2020.10.11「勝利を得る命 ガラテヤ2:20」

 勝利とは何でしょう?勝利とは一人の人格、パースンです。勝利を得るのは、物事や自分の力ではなく、キリストです。私たちは自分で勝利しなければならないと思います。もちろんキリストは信じています。でも、私たちの中にはやめたくてもやめられないものがあります。タバコ、短気、間食、陰口…そんな大きな罪ではないのですが、敗北してしまいます。私たちは勝利を得ようと頑張っているのですが、上手く行かないのは何故でしょう?きょうの鍵のことばは、「交換」です。勝利を得るのは、私たち自身の何かではありません。勝利を得るのは、あなた自身の問題ではなく、キリストがあなたに代わって生きてくださることです。

1.勝利は交換である

 きょうはウォッチマン・ニーの本『勝利を得る命』から、ほとんど引用します。何故、この本を引用したかと言いますと、私の短気でした。この本に最も良く出てくる問題は「短気」でした。昨年、教会総会のとき、ある姉妹が「ダイヤル一日一生、どうしてやめるのですか?」みたいなことを言いました。挙手もしていないので、勝手にしゃべったことなので答えなくても良いのです。しかし、私の口から「お前やれよ!」と出てきました。「良く言ったものだなー」と自分でも驚きました。これはまさしく失言でありましたが、そういう誘惑というのがあるんですね。私の1つの問題は、短気です。もし、このメッセージに短気にききめがあるなら、「すごいだろうなー」と準備しました。ウォッチマン・ニーがこのようにおっしゃっています。「兄弟姉妹よ、どうか注意してください。勝利を得るのは、命の変化ではなく、命の交換です。勝利を得るのは、私が変わることではなく、私が交換されることです。」…私はこの本を読んでいて、李光雨師のテキストを思い出しました。そこではパソコンのハードディスクをAからBに交換することを学びました。なぜなら、ハードディスクAはもう古いので、Bに取り換えるのが一番です。それでどうなったのでしょう?新しい世界観によって生きているでしょうか?あまり自覚のないまま、生きて来ました。そこで、再び、命の変化ではなく、交換ということばが出てきました。

 これから『勝利を得る命』を引用します。朗読的なメッセージであることをお許し下さい。私たちはガラテヤ2章20節を良く知っています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」この聖書の節は何を意味しているのでしょうか?それは、私たちの命が交換されることです。私たちの命は、もはや「私」の領域にいるのではありません。根本的に、私ではなく、もはや私とは無関係です。それは邪悪な「私」が良い、「私」に変わることではありません。また汚れた「私」が清い「私」に変わることではありません。それは「もはや私ではありません」。きよう、私たちが犯す最大の誤解は、勝利をえるのは成長することであり、敗北は成長していないからだと思うことです。ですから、短気を起こさなければ、あるいは神さまとの親しい関係があれば、万事うまくいくと考えるのです。しかし、どうか覚えてください。勝利を得るのは、根本的にあなたとは関係がありません。この勝利を得るのは、根本的にあなたではないのです。

 一人の兄弟が私に涙を流して語ったことがあります。「私は勝利を得ることができません」。私は「兄弟、そうです、あなたは勝利を得ることができません」と答えました。彼は続けました。「私は勝利を得ることができません。私には方法が全くありません」。私は言いました。「神はあなたが自分で勝利を得ることを願っておられません。あなたの気性が良い気性に変わり、頑固なあなたが柔和に変わることが神の意図ではありません。神はあなたの悲しみを喜びに変える意図を持っておられません。神の方法は。あなたの命を変えることではありません。それは、あなたとは関係がないのです。」もう1一人の姉妹が言いました。「他の人たちが勝利を得るのは容易です。しかし私にとって勝利を得るのは非常に困難です。私の短気は他の人の短気どころでなく、私の思いは他の人の思いよりも汚れています。私の性質は他の人より悪いのです。私は自分自身をコントロールできません。」私は答えました、「あなたの言われるとおりです。あなたが勝利を得るのは困難があるだけでなく、勝利を得ることは不可能ですよ」。悪い気質の人、道徳的に汚れた人は、主イエスを信じる必要があります。良い気質の人、非常に道徳的な人も、主イエスを信じる必要があります。同じように、勝利を得ることが必要なのは、かんしゃく持ちの人、不道徳な人だけではありません。良い気質の人、道徳的な人も勝利を得ることが必要です。主に感謝します!勝利を得るのはキリストです。それはあなたと無関係です。

