大川牧師が「私は一日に旧約と新約を1つずつ飲む」とおっしゃいました。それは聖書のことですが…。聖書はお薬を否定していません。一般恩寵として飲んでも構いません。私たちはお医者さんが薬を処方したのであれば、それは飲むべきです。神のことばも同じで、「それは前に聞いたことがある」という態度を取っているなら、神の言葉はあなたに益をもたらすことはないでしょう。神のことばがあなたに益をもたらすためには、あなたはそれにとどまっていなければならいのです。
1.良く聞け
神のことばは私たちの癒しの源です。しかし、聖書のことばであれば、どれでも良いというわけではありません。あなたのためのみことば、私のためのみことばがあります。聖書はすべて神のことばであり、それはロゴスと呼ばれています。でも、ある時、癒しを求めて祈っていると、心に感動を呼び起すことばがあります。「ああ、それは神さまの約束だ」と思えるときがあります。それを私たちはレーマと呼びます。私は頭をぶっつけてから、調子が悪くなった時がありました。特にワープロの変換ができなくなり、普通の3倍くらいかかりました。いくら、気のせいだと頑張っても、だめなものはダメなんですね。でも、私の落ち込みは数日間でした。それで、すぐには良くなりませんでしたが、肉ではなく、霊によって歩むことにしました。私が癒しを信じる最も大きなきっかけは「ケネス・へーゲン師」の本です。先生の本は、約40冊を持っています。私は先生を信用しています。いや、先生を信用しているというよりも、先生が信じておられるイエス様を信じています。ですから、今回、このような事態になったときも、癒しの信仰に留まり続けることにします。ケネス・へーゲン師は、このようにおっしゃっています。「神は、彼のみことばの内にある命と力を私たちが理解するように願っておられます。神が世界を造られたとき、彼は地球と空と、広大なこの宇宙とを、言葉をもって創造されました。しかし、神のことばは、病気を含めて、あなたの人生で起るどんな状況や環境に対しても、決して失敗することのない治療薬(救済策)なのです。箴言4:22「見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。」アーメン。
私たちは神のことばをどのくらい信じているでしょうか?ある人は、薬は信じているけど、神のことばはあまり信じていないという人もいるでしょう。神のことばは、私たちが信じるための根拠です。ケネス・ヘーゲン師のことばです。「事実、神のことばは命と健康と癒しで満ちており、それは薬のように作用します。何のためでしょうか?あなたのあらゆる肉のためです。箴言4:20前半『わが子よ。私のことばをよく聞け』と言っています。これは、神のことばに、脇目を振らずに注意していなさい」という意味です。つまり、神のことばをあなたの心の内に入れ、みことばに反して高くそびえようとするどんなものもあなたの心から取り出しなさい、ということです。20節の後半は、『私の言うことに耳を傾けよ』と言っています。これは、あなたの耳という門から神のことばを取り入れること、すなわち、神の言っておられることに対してあなたの耳を開くことです。もし、あなたが神のことばに注意を払い、彼が言っておられることにあなたの耳を開いているなら、それ以外の恐れや疑いや不信仰などには心を閉ざしているのです。」
私はこの説教を準備しているときは、もっとも悪い時でした。5月19日の聖日礼拝をなんとか二回終えることができました。その後、ミニストリーの時を持つ予定でした。ところが、祈りのことばが全く出て来ません。逆に皆さんから祈ってもらうような状況でした。さらに、ラザロ霊園に、塩生兄の運転で行きました。普通だったら、語るべきことばが与えられます。正直、何とかなると思っていたのですが、メッセージが出て来ません。こんなのは初めてです。月曜日はワープロを打ってみましたが、最悪の状況でした。5月の連休に21世紀教会で学んだものをワードに打ちました。完成したら27ページありました。ものすごく時間がかかり、「ああ、これは重症だなー」と思いました。表面では分かりませんが、頭の内部が壊れている感じでした。でも、落ち込みは数日間でした。あとは、主に委ねました。「人間の頭というのは、このようなものなんだなー」と思いました。そういう中で信仰を持つというのは大変なことであります。私は肉で頑張っているつもりはありません。でも、肉なんでしょうか?(次の週の月曜日、入院手術しました)
