先週の続きです。私たちは弁護人として主を求めて来ました。主が私を弁護して下さる。間違っていません。しかし、神さまは私たちがそれだけではなく、裁判官として召していて下さることをご存じでしょうか?私たちには敵対する者がいます。それは私たちを日夜、訴えている悪魔です。悪魔は既に打ち負かされた敵でありますが、私たちの罪責感に訴えてきます。本来ならば、私たちはイエス様の血潮によって赦されています。でも、そのことを宣言しないために、敗北の中に置かれています。私たちは自分がだれであるかを知り、自分が弁護されるだけでなく、裁判官として立つことが許されているのです。
1.私たちを訴える悪魔
黙示録12:10「そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。『今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。』」問題は、このことが現在のことか、あるいは将来のことかということです。黙示録は将来のことを書いている預言書です。では、そのことが実現するまで、黙示録を待つしかないのでしょうか?私たちはキリストの復活を知っています。キリストはサタンに対して勝利を取られました。でも、まだ完成していないとはどういうことでしょう?このことを言い表すのはとても難しいことです。第二次世界大戦時、ドイツ軍が圧倒的に勝利を収めていました。ところが連合軍がノルマンディに上陸したときから形成が変わりました。連合軍は大勢の犠牲者を出しました。でも、その時から形成が逆転しました。なぜでしょう?戦略家はこれをD-dayと言います。1944年6月6日は、連合軍がノルマンディに「進撃を開始した日」です。それからドイツ軍はどんどん敗退していきます。やがて、V-dayが訪れ終結を迎えます。V-dayというのは「勝利の日」です。このことを考えますと、イエス様が十字架で勝利した日が、D-dayであります。これから先、教会が勝利していきます。掃討戦が続いており、クリスチャンも倒れるときがあります。パウロは「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみを共にしてください」(Ⅱテモテ2:3)と命じています。悪魔との戦いは世の終わりまで続きます。でも、勝ちは既に決まっているのです。ビル・ジョンソンも言っていますが、私たちは勝利するために戦うのではなくて、勝利から戦うのです。
私たちは悪魔の策略を知る必要があります。悪魔がもっとも、私たちを訴えるものとは何でしょう?それは罪でありますが、言い方を変えると「咎」であります。創世記4章で、カインは妬みのゆえにアベルを打ち殺しました。その時、主が仰せられました。「あなたは一体なんということをしたのか?聞け。あなたの弟の血が、その土地から私に叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた」と言われました。咎というのは、先祖から受け継いだ罪であります。そのために、土地が呪われて、実を結ぶことができなくなります。英語ではアドバンテージをとられると言います。アドバンテージというのは、「有利な立場、優位、優勢」と言う意味です。テニスとか卓球でそのようなことばを聞きます。つまり、1点敗けているところから戦わなければなりません。これは、個人の信仰生活にも言えることです。ある人との関係で、借りを作ってしまった。負い目であります。私は高校のとき、ボクシングで敗れた後で、負い目を作りました。試合で負けたというのでなく、万引きをしてボクシング部に泥を塗ったということです。あれから40年以上もたっているのに、きれいになったわけではありません。もちろん、イエス様によって罪赦されています。でも、負い目があります。この間、高校の同窓生会から「名簿買ってください」という連絡がありました。そのとき、「20年前に買ったので入りません」と言えば良かったのです。しかし、そのとき「はい」と言ってしまいました。結局、1万円を支払うことになりました。これが咎というものです。みなさんの中にも、「あのことに触れられると私は参ってしまう」と言うものはないでしょうか?アキレス健みたいなものです。自分の息子や娘、あるいは妻や夫、実家…あるのではないでしょうか?悪魔はそれをあなたの罪のように、訴えています。あなたはこれまで、どうか私を弁護してくださいと祈って来たかもしれません。確かに詩篇にはそのような箇所があります。私もそのように度々祈ってきました。でも、きょうはもう1つ上の祈りがあることをお伝えいたします。