 ここに喜ばしいおとずれがあります。あなたは変えることができませんが、必要なことは交換されることです。勝利を得る命は、命の変化ではなく命の交換です。もし、勝利を得ることがあなたにかかっているなら、あなたは不可能です。しかし、それがキリストにかかっているなら、彼には可能です。問題は、あなたが勝利を得るのか、キリストが勝利を得るのかです。もし、キリストが勝利を得られるなら、あなたが今より十倍悪くても何も問題ではありません。兄弟姉妹よ、勝利を得るとは何でしょうか?勝利を得るのは、あなた自身が勝利を得るのではありません。それはキリストがあなたに代わって勝利を得られることなのです。そのように聖書が言っている勝利は、ガラテヤ2章20節に見られます。ガラテヤ2:20「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」たとえば、私がこの聖書を変えたいなら、どうするでしょうか?これに別のカバーを付け、背の部分に接着剤を付けなければなりません。それよりももっと早いのは、新しいのと交換すれば、一秒で分かります。神は私たちに御子を与えてくださいました。私たちは何ももがく必要はありません。交換さえすれば、すべての事は成し遂げられます。主に感謝し、賛美します。私たちは長年ずっと自分を変えることができませんでした。今、神さまは交換されます。これが聖さの意味です。これが完全の意味です。これが勝利を得る意味です。これが神の御子の命です。今からキリストの柔和が私の柔和になります。彼の聖さが私の聖さになります。勝利はキリストです。これからは私ではなくキリストです。

2.勝利は贈り物である

 勝利は1つの賜物です。それは功績ではありません。賜物とは何でしょうか?賜物とはプレゼントです。それは無代価で与えられるものです。働きの結果、受けるのが功績です。しかし、働かないで無代価で受けるものは賜物です。賜物は無代価で私たちに与えられるものです。それは、私たちが行ったこととは無関係であり、それを得るに努力する必要がありません。功績には努力が必要です。功績を得るには大いに努力して、初めて得ることができるものです。私たちが言う勝利を得る命には、私たちの努力は要りません。Ⅰコリント15:57「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」勝利は、神が私たちのために準備して与えてくださったものです。勝利を得ることは無代価で私たちに来ます。私たち自身の努力によって得られるものではありません。クリスチャンであるなら、救いは十字架のもとに来て、イエス様を救い主として受け入れるだけで良いのは知っています。これが福音です。しかし、救いは働きを必要としていませんが、救われた後に良い働きをすべきだと思っています。人は働きを通して救われ得ないように、良い働きを通して勝利を得ることはできません。神さまは私たちには全く良い行いをすることができないと言われます。キリストは私たちの代わりに死なれ、また彼は私たちの内で私たちに代わって生きてくださいます。肉からのものは必ず肉に属し、神さまは肉に属するものを何も求められません。救いは、十字架の上で私たちに代わって死なれた主イエスの死を通して得られますが、救われた後、私たちは最善を尽くして善を行い、最善を望むべきであると思っています。しかし、お尋ねします、「あなたは救われて長い年になりますが、もうあなたは良くなりましたか?主に感謝し賛美します!私たちは善を行なうことができません。私たちは少しの善も生み出すことができません。勝利は、主が私たちに賜ったものであり、無代価で与えられたものです。

 果たして、私とみなさんと同じ感動と理解の中にいるでしょうか?クリスチャンの中には3種類くらいの人がいるのではないかと思います。第一は、救いは恵みだけど、勝利は自分の行いである。第二は、救いは恵みだけど、勝利は自分の行いのときもあるが、あるときは主の賜物のときもある。この人は、救われてから生活も大分変えられた人です。しかし、一生かかって、勝利の道を歩み続けるしかないと考えています。第三は、救いは恵みだけど、勝利も賜物である。なぜなら、私の中にイエス様が生きておられるので、このお方にゆだねれば良いと考えています。もし、第三の領域に入ることができたら何と幸いでしょう?でも、何故、人には不得意なものと得意なものがあるのでしょう?ある人は誘惑に打ち勝つ方法を考えているでしょう?ある人はあなたを試みる者に打ち勝つ方法を考えているでしょう?ある人は高ぶりや妬みに打ち勝つ方法を考えているかもしれません。ある人は短気をコントロールするための力を尽くさなければなりません。ある人はすべての否定的な事柄を対処し、罪を犯さないように大いに努力しなければなりません。ある人はウソをつきたくないのに、自分を変えることができない人がいます。あなたは相当の時価を作って力を尽くしたことでしょうが、あなたはいつも失望しました。私はあなたに対する1つの福音を持っています。主イエスの柔和は無代価であり、これはあなたのものです。主イエスの聖さは無代価であり、あなたのものです。主イエスの祈りは無代価であり、あなたのものです。主イエスのすべてはみな無代価であり、あなたのものです。あなたが主イエスを受け入れると、すぐ主のものはすべてあなたのものになります。ハレルヤ!もし、これが福音でないなら、何が福音でしょうか?

