クリスマスおめでとうございます。と言っても、例年とはずいぶん違うクリスマスになってしまいました。新型コロナウィルスのため、クリスマス・パーティーも開けず、こじんまりとしたクリスマスになりました。当教会でも愛餐会もなし、ビンゴゲームもなしです。しかし、それでは可哀そうなので、礼拝後、くじをひいて番号が当たってものを持ち帰るということにしました。
1.苦しみのあったところ
イザヤ9:1「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。」ゼブルンの地とナフタリの地というのは、イスラエルの北部に位置します。BC734-732アッシリアのティグラテ・ピレセルがイスラエルを攻め、この地方の住民をアッシリアへ捕え移しました。BC722サマリヤは陥落し、代わりに異民族がこの地に住まわせられました。そのため、サマリヤは霊的な混血になってしまいました。辱めを受けたというのは、それだけではありません。BC330アレキサンダー大王に支配されました。その後、エジプトとシリアに支配され、ユダヤ人たちは独立戦争を起こしました。BC142独立を果たし、平和な時代を迎えました。しかし、BC63ローマがイスラエルを支配しました。カペナウムにはローマの駐屯地がありました。ちなみに、ピリポ・カイザリヤとかデカポリスはローマが付けた名前です。北方の地には異教の神々やローマ皇帝の像が建てられていました。イエス様の時代は北から言うとガリラヤ、サマリヤ、ユダヤです。当時のガリラヤはちょうど、ゼブルンとナフタリの地になります。このガリラヤにナザレという町がありました。ピリポがメシアに出会ったと言うと、ナタナエルは「ナザレから何か良いものがでるだろうか」(ヨハネ1:46)と答えました。まさしく、ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたところです。
しかし、その続きがあります。「後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。」これは、預言であります。イザヤはBC750年くらいの人です。730年後に、この預言が成就しました。マタイ4:12-15「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。』」この後、イザヤ書9章のことばが続きます。つまり、イエス様が宣教を開始したところが、ゼブルンとナフタリの地、異邦人のガリラヤだったのです。しかも、12弟子のほとんどが、この地の出身です。「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と言われた場所からです。もし、現代の人が宣教の戦略を練るなら、そんな田舎ではなく、都のあるエルサレムでしょう。日本でたとえるなら、東京都でしょう。でも、東北から始めたということです。「秋田から何か良いものがでるだろうか?」ちなみに、家内は岩手です。本当に不思議です。私も家内もそうですが、東京に出てこなければ、決してクリスチャンにはなっていなかったでしょう。秋田では、神奈川も埼玉もみな「東京」と言います。千葉だけは千葉と言うようです。戦後、アメリカやヨーロッパからプロテスタントの宣教師たちが来られました。明治には横浜、札幌、熊本という都市が最初の宣教地でした。ところが、あえて、田舎に宣教に行った団体もいます。イギリスのバックストンは、島根県の松江市で始めました。日本伝道隊とホーリネス運動ができました。美濃ミッションは、岐阜県大垣市から始めました。当時、子どもたちに伊勢神社の参拝をさせなかったので、大きな事件になりました。東北の宣教は、ルーテル同胞、保守バプテスト同盟が始めました。イギリスのバーネット宣教師は群馬県の足尾銅山から始め、現在、福音伝道教団になっています。カナダからの宣教師は広島で始め、現在、日本アライアンス教団になっています。北米からの宣教師は飛騨高山から開始し、現在同盟基督教団に。あえて、地方の福音未伝の場所から始めたというのは、イエスさまの宣教法を学んだからではないかと思います。現在は東京にほとんどの教団の本部があるので、かえって宣教の妨げになっています。伝統とプライドが教団間の高い壁を作っています。その点、地方へ行くと、教団教派の壁が低くて、合同のクリスマス会を開いています。