1975-1979年、カンボジア共産党で「クメー・ルージュ政権」ポル・ポトが大量虐殺を試みました。人数がはっきりしていませんが、140万人位だと言われています。私はヴェトナム人の伝道者「ソファル・ウング」の伝記を読んでいます。1975年からプノンペンは激しい爆発に見舞われ、多くの人たちが死にました。彼はビジネスマンでしたので、ヘリコプターで国外脱出を図りました。ところが、その夜に空爆にあって20人が死にました。お兄さんがご両親に福音をシェアーし、ご両親が救われました。ソファル・ウングは劇的な聖霊のバプテスマを受けました。彼は説教者ではありませんでしたが、ジャナーリストでした。長い話を短くすると、この家族は大迫害を受けました。彼は英語ができたのでアメリカのスパイではないかと疑われたからです。彼は過酷な環境の中で福音を伝え、その群れが600人ほどになりました。ある時、共産党員によって野原に連れて行かれました。それは、トラクターによってみんなを埋めるためです。神さまはソファルに「そこを動かないで」と言われました。ところが信仰をもったばかりの人たちは恐れて銃殺されました。残った人は10名です。それから、迫害はさらに厳しくなり、一日、一食で、おじやみたいなものです。それを20日間過ごし、奇跡的に脱出できました。彼の体は衰弱しきってまともに歩けませんでした。しかも、彼の奥さんは荒野でお産しました。その時、光る天使が手伝ってくれたそうです。やがて、国境の向こう非難キャンプに導かれました。戦争が終わり、1980-1983年では6000人の人たちが集まりました。3つに分けて、10の集会を持っているそうです。まだ、彼の本は読み終えていませんが、悪魔が独裁的な政府を用いて残酷なことをしました。カンボジアの傷はまだ癒えてはいません。でも、いつまでも負い目では終わりません。必ず、キリストによるアドバンテージがもたらされます。なぜなら、悪魔は破れているからです。
2.キリストの血潮
ヘブル9:11-12「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」これまでは、動物の贖いは毎年、行われていました。大祭司が民の代表として、神聖な生贄を携えて贖いをまっとうしました。でも、世の終わり、キリストが完全な幕屋を通り、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。アーメン。それによって、罪の贖いが不要になったのです。ところが、人間が歴史の中で犯した、罪、正確には「咎」が正しいさばきを求めています。西洋では数えきれない宗教的な血が流されてきました。カトリックとプロテスタント、いろんな宗派同志の戦いがありました。日本でもカトリックの迫害がありました。戦後もありました。私たちはそういうことは過去の問題だからとないがしろにしてきました。でも、アベルの血が叫んでいるんです。ルカ11:50,51「それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』この血は犠牲者の血であり、サタンが訴えるのです。多くの人たちは「そんなの関係ないさ」と嘘ぶきます。でも、咎があってなかなか元通りにならないのです。時間がたてば元通りになるということでもありません。
だれかが、キリストの御名によって悔い改める必要があります。だれかが、「それは私が犯した罪ですどうか赦してください」と祈る必要があるのです。旧約聖書ではアブラハムが神さまの前にとりなしをしています。また、ゼカリヤ書では大祭司ヨシュアの衣が汚されていたと書かれています。それを天使が脱がして、新しい衣を着せました。さらには、頭に預言を受けるためのターバンを巻きました。新約聖書ではイエス様がゲツセマネの園で祈りました。でも、その祈りは始まりにすぎません。教会に任されている祈りがあるということです。私たちこそが、神の前で祈る息子であり、娘なのです。私はこれまで祈りというと「自分の罪を赦してください。私を弁護してください。私の恥をすすいでください」というような祈りしかしてきませんでした。本来なら、私たちが裁判官の席に立って、サタンを裁くべき立場にあるのです。今回、ロバート・ヘンダーソンから最も学んだことは、どこから祈るかと言うことです。私は頭では知っていましたが、「私を弁護してください」が限界でした。本来なら自分がイエス様と一緒に裁く者なのです。何が足りないのでしょうか?重要なことは、自分がキリストにあって何ものになっているか?アイディンティテイであります。私たちは神さまのところに近づくのですが、地上ではなく、神さまの御座にいます。しかも、私たちはイエス様と一緒に、裁判官の席にいるのです。これって、すごいことじゃないでしょうか?