 神さまは無代価であなたに主イエスの聖さ、主イエスの完全、愛、忠実を与えてくださいました。神さまはこれらのものを欲するすべての人に無代価で与えて下さるのです。神さまはあなたに、キリストが神さまと享受された新しい交わりを与えられました。神さまはキリストが生きられた聖なる生活をあなたに与えてくださいます。また、神さまはキリストの完全な美しさをあなたに与えてくださいます。もし、あなたが自分自身によって打ち勝とうとすれば、あなたがたは20年間頑張っても変えることができません。あなたの気性は変わらないでしょう?あなたの傲慢は依然としてあなたにあります。今から20年を経ても、あなたは同じままでしょう。しかし、神さまは完全な救いをあなたがたのために用意されました。この救いはキリストの忍耐をあなたの忍耐にします。それはキリストの聖さをあなたの聖さにし、キリストの神さまとの交わりをあなたの神の交わりにします。それはキリストのすべての美徳をあなたの美徳とします。ハレルヤ!私はこれを書いていて、半信半疑であります。こんなに簡単に勝利を得られるのでしょうか?人がなすべきことは、ただ彼を受け入れることです。兄弟姉妹よ、同じように私は今日あなたに対してメッセージを持っています。そうです。あなたは何もする必要はありません。キリストはあなたのためにすべて行われました。神はキリストをあなたに与えられたのです。あなたがすることは、ただ受け入れることです。一旦、あなたが受け入れると、あなたは勝利を得るでしょう。

 Ⅰコリント1:30「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」この節では、キリストは3つのものになられました。それは、神からの知恵、すなわち、義と聖さと贖いとになられました。神がキリストを私たちの義とされたのは、キリストが十字架で死なれた時です。聖さも、贖いも同じです。私たちはいくら努力しても、これらを受けることができません。時間の浪費であります。では、どうすれば良いのでしょう?自分自身の義を立てようとするものは決して救われません。同じように、自分自身の聖さを立てようとするものも、決して救われません。得ることと到達することの違いは何でしょう?この二つの間にある唯一の相違は、時間的な問題です。1つは瞬時であり、1つは徐々に、です。しかし、主から来る勝利は、瞬間的に得られるのです。ある人が「もし、あなたが主を自分の勝利として取るなら、あなたは直ちに勝利を得ますよ」と言いました。彼はこのことばを受け入れました。20年間たっても消えませんでした。勝利とは、得るものであって、欲しいと言えば、すぐに手に入ります。ハレルヤ!

3.勝利は奇跡である

 ピリピ2:13「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」この命を受けることは1つの奇跡です。神さまは私たちを聖なる者とするために、私たちの内で活動しておられます。私たちは自分で努力する必要はありません。すべての事は、私たちの内で活動しておられる神さまを通して達成されるからです。そのような聖なる完全な命は、私たち自身の努力によって生じるのではありません。それは絶対に神さまの働きです。勝利を得る命の結果は、抑制する生活ではなく、表す生活です。問題は、今日私たちが「勝利を得る」のは抑制することによると思っていることにあります。一人の老婦人がいました。彼女はいらいらする時、いつも短気を抑制していました。彼女は外側で笑っていますが、内側では抑制する苦しい戦いがありました。このような抑制する生活が長年続いて、吐血(とけつ)という結果になりました。抑制する生活には内側に苦さが残っています。しかし、主に感謝し、賛美します。私たちの勝利は、抑制する生活ではなく、表す生活です。表す生活は、すでに得ているものを生かし出す生活です。これがピリピ2:12「あなたがたは自分の救いの達成に努めなさい」と言っている意味です。過去において、私たちはできるだけ自分を隠そうとしました。今や、キリストの勝利は表すものです。表すことができるのです。過去は、抑制すればするほど、良くなると思いました。ところが、今私たちは、表せば表すほど良くなります。キリストが私たちの内側で生きておられるからです。そして、私たちは人の前で、キリストを生かし出すのです。

