2020.12.6「ひきこもり対策 ルカ2:52」

 近年、「ひきこもり」がクローズアップされるようになりました。内閣府が「ひきこもり」の調査結果を発表しました。全国で40~64歳が61万人、15~36歳が54万人いるそうです。ひきこもった原因は学校や会社で躓いたというのが一番多いようです。ひきこもってしまった子どもを親が養っているということです。その親も高齢化し、ひきこもっている子どもがやがて生活保護を受けなければなりません。しかし、ひきこもりの人が、親を刺したり、近所の子どもたちを無差別に刺したり、さまざまな問題が起こっています。20年前にも、ひきこもりについて話したことがありますが、きょうはひきこもりにならないための子育てについて学びたいと思います。もう、子育ては終わったという方も是非、一緒に考えてみましょう。

1.かわいがる

 ルカ2:52「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」日本語訳は、知恵と背丈が成長したように書かれています。しかし、原文は、「知恵と背丈と愛の3つの分野で前進した」となっています。また、英語の聖書はfavorなので、愛よりも、「愛顧、かわいがり、寵愛」という意味になります。人間となられたイエス様は、神さまからだけでなく、人からもかわいがられる必要があったということです。多くの人たちは誤解しているかもしれませんが、「かわいがる」のと「甘やかす」は違います。甘やかすというのは、子どものやりたい放題にすることです。つまり、親が限度を設けないということです。極端な例ですが、小さな子どもが一人で外に出ると車にはねられて命を落とすでしょう。聖書の十戒は私たちが越えてはならない大切な戒めが書かれています。甘やかすことをスポイルと言いますが、何でも与え過ぎると、ものを粗末にする人になります。よく芸能人の子どもが働かないで、毎月、何十万も使って、自立できなくなっています。いわゆる過保護というのも良くありません。私の場合は兄弟が多くて貧しかったです。NHKの「おしん」ほどではありませんでしたが、貧しすぎると「貧乏の霊」が支配します。「頼れるのはお金しかない」となると、これもまたよくないです。現代は、「野放し状態」の子どももいます。養育を受けていない子どもです。保育園に預けっぱなしで、会話もありません。もっとひどいのは、ニグレクトです。自分もそうだったので、子どもに対しても冷たい親がいます。正直、どのように子どもと接したら良いか分からないのです。子どもを虐待して死なせるよりは、施設に預けるのが良いかもしれません。

 ある牧師は「わがままは良くない。みことばに従って厳しく育てるべきだ」という教育論を持っています。いわゆる、宗教的に育てるということです。3歳の子どもなのに、行儀が良く、暗誦聖句をして、大人顔負けです。しかし、それは養育ではなく、律法の型に押し込めることです。イエス様はパリサイ人たちに「外側は美しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」と言われました。私たちは偽善者を育てるべきではありません。私は学校で一番叱られました。確かにわがままだったかもしれません。しかし、私は家では全く認められなかったので、その分、学校で「私がここにいるよ」と、認めてもらいたかったのです。しかし、集団生活を乱すということで、叱られたんだと思います。でも、人間はみな我がままで、自己中心です。自分さえよければ良いというのが本能です。重要なのは、自己中心さを受け入れながら、自分を愛するように、隣人も愛するということです。愛されたことのない人が他者を愛するというのは無理です。私は何でもかんでも「わがまま」で処理するのは反対です。日本の教育は、規律正しく生活し、和を重んじることを重要視します。教会は道徳教育をしてはいけません。道徳、つまり人の目を気にする生き方ではなく、神を恐れて生きることです。神を恐れるとは、人が見ていなくても、神の御目のもとで、正しい生活をするということです。