牧師でも信仰を失ったらただの人です。正念場というのがあります。私も信仰に食らいついて、行くしかないと思いました。最初のポイントは「聞く」です。しかも、「よく聞く」ということです。ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」このところに、「キリストについてのみことば」とあります。はっきりと目的格があります。はっきりと、キリストについてのことばだと書いてあります。つまり、信仰がキリストの言葉によってやって来るということです。もちろん、みことばを聞くだけでも良いと思います。しかし、キリストについてのことばが、すばらしいのです。私がイエス様を信じたとき、イエス様の声に聞き従いました。迷ったときもありましたが、「イエス様、イエス様」と呼んだら、元に戻ることができました。普通は、迷うことはありません。家内も私も信仰に迷うことはありません。でも、今回は特別なような感じがします。初心に帰るとありますが、イエス様のおことば、信仰に聞くことが重要です。
いろんな癒しがありますが、神のみことばが最も基本的です。聖霊の賜物でも癒されます。どこが違うかというと、神さまがみことばを送ると、約束のことばですから必ず成ります。しるしや兆候がなくても、癒されるときは癒されます。ジョエル・オスティーンが良く言うのですが、時が満ちてそうなります。私たちは自分の方から見えません。しかし、神さまはちゃんと予定されています。だから、その時が来ないと分かりません。イエス様がみことばを送って、そのとおりになったことが何度もあります。私も癒しも薄皮をはがすように癒されるか、突然、癒されるか分かりません。癒される時は訪れます。私たちは癒しはこちらから来ると思っていますが、本当は神さまの方からやって来るのです。
2.目から離さず
次に、私たちは神のことばに目を留めるべきであります。箴言4:21「それをあなたの目から離さず」と言っています。このみことばは、私たちが他のどんなことも決してしないで、みことばを見続けているべきであるという意味ではありません。これは、私たちが環境に目を留めるのではなく、神のことばに目を留めるべきであるという意味です。良い時でも悪い時でも、私たちはただ、神のことばに、神が言っておられることに目を留める続けるべきです。神のことばには力があります。神ことばには癒しもあります。アーメン。私たちの信仰はどこからやってくるのでしょうか?見ることからやって来ます。ペテロはイエス様に「おことばを」求めました。イエス様は「来い」とおっしゃいました。ペテロはイエス様のレーマ、おことばをいただいて、水の上を歩きました。ところが、ペテロは風を見て怖くなり、沈みかけました。目をそらしたのです。急に理性の方が勝って、「自分が水の上を歩くなんておかしい」と思ったのです。そのとたん、沈みかけました。イエス様はすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」イエス様から目を離してはいけないのです。奇跡はイエス様のことばからやって来るのです。
ケネス・ヘーゲン師は「多くの人は神さまが自分たちを癒したいとは考えていない」と言われます。どういう意味でしょう?マタイ8章には2つの癒しの記事が書かれています。第一はペテロのしゅうとめです。ある一部の人々をいやすこと、あるいは選ばれた少数の人々を癒すことは主のみこころだと信じる人は多くいます。ところが彼らは、だれでも癒すことが神のみこころだ、と信じていないのです。第二はイエス様のところにやってきた群衆です。「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」この箇所を見ると、イエス様は「病気の人々をみないやされた」と書かれています。イエス様は深く憐れんで病人たちに癒しの奉仕をなさいました。聖書は「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」と言っています。イエス様が群衆にいやしの奉仕をなさったのも、この真理に基づくことでした。ケネス・へーゲン師が今まで長い間、癒しのミニストリーに携わってきましたが、彼が見出したことは、人々が癒しを受けられるようにさせるために最も困難な点は、「癒すことは神のみこころである」ということを彼らに納得させることです。彼らの頭のどこかに、「神が人々を癒しておられることは分かっているが、私を癒すのは神のみこころいでないかもしれない」という思いが生じていることがよくあるのです。
