の先生が、「息子さんは大きくなっても強盗殺人を犯しかねない。ムショからムショの生活を送るだろう」と言いました。麻雀に明け暮れて課題の製図を出していませんでした。赤点すれすれで卒業でき、建設会社に入りました。5年間働きましたが、現場を転々するので嫌になりました。英語の仕事をしたいと思って23歳で退職。失業保険がなくなる寸前、小さな貿易会社に入ることができました。先輩がクリスチャンで伝道されました。25歳で洗礼を受けましたが、彼女も友人も去っていきました。会社をやめて、神学校へ行きました。しかし、その時から運命の歯車が動き出し、やがて牧師になりました。亀有に赴任してまもなく、新会堂建築がありました。土木の経験が役にたち基本設計から設備を手がけました。LED照明に変えたり、防水工事をしたり、補修工事もします。土木科を卒業し、建設会社で現場監督だったことが役立ちました。ボクシングでは破れましたが、牧師になりました。京子さんも与えられました。神さまは私に逆転勝利を与えてくださいました。神さまはあなたにも、すばらしい計画を持っておられます。

2.神の願い

 神さまは私たちにすばらしいゴールを計画しておられます。それは、「平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」です。では、私たちは何もしないで、ソファーに座り、ポテトチップスを食べながらDVDでも観ていれば良いのでしょうか?そうではありません。聖書には「神を愛する人々のために、神がすべてのことを働かせて」と書かれています。神を愛する人々というのは、神さまを心から信頼している人の姿であります。また、「神がすべてのことを働かせて」というのは神さまとの共同作業という感じがします。重要な鍵は、神さまが私たちの背後で働いて下さるということです。決して、運命のベルトコンベアーに乗って、くつろいでいれば良いということではありません。さきほどの映画ではありませんが、人生には山あり谷ありです。良い人たちばかりではありません。私たちを裏切る人、去って行く人、敵対する人というものが必ずいるものです。また、上手く行くときもあれば、「どうしてこんなことが起るんだ」という事故や事件が起こります。「お先、真っ暗だ。何も見えない」というときもあるでしょう?そういう中で、神さまを信頼して歩むということは大変です。私はテレビ・ドラマをほとんど見ません。そこには主人公に対して、意地悪したり、あざむいたりする人が出てくるからです。現実の生活でいっぱい一杯なのに、なぜ、あえて問題を背負い込むのでしょうか?その点、家内はサスペンスやERみたいな医療番組が好きです。病院に大怪我したり、病気の人が運ばれてきます。なぜ、不条理な出来事をあえて見なければいけないのでしょうか!

 詩篇23篇は羊飼いが羊を導く場面が記されています。ご存じのように、羊飼いがイエスさまで、羊とは私たち人間のことです。23:1,2「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」とても平和です。問題もありません。羊は「このままずっと過ごしていたい」と思います。ところが、23:4「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」「え?死の陰の谷を歩くなんて!そんなの聞いてないよ。」と文句を言いたくなります。パレスチナは、ヨーロッパのような大草原があるところではありません。地形が険しく、ほんの狭いところに草が生えています。そこで食べたなら、次の場所に移動しなければなりません。そのとき、暗い谷を通らなければなりません。獣も出てきます。足元が悪いので谷底に落ちるかもしれません。「いやです。ずっとここにいたいです!」と羊は叫ぶでしょう。でも、草の根っこまで食べつくしたら、来年は生えません。だから、その前に出発しなければなりません。腕の良い羊飼いは、新しい牧草地を知っています。それに、羊飼いは命がけで羊たちを守ってくれます。そのことを信じて、羊はついて行けば良いのです。ヨハネ10:10,11「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」このイエス様に従っていけば大丈夫です。アーメン。