イエス様はまた、辱めを受けた人々に向けて宣教を開始されました。イエス様はナザレの会堂で、イザヤ書の巻物を開いてこのように言われました。ルカ4:18,19「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」イエス様がターゲットにした人たちは、貧しい人、捕らわれ人、目の見えない人、虐げられている人たちでした。政治経済を学んだ人だったなら、この世の有力者や知者たちから始めたら、より効果的であると考えるでしょう。民衆よりも、彼らの方がずっと影響力があるからです。でも、イエス様は社会の底辺の人たちに伝道しました。皮肉なことにイエス様に反対したのは、律法学者や祭司長、サンヒドリンの議員たちです。日本のプロテスタントは、インテリ層に向けて伝道しました。内村鑑三、矢内原忠雄、新渡戸稲造ら、みな高学歴です。それに比べ、新興宗教は一般民衆に向けて布教しました。どうなったでしょう?キリスト教はミッション・スクールをたくさん創設しました。一方、新興宗教はたくさんの信者を獲得しました。天理教、立正佼成会、創価学会は、ご利益を説いたのでどんどん人が集まりました。キリスト教会は病の癒しは邪道だと考えました。しかし、イエス様は人々の病を癒し、悪霊を追い出してあげました。イエス様の弟子は漁師とか取税人であり、身分の高い人たちはだれもいません。女性の一番弟子と言えばマグダラのマリヤでしょう。彼女はかつて、7つの悪霊を宿していました。7つというのは完全数であり、悪霊に完全に支配されていたということです。このようにイエス様は人々からあまり顧みられない地域や人々から宣教を開始しました。イエス様は「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにです」(マタイ9:13)と言われました。イエス様が馬小屋で生まれたということは、どんな人でも近づけるということです。
2.死の陰の地に住む者たち
イザヤ9:2「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」第一のポイントでも申し上げましたが、アッシリアのティグラテ・ピレセルがイスラエルを攻め、この地方の住民をアッシリアへ捕え移しました。「闇」と「死の陰」とは、そのときの悲惨な状況を表わしています。しかし、イザヤは「大きな光を見る」とか「彼らの上に光が輝く」と預言しています。動詞は完了形で、預言者の確信の強さを表わしています。第一のポイントでは、彼らが住んでいた場所に焦点を合わせました。第二のポイントでは、彼らの心や霊的状態にポイントを合わせたいと思います。聖書では、「闇の中」とか「死の陰」と言うのは、困難とか死の恐れ、あるいは罪の力によってあえいでいる状態を表現することばです。世界は、そして日本は2020年度、「新型コロナウィルス」によって大打撃を受けた年でした。「パンデミック」と言われる感染爆発が世界各地で起り、経済や健康だけではなくすべての活動に影響を与えました。現在もその状況下にあります。11月30日現在、世界の感染者数が6300万人、全体の21%がアメリカに集中しているということです。国内の感染者数は約15万人です。海外と比べ、日本の感染率が低いというのは本当に不思議です。しかし、入院患者数と重症者数も過去最高を更新し続けています。そのため医療崩壊が懸念され、同時に医療従事者の精神的な負荷も大きな問題となっています。そればかりか、飲食店が閉店に追い込まれ、イベント関係は失業し、様々な業種が経済的な危機に追い込まれています。
しかし、過去にもこのようなパンデミックが世界各地でありました。中世14世紀に、黒死病(ペスト)がヨーロッパを中心に大流行し、7500万人以上が亡くなりました。19世紀はコレラが世界中に大流行しました。第一次世界大戦中の1918-1920年スペイン風が大流行し世界の三分の一が感染し、4000万人以上亡くなったと言われています。それからアジアかぜ、香港かぜが流行し、数百万人が亡くなっています。キリスト教会では、パンデミックは神のさばきであり、悔い改めて神に立ち返る時であるというメッセージをしてきました。当たっていないわけではありません。流行病の蔓延、不景気、戦争は人の心が貧しくなり、神を求めるようになるからです。でも、人々の不幸を神の裁きと断定するのは、行き過ぎかもしれません。私たちは、このような状況のとき、「自分が感染して死んだらどうしよう?」と恐れてしまいがちです。私たちはこのインフルエンザに正しい意味で恐れ、同時に恐れ過ぎてもいけません。「もし、かかったらどうしよう?」とびくびくしてはいけません。そうすると免疫力がぐっと下がってしまいます。そうではなく、「神さまがかからないように守って下さる、たとえかかったとしても必ず癒される、アーメン」と過ごすのが一番です。そして、三密を控え、手洗い、うがいを常にするということです。ちなみに今年の流行語大賞は「三密」だそうです。でも、ここで終わると、都庁からの注意喚起と同じです。