 私はあなたがたに言いますが、多くのクリスチャンが勝利を得ないのは、彼らが十分失敗していないからです。多くのクリスチャンは、まだ十分罪を犯していません。ですから、彼らは勝利を得ないのです。彼らがさらに多くの罪を犯したなら、彼らは勝利を得るのが容易になるでしょう。もし彼らが肉の腐敗を見たなら、彼らは勝利を得るのが容易になるでしょう。ローマ7章の人は、ついに絶望のあまり、ため息をついて言いました、「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか?」。彼は自分がなし得ないのを見て、「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか?」と尋ねました。いったん「だれ」という問題であることを認識した時、彼は勝利に至る道を知りました。彼は勝利への途上にありました。この「だれ」であるかを見た時、直ちにそのだれかが救いに来られるでしょう。神さまは私たちを絶対に無用であると見られます。私たちも自分自身を無用な者と見なければなりません。まだ自分自身を無用と見なしていないなら、私たちは決して十字架の評価を受け入れないでしょう。また私たちは決して「私はキリストと共に十字架につけられた」と言うことができません。また、「生きているのはもはや私ではありません」と言うこともできません。もし、私たちの中にまだ望みがあるなら、それは私たちがなお有用であるという意味であり、私たちは、もはや私ではないとは言わないでしょう。

 キリストがあなたに代わって勝利を得られることには、条件があります。この条件は、あなた自身ができると考えないということです。あなたはできますか、それともできませんか?過去において、神さまはあなたが多く失敗することを許されました。しかし、あなたの心は死んでいません。あなたはできますか、それともできませんか?すべての事はこの決定的な質問にかかっています。将来、あなたが前進できるかどうかは、これにかかっています。もしあなたが心で自分はできる、自分でやることができると言い続けるなら、キリストはあなたに代わって生きることができません。勝利を得るのは、完全に失敗した人です。完全に失敗した人だけが勝利を得ることができます。第一の条件は、自分はできない、自分は不可能であると告白することです。もう1つの事はしようとすることを放棄することです。もし、私たちができないことを認めて、しようとすることを放棄するなら、私たちは勝利を得るでしょう。問題は、できないことを知っていながら、私たちが最善を尽くしてしようとすることです。私たちは自分自身の努力と力を使いたいのです。もっと多く祈り、もっと力を尽くし、もっと堅く決断するなら、私たちは立つであろうと思います。たとえできなくても、私たちはしようとする者です。

 神さまは十字架の上であなたを釘づけられました。神さまは、あなたに対する望みを放棄されました。しかし、あなたは自分自身ができないことを承認しなければなりません。兄弟姉妹よ、どうか覚えてください。勝利を得る秘訣は、自分にはできないと承認することであり、勝利を得る最大の障害はしようと試みることです。勝利を得ることはキリストから来ます。私たちに代わって生きて下さるのはキリストです。勝利を得る命は、立って、あなたが次のように宣言することを要求します。「私はすることができません。また私はしようとしません。どうか私に代わってください。私は勝利を得ようとしません」。もし、このようにすれば、勝利を得るでしょう。神さまは常にしようとする人を対処することができません。神さまは彼らのために何もすることができません。もし私たちがしようとするなら、もし私たちがしようと決心するなら、それを始めるやいなや神さまがストップされます。キリストが私たちの内に生きておられるのは、ご自身を私たちから生かすためです。問題は、私たちが自分自身の働きの完全さを残そうとすることです。私たちは自分自身の働きを完全に否定しなければなりません。そうして、はじめてキリストが私たちに代わって勝利を得られないなら、それはあなた自身が勝利を得るのです。キリストの力はあなたの働きの不足を補うためではありません。キリストの命はあなたの命の不足を補うためではありません。彼の願いは、あなたに代わって内側で生きることです。もし、あなたに代わってキリストに生きていただきたいたいのなら、あなた自身が生きてはなりません。ですから、私たちはまず自分の無能を知る必要があります。そして、はじめて神さまはご自分の道を持たれます。

 もし、私たちが完全に働きをやめさえすれば、キリストはご自身の働きを始められます。このことが起るのは、「もはや私ではなく」と言う時です。キリストとの私たちとの重なり合いを見たいなら決して、それは起りません。今後、あなたはすべてを明け渡す必要があります。私はできません。それをしようとしてはなりません。もしこのようであれば、あなたは勝利を得ます。