 私たちは主を信頼してついて行く必要があります。つぶやきや疑いは神さまをとても悲しませます。民数記にはイスラエルの民が荒野を40年もさまよった記事が記されています。過去に1度、カナンに入るチャンスがあったのに、不信仰のゆえに入り損ねました。その後、「水がない」「食べ物がない」「荒野で死なせる気か」と不平をもらしました。その度に滅ぼされ、古い世代は荒野にしかばねをさらして、新しい世代だけがカナンに入ることができました。ヘブル書は「私たちは、この安息に入るよう力を尽くして、あの不従順の例に倣って落伍する者が、一人もいないようにしようではありませんか」(ヘブル4:11)と言っています。しかし、ピリピ2章にはもっと積極的なことが書かれています。ピリピ2:13、14「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」このところには、神さまが内側に思いと願いを与えて、事を行なわせてくださるとあります。前にも学びましたが、聖霊様が私たちに「これをしなさい」「これをすべきじゃないか」とやる気を与えてくださるということです。この世の人たちは、叱咤激励を受けて仕方なく動いています。親や上司からの命令、脅し、あるいは、ぶらさげられた人参を見て、頑張ります。頑張りこそがエネルギーです。しかし、クリスチャンは内におられる聖霊が思いと願いを与え、さらには私たちの能力以上のことをさせてくださいます。気がついていたら、やっていたということが多いのです。たしかに全部の行程が見えるわけではありません。挫折や回り道もあるでしょう。それが自分の失敗であったり、だれかのせいであるかもしれません。そのとき、「神さまどうしてですか?どうしてこんなことが起るのですか?」と疑ったり、怒ったりしてはいけないということです。なぜなら、それはどうしても通過しなければならない、死の陰の谷だからです。

 聖書は「死の陰の谷で家を建てて住みなさい」とは言っていません。なぜなら、死の陰の谷は通過するところだからです。私たちは病気や苦しみがこれから先、永遠に続くと思ってしまいがちです。そうではありません。それらは一時的です。私たちの目から見たら、とても長い時間ですが、神さまの目から見たら一瞬なのです。詩篇30:5「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」このみことばに、数えきれない人たちが慰めを受けてきたことでしょう。苦しみや悩みはいつまでも続かないということです。だれが悪いとか、どうしてあんなことが起きたのかと色々詮索をするのはやめましょう。「このことも、神さまの御手の中にあるんだ。神さまがすべてのことを益にしてくださるんだ」と神さまを信頼することが必要です。2000ピースもあるジグソーパズルをやったことがあるでしょうか?「なんだよ、この部分、わけがわからない」と叫ぶことがあります。まるで、Night season, Dark seasonです。でも、そのピースが重要な部分であることが完成後分かったりします。あのときの真っ暗な人生の場面が、全体から見たらとても、重要な場面で会ったことが分かります。先が全く見えないときも、主の御手の中にあるという信仰が大切です。聖書の偉大な人物の多くは、人生の暗い夜を通過した人たちです。

3.神の報い

 口語訳では「すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」と書いてあります。聖書の偉大な人物の多くは、人生の暗い夜を通過しました。しかし、神さまが共に働いて、万事を益となるようにしてくださいました。それは最終的に与えられる、神の報いと言えるでしょう。だから、私たちの人生においても「きっとそうなる」という信仰が必要です。実はパウロが言っている「知っている」ということばがとても味があります。ギリシャ語には「知る」ということばが2通りあります。1つはギノスコーであり、これは知的に「分かった」という意味です。私たちは、1+1は2であることがある時に分かりました。この知識は完全な知識であり、増えもしないし、減りもしません。もう1つの「知る」はオイダです。これは体験的にだんだん分かるという意味です。人を知るにはその人と交わりつつ、体験的に知る必要があります。それでは、「イエス・キリストは救い主である」ということを知るのはギノスコーでしょうか?それとも「体験的に知る」のオイダでしょうか?ギノスコーという「知る」という面もあります。「イエス・キリストは救い主である」という知識は完全であり、減ることも増えることもありません。しかし、「イエス・キリストが私の人生のあらゆる面においても救い主である」と知るのは体験的に知るオイダもあります。「神は全能である」と神学的に知っているかもしれません。しかし、いざ、問題が生じると不安と恐れに満たされてしまいます。そのためには、私の生活の中で、「ああ、神は本当に全能だ」と体験的に知る必要があります。神さまが私たちに問題や苦難を許されるのは、そのような理由があるからかもしれません。苦難を通過したヨブは、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(ヨブ42:5)と告白しました。

