私たちは毎週ここに集まって礼拝をささげています。礼拝は個人でもできますが、このように聖徒たちが集まって礼拝をささげるのは特別な意義があります。現代はインターネットや衛星放送での礼拝もあります。孤島に住んでいる人や、近くに教会がない場合はそれでも結構でしょう。でも、時間とお金をかけて、そこまで行って礼拝をささげるというのはとても聖書的であります。なぜなら、神さまは礼拝する私たちの中に臨在し、ご栄光を現してくださるからです。私たちの神さまは個人の神であるとともに、神の民という共同体の神でもあります。
1.天の礼拝
ヨハネ黙示録4章以降に、天における礼拝の様子が記されています。まもなく、この天の礼拝は天の法廷へと移って行きます。つまり、天においては「礼拝は、裁判に付随する重要なことがら」なのです。天で礼拝される小羊は礼拝の対象であり、そして王なる裁判官でもあります。小羊は父なる神さまと御座に座っておられます。地上の裁判と同じように、陪審員、証人、検察官、弁護士たちがおり、いろんな評決がなされることでしょう。地上と違うのは、4つの生き物と24人の長老、無数の天使たちがいるということです。彼らは審判と礼拝の両方を司るのかもしれません。いろんな訴えがなされ、それらの1つ1つの評決が下されるのでしょう。では、どのような礼拝がなされているのでしょうか? 9節には「あらゆる部族、国語、民族、国民の中から神のために贖われた人々がいる」と書いてあります。次には御座の生き物です。4つの生き物とありますが、これはエゼキエル書にも出てきますが、天使のような存在かもしれません。次は長老たちです。12人ではなく、24人です。おそらく、彼らも裁判のときに審判をくだす人たちかもしれません。なぜなら、弟子たちにイエス様はこのように言われたからです。マタイ19:28「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」でも、黙示録には、二倍の24と書いてあります。イエス様の弟子たちの他に12人加わっているということでしょう。
万の幾万倍、千の幾千倍と言う、数えきれない御使いたちがこのように叫んでいます。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」「ほふる」とは、旧約聖書に出てきますが、祭壇の前で動物を殺すことです。殺して祭壇に血を注ぎ、肉と脂肪を火で焼いて煙にします。いろんな犠牲をイエスさまは神の小羊として、それらすべてを成就しました。エホバの証人はキリスト教の異端ですが、彼らは「イエスは神ではない」と言います。しかし、ここでは神さまとともに礼拝されています。黙示録5:12-14「また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ」と書いてあります。聖書では神以外のものを礼拝してはならないという戒めがあります。しかし、天上においては、御座にすわる神さまと、小羊であるイエス様の両者が礼拝を受けておられます。このところから分かることは、イエス様は「力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方」だということです。同時にこの意味は、イエス様には「力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光」があるんだということです。そして、このお方を賛美して礼拝することは至極当然であるということです。さらによく見ると、イエス様を礼拝しているのは贖われた人間だけではありません。「天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物」と書かれています。おそらく、鳥、動物、はうもの、魚…創世記に記されている神の被造物です。すべての被造物が主をあがめるとは何ということでしょう。
しかし、黙示録6章から急に様子が変わります。賛美と礼拝もささげられていますが、審判もなされます。小羊が7つの封印を1つずつ解いて行きます。それに従って、地上ではいろんな裁きが起こります。福音書で預言されていた天変地異です。おそらく、地上では反キリストが猛威を振るうので、迫害の中で、たくさん殉教する人たちが起るでしょう。彼らはさばきを下して下さいと叫んでいます。黙示録6:9-11「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい』と言い渡された。」彼らは血の殉教者たちです。彼らは「いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか」と叫んでいます。私たちは、この叫びが天の法廷でなされていると想像すべきです。そこで裁判がなされ、評決が下されました。「人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」ということです。
私は2019年4月末に、テーブルの解体中、金具で頭を強く打ちました。女医さんがCTの画像を見て「せっかく、治ったのに何があったの?」と叱られました。「大丈夫かな?」と思いましたが、1か月後、思考能力が失せて、5月末に2度目の手術を受けました。格好が悪いというか、何であんなことになったのかベッドで後悔しました。でも、退院する日の早朝、幻を見ました。私は巨大な礼拝堂のベンチで横たわっていました。良く見ると教会のようですが、講壇が1つではなく、周りの壁にいくつも、くっついていました。四角い壁ではなく、八角形かもしくは円形でした。すごく天上が高くて、天井桟敷もありました。だれかに「何人くらいいるの?」と聞きました。「5000人くらいかな」という答えが返って来ました。私は目覚めてから、「これはリバイバルの教会だ。神さまが落ち込んでいる私を励ましてくれたんだ」と思いました。でも、あとから講壇がいくつもあったのは、24の長老たちの裁判官の席ではないかと思いました。そうです。私は天の法廷と天の礼拝を垣間見ることができたのでしょう。怪我の功名とはこのことです。