私たちの生活を脅かしてきたのはインフルエンザだけではありません。70年以上前に第二次世界大戦がありました。敗戦後は大変だったのです。私の年代は兵隊に駆り出されることもなく、とても幸いだったと思います。しかし、日本は地震大国であり、関東大震災や南海トラフ地震がいつ来るか分かりません。異常気象によって河川が氾濫し、町が水没する危険性もあります。新型コロナウィルス感染が流行する前は、それらのニュースが度々報道されていました。私たちが住む日本は、ある意味では、イスラエルと似ています。イスラエルは小さな国で、南と北の国から責められ大変な目にあってきました。歴史では、出エジプト、バビロンからの帰還、シオニズムがありました。1900年間世界中に散っていたユダヤ人が母国に戻ってきました。日本は島国なので同じとは言えませんが、いろんな危機に直面しているということは確かです。何を言いたいのかというと、生きるというのはどの時代であっても、死の恐れがつきまとうということです。戦争や病気や天災で死ななくても、死はだれにもやってきます。現在は、アメリカと同じくらい、犯罪率が高くなっているので、いつ事件に巻き込まれるかも分かりません。はっきり言えることは、この世界は罪と死が支配しているということです。究極的な救いはそれらから守られることではなく、「私はいつ死んでも大丈夫だ。行くところがある」という保証です。日本は保険大国であり、「生命保険に入れば大丈夫」と言うかもしれません。でも、生命保険はかけた当人ではなく、他の人が受け取るのです。ですから、自分の死に対する解決がなければなりません。
イザヤ9:2「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」私たちも聖書の「闇の中を歩んでいた民」と「闇の中を歩んでいた者たち」と同じなのです。私たちも彼らと同じような解決が必要なのです。闇に対する大きな光、死の陰の地に住む者たちへの光が必要なのです。その答えは、イザヤ9章6-7節に出てきます。その解決は神が人となられた、メシアです。預言者イザヤは紀元前730年前に、「大きな光を見る」とか「光が輝く」と断言していますが、そのことがイエス・キリストにあって実現したのです。イエス・キリストは「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)と言われました。イエス・キリストに従う者は、「闇の中を歩むことがないばかりか、いのちの光を持つ」とはどういう意味でしょう?これは、まわりが明るいということだけではなく、自分の中にいのちの光を持つことが出来るということです。言い換えると、その人が住むところに光があり、その人自身にいのちの光があるということです。しかし、私たちの住んでいる周りは闇であり、私たちの周りの人にはこのいのちの光がなく、死の陰の地に住んでいるのです。その決定的な違いとは何でしょう?「私は世の光である」と言われるイエス・キリストに従うかどうかです。従うというのは、信じることの別の表現です。なぜなら、信じると従うは、コインの裏表だからです。従うことは信じることであり、信じることは従うことだからです。キリストに従う人は、どのような世界環境で暮らしていても、死にゆく存在であったとしても関係ありません。決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つことができます。なぜなら、キリストは私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられました。そのことによって、根本的な原因である罪と死に解決をもたらして下さいました。アーメン。
3.ひとりのみどりごが生まれる
第三のポイントは神が私たちのために用意しておられる救いです。それは解決策ではなく、人物でありメシアの誕生です。イザヤ9:6-7「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」昔、キングジェームス訳のメサイヤを歌ったことがあります。For unto us a child born, unto us a son is given, unto us a son is given…とても懐かしいです。イザヤ書7章にこのことと同じことが預言されていました。イザヤ7:14「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」これら2つの箇所は共通しており、歴史的にそのような「男の子」が誕生しました。それはしるしであり、そのことによってユダの国が敵国から救われるということです。また、神学的には730年後のイエス・キリストの誕生のことを預言しています(参考:マタイ1:23)。そして、イザヤ9章は「その子どもがどのようなお方になるのか」ということを説明している箇所です。つまり、どのようなメシアが私たちに与えられるのかということです。さきほどのポイントでは、イエス・キリストが世の光、命の光であることを語りました。しかし、それだけだと説明不足のような感じがします。私たちはクリスマスを毎年、お祝いしますが、「ひとりの男の子が私たちに与えられる」ということがどのようなことなのかを具体的に知る必要があります。それは、きょうのテーマである「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」ということの根拠でもあります。