 親は子どもが小さいときは、神さまの代理です。親を見て、「神さまはこういうお方なんだ」と理解できたら何と幸いでしょう。子どもが生まれてから2歳までに必要なのは、基本的信頼感です。無条件で愛されているので、自分には生きる価値があると思うのです。神さまの愛も、無条件の愛です。〇〇すれば愛してあげるというのは、条件付きの愛です。親はいつの間にか、何かの条件をつけるかもしれません。愛することと、しつけることの境目が難しいかもしれません。でも、やっていけないことを叱って、後で抱きしめてあげるなら、なお子どもは愛されていると感じるかもしれません。私は今、立派なことを言っていますが、感情的になって叱ったことが数えきれないほどあります。あの頃は、余裕がなかったので、しかたがなかったかもしれません。だんだん、下の子どもになるにつれて、「ま、いいか」と叱る手を緩めるようになります。長男、長女はその点、大変かもしれません。親が良い子に育てようとすると、非常に危険です。なぜなら、自分の本音を隠して、表面だけ良い子になる恐れがあるからです。もし、親が「そんな悪い子はうちの子供じゃありません。家から出て行きなさい」などと言うなら、どうなるでしょう?子どもは生き延びるために、親の言うことを聞くしかありません。そうすると、心が完全にひきこもって、やがて本当のひきこもりになる可能性があります。しつけや懲らしめも、度が過ぎると、子どもの人格を破壊するので、とても危険です。今後、学校や社会に出ると、色んなことが起ります。いじめられたり、プライドを傷つけられたりするでしょう。もし、その子にちゃんとしたアイディンティテイがないなら、耐えることができなくなります。ですから、親は最後まで子どもの理解者、子どもの味方にならなければなりません。

 親からかわいがられた子どもは非行に走らないというのを聞いたことがあります。一時的にそうなってもまた帰ってきます。同じように、親からかわいがられた子どもはひきこもりにならないと信じます。一時的にひきこもったり、ニートになったとしても、また元気を取り戻して外に出て行くでしょう。そのとき、母親は子どもを守り、父親は「おまえにはできる」と励ます必要があります。日本人の親は自分の子ども時代の失敗を隠して、偉そうに振舞いますが、とんでもありません。ルカ15章のような放蕩息子の帰りを待つ、あのような父の心を持つべきです。放蕩息子の父親は無条件の愛を持つ神さまを表しています。

2.自由を与える

 それは親の価値観を子どもに押し付けないということです。子ども自身に決断させるということです。何でもかんでも親が子どもの人生を決めると、何かで行き詰ったとき、ひきこもりになるからです。子どもが自分で好きな事を決めても良いけれど、責任も取らせるということです。もし、親が決めるならば、失敗したときは、子どもは親のせいだと思って、責任を取ることはありません。子どもが自分で決断して、自分で実行するというのが、本当の子育てだと信じます。創世記1章から3章までは、人間の創造について書かれています。神さまはアダムとエバに自由意思を与えました。そして、エデンの園の中央に、いのちの木と善悪の知識の木を生えさせました。神さまは「どの木からも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを食べる時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:16,17)と言われました。なぜ、わざわざ善悪の知識の木をはえさせたのでしょう?それは、二人が自分の意思で神さまに従うことを求めたからです。でも、それはとても危険であり、自分の意思で逆らい、罪を犯すこともできるということです。そこにサタンの化身であるへびが現れ、エバを誘惑し、アダムも食べました。もし、子育てのことを言うなら、神さまもある意味では、失敗したと言えるでしょう。首に縄を付けてでも、間違ったことをさせないようにしたなら、堕落しなかったかもしれません。しかし、そうなると家畜や動物、あるいはロボットのようになります。彼らは自分で責任を取る必要はありません。すべての失敗は持ち主の責任になるでしょう。神さまは危険を冒してでも、人間が自分の意思で、神さまに従うように創造されたのです。

 ですから、親が自分の価値感を押し付け、子どもの自由意思を曲げさせてはならないということです。昔は「教育ママ」という人たちがいました。現代もいると思いますが、高学歴を押し付けます。レベルの高い学校に入って、良い会社や政府高官になるなら幸せになれると考えているからです。ある母親たちは、幼稚園のときから、小学校、中学校、高校、大学…お金とエネルギーをかけて勉強させます。ある人たちは、母親が望んでいたような偉い人になるかもしれません。ところが、そうならなかった場合は、ひきこもりになり、親を恨むようになるでしょう。私は現代の引きこもりの人たちの中には、そういう人たちがいると信じます。あるところまで、上手く行っても、病気になったり、何かの不幸が起ったとき、立ち直ることができないのです。また、アスリートの親が子どもにかつて自分ができなかった夢を押し付ける場合があります。レスリング、卓球、野球、ボクシングなど、テレビに出てくる選手たちの背後には、父親か母親がいます。音楽もそうかもしれません。プロのクラシック演奏者が、子どもにも同じことを習わせます。御稽古ではなく、一日何時間も、練習させ、子どもの自由を奪います。みんながみんな悪いとは言いません。いわゆる英才教育というのもあるからです。しかし、それは紙一重であり、ドロップアウトする恐れが高まります。つまり、親が敷いてくれた線路を、子どもがそのままちゃんと走れるかどうかです。子どもは反抗期というのがありますから、馬や牛のように去勢でもしなければなりません。もし、そのようなことをするならどうなるでしょう?