2.地上の礼拝
天の法廷では、この地上の法廷と同じようにあらゆる裁判がなされ、その後、評決が下ります。しかし、天の法廷は地上と比べることができないくらい、力と権威があります。そして、天の法廷を満たしているものが礼拝です。ロバート・ヘンダーソンは「礼拝は議事の進行と評決に敬意を表する雰囲気をつくる大事なものである。そのため、私たちも天の法廷の礼拝に加わるように召されている」と言っています。つまり、地上の礼拝が天の法廷の礼拝にジョイントするように召されているということです。ヘブル12:22-24「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」このところに、「長子たちの教会」とありますが、原文は「普遍的な集団と天に登録されている教会」となっています。その集団は数えきれないほどの人たちの集まりです。黙示録7:9「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた」と書いてあります。前のポイントでも言いましたが、天の法廷では、礼拝と裁判が同時になされているということです。そして、地上においてはいろんなさばきが起こっているということです。
ロバート・ヘンダーソンは『天の法廷』という本でこのように述べています。「天の法廷においては、御座の周りに礼拝がある。礼拝は裁判を進行するための一部となっている。礼拝は統治するときの核となっている。礼拝は、実際に、天の法廷が運営する雰囲気を創り出す。」つまり、私たちがこの地球において礼拝するとき、天の法廷における普遍的な集団に加わっているのです。たとえ、私たちの足がこの地上にあっても、霊においては天に昇り、天の法廷の大群衆の礼拝の一部となっているのです。私たちはしばしば、礼拝しているときに「神さまの臨在が訪れるように」と言います。私は別の概念があると思います。おそらく、主の臨在はそんなに訪れるものではありません。むしろ、私たちが「昇る」あるいは「天の法廷の御座のところに行く」のだと思います。私たちが礼拝をするとき、天の法廷の御座の統治のプロセスの中に入るということです。私たちが法廷において場所をいただき、天の評決の一部になるのです。そして、この地が神に触れられ、変えられるのです。礼拝は、私たちが高揚して涙を流すだけではありません。私たちが礼拝する時は、天の礼拝にジョイントしているのです。私たちは天の法廷における統治を、行使しているのです。私たちは黙示録の出来事は将来のことであって、今ではないと思っていました。でも、ヘブル12:22「神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいている」と書いてありました。さらに、ヘブル12:1「しかも、こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです」とあります。天に帰った聖徒たちは、私たちを応援しているだけではなく、神さまを礼拝し、さらには裁判の席で私たちのためにとりなしてくださっているのではないかと思います。
私たちの地上の礼拝が、天上の礼拝に加わっていると見なすならば、礼拝の持ち方が全く違ってきます。日本の全教会の平均礼拝出席者数は35名くらいです。しかし、毎週25名くらい出席している教会が最も多いと言われています。少人数で寂しいと思っている教会がたくさんあるのではないでしょうか?違います。私たちの数は少なくても、天上の礼拝に加わっているのです。目をつぶると、「無数の御使いたちの大祝会…あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」と共に礼拝しているのです。アーメン。私が病院で見た夢は、小さ目だったようです。アフリカなのでは100万人の集会があるようです。ボンケ師やコレンダ師のビデオ・クリップを見たことがあります。天の礼拝はそれ以上に多いのですから、想像するのが難しいです。もう一度、ヨハネ黙示録5章からお読みいたします。ヨハ5:8-14「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」
このところから分かることがいくつかあります。第一は、地上の教会が礼拝を始めたのではなく、天の礼拝が先であるということです。オリジナルは天の礼拝です。神への礼拝を願うのは、礼拝が天における裁判に必要であり、その源なのです。第二は、私たちの礼拝は天の御座における礼拝の一部であり、地上で分かれてするのではありません。私たちが礼拝するとき、天の法廷に入り、正しい判決がなされるように雰囲気を作り出すのです。そのとき、私たちは神の臨在が地上に現れることを経験することができます。ヘブル12章にも「私たちが近づく」と書いてありました。つまり、私たちが天の霊的な次元に移動するということです。そのことによって、地上の領域に神の御座で起っていることが同時に起るということです。私たちは天の教会と触れ合うことにより、この地上に神さまのみわざが起ることを期待することができます。主の祈りのごとく「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」ということが実際に起るということです。アーメン。
3.地上の教会の使命