聖書を読むと癒しが特殊な場合とだれでも癒される場合と2つあります。ヨハネによる福音書を見ると、癒しがとても個人的です。ヨハネはそれを「しるし」と呼んでいます。あえて際立った奇跡を集めています。そして、それがメッセージになっています。ヨハネ9章には生まれつき盲人の癒しが記されています。何と、1節から41節です。おそらく、癒しの中でもっとも紙面をさいているのではないでしょうか?ここを見ると、反対しているのがユダヤ人です。お母さんを呼んでも、本人に聞きなさいと言うだけです。ユダヤ人は「あの人はお前に何をしたのか。どのようにしてその目を開けたのか」と聞きました。癒された盲人は、「盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたことも有りません」と答えました。最終的に、この人はイエス様と出会って、「主よ、信じます」とイエス様を礼拝しました。つまり、彼は肉眼だけではなく、霊の目が開かれたのです。それに対して、イエス様は彼らに「もしあなたが盲目であったなら、あなたに罪はなかったでしょう」と言われました。キリスト教会でもこのメッセージをいたします。しかし、多くの場合、生まれつきの盲人が癒されたのは特別な出来事でありました。確かにイエス様は生まれつきの盲人を癒されたけど、それは霊的なメッセージを語るためであったと言うのです。つまり、人々はすべて霊的に盲目であって、イエス様はそのことをおっしゃりたいのだということです。冒頭で、「神のわざがこの人に現れるためです」とおっしゃいました。しかし、三浦綾子先生は「この人の目が開けられても、開けられなくても、どちらでも良いことだ」とおっしゃいました。しかし、もし、そうであったならヨハネ9章の長いストーリーは無駄になります。この男性の生まれつきの盲人が癒されたので、神のわざがこの人に現れたのです。私たちは肉体の癒しのメッセージと霊的メッセージが2つあることを忘れてはいけません。
ヨハネ福音書以外に記されている病の癒しは普遍的で一般的です。たとえば、マタイ9章の前半には長血を患った女性と、会堂管理者の娘のよみがえりがしるされています。ところが、後半にはもっと広範囲のことが記されています。マタイ9:35-37「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。」このところには、はっきりと「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された」と書かれています。例外がありません。「あらゆる病気、あらゆるわずらい」です。このところにはイエス様の憐みがほとばしり出ています。弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない」とおっしゃったのは、宣教だけではなく、癒しの面でもおっしゃっているのは間違いありません。私たちは癒しには二種類あることを忘れてはいけません。そのとき大切なのは、自分がクリスチャンとして癒される方に入って入ると理解すべきです。パウロのように「肉体のとげ」のように考えてはいけません。パウロは13の手紙を書くほどの人でした。だから、高慢にならないようにサタンから遣わされたのです。私たちは何様でしょうか?私の頭の病気も半分は事故であり、半分はうっかりです。でも、神さまは私をかわいそうに思って下さり、翼の中に入れてくださいます。どうぞ、神さまを冷たい裁判官のように考えないでください。あなたを癒すことは神のみこころです。なぜなら、癒しは神のあがないのご計画の中にあることだからです。アーメン。
3.心のうちに保て
冒頭でみことばは薬のようなものですと申し上げました。それを私たちの心の真中に保つことです。これらの使用法はどれも、継続して、続けて行うことを意味しており、一度だけ行うのでも、時たま行なうのでもないことが含まれています。あなたが昨年、病気になり、医師があなたに飲ませるために、ある種類の薬をあなたに処方したとします。あなたは彼にこう言わないはずです。「だめです。先生!私はその薬を飲むことはできません。それは去年、飲みました!」。ところで、あなたが今年もまた薬を必要としているのなら、去年服用したことが現在のあなたにほんの少しでも益となるわけではありません。神のことばも、それと同様です。たとえば、あなたが「それは前に聞いたことがある」という態度を取っているなら、神の言葉はあなたに益をもたらすことはないでしょう。神のことばがあなたに益をもたらすためには、あなたはそれにとどまっていなければならいのです。あなたは神の薬を飲み続けなければならないのです。おわかりのように、聖書は、信仰こそ勝利であると言っています。そして、信仰は神のことばを聞くことによって来るのであって、それを聞いたことがあるということによって来るのではないのです。