 親があまりにも子どもに干渉するならどうなるでしょう。小学校に着ていく服まで親が決めます。年頃になったとき、何であんな友達を付き合うのなんて言います。親が気に入るようなボーイフレンド、ガールフレンドでなければなりません。そればかりか、結婚相手までも親が気に入るかどうか心配します。「そんな親子がいるのか?」と疑うかもしれません。だいたい、そういう子どもは過食症になったり、リストカットをするようになります。李光雨師は、あまりにも結びつきの強い親子を「親子パック」と呼んでいました。母親と娘の親子パックを良く見かけますが、姿かたちもそっくりなんです。二人はまるで友達のようです。仲が良いというのは良いのですが、母親のコントロールが強くて、母親の意のままに生きています。その娘が結婚しても、何か問題があると、すぐ実家に帰って親と相談します。夫よりも、親の言うことを聞きます。創世記2:24「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」と書かれています。親離れ、子離れができないのは子育ての失敗としか言えません。テレビで見たことがありますが、豹という動物がいます。あるときになると、親は子どもにエサを与えません。自分で狩りをして捕るように仕向けます。子どもの豹は何日も、獲物を取ることができず、餓死する場合だってあります。ひきこもりなんていうことはありません。親が、なまじっか経済力があるので、子どもをひきこもらせてしまうのです。私の家は父が酒乱で母や私たちを良く殴りました。学校では先生からよく叱られました。お前のようなヤツは、学校に来るなと何べんも言われました。身の置く場所、心を休める場所がありませんでした。ですから、学校から帰ると川にさかなつりに良く行きました。クリスチャンになって、やっと、神さまのふところでやすらぐことができるようになりました。

 自由というのは、責任が伴います。親は、ある程度、助言しても構いません。しかし、最後は自分で決断させるのです。親自身も何べんも失敗して痛い目にあいました。だから老婆心で、失敗しないように、助言し、うるさいことを言うかもしれません。でも、自分がそうであったように、人間は失敗から学ぶ愚かな生き物です。痛みを通して学ぶ、そのようになっているのです。もちろん、取り返しのつかない失敗もあるでしょう。でも、その前に、神さまを信じて、神さまと共に歩むという信仰を与えているなら取り返しのつかない失敗はありません。たとえ命を落としても、天国で会えるからです。確かに、「信仰を持つ、持たない」は子どもの自由かもしれません。しかし、イエス様を信じないで滅びに行っても良いと思う親はいないでしょう。そこには神さまの助けと恵みが必要です。1つの知恵として、反抗期が来る前の小学校にイエス様を信じて、洗礼を受けさせるのが良いと思います。半分押し付けであっても、滅びに行くよりは増しです。自由意思のことを言っているのに、矛盾しているような感じがします。でも、子どもが親元を離れる時が必ずやってきます。そのとき、イエス様と一緒に生活する、イエス様をたよって生活をする。これが一番であること思います。

3.是認してあげる

 是認するとは、「受け入れる、認める、承認する」ということです。日本では、親がこどもをほめるということが本当に少ないと思います。「ほめるとつけあがって、なまけてしまうから」というのが理由なようです。子どもは親が「良くやったねー、すごい」と言われると、もっとがんばるものです。逆に「まだまだ、だねー」とか「もっと頑張れるはずだ」みたいに言うと、劣等感から励む、業績指向の子どもになってしまいます。私は8人兄弟の7番目だったので、認めてもらいたくて一生懸命やりました。しかし、長男と長女には優秀過ぎて、下の兄弟は卑屈になりました。客観的に優秀かどうか分かりませんが、両親はよく長男と長女を自慢していました。そのようなわけですから、私はパフォーマンス指向に走り、目立ちたがり屋になりました。他の人から認めてもらいためです。イエス様がヨルダン川でバプテスマを受けると、父なる神さまがこのように言われました。マルコ1:11そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」このことばは、イエス様のメシヤとしての就任式のためです。イエス様はまだ何もしていません。しかし、父なる神さまは御子イエスに「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われました。つまり、何をしなくても、御子イエスの存在そのものを愛し、存在そのものを喜んでいるということです。イエス様は最初から、父なる神さまから是認されていました。ですから、イエス様は父かる神さまから、認めてもらうために、ミニストリーをしたのではありません。この考えはとても重要です。私たちはパフォーマンスに走るのは、だれかから認められたいからです。認められないならがっかりする。それだったら、動機が汚れています。