9章6節に「主権はその肩にあり、その名は…」と続きます。その後、「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを建て」と続きます。メシアがどんなお方か知るために、最も重要なのは「主権」「王座」「王国」という用語です。このところから連想できることは、メシアは王的な権威を持ち、治める王国があるということです。しかも、横暴な独裁者ではなく「さばきと正義によってこれを建てる」とあります。闇の中を歩んでいた民が大きな光を見たいなら、もし死の陰の地に住んでいる者の上に光が輝くのを見たいなら1つの条件があります。それは第二のポイントでも言いましたが「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」というイエス様のことばです。イエス・キリストが王であり、ご自身が王国を持っておられます。では、どうすれば、イエス様の王国に住むことができるのでしょうか?簡単です。王であるイエス様に服するということです。言い換えると、イエス様の主権を認め、この方に従うということです。そうすれば、その人は王国の臣民となり、イエス様と一緒に王国を支配することができます。そして、イエス様が持っておられる王国を相続することができるのです。使徒パウロのことばです。ローマ8:17「子どもであるなら、相続人でもあります。…神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」私たちは一口に「キリストを信じる」と言いますが、御国を受け継ぐ者、相続人になるための契約であると理解すべきです。ちなみに、新約聖書は英語でThe New Testament「新しい遺言」という意味です。ヘブル9:15,16「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。」アーメン。イエス・キリストは私たちに新しい契約をもたらすために、血を流し、死んで下さったのです。
イザヤ9章6,7節には、よみがえられたキリストがどのような王としてご支配するのか、詳細に記されています。「その名は」とはじまって、4つ掲げられていますが、キングジェームス訳もご紹介します。第一は「不思議な助言者」Woderful Counsellorです。新聖書注解には「オリエント専制君主制においては、王に『助言者』や『議官』がいて、政治を助けました。ところが、この男の子は、主権者であり王であるのに、同時に助言者である。ことばを替えて言えば、助言者を必要としない王である」と書かれていました。アーメンです。第二は「力ある神」The mighty Godです。第三は「永遠の父」everlasting Fatherです。さきほどの注解書によると「みどりごが、イスラエルの民に対する保護者であることを示し、あわれみに満ちた姿を明らかにする」ということです。イエス様はピリポに「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と言われました。第四は「平和の君」The prince of peaceです。平和はシャロームと言いますが、戦争がないという意味だけではありません。シャローム(平和)は、健康であり、平安であり、健全さであり、安全であり、欠けることのなり十全性を意味します。神との間にシャロームが成立すると、人との間にシャロームが成立し、個人の生活にもシャロームが満たされるのです。アーメン。ローマ・カトリック教会ではマリヤにいだかれた幼子イエスの像がかかげられています。確かに、生まれたときはそうでした。でも、ずっとそのままでいるわけではありません。「ひとりのみどりご、ひとりの男の子が私たちに与えられる」とは、やがて成人して、人類の罪の贖いのために、ご自身を献げるためでした。父なる神さまが独りの御子を私たちの救いのために十字架に与えて下さったのです。でも、それだけではありません。御子イエスは死からよみがえり、「主の主」「王の王」になられました。私たちはこの方を信じると、神の国を相続し、王なるイエスとともに治めることができるのです。もし、はじめから「主の主」「王の王」として地上に来られたなら、だれも近づくことはできないでしょう。ところが、ひとりのみどりごとして、へりくだって地上にやって来られました。救い主は、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになられました。だから、だれでも、イエス様に近づいて、豊かな救いを受けることができるのです。Ⅰコリント8:9「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」アーメン。