では、心のうちに保つとは具体的にどう言う意味でしょう?ケネス・へーゲン師は大きく分けて2つあるとおっしゃっています。第一は悪魔の試みです。悪魔がその人の経験が本物かどうか彼を試みます。ルカ11:24-26「汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」もし、その人が不注意な生活を続けて、自分の生活を霊的なもので満たしていないと、その悪霊が増員して戻ってきて、他の悪霊どもを自分と一緒に住まわせて、その人を七倍強力にコントロールするようになるのです。このように、解放された人々が神のことばの教えを学び、それに忠実に従うことは、絶対に必要なのです。しかし、指摘したいポイントはこれです。ちょうど、サタンが人々を試み、人々の救いや癒しが本物であるかどうかという点に関して疑いをかけます。サタンは人々の体の癒しが本物であるかどうかという点に関しても疑問をもたらそうとするのです。サタンは、癒された人の体に、さまざまな兆候(症状)を生じさせようとするのです。もし、その人が、その悪しきささやきを受け入れれば、疑いを通して苦痛が戻って来る道が開かれてしまうのです。しかし、その悪魔の前進を拒み、自分の解放について述べている神のことばに立つなら、その人は疑いも兆候も消し去ることになるのです。このとき重要なのは、自分の解放を証することです。イエス様は「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」とおっしゃいました。
第二は神の健康です。癒しについての偉大な真理は、クリスチャンならだれでもが理解しておくべきことです。私たちが病気になる時、いつでも神は私たちを癒してくださり、それは神のみこころです。しかし、神の完全なご計画は、私たちが次々と癒しの必要を持ち続けることではなく、Ⅲヨハネにあるように、神の健康と力によって生活することです。Ⅲヨハネ3:2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」神は私たちの体力を鷲のように一新してくださいます。神の最善は、神が幾度も幾度も私たちを癒すことではなく、私たちが「健康な状態にとどまる」ことです。これまで私たちは、すでに病気にかかっている人々の癒しに関心を払って来ましたが、神の子どもであるあなたに対する神の最善は、本当は癒し以上のものです。神は、癒しについて契約をお与えになったとき、癒しよりも神の健康を強調なさいました。「もし、イスラエルの民が神の命令に忠実であれば、エジプトの民の上に臨んだ数々の病気はイスラエルの上に臨まない」と神は言われました。すなわち、民が主に仕えるなら、主は彼らを祝福して、「あなたの内から病気を取り除いて下さる」ということでした。今日、クリスチャンたちの間に非常に多くの病気が存在している理由は、神の約束には健康についての約束もあるのに、繰り返し癒しを受けることばかりに神の約束を限定してしまっているからです。もし、私たちが神の命令に従順であり、神と交わって生活するなら、神の健康を受けることは私たちの確かな権利なのです。アーメン。
箴言4:22「見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。」きょうは3つのこと(耳、目、心)を学びました。健康は神さまからのプレゼントです。でも、それはキリストが十字架であがないとってくださったからです。悪魔は「それをあなたのものではないと」言うでしょう。そうするとあなたは、症状を優先させてしまいます。症状とは肉体の感覚であり、信仰とは関係ありません。むしろ、信仰とは肉体の感覚が何と言おうとも、むしろ逆であっても信じるのです。一度、肉体の言うことを聞くと、どんどん螺旋階段のように、下にはまってしまいます。私たちは肉体が何と言おうとも、信仰がやってきたら、信仰に聞くべきです。そうすると、必ずや信仰が勝利する時が来ます。私たちもう1つの感覚、信仰に聞かなければなりません。しかし、信仰は正確には感覚ではありません。耳には聞こえずとも、目には見えずとも、そして心に浮かばなくても信じるのです。私たちは御国の霊的なものを何よりも拠り所としています。パウロも言っています。「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(Ⅱコリント5:7)。私も現在、いや、将来、どのようになるのか分からないでメッセージを作っています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)。はっきりいえることは、最善以下にはなさらないということです。私がこのように霊的な油注ぎが枯渇していても、神さまが私を支えておられます。以前は霊的油注ぎがすべてだと思っていました。しかし、霊的油注ぎがなくても、主が私を支えて下さいます。神さまは私たちの知性以上のお方です。神さまは私たちの霊的油注ぎ以上のお方です。主に栄光がありますように。