 ジョエル・オスティーンの本に書いてありました。ある牧師が大学生のとき、フットボールチームに所属していました。彼は大活躍して、何度もチームが勝利を収めました。ところが、彼の父親は一度もゲームに観戦しに来なかったそうです。彼が牧師になっても、父は認めてくれませんでした。そして、父が病院で危篤状態になりました。息子とことばも交わすこともなく、亡くなりました。後から、主治医が彼に告げました。お父さんはあなたのことをよく自慢していましたよ。大学時代にはフットボールの名プレイヤーであったこと、そして、今は神さまの働きをしていることをね。それを聞いたとき、彼は大泣きしました。そうか、お父さんはわかってくれていたんだと知ったからです。でも、もしそうであったなら、生きている内に息子に告げるべきだったでしょう。英語で、「誇りに思うよ」はI’m proud of you.です。このことばは、母親よりも父親が子どもに言う方が何倍も効果があります。残念ですが、私は一度も自分の父親からこういうようなことばを聞いたことがありません。私が26歳のとき、聖書学院で英語の弁論大会がありました。3,4分のスピーチで自分の救いの証をしました。残念ながら入賞はできませんでした。そのとき、シェルトン先生が近づいて来られproud of youと言ってくれました。本当にうれしかったです。なぜなら、父親の代わりに言われたような気がしたからです。もし、子どもが両親から認められていたなら、学校や社会に出てから、馬鹿にされるようなことがあっても大丈夫です。私は認められているという自負があるからです。ひきこもりになる子どもは、入学や就職で失敗したためにアイディンティテイの危機に陥るからです。何かできるか、できないかで自己価値は決まるわけではありません。私の存在そのものに価値があると知っているからです。エペソ6:14「では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け…」とあります。英語のある聖書は正義の胸当てではありません。breastplate of approval「是認の胸当て」となっています。つまり、自分は神さまから認められているという信仰です。

 心理学者は、たとえ大人であっても、内側に子どもがいると言います。それをinner childと言います。私も家内から何かのことで責められると「うるせー」とか言います。それは大人である私ではなく、内側のinner childが反応しているのです。ですから、きょうの教えは、子育てだけではなく、自分自身を育てるためにも有効です。私たちは社会的にひきこもっていなくても、精神的にひきこもっている可能性があります。つまり、本音を隠して建て前で生きているかもしれません。それでは、ひきこもりのような不自由な生活になってしまいます。ですから、私たちは子育てだけではなく、自分自身にも適用すべきであります。第一は「かわいがる」第二は「自由を与える」第三は「是認してあげる」ということです。ひとまとめにすると、自分自身を励ますということです。たとえ世の中全部が、敵に回っても、自分自身を見捨ててはいけません。聖書にその根拠が記されています。ローマ8:31「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」と書いてあります。ジョエル・オスティーンは、「神さまと私でmajority大多数」と言いました。アーメンです。神さまが味方であるなら、恐れる必要はありません。特に日本人は世間体、人の目を恐れて生きています。これも1つのひきこもりの原因になっています。「人はどうでも良い」とは言いませんが、神さまの御目のもとで生きれば良いのです。なぜ、そこまで言えるのでしょう?それは主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださったからです。私たちの罪はすべて赦されています。ですから、悪魔が私たちを責めても恐れる必要はありません。「キリストのもとに行け!」と言えば良いのです。

 免疫力があれば、簡単には病気にはなりません。子どものときから、十分に可愛がられ、決断する自由を与えられ、是認してもらった人は精神的な免疫力があります。そういう人は簡単には挫折しません。倒れても、立ち上がります。その人は自信をもって生きているので、多くの友人や追従者も得ることができるでしょう。しかし、そのような境遇で育った人は、そんなにいないのではないでしょうか?虐待を受け、それがトラウマになり自己憐憫に陥っている人もいるでしょう。なにくそと、怒りをバネにして生きる人もいるでしょう。だれも信頼できず、精神的に引きこもっている人もいるでしょう。でも、大丈夫です。イエス様が死人をよみがえらせたように、そういう人たちもよみがえらせてくださいます。イザヤ61:1「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」アーメン。