私は新約聖書の恵みを知っているつもりでした。なぜ、力がなかったのか?それは自分がどこから祈っているのか不明でした。ある時は地上から、またある時は空中から、またあるときは天上からでした。確かにエペソ2章には「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と書いてあります。重要なのは、神からの権威をもって祈るということです。「何のしるしも、変化も起らなくても、私は神の御座からお祈りしました」という確信が必要です。つまりは、ヘブル9章から10章は、その土台が書かれているのです。キリストは私たちがそのことができるように、贖いが成し遂げられたとおっしゃっているのです。ここに「永遠の贖い」が成し遂げられたと書かれています。つまりは、私たちは、今度は、キリストの権威をいただいて、祈るべきなんです。私は最近、リバイバルの本を何冊も読んでいます。共通していることは、キリストによって、天上から祈ることです。上から祈るならば、サタンに負けることはありません。サタンは空中です。私たちはイエス様と御座におります。絶対的に、私たちの方が上なんであります。その時、サタンが握っていた、罪、悔い改めていない「咎」を神さまの前に差し出す必要があります。これは個人の罪、家系の罪、そして私たちの国家の罪であります。お隣の韓国や中国がなぜあのように、日本が犯した罪を何度も糾弾するのでしょうか?彼らの立場から見ると、罪が晴らされていないからではないでしょうか?もちろん、私たちは彼らのやり方でやらなければならないと言っているのではありません。
ヨハネ黙示録21:24 -26「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」とあります。このところには罪とは書かれていません。完成形であります。おそらく、私たちはその過程を歩んでいるのだと思います。つまりは、遅ればせながら少しずつ完成を目指しているのだと思います。私たちがなすべきことは、キリストの贖いを天の法廷において、提示することではないでしょうか?神さまは私たちに天の法廷に座ることを願っておられます。これまで、歩みが遅かったのは、私たちがそうしなかったからだと思います。私たちあまりにも人間的すぎて、あまりにも弱かったからかもしれません。私もそうですが、過去の失敗や過ちを提示されると、弱くなります。でも、大丈夫です。誰でも、キリストにあるなら古いものは過ぎ去りました。私たちは晴れて、天上の席で座っていることを信じます。今度はサタンを真っ向から、攻撃し、打ち伏せる必要があります。サタンはすでに敗北しています。キリストはすでに勝利をとっています。問題はそれを天の法廷に持っていくことです。私たちは外側からではなく、内側から持っていくことができます。ロバート・ヘンダーソンがこのことを気づいてからこれまで10年かかってきたことが、一瞬にしてできるようになったということです。私たちは今、完成に向かっています。私たちは既に、勝利者です。私たちは勝利の味わいを味わうことができるのです。
3.私たちの身分
あるとき、ウォッチ・マンニーの本を読んでいました。その本の中に面白いことがかかれていました。「問題は、戦ってから勝利を得るのか、それとも勝利を得てから戦うか」です。そうではなく、問題は、あなたが戦いから勝利に行くのか、それとも勝利から戦いに行くのか」です。多くの人は、奮闘し力を尽くして勝利を得ようとします。その結果は、いつも失敗です。私たち自身が力を尽くしても、決して勝利を得ることはできません。勝利とは、キリストからやってくるものであり、完全に神によって与えられるものです。…頭の中が良く分かりません。前者の方は「戦ってから勝利を得る」というものです。多くの人は、そのため奮闘し力を尽くして勝利を得ようとします。もちろん勝利をすることもあるでしょうが?結果はいつも失敗であると言っています。なぜでしょう?その人は主を仰ぎ望み、自分の特定の罪を、取り除いていただかなければなりません。このような人はまだ勝利を得ていないと他の人が言うだけでなく、その人自身も自分の勝利を疑い始めるでしょう。後者の方はどうでしょう?「勝利を得てから戦うに行くか」ということです。本来、戦いはやってみなければわかりません。だけど、この人は今や彼は勝利を得る命をもっているので、戦う力を持っています。今や彼は信仰と力を持っているので戦いをすることができます。私たちには、主が私たちの聖、完全、勝利であることを信じました。このゆえに、今、その他の物は全て、出て行かねばなりません、御父によって植えていられない者は、全て、引き抜かれるでしょう。