 聖書の偉大な人物の多くは、人生の暗い夜を通過しました。しかし、彼らは神さまが共に働いて、万事を益となることが分かりました。旧約のヨセフはどうでしょう?ヤコブはヨセフをとても愛しました。なぜなら、最愛のラケルの子どもだったからです。ヤコブは鮮やかな色で染めた長服を作ってやりました。あるとき、ヨセフは自分が見た夢を他の兄弟たちに自慢しました。「私たちが畑で束を束ねていると、他の束が私の束のまわりに来て、おじぎをした」というのです。ヨセフは他の夢を見ました。「太陽と月と11の星が私を伏し拝んでいるのです」と告げました。兄弟たちは「お前は私たちを治める王になろうとするのか」とかんかんに怒りました。ある時、ヤコブは野で羊の番をしている息子たちが無事であるか見に行ってくれと頼みました。兄弟たちは遠くから、ヨセフが来るのを見て「見ろ。あの夢見る者がやって来る」と言いました。最初は穴に投げ込んで、悪い獣に襲わせるつもりでした。ところが、ちょうどエジプトに向かう行商人が通ったので銀貨20枚で売り飛ばしました。兄弟たちは「野の獣で殺された」とヤコブに嘘をつきました。ヨセフはエジプトで奴隷として働きました。調子よく行っていたのですが、主人の妻から濡れ衣を着せられ、地下牢に投げ込まれました。合計、13年間、暗い生活を強いられました。ところが、エジプトのパロ王が不思議な夢を見ました。だれも解き明かすことができません。その時、長官が牢獄で夢を解き明かしてくれたヨセフのことを思い出しました。ヨセフは地下牢から出され、王の前でその夢を解き明かしました。「七年は大豊作であるが、その後は、前の大豊作も飲み込んでしまう大飢饉が襲うので備えるように」と進言しました。パロはヨセフの知恵に驚いて、彼を王様の次の位を与え、全エジプトを支配させました。やがて飢饉が起こり、ヤコブの家にも食べ物がなくなりました。兄弟たちは目の前の宰相が弟のヨセフだとは知らず、彼を伏し拝みました。最終的に、ヨセフは自分のことを証します。兄弟たちは殺されるのではないかと恐れました。しかし、ヨセフは「あなたがたを救うために、神が私をあなたがたより先に遣わしたんだ」と言いました。ヨセフの生涯を見るとき、奇しい神のご計画を知ることができます。

 神さまはあえて、私たちに人生の暗い夜を通過させようとするようです。別れ、喪失、裏切り、病気、死別、孤独、誤解、失敗、破産、事故、災害…きりがありません。それらを一辺で経験した人物がいます。それは旧約聖書のヨブです。彼は潔白で正しい人だったのに、そのようなことが起りました。当時の財産とは家畜やラクダや奴隷でした。なんと、シェバ人やカルデヤ人が襲ってきて、すべての財産を奪い、殺してしまいました。ヨブには、七人の息子と三人の娘がいました。彼らが一緒に食事をしていると、大風が吹いて来て、家の四隅を打ったので、下敷きになって全員が死にました。ヨブは、いっぺんですべての財産と子どもたちを失いました。さらに、ヨブに足の裏から頭まで悪性の腫物ができ、かゆくて土器のかけらでかくしかありませんでした。彼の妻があわれむどころか、「神を呪って死んだら」と言いました。それで終わりではありません。3人の友が寄ってたかって「ヨブよ。正しい人にこのようなことが起る筈がない。何か罪を犯したからだ」とヨブを責めました。4人目があとから登場してヨブにヒントを与えます。友人たちとの議論が4章から37章まで延々と続きます。38章になってやっと「主はあらしの中からヨブに答えた」と書かれています。結局、なぜ、ヨブに災難が訪れたのかその答えは書かれていません。ヨブはこのように答えました。ヨブ42:2「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」この「知る」はヘブル語でヤーダーです。ヤーダーはギリシャ語のオイダと同じで「体験的に分かる」という意味です。

 ヨブに対する報いとはどのようなものでしょうか?とても圧巻です。主はヨブの繁栄を元どおりにされました。ヨブの所有物もすべて二倍に増されました。ヨブ42:12以降「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。…ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。」私たちはヨブほどでなくても、暗い所を通らされるでしょう。でも、神さまは失ったものを2倍にして報いてくださるすばらしいお方です。