天においては法廷が開かれています。御座には父なる神さま、その右側には王なるイエスがおられます。4つの生き物と、24人の長老たちが御座を囲んでいます。さらには、数えきれない御使いと天に凱旋した聖徒たちが賛美しています。また、殉教者たちが早くさばきをくだしてくださいと叫んでいます。そして、私たち地上の教会はその法廷の席と礼拝に招かれているのです。主の臨在を天から引き下ろすのではなく、私たちが天上に引き上げられるのだという真理は目が開かれます。しかし、この地上ではどうでしょうか?悪魔が自然界と未信者を拘束しています。政治や教育までも、神を全く恐れず、人間中心の生き方をしています。多くの人たちは神以外のものを礼拝し、占いや魔術に頼っています。だから、悪魔はさまざまな人間の罪を神の御前で訴える権利を未だ所有しています。だから、主の祈りでイエス様は「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6:9)祈れとおっしゃいました。これは言い換えるなら、地上に天の法廷で決定されたverdicts評決が下るように願えということです。
しかし、私たちは地上の教会は貧弱で、日本は1%もクリスチャンがいません。それなのに、たくさんの教団教派が存在して、なかなか一致することができません。日本では毎週25名の礼拝を持つ教会が最も多いと言われています。そんな弱小とも言える教会がこの世に対して、何ができるのでしょうか?しかし、ここにグッド・ニュースがあります。アブラハムが主の前で、とりなしをしている記事が創世記18章に記されています。実は、主と御使いはソドムとゴモラの罪が天に達しているので、滅ぼしにやってきたのです。でも、その前にアブラハムに「どうしようか?」と相談にやって来ました。神が人間に相談するとは何事でしょう?主はかつて、アブラハムを通して国々を祝福すると約束しました。だから、このことを伝えて、アブラハムにとりなしてもらいたかったのです。アブラハムは「町には50人正しい者がいるかもしれません。それなのに悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか?」と言いました。主は「50人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全体を赦そう」と言われました。アブラハムは心配になり、45人、40人、30人、20人、最後に10人見つかったら滅ぼさないでくださいと談判しました。アブラハムは「おいのロトを含めて10人はいるだろう」と思って、やめました。ところが、10人いなかったので、ソドムとゴモラは天から下ってきた硫黄の火で滅ぼされました。しかし、主はアブラハムの祈りをきかれ、ロトとその家族を救い出されました。ユダヤ人は捕囚の地で会堂を作ってそこで礼拝をしました。彼らは10人の男性が集まれば、集会を開くことができると決めていました。それは、アブラハムのこの物語から来ています。つまり、10人集まれば、そこは町の代表者の集まりとみなされるということです。その町の人が全部、祈らなくても、10人がとりなすことによって町が救われるということです。ということは、教会に10名以上集まれば、大丈夫であり、彼らの訴えが天の法廷に届くということです。
私たちはこのように集まって礼拝を捧げるのは何か特別な意義があるのでしょうか?旧約聖書ではダビデが契約の箱を天幕に運び入れ、レビ人に礼拝をさせました。レビ人をチームに分けて、24時間絶えることなく礼拝をささげさせました。ダビデは、そのことによって契約の箱のあるシオンから、神の臨在をイスラエル全体にもたらしたかったのです。つまり、ダビデが天幕で礼拝をささげることによって、天の法廷からの評決が下り、国を効果的に治めることができたのです。もし、私たちが天の法廷からすばらしいことがもたされることを望むなら、私たちは神さまを礼拝する必要があるということです。私たちの礼拝は神の御座のまわりでなされている礼拝とジョイントしています。だから、イエス様はヨハネ4章でこのようにおっしゃっていました。ヨハネ4:23,24「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」私たちがこのところで気づくべきことは、神さまは私たちが神さまを礼拝することを求めているのではありません。「礼拝者」を求めておられるのです。「霊とまことによって父を礼拝する」とは、神のご支配を受けている人たちが可能なのです。まことの礼拝は天の法廷における礼拝へと私たちを進ませます。私たちが天の礼拝とジョイントして礼拝すると、この地に天の雰囲気がもたらされます。同時に、天で下された評決がこの地にもたらされるのです。病が癒され、家庭が回復し、経済が祝され、町が変えられて行きます。なぜなら、この地を支配している悪魔の支配が退いて行くからです。
2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起こりました。その後、まもなくロバート・ヘンダーソンが天の法廷に関する夢を見たそうです。悪魔の主権と力が法的な力を得て、アメリカを攻撃できたということです。なぜなら、その時、アメリカのために祈っている教会や人々がほとんどなかったからだそうです。彼は夢から目覚めてはっきりわかったことは、次の攻撃が来るということです。彼は使徒的権威を信じている教会に連絡をして、そのことのために祈りました。はっきりと次の攻撃がいつ来るかを知り、共に祈ったことによりそれが避けられたそうです。私たちの神さまは御座におられます。主の祈りでは、私たちの父であると言われています。父が裁判長なのですから、私たちの訴えを父の心で受け止めてくださいます。私たちの礼拝は天の法廷が正しく運営される雰囲気を作ります。私たちの証や祈りも法的な履行と関係があります。でも、最も重要なのは、礼拝において神さまがどのようなお方なのか、宣言し、そのことをほめたたえることです。私たちは神さまの栄光、善、ご愛、聖さを宣言する礼拝者でなければなりません。私たちが教会として、天の法廷における他の声と同意しつつ、私たちも声を出して宣言するのです。天の法廷と地上の私たちが一緒になり、この地に神のみむねがなされるようにするのです。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。私たちもこの礼拝に加わっていることを感謝しましょう。天の法廷と合体する(ジョイントする)礼拝をこれからもささげましょう。