ところで、私たちはだれでしょう?私たちは神の息子、神の娘です。本来なら圧倒的な勝利者です。ところが私たちは失敗したり、ときどき勝利したりします。と言うことは、どこかが定まっていないからです。私たちのアイディンティテイが狂っているとしかいえません。それでは、どうしたら常に勝利することができるでしょうか?ウォッチ・マンニーはこのように言っています。「キリストの中での私たちの勝利は、性質に置いて絶対的なものです。そこには改善する余地はありません。しかしながら、私たちが勝利を得る範囲は、いつまでも広がります、それぞれの人は、主から異なる度量の光を受けます。人が光を受ける量が多ければ多いほど、その人はさらに前進します。人が光を受ける量が少なければ少ないほど、その人はさらに前進しなくなります。人が罪について知れば知るほど、その人はさらに神から受ける供給も受けます。…私が望むのは、私たちが神に対して日々このように言うことです。「主よ、私にはできません。また、私はそれをしようと思いません。主よ、私は自分にできないことで、あなたに感謝し、賛美します」。毎日私たちは、神が私たちに光と恵みを与えてくださるようにと祈らなければなりません。私たちは偶然失敗するかもしれません。しかし私たちは一秒以内に回復されることができます。もし、私たちがこのことを日々行うなら、私たちの成長はあらゆる人の予想を超えるようになるでしょう。なぜなら、それはキリストご自身の働きであるからです。ハレルヤ、これが完全な救いです。ハレルヤ!彼は私たちを導いておられます。ハレルヤ!サタンは私たちに何もすることができません!ハレルヤ!キリストは勝利を取られました。
私たちは自分自身のことと、国家や環境のことがあります。国家や環境は私たちが祈っているリバイバルです。これら2つのことは決してバラバラなものではありません。イエス様が、御国が来るように祈りなさいと言われました。問題は、同時進行的になされるということです。一方では私たちの自分の生活で、もう一方は国家や環境のことです。サタンは私たちの敵であります。でも、すでに敗北した敵であることは間違いありません。共通して言えることは、私たちは天の御座から戦う必要があります。私たちは天の法廷に導かれています。私たちはキリストによって汚れた衣を脱ぎ去り、新しい衣を着ています。私たちいつまでも、私たちを弁護してくださいと言うべきではありません。そうではなく、私たちは裁判官として、御座に立たされていることを自覚しましょう。ゼカリヤ書4章には「権勢によらず、能力によらず、私の霊によって」と記されています。私たちの身分は神の子であります。それだけではありません。裁判官として、御座に立たされているのです。ですから、私たちはキリストの御名の権威を用いて、サタンを敗北させることができます。そして、イエス様が用意しておられる、勝利を勝ち取ることができるのです。そうすれば、御国がこの地にやってきます。いわゆるリバイバルがやって来るのです。私たちはこの日本にもリバイバルが来ることをねがっています。ビル・ジョンソンが願っていますが、この日本にも奇跡と不思議がやってきます。
第一のポイントでも申し上げましたが、カンボジアの大迫害の中ですばらしい働きが起こりました。やはり日本も苦しみを通過して、大リバイバルが起ると信じます。私たちはあと10年かかかると思っていました。しかし、「天の法廷」の話を聞くと、そんなことはありません。直ちに起こりまず。御業はただちに起ります。悪魔はすでに負けているのですから、私たちが主の御名によって勝利を宣言すれば良いのです。ウォッチ・マンニーがこのように言っています。「勝利を得る命は、なぜ喜ぶことにおいて現されなければならないのでしょうか?なぜ私たちは喜んではじめて、勝利の命を持っているということができるのでしょうか?ローマ8:37「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」神はただ一種類の勝利だけを与えます。すなわち、勝ち得て余りある勝利です。辛うじて得る勝利は、主からの勝利ではありません。主の勝利は、いつも勝ち得てあまりあるものです。そして、勝ち得て余りある勝利を得る、唯一の道は、喜ぶことによります。アーメン。私たちは「天の法廷」を先取りして、喜ぶべきです。私たちは「天の法廷」で座る場所があることを感謝します。今、新しい油注ぎがやってきました。主よ、あなたの民を油注ぎで満たしてください。そして、イエスの御名が栄光を受けますように。この太陽の上る国から空に向かって、教会があなたの天の前の法廷に立つことができるように。国民が変わって行きます。咎が一日で取り除かれます。なぜかと言うと天の法廷の前で、国を代表とする人が、立ち上ることができるからです。主よ、本当にそのことを感謝します。