クリスマスが祝われるようになったのは西暦200年頃だと言われています。当時は、西ローマ教会が12月25日、東ローマが5月20日と定めていました。ちなみに、教会暦ではクリスマスは「12月24日の日没から12月25日の日没まで」であると考えられています。なぜ、クリスマスが12月25日なったのか、それは「太陽の祭り」と関係があるようです。「24日(冬至)、日が短くなって、太陽が死んでしまった。しかし、25日から日が伸びるたので太陽が復活したのだ」と考えらえていました。「死と復活」が本日のキーワードです。ヘブル2:14-15「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」なぜ、神が人となったのでしょうか、3つのポイントで学びたいと思います。
1.人間が肉体を持っているので
神が人間を救うために人間になる必要がありました。これを同一化するidentifyと言います。聖書の神さまは高いところからロープを降ろして、「これに掴まりなさい。そうしたら救ってやる」というお方ではありません。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」父なる神は、ひとり子を人間として誕生させて、人間として成長させ、すべてのことを体験させました。私たち人間はいろんな体験をします。誕生して、成長し、いろんな教育を受け、いろんなことを経験し、年を取ってやがて死にます。昔、「谷間に3つの鐘がなる」という歌がありました。ジミー・ブラウンと言う人の誕生と結婚と死のために教会に鐘がなるという歌です。人間の最大最後のイベントは「死」と言えるでしょう。私たちはこの地上に生まれたなら必ず死にます。でも、恐ろしくて死に直面することはできません。その証拠に、病院に行くと「4」号室がありません。イエス・キリストは私たちと同じ人間になられ、だれしもが直面する「死」を経験されました。経験されただけではありません。死の向こう側に行って、帰って来られました。この世では、臨死体験をして、再び蘇生した人はたくさんいるでしょう。しかし、イエス・キリストの場合は死に打ち勝ち、二度と死なない栄光の体によみがえられたのです。このような方はイエス・キリストしかいません。
死の問題を解決する前に、なぜ死が人類に入り込んだのか、その原因を知る必要があります。すべての宗教は死を必然的なものとして受け入れていますが、聖書だけが死の原因とその解決を啓示しています。創世記3章に書いてありますが、アダムが食べてはならない木から食べたために、人類は死ぬようになりました。「土から取られたのだから、土のちりに帰る」と書かれています。パウロは「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──」(ローマ5:12)と言っています。つまり、一人の罪によって、人類に死が入ったということです。それならば、この罪を解決しなければ、死も解決しないということになります。パウロはさらに「ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。…それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。」と言っています。つまり、イエス・キリストが人間の代表として神さまに従って下さったということです。さらには人類の違反をご自分が背負い、身代わりに死なれました。その結果、キリストを信じる者に恵みと義の賜物である永遠のいのちが与えられるようになったのです。現在、キリストを信じる者にはだれでも永遠のいのちが賜物として与えられています。このいのちは、神のいのちであり、肉体が死んでも一瞬とも途絶えることはなく続くのです。イエス様はヨハネ11章で「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません」と言われました。イエス・キリストが死に打ち勝って、三日目によみがえられました。死に打ち勝たれた方を信じる者は、死んでも生きるのです。つまり、肉体的に死んでも永遠に生きることができるということです。イエス・キリストは私たちに神のいのちを与えるために、この地上に肉体を持って来られたのです。なぜなら、私たちも肉体を持っているからです、
2.死の力を持つ者、悪魔を滅ぼすため
14節後半、「それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし」とあります。つまり、イエス・キリストの死とよみがえりが、悪魔を滅ぼす原因となったということです。では、悪魔が持っている力とは何なのか調べたいと思います。黙示録12:10「私たちの兄弟の告発者、昼も夜も私たちの神のみ前で訴える者が、投げ落とされた」と書かれています。悪魔は神さまの前に私たちの罪を訴えるのです。神さまは義なるお方ですから、罪をさばかずにはおられません。ローマ6章に「罪の報酬は死です」と書かれています。ですから、私たちの罪を取り除くならば、悪魔は私たちを神の前に訴えることはできません。そのために、御子イエスは「血による宥めのささげ物となったのです(ローマ3: 25)。そこで神の義が満たされ、神はキリストを信じる者を義と認めるようになられたのです。だから、パウロはローマ8章でこのように勝利を宣言しています。「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」アーメン。ですから、悪魔が、私たちが犯した罪を責めるなら、キリストの血を賛美しましょう。そして、悪魔に対して「キリストのもとへ行け!」と言えば良いのです。
その次に悪魔が持っている力とは何でしょう?マタイ16章でイエス様はペテロにこのように言われました。マタイ16:18「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」このところに、「よみの門」と出てきます。「よみ」とはハデスであり、死者の魂が行くところです。「門」というのは、「城門」を備えた砦のことです。しかし、古典的な用法は「陰府の勢力」あるいは「死」を意味します。私は「よみ」の背後には、悪鬼がいると信じます。陰府に下った魂はただ、そこにいるだけではなく、悪鬼どもが「好き放題、やりたい放題」しているのではないかと思います。なぜなら、マタイ18章に「獄吏に引き渡す」と書かれているからです。しかし、このことをあまり強調すると、オカルト的になってしまいます。つまり、陰府は一回降ったら、戻ってくることができないということです。でも、イエス様は死んで陰府にまでくだられました。そして、復活するときに、捕らわれていた善人たちを携え上げてくださったのです。エペソ4:8「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた」とあります。復活以降、キリストにあって死んだ人は、陰府ではなく、パラダイスに上るようになりました。ハレルヤ!アーメン。イエス・キリストには権威があります。使徒信条にこう書かれています。「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(きたまわん。)アーメン。
3.死の恐怖から解放するため
ヘブル2:15「死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」クリスチャンであっても、やはり死は怖いのではないでしょうか。私も牧師として大勢の兄弟姉妹を天にお送りしました。やがては自分の番になります。その時は、意識がもうろうとなり、話すこともできません。相手の言葉は聞こえるのですが、返すことができないのです。みなさん、耳は最後まで聞こえるそうです。昏睡状態になっている人に悪口を言ったら、天国で追及されます。「言いたいけど伝えられない」なんともどかしいでしょう。過去のことが走馬灯のように巡ってきます。「ああ、イエス様だ。」少し上から、自分の体を見ることができます。周りの人がうろたえています。医者が何かしています。すると天使がやってきて、両脇をささえてくれます。そして、天国の門のところに来ると、ペテロが迎えてくれます。大きな部屋に入り、信仰生活がどうだったのか、審判されます。その後、別の部屋に移動し、先に上っていた人たちと再会します。クリスチャンになる前は、死がとっても怖かったです。村の裏山に墓地があり、昼間でもそこを通ると怖かったです。よく、墓地に続く、山の小道を上る夢を見たものです。しかし、今は、行くところがあるという確信があるので、それほど怖くはありません。
ヘブルの記者は「死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」と言っています。私たちは、以前は2重の意味で、死の恐怖によって奴隷としてつながれていました。第一は、死が怖いのは、人が死んだらどこへ行くか分からないからです。もちろん、死ぬこと自体も怖いことは間違いありません。しかし、もっと怖いのは「人は死んだらどうなるんだろう?」という怖さがあるのではないかと思います。日本では仏教からきた輪廻思想がありますが、だからと言って確信はありません。日本では死ぬことを「他界した」と言いますが、「他の世界に行って、今もそこにいる」ということです。唯物論者が言うように消えてなくなると思っている人はそんなに多くいないと思います。「ふわふわどこかで生きているかも」というのは寂しいです。テレビでは「天国へ行った」と良く言われていますが、嘘です。天国ではなく、陰府に行っているのです。そして、最後の審判を待つのです。どうして死が怖いか?それは、本能的に、神の前に立つのが怖いのです。ヘブル9:27「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」と書かれています。聖書は、人生は一度きりであり、死後に裁きを受けると教えています。ですから、なんとか私たちはさばきを免れる道を生きているうちに捜す必要があるということです。しかし、このみことばの続きがあることを多くの人たちは知りません。ヘブル9:28「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」これは、イエス様が二度来られるということを述べています。一度目(初臨)は、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げるためです。十字架で罪を贖うためです。二度目(再臨)はご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。どういうことかと言うと、眠っていた人が目覚めるためです。かつてのキリストのように栄光のからだによみがえるということです。Ⅰコリント15:52「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。…『死は勝利に吞み込まれた。』」キリスト教の救いは魂だけではありません。この肉体が贖われて初めて、完成す るのです。このような聖書からの啓示を信じると、死は怖くはありません。
第二は、死が怖いのは、悪魔がその人を捕えているからです。ヘブル2章17節を読むと、死の力を持つ者とは悪魔のことであり、「悪魔がその人を一生涯奴隷としているので、死が怖いのだ」と理解することができます。パウロは私たちが救われることをこのように表現しています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」と書いてあります。エペソ2:1,5「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり…背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」これら2つの聖句から分かることは、生まれつきの人間は霊的に死んでいるということです。それだけではありません。サタンの持ち物になっているということです。神から離れた人間は、生まれたときからサタンのもとで暮らしているのです。何故なら、この世はサタンが支配しているからです。生まれた時から盲目であり、闇の中にいるので、神の存在も救いの道も分からないのです。分からないというよりも、悪魔が「救いなんかないよ。人間生きているうちが花」と嘘をついているのです。あるいは偽物の宗教にしがみつかせているのです。仏教は極楽浄土、神道であれば常世(とこよ)です。でも、救いを得ていないので、死ぬのが怖いのです。クリスチャンなって新生すると、死が怖くなくなります。
今から33年前、1987年私が当教会に赴任した年のクリスマスイブ礼拝です。そこに初めて、五藤千代さんという60代半ばの姉妹が来られました。娘さんがクリスチャンなので、行って来いと言われて初めて教会を訪れたわけです。五藤さんはやがて洗礼を受け、ご家庭でセル集会を持つこともできました。その時、いろんな証を聞きました。姉妹は60才になって、お腹の大手術を受けたそうです。その時は死ぬのが怖くて、怖くて仕方がなかったそうです。80才位のとき心筋梗塞で倒れ、東部地域病院に運ばれました。私がお見舞いに行くと、ニコニコしながら、こういうのです。「あのときは、とっても怖かったけど、今は死ぬのがちっとも怖くありません」。「ああ、姉妹は救われているんだなー」と確信しました。五藤姉妹はそれから8年位生きて、本当に天国に行かれました。イエス様を信じて新生すると、天国に行ける確信があります。それでもやはり、死は怖いです。でも、死の向こう側には、パラダイスと御国と新天新地があります。私たちの魂の意識は、肉体の死がやってきても一瞬たりとも途絶えることはありません。ですから、まるでドアを開くように、死の向こう側に行くことができるのです。
ジョンバニヤンの『天路歴程』にクリスチャンが死の川を渡るシーンが書かれています。さて、私がなおも見ていると、彼らと門との間には川があったが、それを渡る橋もなく、その川は非常に深かった。巡礼者たちはこの川を見て肝をつぶしたが、同行の人たちは言った、中に入って渡らなくてはなりません、さもないと門には着きません。巡礼者たちはその時も他に行く道はないかと尋ね始めた。それに答えて彼らは言った、あります。けれども創世記以来エノクとエリヤの二人の他は誰もその道を通ることを許された者はありません。またこれからも最後のラッパの鳴る時まではだめでしょう。(中略)それから彼らは水に入る用意をした。そして入ると基督者は沈みかかったので、友人の有望者(聖霊)に呼ばわって言った、「私は深い水に陥り、大波はわが頭の上をこえ、波はことごとくわが上をゆく」。その時相手は言った、元気をお出しなさい。兄弟よ、私は底に触っています。それはしっかりしたものです。すると基督者は言った、「ああ、友よ、死の悲しみが私を囲んだ。私は乳と蜜の流れる地を見ないであろう。」そういうと同時に大きな暗黒と恐怖が基督者を襲ったので、彼は目が見えなくなった。(中略)。有望者はまた彼を慰めようと努力して言った、ああ、兄弟よ、門が見えますよ、それから私たちを迎えるために側に立っている人々も。(中略)。しかし巡礼者はやすやすとその丘に登って行った。腕を取って導いてくれる二人があったからである。彼らは死の衣を川の中に置いて来た。入るときは着ていたが出てくるときは脱いでいた。都の築かれてある基礎は雲よりも高かったが、身軽く足早に登って行った。『天路歴程』によると、渡り終えるまでに、ちょっとした格闘があるようです。三浦綾子先生は「最後に、死ぬという仕事が残されています」と言いました。でも、世の終わりまで、イエス様が私たちともにおられることを感謝します。